第二章 兎川 (四)理由
特別状況が始まって約1時間が経過したところで、10分間の小休止をとっていた。背嚢と軽機関銃を装備する鮫上は、夜だというのに滝のような汗を流している。鮫上からの提案で、目的地までは時速7キロメートルという通常よりもかなり増した速度で向かうと決めていた。大汗はそのせいもあるだろう。先を急ぐ理由は、目的地で弾倉ポーチがすんなり見つからなければ、それを探す時間も必要になるからであった。すぐに見つかればその分、帰りはある程度ゆっくりでもいい、という算段でもある。
このペースを維持できれば後1時間で目的地に到着し、上手く行けばすぐ弾倉ポーチを回収して出発、戻りに3時間掛けたとしても明日0100頃には集結地に帰れる……不寝番がある0300までは2時間も無いが、休憩が全く無いよりよっぽどいいだろう。それより何より、オレにとっては班員たちの大半を巻き込まずに済んだことに……それによってあの、息もできないような、暗く陰鬱な雰囲気に飲まれずに済んでいることに安心を覚えていた。その代償として一人の班員を巻き込むどころか、オレの失態まで被せてしまっているけれども。
鮫上の方を見ると、汗を拭きつつ水分を補給している。鮫上丈、オレと同い年で今年18歳になるはずだ。身長が153センチしかないオレよりも頭一個分以上大きく、その体格に見合う恵まれた身体能力を持っていた。とはいえ、決して声がデカいとか、主張が強い人間では無かった。役職に就いたなら当然、班員の前に立って卒なく役割をこなすが、それ以外では一歩引いて全体を観察しているような……どちらかと言えば静かな男だった。オレが鮫上について知っているのはそれぐらいだった。
入隊してからここ2ヶ月、二回の野外訓練と一回の小銃射撃訓練、その合間にも様々な課目が座学も含めてぎゅうぎゅうに詰め込まれていたので、オレたちはまだ、休みといえるような休みも与えられていなかった。新兵だけで週末に外出することすら、この野外訓練が終わって以降に解禁される予定である。そんな感じで日々を追い立てられるようにここまで来たため、班員といえど普段のそいつがどういう人間なのか、ということまではよく解っていなかった。もっとも、鮫上が軍格闘を得意としていることだけは、妙な経緯のせいで班員ならばみんなが知っているのだけれど。
そう、わからないのだ。なぜ装備品の紛失を自分のせいにしてまで、オレを庇ったのか……同じ班ではあるが、起居している八人部屋の端と端ぐらい離れているので、そんなに話をした覚えもない。この特別状況が始まってからの一時間の道中も、二人とも黙々と先を急いだためにほとんど無言だった。鮫上の行動の理由を知りたいと思っていたが、ほとんど小走りのような速さの行軍中に話をする余裕がオレには無かった。だから小休止中の今なら、少しでも話が出来ると思っていた。
「兎川、一緒に食べよう。汗かいたから塩分が必要だぞ。」
そう思っていると、鮫上に先を越される。背嚢から出したらしいドライソーセージを右手に持って、こちらに差し出していた。表情は明るく、声も穏やかだった。つい反射的に、
「……いや、悪いよ……オレにはそんなの貰う資格、ない。」
遠慮か、あるいは罪を被せた罪悪感か……卑屈な返事をしてしまった。それを聞いた鮫上はぽかんとした表情を見せたが、やがてドライソーセージの封を開けながら
「あぁ〜っ、開けてしまった……僕の分はここに食いかけがあるのに、封を開けてしまった。困ったな、二本も食べれないぞ……なぁ兎川、もし良かったら食べてくれないか? 僕の背嚢も軽くなるし、一石三鳥だ。」
下手すぎる芝居だった。あの助教の天幕での堂々としたハッタリは何処へ行ったのか……というくらいに、白々しいものだった。ドライソーセージ一本で重さが変わるものか。一石二鳥じゃないのか。突っ込みどころがあり過ぎるほどにあって、その変な勢いに負けてしまって、つい小さく笑ってしまう。慌てて顔を伏せる。
「お、笑ったね。ホラ食べよう、兎川が倒れたらさすがに僕も全部は担げないからな。」
そう言って、鮫上はドライソーセージを差し出したまま、左手で自分の食べかけの方をかじり出した。笑ったことを認識されて、なんだか気恥ずかしかった。さっきまで歩いていたのとは違う理由で顔が熱くなってくる。きっと鮫上は受け取るまで、ずっと手を差し出したままにするだろう。観念して鮫上からドライソーセージを受け取り、かじりついた。
スパイスと強めの塩味を感じる。なんでもない日に食べたいとは思わない味だったが、訓練なんかで馬鹿みたいな量の汗をかいた後に食べるドライソーセージは格別で、身体が求めているもの全てが染み込んでいくかのようだった。かじりつき、咀嚼し、飲み込む。ものの一分も経たず、オレはドライソーセージを平らげる。視線を感じてふと横を見ると、鮫上がこちらを見ていた。聞くなら今だと思った。
「どうして鮫上はオレを庇ったんだ?」
オレの純粋な疑問だった。鮫上の答えは単純だった。
「兎川が困っていて、僕が手助け出来ると思ったからさ。」
「それだけ?」
「そう、それだけ。兎川も今日、やってたじゃないか。対戦車砲、よく2行程連続で持とうと思ったな。アレはびっくりしたよ……重かったろう?」
鮫上はそう言って屈託のない笑顔で笑う。オレは自分の行いが認識されていた事を知って、また少し恥ずかしいような気持ちになっていた。
「それでいいと思うんだ。みんなで頑張って、誰かがコケたらその時余裕のあるヤツが手伝えばいい。余裕のないヤツは厳しい態度をとるかもしれないけど、ソイツはソイツ一人分をまず頑張ってさ……それでみんなの力が最大限出せるなら、それがいいんだ。だからさ、そんなに周りの目を気にしなくてもいいぞ。余裕がある限り何回だって、僕は助けるさ。」
鮫上は優しくそう言った。なんだか心の奥底まで全て見透かされているような気になったが、決して嫌な気持ちではなかった。むしろ救われた気持ちにさえなれたのに、オレの目からは涙が勝手に溢れ落ちて、もう止められなかった。
「よしよし、大丈夫だ。出発まで3分あるからな……2分は泣いていいぞ。」
そう言うと、鮫上は隣に座ってオレの背中を撫で続けてくれた。戦闘服越しに、鮫上の大きく温かい掌を感じる。その安心感も相まってか、オレは本当に久しぶりに泣いた。鮫上が時間を教えてくれるまでの二分間、めいいっぱい泣き続けた。
出発の準備にかかる。装備品を相互にチェックする。異状なし……無線機で報告を入れる。
「00、こちら01。人員、装備ともに異状なし。前進再開。」
「00了解。終わり。」
いつの間にか曇天の夜空の切れ間から、月が顔を覗かせていた。暗闇を行く二人を、柔らかい光が少しだけ照らしていた。




