そうだ、登山系YouTuberになろう 〜限界社畜の不本意な覚醒計画〜
「仕事、ブラックすぎる……辞めたい……。このまま俺、飯井は、すり潰されて死ぬのか……?」
午前2時。這う失意のままに自宅の玄関を開けた瞬間、飯井の視界を真っ白な湯気が覆い尽くした。
カツオと昆布、そして濃密な味噌の香りの向こうから、ゆっくりと歩いてくる二つの影。その一歩一歩の足取りが、生物としての圧倒的な「殺傷能力」を保証していた。
(あ、俺、深夜の不法侵入者にここで殺されるんだ……)
諦めかけた飯井の前で、神々が深夜テンションのままにポーズを決める!
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん! あなたの願いを叶えましょう♡
そう、私が願いの女神オリビエでーす!」
光の中で、オリビエはキレッキレのセクシーポーズを決めた。だが、そのポーズのせいで大胸筋と広背筋が異常な圧を放っている。セクシーポーズに純粋な物理的恐怖(圧死の危険)を感じたのは、飯井の人生で初めての経験だった。
「丁度帰りだったから、儂もいるぜ。筋肉は裏切らない。イエス筋トレ、イエス豚汁」
固太りのおっさん――豚汁の神らしき何かがが、“豚汁”と極太で刻印された大釜を、オリンピックのトロフィーのごとく誇らしげに掲げた。その前腕筋は、いかなる刃物も通さない鉄壁の輝きを放っている。
飯井の悲痛な訴えは、彼らの強力な「筋肉フィルター」によって瞬時に翻訳された。
「あ、いや……筋肉じゃなくて……仕事辞めたくて……」
「君、足りてないんじゃない? 筋肉」
オリビエが容赦なく指をさす。
「青いよ、細いよ、栄養価低すぎる!」
「低栄養は思考を鈍らせる。豚汁だ」
豚汁が深く頷いた。
「ビタミン、疲労回復、温野菜、そして発酵食品の味噌。全てが体をより良く構成する。四の五の言わずに食べるがいい。話はそれから聞いてやる」
二人は飯井の許可なく勝手に部屋へと上がり込み、ローテーブルを囲んで大釜をドスンと据え置いた。
その圧迫感たるや、会社の上司のハゲの暴言や、デブの理不尽な圧力を遥かに凌駕する「神の絶対的威圧」である。
だが、よそわれた豚汁は、狂おしいほどに良い香りだった。
飯井は引き寄せられるように、恐る恐る一口すする。
――その瞬間、脳内を電撃が走った。
美味い。旨すぎる。
温かい手料理など、一体どれほど食べていなかっただろう。連日の深夜残業でボロボロだった飯井の五臓六腑に、至高の栄養が染み渡り、気づけば涙が頬を伝っていた。
「す、すみません……美味しくて、つい……」
「ええんやで。これは神界で作ったしな。降臨するの久しぶりだ」
豚汁が豪快に笑う。
「あ、ごめん何? スクワットで忙しくて聞いてなかった」
オリビエは部屋の隅で超高速上下運動を繰り返していた。
そこで、豚汁がふと、天界のコンプライアンスを思い出したように首を傾げた。
「そういやオリビエ、久しぶりに地上降臨したついでに、人間に飯与えたけどこれOUT?」
「うーん……」
オリビエはスクワットを維持したまま答える。
「ダークサイドに落ちそうだったからセーフじゃない? ほら、救済ってことで! 天使のなんとかが前にルルドの泉で女の子拾って水あげてもセーフだったし!」
「せやな! よし、お前はこれで豚汁の使徒や!喝!!」
「ビリーカモーン!」
「え? あ……え?」
次の瞬間、飯井の脳内に直接、手前味噌の仕込み方からゴボウのささがき技術、そして過酷極まる筋トレメニューがダイレクトインセプションされた。
「うわあああ! 脳内に直接レシピとビリーが!
でも俺、ブラック企業すぎて帰れないし、自炊する時間も片付ける体力も、買い物に行く時間もないんです! ハゲの無茶振りはすごいし、デブは無理難題言うし、今日も午前2時帰宅で早い方なんですうわぁあああん!」
限界社畜の叫びに、豚汁の神が優しく寄り添った。
「ええねん。辛い時は泣いたらええねん」
「そうよ」
オリビエが片手親指腕立て伏せを中断しパッと立ち上がる。
「そのあと筋トレしたら涙も乾くわよ!」
「辛かったな。大丈夫や」
謎理論といい笑顔のオリビエを無視して、豚汁が飯井の肩にぽんと手を置いた。
「筋トレと儂の豚汁で、たぶん今のお前ならツキノワグマくらいワンパンや。その圧でハゲとデブを威圧すればええねん。クマに比べたら、人間のハゲとデブなんて怖くないって」
「そうそう!」
無視されているのに気づいてない様子のオリビエが白い歯を見せサムズアップする。
「筋トレできないような会社なんて辞めたらいいのよ! そうだ、私が1回限定の幸運あげるから、宝くじ買ったらいいよ。転職資金と筋トレ諸費用にしちゃいなさい!」
「そうか……筋肉は全てを解決する。筋肉は、裏切らない……! 俺、俺、頑張ります!」
飯井の目が、初めてキラキラと輝いた。――間違った“覚醒”の瞬間である。
翌朝、出社した飯井の「圧」は昨日までと完全に違っていた。
背後に巨大なヒグマ(あるいは大釜を持ったおっさん)のオーラを背負った飯井の眼力に、ハゲの上司もデブの同僚も、恐怖で一歩も近づけない。
「――辞めさせていただきます」
3ヶ月後、飯井が叩きつけた辞表の衝撃波により、スチールの係長机が真っ二つに叩き折れV字に歪んだ。
誰も引き止められるはずがなく、無事に退職。
そして現在。
飯井は、四国の険峰・剣岳の山頂付近にいた。
周囲の登山客がガチの重装備で防寒対策をする中、飯井だけは半袖・短パンという、近所のコンビニにアイスを買いに行くような格好で岩肌を登っている。
「俺、やります!!」
宝くじで当てた莫大な資金を活用し、山と筋肉に注ぎ込み、彼は現世で神に直接豚汁を与えられし第一豚汁使徒として、大自然の頂点から豚汁の素晴らしさを世界に配信する驚異の新人YouTuberとなっていた。
動画の概要欄には、常に一言、こう添えられている。
※危険ですので、絶対にマネしないでください。豚汁と筋肉の加護がないと死にます。
その注意書きの本当の恐怖を、現代の視聴者はまだ誰も知らない――。
※危険ですので、絶対にマネしないでください。豚汁と筋肉の加護がないと死にます。
(笑)




