五章 6
結局それからお互いに何も喋らずに、マンションまでたどり着いた。
俺からも何か声をかけようとしたのだが、言葉が思いつかなかったのだ。
俺の短い人生経験のなかで、初めてあれだけ女性と距離を詰めた瞬間だった。
あの時俺は、どうすべきだったのだろうか。流れに身を任せてしまえばよかったのだろうか。欲望の限り荻原を抱きしめ、口づけすればよかったのだろうか。
俺にはその答えがわからない。だから今まで彼女の一人もできなかったのだと痛感した。
これまでは俺が女性に興味がないから、恋愛に興味がないから、彼女ができなかったのだと思っていた。
だが、どうやら違うらしい。
俺はあの時、荻原を抱きしめたいと思った。それは本心だ。だができなかった。たまたま間が悪かったとか、そういう話じゃない。
俺はあの時、後悔しないか、と自分に問いかけた。
まただ、俺は荻原と、どういう関係性になればいいのかわからなかった。
――もし、荻原と男女の関係性になってしまったら、もう二度と友人同士には戻れなくなってしまうのではないか。
だから怖かったのだ。俺は今の関係性が心地よいと感じている。
それを果たして壊していいんだろうか。
「……悪い」
俺は知らず、声に出していた。
「…な、なんであんたが謝んのよ」
「いや…なんとなく」
なんで謝っているのか自分でもわからなかった。
「べ、別に……さっきのことは、ちょ、ちょっとした気の迷いだったっていうか」
「……」
「と、とにかく、一緒にご飯食べよ! 今日は豪勢にしてあげるから!」
荻原は切り替えたように、可愛らしい笑顔で言う。その笑顔に釣られて、俺も思わず笑ってしまった。
「だな。俺も手伝うか?」
「……は? あんたはいい。足手まといになるでしょ」
それもそうか…。俺は卵焼きを作ろうとしてスクランブルエッグを作った前科がある。
「悪いな。じゃあ、全部任せる」
「かしこまり!」
荻原は親指を突き立てて笑顔で言った。
なんだか頼もしいな。荻原が料理で失敗したところを俺は見たことがない。だから、今日も美味しい料理を作ってくれるのだろう。
オーブンを使うとのことで、パーティは荻原の部屋で開かれることになった。
その前に一旦俺は荷物のほうを取りに行くのと着替えのために、自分の部屋に戻った。
その時、ポケットの中に一応例のものは忍び込ませた。オカモトの0.02ミリだ。小分けにしてあるので、2つだけ持ってくことにする。
あと、プレゼントも忘れずにな。
荻原の部屋に戻るといい香りがしていた。
「いい匂いがしてきたな。見てもいいか?」
キッチンの方で荻原はせっせと料理をしている。俺は待つだけだったのでとても暇だ。
だから、出来上がった料理をちょっとだけ覗こうとしたのだが、
「ダメ。できてからのお楽しみ」
荻原が言う。ならば仕方がない。シェフの言うことは絶対だ。逆らわないほうがいいだろう。
俺は適当にスマホをいじりながら待っていると、荻原が大きな声で「できた!」と叫んだ。
「料理、机に持ってってくれる?」
よしきた。俺はキッチンのほうにいき、完成された料理たちを眺めた。
「おぉ、すごいな」
「ふふん、でしょ。さ、冷めないうちに食べましょ」
ローストビーフ、それから色とりどりのサラダ、ミートローフにサーモンの燻製と、見ているだけで食欲をそそられそうな料理たちが並ぶ。
「こんなに…食い切れるか?」
「まぁ、残ったらタップに詰めて明日食べましょ」
「そうだな」
料理を机に運び終え、俺達は向かい合うように座った。
俺は忘れないようにと、ラッピングされたプレゼントを取り出す。
「つまらないものだが、ほんの気持ちだ。受け取ってくれるか?」
「あ、あんたがプレゼント用意してくれてるなんて」
「なんだその態度は。いらんのか」
「ううん、いる! へへっ、ありがとっ! 開けてもいい?」
「構わん。……あ、言い忘れてたが、多少ラッピングがうまくいってないのは気にしないでくれ、若い店員だったからな」
「別に気にしないわよそんなこと。開けるね」
荻原は緊張の面持ちでプレゼントを開封する。
「シャーペン…」
「悩んだ挙句にそれにした。一番使い勝手がいいと思ってな」
俺は恐る恐る荻原の表情をうかがう。果たして荻原はどんな反応を示すだろうか。
「ありがと! …へへ、めっちゃ嬉しい」
「…そうか、喜んでくれて何よりだ」
「たしかにこれなら毎日使えるかも」
「あぁ、まぁ、そう思って買った」
「そうなんだ。あんたにしては気が利くわね」
「ひと言余計だな」
何にせよ荻原が喜んでくれて良かった。
俺は肩の荷が下りたような気分だった。人にプレゼントを渡すのはこんなにも気を張ることなんだな。
「ちょっと待っててね」
そう言って荻原は立ち上がる。なんだ、お手洗いか?
だが荻原は別の方向に向かって歩き出す。やがて一つの紙袋を持って戻ってくる。
バカでもわかる。それはおそらく、俺へのプレゼントだろう。
「はい、これあげる。多分サイズは合ってると思う」
俺は渡された紙袋から、包みを取り出した。柔らかい。おそらく衣料品であろうことは想像に固くない。
開けてみる。中には黒のニットが入っていた。
それも真っ黒なニットではない。青色のマーブル模様が入ったものだった。
俺は聞いたことがあった。これはグラデーションニットと呼ばれるものだ。
「あんたに似合うと思って」
「…着てみていいか?」
「どうぞ。…あ、まさかとは思うけどここでは着替えないでよ」
「アホか」
俺は苦笑いしつつ、洗面所で着てみる。サイズはぴったりだ。再び荻原のところへ戻ると、「めっちゃいいじゃん!」と褒めてくれた。
「すごい似合ってる! やば! あたしって天才!」
俺は少し恥ずかしくなってきた。こいつは何でもかんでも褒めてくれる。きっとその言葉に嘘はないのだろう。素直に褒めてくれて、俺も嬉しくなる。
「…あー、美琴、ありがとな」
「いいって! あーでも、あんたにそんなに似合ってるんだから、いい買い物した!」
「高かったんじゃないか?」
「別に、五千円くらいだったし」
「そうか、なんか悪かったな。そのシャーペン千円もしないから」
荻原は額に手をやり、やれやれと首を振った。
「あんたわかってないわね。こういうのは値段じゃないの。その人がどういう思いでそれをあげるかが重要なの。大事なのは気持ちよ、気持ち」
それもそうか。荻原の言うことは正しいのだろう。
たしかに、俺が選んだシャーペンも、荻原に喜んでもらいたい一心で選んだものだからな。
「もう一度言わせてくれ。ありがとな。…大切にする」
「…そ、そう、へへ、気に入ってくれたんならよかった!」
荻原は屈託のない笑顔で言った。多分俺が喜べば喜ぶほど、荻原も喜んでくれるんだろう、と、そんな気がした。
俺もそうだ。荻原が喜んでくれればくれるほど、嬉しい。心に温かい気持ちが芽生える。
「さ、食べましょ、冷めないうちに」
「…あぁ、そうだな、…いただきます」
こうしてクリスマスイブの食事が始まった。観覧車での気まずさが嘘のように感じられるほどに、荻原と過ごす時間は楽しかった。
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