五章 8
鍵視点
失態だった。
ポケットの中に忍び込ませおいたのがまずかった。まさかあのタイミングでコケるとは思ってもみなかった。
その拍子に、俺が隠していたソレがポケットの外に出てしまった。
不覚だった。もっと気をつけていればこんなことにはならなかっただろう。
荻原は、幻滅しただろうか。
俺はあくまで、ソレを保険として今日持ってきた。もちろん俺から誘うようなことは絶対にしないと心に決めている。
だがあの瞬間、荻原はどう思っただろうか。
俺を性欲の塊だと認識し、見下したのではないか。
後悔の念が押し寄せてくる。俺はなんで、あんなものを持ってきてしまったのだろうか。
あれから、荻原との会話はない。ざっと2時間くらい話さずに、お互い距離を離して座っていた。
途中帰ろうかと思い、声に出そうとしたが、できなかった。この状況でなかなか帰るとも言い出しづらかったのだ。
長い長い沈黙の時間が続いた。正直いたたまれなかった。
俺は荻原に、悪いことをした。
もう金輪際、荻原に勘違いされるようなことはやめようとこころに誓う。
「…ねぇ、あんた今日泊まってくでしょ」
俺の肩がびくっと跳ねる。荻原の声にここまで敏感になっているとは思わなかった。
……ちょっと待て、荻原は今、何といった?
「聞こえなかったの?」
「いや、聞いていた。悪い、ちょっと戸惑っただけだ」
「…そ、んで、泊まってくの?」
荻原が聞いてくる。まさか、泊まってくかどうか聞かれるとは思わなかった。
正直、このまま俺は荻原の家にいていいのか、と不安になる。
もうこれ以上、彼女に嫌われたくない。だとしたら、ここで自分の家に戻るのが得策ではないのか。
恐る恐る荻原の表情をうかがう。その表情は真面目そのものだった。
だから、荻原が何を考えているのかわからない。
正直怖い。
これ以上嫌われていいのか。
だが、ここで荻原の提案を断ったら、今度こそ俺のことを嫌ってしまうのではないか、そうも思えた。
どちらがいいのだろうか。
俺は悩んだ末、
「わかった。…泊まらせてくれ」
と言った。荻原は表情を変えずに、「わかった」とだけ言った。
わからない。俺には荻原の考えていることがわからない。
俺はこの状況で何をすればいいのかわからない。
誰か答えがわかる人がいれば教えて欲しかった。心細い。
もしかしたら、俺の今の心境を荻原は感じ取っているのかもしれない。情けないやつだ、と蔑んでいるのかもしれない――
寝室に案内される。ものすごくきれいな部屋だった。
全体的に白を基調とした部屋だった。ところどころピンク色のアイテムが置いてある。枕とか、ライトとかだ。
枕元にはイルカのぬいぐるみとキングスライ◯のぬいぐるみが置いてあった。他にもファンシーなぬいぐるみが置いてあるが、どれもこれも流行りに乗ったアイテムらしく、可愛くはない。
「…その、ほんとにいいのか?」
「うん、あ、あと寝るとこベッドしかないから」
…ちょっと待てマジか。
俺の心臓は再びバクバクと言い始める。女子と二人きりで寝る経験など当然だがない。
俺はもう一度、帰ろうかと思った。すべてをなげうって帰ってしまいたい。そしたら、またいつもの平穏な日常に戻れるだろう。
だが、ここで帰ってしまったら、荻原を傷つけてしまうかもしれない。せっかく泊まっていくか聞かれたのに、それを断ってしまうのはなんだか申し訳なかった。
「ね、寝よっか」
俺たち二人はベッドの中に入る。
「で、電気消すね」
荻原はリモコンを操作し、電気がオレンジ色の常夜灯へと切替わる。
できるだけ荻原とは距離を置いたところで寝る。だか、ベッドは一人用なので狭かった。
俺は目を閉じる。
さっさと寝てしまおう。寝てしまえばこちらの勝ちだ。
だが、一向に眠気は訪れそうになかった。
俺はそろりと、荻原の方を伺う。だが、荻原の方もこちらを向いていて、ばっちりと目が合ってしまう。
「…………」
「…………」
俺は沈黙に耐えきれなくなって目をそらした。そして、わざとらしく目を閉じる。
寝るんだ。寝てしまえばどうにかなる。
俺は自己暗示をかけるように、眠れるように祈った。
す、と、俺の腕に触れるものがあった。荻原の手だ。明らかに、たまたま触れただけという感触ではなかった。
俺は……本当にどうしたらいいのだろう。怖い。そのひと言に尽きる。
ここで一線を越えてしまったら、もう後戻りはできない。友達に戻れなくなる。
荻原の手が、俺の腰に回された。彼女の吐息が近くなる。ふわりとシャンプーのいい香りがする。今までで一番、彼女が近くなった瞬間だった。
俺は自然な反応として、下半身が暖かくなるのを感じた。男として当然の生理反応だった。
緊張で喉が渇いている。俺は、そっと、荻原の手に触れた。
俺は……迷いのなかで、ある一つの結論を出した。この結論を出したからには、もう後戻りはできない。
「荻原…………」
案の定声がかすれていた。情けない男だ、本当に。だが、ここで荻原に応えてしまえるほど、俺は人間ができていなかった。
それに……
今日の荻原は様子がおかしかった。なにか、常にソワソワしているような、そんな感じがした。
それは今日が、クリスマスイブだからだ。
だから、何かあるのではないか、そういう思いが彼女の中にあったのだろう。
俺と荻原は今、そういう流れになってしまっている。
だが、この流れに乗って動いてしまっていいのだろうか。
これは、ただの、クリスマスマジック、というやつではないか。
流れに乗ってしてしまったが挙句、お互いに後悔して気まずくなる未来が、俺にはどうしても見えてしまう。
なぜなら、俺と荻原は付き合っていないのだから。
ならばここで、俺は荻原に「付き合ってほしい」と言ってしまえば、すべて解決する…という問題ではない。
流れで告白するのは、……やっぱり違うと思う。
――それに、荻原をここで自分のものにしてしまったら、もし荻原とこれから付き合ったとして、その付き合い方に歪みが生まれてしまうような気がしていた。
俺は、荻原を大切にしたい。
だからこそ、今ではないのだ。
流れに身を任せるのではない。
俺は、荻原ときちんと向き合いたい。
――俺は荻原と、ちゃんと付き合いたい。
だから、言った。
「…自分勝手で、本当に悪いと思ってる。だが……まだ早いと思うんだ。俺たちがちゃんとお互いのことを向き合って、お互いのことが分かりあった時、お前の気持ちに応えたい。
だから今日は、普通に夜を過ごそう。寝て、起きたら、明日も同じ日常を送りたいんだ。
本当にお前には悪いことをしてるという自覚がある。
……悪い。でも、俺は、自分の気持ちに嘘はつけない」
もしこの場にたつきがいたら、きっとボロクソになじられることだろう。『お前の決意なんてどうだっていい。彼女の気持ちに応えろ』と。
だが、どうしても俺にはそれができなかった。どうしようもなく不器用なんだと思う。どうしようもなくバカなんだと思う。
荻原は悲しげな表情を浮かべた。だがその三秒後には、いつもの荻原の笑顔がそこにはあった。
「……そっか、わかった」
夜はあっという間に過ぎていった。俺は一睡もできなかった。
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