七章 2
土曜日。十二時を少し回ったところだ。
今日たつきとちかげがやってくる。勉強会のためだ。
友達と勉強会か……。人生で初めてのイベントだな。勉強というのは一人でやるものだと思っていた。
荻原はいつも夕方くらいにやってくるので、その前に二人には帰ってもらおう。たつきとちかげに、できれば荻原を合わせたくない。余計な勘ぐりをされるからだ。
俺はあらかた教科書や資料集、ノートにワークブックを準備した。
あらかじめ用意することでスムーズに勉強会に移れるようにするためだ。
ピンポン。チャイムが鳴った。俺は玄関の扉を開ける。冬の装いをしたたつきとちかげが立っている。
「よ、鍵! 元気にしてたかい?」
「お前が来るまでは元気だったな」
「またまたご冗談を! 鍵はほんとに冗談がうまいなぁ」
俺は返す気力をなくす。やれやれだ。本当にちゃんと今日は勉強会になるのだろうか。
「石上くん悪いねー。今日お邪魔することになっちゃって」
「まぁ、べつにかまわん。だが俺の前でいちゃつくなよ。それは絶対条件だ」
「あはは、わかった! できる限り精進するよ」
本当に分かってるんだろうな。俺は疑いの目をちかげに向けた。
たつきとちかげが俺の家に来るのは初めてじゃない。何度か来ている。普通に遊びに来て、俺の前でひとしきりいちゃついたあと帰っていく。
本当に何のために来たんだと問いかけたくなる。
まぁ、たぶん、本人たちはいちゃついてる自覚などないのだろう。普段、普通に行っている会話やスキンシップが、はたから見たらいちゃついてるように見えるだけなのかもしれない。
だが、はたから見ていちゃついてるのであれば、それは時として迷惑となりうる。
特に今日は勉強会目的なのである。きちんと勉強するのが目的なのだ。遊ぶために集まったわけではない。
「おじゃましまーす、ってあれ!? この間来た時よりずいぶんきれいになってない!?」
……あー、うかつだった。普段荻原といるときは気にしないが、うちは前より相当きれいになっている。
何か適当に言い訳しなければ。
「最近掃除にはまってな」
「嘘!? あの鍵が? 掃除嫌いのあの鍵が?」
「うるさいぞ。俺にはそういう気分の時もある」
リビングに到着。ちかげは目を輝かせている。
「ほんとに掃除ハマってるんだね! あまりにもキレイだからびっくりしちゃったよ!」
あーまずいか? 俺は冷や汗が止まらない。なんか、バレそうな気がする。
「……実を言うと母親がこの前来て、一緒にきれいにした」
俺は考え抜いた言い訳を披露する。悪くない言い訳だと思う。
「なるほどねぇ、そういえばこの間誕生日だったよね。もしかしてその時?」
「まぁな、そんなところだ」
たつきはそれ以上追求してこなかった。よかった。難を逃れた。
「すごい、食器棚の中も片付いてる……相当気合入ってるね」
「どうも。んで、肝心の勉強は始めないのか?」
「そうだねー。始めようか」
たつきはカーペットの上に座る。それにならってちかげも座る。
「お茶とかだしたほうがいいか?」
「別に構わないよ」
「そうか、ならなくていいな」
俺は一応確認しただけだ。どうやら各自飲み物は用意しているらしい。
「鍵の苦手科目って何?」
「数学と、生物基礎と物理基礎、現代文に地理、それから英語だな」
「ほとんど全部じゃんか」
たしかにな……。
「勉強は嫌いだ」
「そんなんでどうするんだよ。もうすぐ二年生だよ。文理選択も決めないといけないし」
文理選択か……。俺には縁のない話かと思っていたが、ついに俺も決めないといけない時期に差し掛かっているらしい。
「文系科目と理系科目だったら、どっちが得意?」
「まぁ、強いて言うなら文系か。理系科目は難しい問題はとことん難しいからでも足も出ん」
「確かにねぇ、鍵の実力だったら文系にしといたほうがいいと思うよ」
俺は言われてしまう。正直なめられている感じもしなくもないが、事実なので反論できない。
「そういうお前はどっちにするんだ?」
「僕も文系かなって思ってる」
「そうなのか。なんか意外だった。お前は理系の道に進んで研究職とか目指すのかと思っていた」
「一つの道を究めるのは僕には向いてないよ。営業とかやってみたいなとか思ってる」
そうなのか。まぁ、たしかに、たつきは会話のスキルが高い。だから営業は向いてると思う。
「鍵は将来の夢とかあるの?」
「ないな」
ズバッと答える。正直将来の夢とかある人間のほうが少数派なのではないか。
