七章 5
「お、きたきた」
マンションの廊下、俺の家の前で荻原が待っていた。
「鍵は持ってるだろう。勝手に入ってくれて構わないんだぞ」
「べつに深い意味はないわよ。ただ待ってたかったから待ってただけ」
そうか。
荻原はこういうところがある。効率を重視しないというか、無駄を楽しむ、みたいなところが。
俺が鍵を開ける。いつもどおりの廊下が広がっていた。
「あんたから入ってよ」
荻原は俺の背中を押してくる。しょうがないな。
「お邪魔しまーす!」
荻原は大きな声でそう言った。
「――あんたこの間は学年何位だったのよ」
テストが近いため俺たちは勉強中だ。
そんな折、荻原が訪ねてきた。
「この間か、二百何位とかだったな」
「ひっく。あんたまともに勉強してんの?」
「そ、そう言われてもな。頭の出来は残念ながら良くないんだ」
「見た目は頭良さそうなんだけどね」
荻原に言われてしまう。どうやら俺は見た目だけなら秀才くんのようだ。
「まぁ、うちの学校そこそこ頭いいし、高校一年生全体で見れば高いほうなんでしょうけど」
どうなんだろうな。
俺は世間的には頭がいいほうなのか?
その自覚は残念ながらない。
俺は頭の悪い人間だと自負している。
「そんな体たらくじゃダメよ。あたしがみっちり教えてあげる」
「そうか、頼もしいな」
荻原先生の授業が始まった。
彼女の授業はとてもわかりやすく、懇切丁寧であった。正直教師よりわかりやすい。
「なるほどな。複雑だと思ってたが、案外単純なんだな、確率の問題って」
「そ。一度数学的思考を覚えれば、あとは機械的にできるようになるから」
「すごいな、お前って」
「ほめないでよ。て、照れるから……」
荻原はそっぽ向いてしまう。
俺の発言がまずかったらしい。
やれやれだ。俺はまだ女性の扱いに慣れていない。
精進するとしよう。
「そろそろご飯の支度しましょうか」
時間も時間なので、ということで勉強はお開きになった。
正直、分からないところが分かるようになったので、俺はもっと勉強したくなっていた。
ここで中断されるのは中途半端な気がする。
「美琴、できれば授業続けたいんだが」
荻原は首を横に振った。
「あえて中途半端なところで終わらせることによって、次も勉強したいっていう欲求をキープさせるの」
「な、なるほどな。その発想はなかった」
荻原は多分、いろんな勉強法を知っている。
それは荻原自身が試行錯誤して身につけたものなのだろう。
親に認められたい一心で、ひたすらに勉強を頑張った。
天才とは、彼女のことをいうのかもしれない。
そのうちノーベル賞を取るんじゃないか。
んなわけ無いか。
「なに? ……なんでニヤけてるの?」
「いや、なんでもない」
荻原はちょっと引いたような顔を見せた。
いかんいかん、俺は無意識のうちにへんな顔をしてしまっていたらしい。
そうこうしているうちに荻原はご飯の支度を始めた。
荻原が料理する音が聞こえてくる。
俺はその音を心地いいと思っている。
俺は知らず、眠くなってしまった。
少しだけ眠る。体感五分くらいして起こされた。
「できたわよ」
もうできたのか。どうやら体感の五分は実は一時間くらいらしい。
今日の晩ごはんのメインはエビフライと、チキンの味噌焼きだった。トマトスープも添えられている。
相変わらず良く栄養バランスが整えられている……
俺は手を箸に伸ばしかけて、止めた。
「……どうしたの?」
荻原が聞いてくる。俺の耳には入らない。
俺が見落としていたものがそこにあった。
当たり前すぎて、気づけていなかったものがそこにあったのだ。
「……そうか」
俺は目の前に出された食事をもう一度眺める。
全部荻原が作ったものだ。
とても美味しい、荻原の料理だ。
俺はようやく気づいた。
俺は、荻原の料理が好きなのだ。
味がおいしいから、とかそういう話じゃない。
荻原が俺に対して、料理を作ってくれている、その事実が嬉しいのだ。
――荻原を好きな、明確な理由。
「美琴」
俺は淀みなく言った。
正直、後先のことは何も考えてなかった。
ただ、口をついて出てしまったのだ。
「俺と付き合ってくれ」
言ってしまってから、ようやく気づく。
俺はとんでもないことを口走った。
慌てて荻原の表情を伺う。
彼女はぽかんとした表情を浮かべている。
マズかったか。
荻原は学校の、女王様と呼ばれている。
俺とは天と地ほどの差がある。
到底釣り合わない。
そんな彼女が俺に対して好意を向けることなど、考えるほうがおこがましかったのだ。
失敗したな。
俺はうつむきがちに、言った。
「……悪い、今言ったことは忘れて――」
「いいよ」
俺はその言葉を一瞬聞き逃した。
彼女は今、なんと言った?
「あ、あたしなんかでいいんなら、よろしくお願いします」
今度は俺がぽかんとした表情を浮かべる番だった。
「いいのか?」
俺が聞くと、荻原の瞳からつ、と流れ出すものがあった。
「……うん」
「悪い、急すぎたか?」
俺には荻原の涙の意味が分からなかった。
女心などまったくわからない俺のことだ。
荻原が今、何を考えているのかわからない。
「あたし、ずっと鍵のこと好きだった。
けど、言い出すのが怖くて、言えないままにしてて、でも今日鍵に付き合おうって言われて、すごく救われた気持ちになった。
……ねぇ、鍵はあたしのことどう思ってるの」
俺は少し照れくさくなって、つい荻原から視線をそらしてしまう。
自分の羞恥への耐性の低さを呪った瞬間だった。
「……好きだ」
声はかすれていた。恥ずかしさでどうにかなりそうだった。
俺はおそるおそる荻原の顔を伺う。
荻原はにんまりと笑みを浮かべていた。
「鍵ってかわいいね」
「……はっ倒すぞ」
「ねぇ、もう一回言ってよ。……あ、『はっ倒すぞ』じゃないよ」
もう一度言えと言われて言える言葉じゃない。
「い、言えるかよ」
「だーめ、もう一回言って」
荻原はなんだか楽しそうだった。
もうどうにでもなりやがれ。
「好きだ。俺は荻原美琴のことが好きだ」
荻原は満足そうに頷いた。どうやら合格をもらえたらしい。お前の立場は何様なんだ。……あ、そうか、忘れていた。こいつは女王様なんだった。
「今日って何日?」
「一月二十日だな」
「んじゃ、記念日だね」
記念日、か……。
思う。
何かあるたびに俺はこの日のこの場面を思い出すのだろう。
「握手……とかしたほうがいいのか?」
「それ、友達になろうって言ったときも言ってたやつじゃん。……あ、握手は恥ずかしいからやめようよ」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
俺には恋人になった瞬間に何をすればいいのか分からなかった。
「ハグ……とかいいんじゃない?」
そっちの方が恥ずかしくないのか……
俺はよくわからないが、とりあえず両手を広げた。
荻原が立ち上がり、こちら近づいてハグをする。
荻原のぬくもりを、たしかに感じとった。
「…………」
「…………」
いつまでやるんだ、これ……。
「美琴、そろそろ離れてくれ」
俺が言うと、荻原はさらに力強く抱きしめてきた。
なんでだよ……
「これからよろしくね、鍵」
荻原は震える声でそういった。
俺は思う。
ここで茶化したりするのは、彼女に対して失礼にあたると。
だから素直にこう答えた。
「あぁ、よろしく」
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