第三章 龍見 (一)密室
「……あぁ、つまり龍見上等兵は、署名した調書の撤回をしたい……という事ですね?」
笑い皺のある、いかにも人の良さそうな……上品で柔らかい雰囲気を纏う、銀縁眼鏡をかけた中年女性だった。彼女は連隊の人事将校であり、この事務室の主であった。その一角にある応接ソファに浅く腰掛けて、今まさに私の嘆願を聞き終えたところだった。時間は、課業時間が終わってから30分が経過していた。
課業中でないとはいえ、決して兵が気楽に来て良い場所ではない。ここが連隊本部の中枢であることに間違い無いし、すぐ隣は連隊長執務室である。ここに至る廊下の赤絨毯を見れば、そうと知らない人間だって近寄るのを避けるはずだ。しかし、私はここに居た。約束も取らずにここに来て、自分の願いを伝えていた。重ねて、嘆願する。
「どうか、お願いします。調書に署名した時、私は混乱していました……真実に反する調書の内容で調査が進んでは、公正な処分が出来ません……道義に、反します。」
我慢できないといった様子で、連隊の人事軍曹の一人が立ち上がる。
「いい加減にしろ! いきなり来てなんだ貴様はッ!」
隣室に聞こえてしまうような怒声を出したが、部屋の主がそれを手で制した。立ち上がった軍曹は申し訳ありません、と小声で述べて席に戻る。きっとこの部屋に居る者の全てが、彼と同じ気持ちに違いない……その証拠に、部屋の空気はまるで鉛でも流し込まれたかのように鈍重だったし、投げ掛けられる視線は敵意に満ちている。
「まぁまぁ、興奮しちゃ駄目よ、ね? そうね、みんなはコーヒーでも飲んでリラックスしてきなさい。その間にこの子とお話をしておくから……はいコレ、お土産もよろしくね。」
そう言って部屋の主は、懐の財布から紙幣を取り出して近くの一人に差し出す。それを受け取ると、部屋に居た人事軍曹たちは部屋を退室していき……後には、部屋の主と私だけが残された。途端に部屋から音が消えてシン……となったその部屋の中心で、私は事故が起きてから今日までの事を思い返していた。
今日はあの訓練事故から丁度1週間が経った、金曜日だった。あの日、血塗れになった私と鮫上は一緒に搬送されたものの、出血は全て鮫上のもので……みっともなく気を失っていただけなのに、軍病院にまで担ぎ込まれた間抜けが私だった。ヘルメット越しとはいえ頭を打っているから1日休んで様子を見てから帰隊しなさい、というのはきっと、医官からのせめてもの情けに違いなかった。
そうして放り込まれた病室でぼうっと放心している所に、誰かがやってきた……今回の訓練事故の調査官を名乗っていた。本件の調書をまとめている、確認して間違いがなければすぐにでも署名してほしい、と言っていた。その調書を受け取って、すぐに目を通す。
ぼんやりした頭で見ても、調書は記述が足りないように思えた。それをどうにか伝えようとするも、記述が足りなくても書いている内容に間違いがなければいい、と調査官は私に迫った。確かに、私は投擲しそこなったし、退避壕に退避した。回らない頭では何も間違っていないように思えて……急かされるままに、私は調書に署名と拇印をした。
時間が経って明瞭な思考を取り戻すにつれ、私は自分の大きな過ちを認識した。あの調書の書きぶりではまるで、ちゃんと自分で退避した人間の供述である。明らかな、嘘だった……あの時私は動けずにいて、鮫上に退避壕へ投げ込まれたのだから。
嘘は嫌いだ。公明正大こそが私の信条だと、同期である鮫上に嘯いた事もあった。疲れそうな生き方だな、とそれを聞いて笑っていた鮫上……その嘘が。よりによって私の嘘が、鮫上を傷付ける可能性があるかもしれないと思うと、気が気でなかった。
すぐに自分の班長に相談した。あまりいい反応とは言えなかったし、それに違わぬ働きぶりだった……確認するから少し待て、と言われたまま、結局3日を無駄にさせられた。小隊長は教育課程に入校中で代理の下士官しか居なかった上、そいつからは班長と同じ雰囲気を感じた。だから小隊を飛び越えて中隊の先任に相談した。
やはり反応は芳しくなかった。曰く、事故調査も懲戒処分も連隊主導で進めている……今更、自分で署名した聴取の内容は間違いでした、だなんて言われても中隊ではどうしようもない。お前は士官候補生学校への入校も控えているのだから、変な事で騒ぐのは止めろ、と。ほとんど説得のような態度であったと思う。諦めろ、と言われているように感じたし、実際にそう思っているのだろう。
諦められなかった。自分の信念を曲げるだけならまだ許せたかもしれないが、その先に鮫上の犠牲があるのかもしれないのであれば、話は別だった。だから私は勝手に、約束も無しにこの部屋に来ていた。連隊主導であればここが所掌のはずだ、誤りを正さねばならない。
「……で、何だっけ? お前のチンケな正義感のために、人事の仕事にケチつけたいっていう話だったっけか? ん?」
知らない声色だった。泳ぐ目で相手の顔を見やると、先程までとまるで雰囲気が違っている。目付きどころか顔付きまで変わったような気さえして、もはや同一人物とは思えなかった。しかし入れ替わりの手品でも何でもない。座っている場所から少しも動いていない。間違いなく、連隊人事将校の阿賀田大尉その人だった。連隊所属の女性隊員筆頭でもあるので、接した事は何度かあったが……このような様子を見たことは一切無かった。
「おい、黙ってんじゃねえぞ上等兵殿……聞いてんだろうが。」
思考が追いつかなかった。嫌な汗が身体中から吹き出てくる。慌てて弁明しようと
「いえ、あの、わた、私は……ケチなど……」
試みたところで、まるで無駄で
「おいおい、公正な処分が出来ない、道義に反する……誰の言葉だ? それってここ1週間、家にも帰れずにバカが起こしたバカみてぇな事故のバカみてぇな調査をやっていた、俺と俺の部下の仕事にケチつけてる事になんねぇのか? え? 教えてくれよ、上等兵殿……」
地獄のような時間が始まった。




