第1話:灰と酒場
辺境の国ヴァルガス。その最果てに位置する寂れた町、セリヌ。
この町の夜は、いつも焦げたような匂いがする。
魔王領から流れてくる魔素の霧と、安酒の鼻を突く匂い。それらが混ざり合い、町全体にどんよりとした澱みを漂わせていた。
酒場『赤銅の鎧亭』の片隅。
そこだけ、まるで時間が止まっているかのように静かな空間があった。
一人の女性が、誰の視線も寄せ付けないままグラスを傾けている。
その瞳は、紫とも青ともつかない曖昧な色をしていた。
白磁のように透き通る肌とは対照的に、身に纏うのは左右非対称の黒いロングコート。漆黒の髪を揺らし、無造作にブーツを鳴らして歩く彼女の姿は、まるでこの世界のどこにも属さない、異物のように際立っていた。
「……今回も、ハズレか」
彼女は小さな溜息をつき、誰に聞かせるでもなく呟いた。
耳に入ってくる情報はどれも噂の息をでない。
騒がしい酒場を出て、湿った夜風に当たる。
その直後、足早に歩く大男と肩がぶつかった。
「おっと……悪ぃな」
声をかけてきたのは、この町でよく顔を合わせる傭兵の男だった。男はユヅキの顔を覗き込むと、ニヤリと口角を上げる。
「よぉ、そんな辛気臭い顔してどうした? 探し物が見つからないのかよ」
「……余計なお世話だよ。どいて」
ユヅキは冷淡に言い捨て、男を突き放そうとした。しかし、男は一歩も引かず、むしろ声を潜めて囁いた。
「ま、そう言うなって。実はな、とっておきの情報があるんだぜ」
ユヅキは足を止める。
「……境界の灰域の遺跡の話? それなら酒場で耳にした。興味はないわ」
「へぇ、情報通だな。だが、俺が持ってんのはそんな二番煎じじゃねえ。遺跡の『深部』に関する、もっと詳しい奴だ。聞くか?」
ユヅキの切れ長の瞳が、スッと細められた。
男の自信に満ちた笑みに、一瞬の沈黙。
彼女は酒場の扉から手を離すと、音もなくUターンして男の前に立った。
「……ガセだったら、ただじゃおかないからね」
「へいへい。その代わり、見返りははずんでくれよ?」
ユヅキはコートの襟を正し、獲物を狙う獣のような目で男を見据えた。
この男の胡散臭い言葉の裏に、探し物への確かな糸口があるかもしれない。
――彼の欠片を、拾い集めるために。
傭兵の男から情報を引き出したユヅキは、そのまま足早に冒険者ギルドへと向かった。
木製の重い扉を開けると、いつもの淀んだ空気とは少し違う、事務的な喧騒が耳に届く。カウンターへ向かうと、顔なじみの受付嬢が、すべてを見透かしたような柔らかな笑みを浮かべていた。
「いらっしゃいませ、ユヅキさん。……例の遺跡についてですか?」
どうやら、彼女が探し物をしていることは、一部の人間には周知の事実らしい。
ユヅキは小さく溜息をつき、先ほど男から掴んだ情報をカウンターに広げた。
「あいつにも売りつけられたわ。その情報の裏付けをしたくてね」
提示された情報を、受付嬢が慣れた手つきでギルドの資料と照らし合わせる。彼女の瞳が驚きに細められた。
「……この地図は精巧ですね。ギルドで把握しているものよりも、案外いい線いくかもしれません」「そう。なら、その付近へ行く依頼はある?」
ユヅキの問いに、受付嬢は少し表情を曇らせた。
「……境界の灰域へ航行が可能な港のある町で、魔物の被害報告が上がっています。正直、困っていたところで……討伐をお願いできますか?」
「構わないわ。何体?」
「複数体です。魔物種類はわかっていません。死傷者も出ています。今、すぐに出れるパーティがいなくて……」
申し訳なさそうに眉を下げる受付嬢に、ユヅキは肩をすくめて見せた。
「ソロの方が楽でいい。気を使わなくて済むから」
受け取った依頼票をコートのポケットにしまい込む。背を向けたユヅキの背中に、心配そうな声がかけられた。
「ユヅキさん、くれぐれも無理はなさらないで」
振り返ることなく、軽く手を振って応える。
ギルドを出ると、セリヌの夜は相変わらず焦げたような匂いがしていた。
ユヅキの瞳が、月明かりを弾いて深く、暗く輝く。
彼女は誰の助けも借りず、ただ一人で、灰色の闇へと歩き出した。