「鍵は学問探究とか向いてると思うんだよね」
「まさか、俺がか?」
「あぁそれ、めっちゃわかる! 哲学とかすごい石上くんにハマりそう」
「バカいえ。俺の学力で哲学が理解できるわけないだろう」
「そうかな。でも石上くんは割と哲学的なところがあるよ」
そうか? 俺と哲学は無縁だと思うのだが。
「鍵は意外と好きなことだったら突き詰められるタイプだと思うな」
たつきの意見。俺には理解できかねるな。一つのことを究め抜く。その才能が俺にあるとは思えん。
「そんなことないと思うんだがな……」
それからほとんど会話が減った。勉強に集中するためだ。まさかこんなに本格的に勉強するとは思わなかったな。
時たま分からないところをたつきに教えてもらった。特に数学だな。俺にはちんぷんかんぷんな問題がほとんどだ。
勉強会がこんなにスムーズに行われるとは思わなかった。そして、人生でこんなにまともに勉強したのは初めてだった。
そういえば高校受験の時も真面目に勉強していたっけか。あの時は必死だった。
おかげで身の丈に合わない高校に進学するハメになってしまった。
だがそこに後悔はない。なぜならたつきやちかげ、荻原に出会えたからだ。
俺は思う。この出会いは一生続くのだろうか、と。俺がこれから先大人になって歳をとっても、こいつらとの関係性が続くのだろうかと。
そんなことを考えていると、ピンポンとチャイムが鳴らされた。
誰だ、宅急便か? この時間に荻原は来ないはずだ。ならば宅急便だろう。だがいったい誰が荷物を送ってくるのだろう。
「鍵、出ないの?」
もしかしたら宗教勧誘の可能性もあった。だとしたら、でないほうがいいだろう。
再び、ピンポンが鳴らされた。
一応誰が来たのかだけ確認しておくか。宅急便なら見た目で分かるだろうからな。
俺は立ち上がり、モニターで誰が来たのかだけ確認した。
金髪に無数のピアス。つぶらな瞳でこちらを見つめてきているのは、間違いなく荻原だった。
俺は慌ててモニターの画面を消した。
どうする?
っていうかなぜ荻原がこんな時間になってきたのだ?
焦りでどうにかなりそうだった。たつきとちかげは勉強に集中している。
俺はこの場をどうやり過ごすかを考えていた。
出るか? いや、それとも無視するか?
ここはいったん無視して、あとで荻原に事情を説明して謝る。それが一番ベストではないか。
それか、ラインでことを説明するかだ。どちらにせよ、今ここで出ない方が得策ではないか。
「鍵、誰が来たの?」
たつきの声。ここはでなくていいだろう。そう思った時、再びチャイムが鳴らされた。
「ずいぶんしつこいね」
「あぁ、そうだな」
俺のなかで、もう一つの案が浮かんだ。それはいったん俺が荻原の相手をして外に連れ出し、事情を直接説明して帰ってもらうという手段だ。
そうすれば荻原もすぐに帰ってくれるだろう。もうチャイムがこれ以上鳴らされることはない。
だとすれば、荻原の姿を二人に絶対に見られてはならない。
「悪い、ちょっと出てくる。気にせず勉強していてくれ」
「はーい」
俺は覚悟を決め、玄関の扉を開ける。そこにはスウェット姿の荻原が経っていた。明らかに部屋着だ。
俺は外に出て、すかさず玄関の扉を閉める。
「何の用だ?」
「ちょ、ちょっと何? あたしになんか隠してる?」
「いや、友達が来ててな」
「あ、そうなんだ。あんたに友達ねぇ~、ふーん、意外」
「で、何の用だ?」
俺は要件だけ手短に聞く。なるべく早めにことを済ませたい。
「これ、クッキー作ってて、余ったからあんたにあげようと思って」
確かに、荻原の手のなかには小袋が収まっている。そのなかにはチョコレートクッキーやらプレーンクッキーやらがたくさん詰まっていた。
「いいのか?」
「いいって何が?」
「いや、無償でものをもらっていいのかと……」
「な、なんでそんなことで悩んでんのよ。別に、あたしが作りすぎちゃったからあげるだけで、別にあんたのために作ったんじゃないんだからねっ」
荻原が言う。その顔はどこか照れくさそうだった。
そうか、作りすぎたからくれるのか。なら問題はない気がする。それなら心も傷まない。
「それにしても、すごいな。お前のつくったクッキーは格別にうまいんだろうな」
「あ、あんたって人のこと素直に褒めてくれるわよね……。そういうのほかの人にもやってるの?」
「?」
「わかった、いい。聞いたあたしがバカだっ――
ぎいぃい。
扉が開く音だ。
