そうだ、万馬券を買おう 〜元レンジャーの不本意な覚醒計画〜
「む、使命を感じる……。脳裏に響く使徒の使命が、『飯井よ、迷える傷ついた羊を救いなさい』と囁いている……!」
剣岳の猛々しい自然の中、飯井は突如として己のゴリゴリに引き締まった細マッチョな胸に手を当てた。天啓である。
ガサガサッ! と、使命に燃える燃える飯井の行く手を遮るように影が現れた。野生のツキノワグマである。
だが、覚醒した神の使徒にとって、それはただの動物に過ぎない。
「そこをどけ!」
飯井は一切の躊躇なく跳躍すると、空中から強烈なドロップキックを叩き込んだ。
ドゴォン! と山に肉肉しい音が響き渡り、吹っ飛んだクマは「いや待てコイツやべーやつだわ!!!」という絶望の表情を浮かべ、一目散に山奥へと飛んで逃げていった。
使命の導くままに風のように駆け抜け、沢を飛び降りた飯井は、岩陰でぐったりと倒れている男性を発見した。
「大丈夫か!」
「うぅ……すまない。昨日の雨に足をとられて動けず……って、救助が早すぎないか?」
遭難した男性――衛府は、朦朧とする意識の中で目を見開いた。
「神の使命が、俺を呼んだからな」
「(……あ、やべーやつ来たわ。……え? 何その格好? 半袖短パン? ここを? この酷秋の剣岳を???)
あ、あの、他の救助隊の人は? スマホが壊れて連絡できなくて……」
「安心しろ、まずは腹ごしらえだ」飯井は爽やかに親指を立てた。「ついでに俺、スマホ持ってきてない。何となく山に登りたくなっただけだし」
「!!!? え? いや、待て待て、ここで炊き出しを始めるな! 熊が出るんだよ、このエリアは!」
「へ? ツキノワグマだろ? ディーンみたいにワンパンは無理だけど、オリビエの言う通り連打でイけるんじゃね?」
「イけるわけねぇだろ! クマ舐めんな!」
衛府は傷ついた体のまま、魂の咆哮をあげた。
「俺は自衛隊でレンジャーだったんだよ! 元だけどな! 国の最高峰の訓練を受けた俺が無理って言ってんだから、お前みたいなひょろがり野郎(※細マッチョ)が勝てるわけ――」
「んん? 腹が減って頭が回ってないんだな。ほら、食えよ」
「話を聞けぇ! っていうか何で腰に飯盒ぶら下げてんだよ! で、なんで中身がギッチギチの豚汁なんだよ! 冷めてるだろ!」
「え? 山と言えば豚汁だろ? 俺の豚汁は『使命の味』がするから、いつでも神の加護ついてるんだが??」
衛府は絶望した。
(くっ、会話が成立せん。病院から脱走してきたのかコイツは? だが……背に腹は変えられん。クマが来ないことを祈るしか……)
その辺の枝や石を使い器用に男が焚き火を始めた。ココロオドルの音程で謎の社畜ソングを歌い始めるなか、良い匂いがあたりに広がる。
ガサガサッ!
「ひぃっ! 出た!」
藪が激しく揺れ、先ほどとは別の獰猛な獣の気配が迫る。
だが、飯井はため息を一つ吐いた。
「ふー、邪魔だな。ちょっと蹴散らしてくるわ」
トコトコと軽い足取りで藪に突っ込んでいく飯井。直後、凄まじい肉撃の音が山々にこだました。
「ゴルァアアア!!」
『ぎゃひん!?』
「オラオラオラオラオラオラオラァアアア!!」
『きゃいん! ぎゃいん! ひゃいんんん!!』
――シーン。
数分後、静寂が戻った山道から、飯井が戻ってきた。
「ふー、手強かったぜ」
ちょっと頬に引っかき傷を作った飯井は、悔しそうに己の拳を見つめる。
「クソ、まだ神の豚汁と筋トレの進捗が足りないな……」
衛府は、口をあんぐりと開けたままフリーズした。
(え? ……え? クマを……肉弾戦のステゴロラッシュでボコボコにした?……しかもほぼ無傷?)
元レンジャーのプライドが音を立てて崩壊した衛府は、「見なかったこと」にするため、差し出された飯盒の豚汁を猛然と口に流し込んだ。
その瞬間。あまりの旨味と栄養素、そして濃厚な味噌の輝きが、彼の脳髄を直接シェイクした。
眩い黄金の光と共に、衛府の脳裏に「あの二人」が降臨する。
『――豚汁と筋トレが、あなたを救うのよ♡』
「そんなわけない、あってたまるか!」
必死に脳内の筋肉神を否定しようとする衛府。だが、目の前の飯井は、近くの大木の枝(地上2メートル)に向かって垂直に跳び上がった。
そして、人間の限界を超えたトップスピードで、臍が枝に届くレベルの超・高強度懸垂をキレッキレに始め、枝の上から衛府を見下ろした。
「……筋トレ、やらないか?」
あまりの神々しさ(物理)に、衛府はついに悟りを開いた。
「……いや、やりたいけど、俺金がないし。自衛隊退職したばっかだし……」
すると、脳裏のオリビエが白い歯を見せて微笑んだ。
『貴方に1回限定の幸運を与えましょう。万馬券、買いなさい。
筋肉が足りぬ哀れな子羊の貴方を私が導きましょう…喝!』
「え? 馬券アカンやろ? ギャンブルやん!!」
すかさず衛府にツッコミを入れられたオリビエが怯み、バッと音が出そうな勢いで隣の豚汁を見た。脳内のディーン(豚汁の神)が、腕組みをして神妙な表情を浮かべている。
『え? 馬って神聖な生き物だから、ノーカンじゃないの?』
『……ぬ!』
『???』
『……んん! オリビエがしたいなら、いいんじゃないか。誰も傷つけないし、うん』
『だよね!』
天界のガバガバすぎる免責ルールに、衛府の脳内処理は完全にキャパシティを超えてパンクした。その絶望と混乱の渦中にある衛府の目の前に、飯井が木の上から軽やかに飛び降りてくる。
ガシィッ、と飯井は衛府の手を力強く握りしめた。
「君も、豚汁広めないか?」
「……あ、はい」
気づけば、新たなる使徒(信者)が誕生していた。
それからの飯井の行動は迅速だった。
怪我人である衛府を軽々と背中に担ぎ上げると、人外の速度で剣岳を爆走。
ちょうど麓の警察署に「遭難届」が提出されたのと全く同時に、飯井は衛府を担いだまま麓の病院へと突っ込んだ。
捜索隊が山へ動く前にすべてを解決するという、前代未聞のスピード救助である。
――だが、その後。
飯井と衛府の二人は、麓の警察署の取調室で、パイプ椅子に座って普通にめちゃくちゃ怒られていた。
「すぐに言えよこっちにも!!どんだけ人が心配して捜索隊組んだと思ってんだよ!!!」
警察官の至極真っ当な怒号が響き渡る。
「すびばぜん……(飯井)」
「以後気をつけます……(衛府)」
どれだけ筋肉が人の理を超えてもし、クマをボコボコにできようとも、国家権力の正論(お説教)の前には、使徒といえども縮こまるしかなかった。
取り調べを終え、署の前に出た衛府は、手元にある万馬券の投票画面を見つめながら、遠い目で呟いた。
「……飯井。俺、実家に戻るの辞めて、お前と山でYouTubeやるわ」
「そうか。じゃあまずは、手前味噌の仕込みとスクワット100回からだな、衛府」
飯井の目が優しく輝く。
現実の「神の豚汁」を直に胃袋に流し込まれた開祖・飯井の手によって、世界は着実に、筋肉と味噌の香りに侵食され始めていくのであった。
「筋肉は裏切らない。いぇい」
「豚汁も裏切らない」
――そしてその奇跡の全貌は、神のみぞ知る(かみのみそしる)神の味噌汁、神の豚汁、それは奇跡を起こす料理なのだ。