「――ごめん、誰なんだろうと思って会話聞いちゃってたよ」
俺の心臓が止まるかと思った。そこにはたつきとちかげ両方の姿があった。
荻原は目を見開いている。無理もない。俺の友達に鉢合わせしてしまったのだから。
いや待てよ、荻原と、たつきやちかげの間に面識はないはずだ。荻原の方は有名人だが、荻原の方はたつきとちかげのことを知らないはずだ。
だから、鉢合わせても問題ないんじゃないか――
いや違う! 俺が問題あるのだ。俺と荻原が普通に会話しているこの状況を見られてしまったという事実がまずいのだ。
「えぇっと……ドアスコープから見てたけど、女王様……だよね?」
ヤバい。ヤバいヤバいヤバい。
この状況をどう説明すればいいんだ。さすがに不覚だった。ちょっとした立ち話のつもりだったのに、思いのほか長話してしまったらしい。
「えぇっと、その……友達……?」
「鍵と、荻原さんが……へぇ……嘘……」
明らかにたつきの声からはショックが伺い知れる。そんなはずはないと自問自答しているのだろう。
「あの鍵と……女王様が……へぇ……そんなのありえないよ」
「だ、大丈夫、たっくん……?」
たつきは現実を受け入れきれないのだろう。完全に放心状態だ。
そういえば、荻原はたつきの推しだったんだっけか。
この事実はどうやら、俺が思ってる以上に重いのかもしれない。
「で、でも、私もびっくりしたよ! 石上くんと女王様が仲いいんだって!」
ちかげも本当に驚いているようだ。
「あぁ、まぁ……そうだな」
「いつ頃から仲いいの?」
「だいたい三か月前からだ」
「そうなんだー、じゃあ結構前なんだね」
俺とちかげが会話するかたわらで明らかに現実を受け入れられていないたつき。
するとそのたつきは俺の肩をぐいっと引き寄せて、荻原とちかげから距離をとった。
そしてひそひそと耳打ちしてくる。
「……鍵、僕はすべてを察してしまったよ」
「察したって何が」
「スウェット姿で訪問してくるなんて君たち相当な仲なんだね。
――鍵が前に行ってたお隣さん、荻原さんのことなんだね」
俺は沈黙する。その沈黙が意味するのはすなわち肯定だった。
「やっぱりそうか、……で、鍵が好きになったっていう人も、荻原さんのことだよね」
俺は再び沈黙。これも否定しない。
「やっぱりそうか。そうなのか。まさか鍵が好きになったのが女王様だとは思ってなかったし、女王様とこれだけ仲がいいとも思ってなかったよ」
「……その、黙ってて悪かったな」
「別にいいさ。驚きはしたけどね。……けどまぁ、色々と悔しさもある」
「俺と荻原の関係性についてか? だが、お前にはちかげがいるだろう。悔しがることなんてないんじゃないのか」
「だから言っただろ、鍵。推しと恋人は別なのさ」
「そういうもんなのか」
そしてたつきはにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「……まぁ、ともかくだ。事情はよく理解したよ。僕は鍵に協力する。鍵が荻原さんと結ばれるように」
この親友はなんて寛大な心を持っているのだろう、と思った。
「本当か?」
「もちろんさ、嘘はつかない」
「……そうか、悪いな」
「いいってことよ」
俺とたつきは再び二人のところに戻る。
「あ、終わった? 二人で何話してたのさ」
「男同士の熱い会話だよ」
「なにそれ、意味わかんない」
「あ、あの、あたしお邪魔だったら帰るけど」
荻原は周りに対してよく気を使う。
「いや別にお邪魔じゃないよ。今僕たちは勉強会をしてたんだ。
……で、提案なんだけど、荻原さんも一緒に勉強会やらない? この後の予定が何もなければ、だけど」
荻原はびっくりしたような表情を浮かべる。俺も驚いた。まさかたつきがそのような提案をするとは思ってなかったから。
「え、いいの?」
「いいね! 荻原さんがいれば心強いよ! めちゃくちゃ頭いいし!」
確かに荻原がいれば勉強が捗るだろう。なんたって学年一位だからな。
色々教えてもらえれば、こちらとしても助かる。
だが、それは荻原にとっては大きな負担なのではないか。
「みこ……荻原、無理はしなくていいんだぞ」
危ない。危うく下の名前で呼ぶところだった。
「べ、別に……特にこのあと予定ないし、あたしでよければ勉強会参加しよっかな」
荻原はそう言った。
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