そうだ、ミリオンを目指そう 〜底辺青年の不本意なマッスルライフ〜
出井は、底辺を生きていた。
古びた木造アパートの四畳半。夜、部屋の明かりを消すと、外を走る車のヘッドライトが染みだらけの天井を虚しく通り過ぎていく。
家族とはとっくに疎遠。友達と呼べるような人間もいない。
出井の唯一の密かな趣味は、夜中に一人、スマートフォンの画面を開いて、そこに表示される全財産――数万円の、ちっぽけな銀行残高の数字をじっと眺めては、深いため息をこぼすことだけだった。
「……お金が欲しいなぁ」
ぽつりと、狭い部屋に声が落ちる。
部屋の隅には、コンビニの半額弁当のプラスチック容器と、スープの干からびたカップ麺の空き容器がうずたかく積まれている。それを見るたびに、またため息が出る。
自分には、学歴も、特技も、人脈も、何も無い。
出井はぼーっとした頭のままベッドの縁に腰掛け、建付けの悪い窓の隙間から、夜空に浮かぶ星を眺めた。
「神様、空からお札でも降らせてくれないかな……はは」
自嘲気味に呟いた、本当に小さくて、弱々しい独り言だった。
――その直後、ワンルームの空間が爆発した。
ゴオオオオオオオッ!!!と、凄まじい風圧と共に、眼前を覆い尽くすほどの凶悪な黄金の輝き。
四畳半の壁がミシミシと悲鳴を上げる。光の洪水の中央、空間の歪みから、一人の女性のシルエットがゆっくりと、しかし圧倒的な存在感を放って浮かび上がってきた。
「はっはー! 呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! そう、私が噂の願いの女神、オリビエでーす」
まばゆいネオンライトを浴びながら、オリビエはグラビアアイドルばりのお色気ポーズ、ただし筋肉のカットはバキバキの姿を繰り出し、はち切れんばかりの大胸筋をこれでもかと前面に押し出してきた。
その顔には「ふ……勝ったな」という確信がドヤ顔に満ち溢れている。
「……誰に勝ったんだよ」
出井の喉が、恐怖でゴクリと鳴った。
それは男としての「色気」に当てられたのではない。目の前にあるそれが、明確な『物理的な凶器』として脳の生存本能を刺激したからだ。
あれは間違いなく、人を挟んで圧死させるタイプの大胸筋だ。刃物はおろか、銃弾さえも跳ね返すに違いない。
だが、口が裂けてもそんな指摘はできない。目の前の凶器が、あまりにも凶器すぎる。
「あ? お色気担当のマリアに勝ったかなって思ったんだけど?
だって君の視線、完全に私の胸部にく・ぎ・づ・け♡」
バチコーン☆と放たれたウインクと共に、目に見えない投げキッスが飛んでくる。
何も見えない。何も飛んできていない。なのに、風圧で出井の顔の皮膚がピリピリと痛い。
「ま、それは置いといてさ。君、お金欲しいんだよね?」
「え? あ、まあ、それは……」
「おっけー把握! つまり、『健康』になりたいってことだわね!」
「どういう理屈だよ!! スキップした論理の歩幅がデカすぎるわ!!」
「いい? 経済の基本を教えてあげる。人は普通、1日に8時間働くでしょ? でもさ、ダブルワークをして1日16時間働いて、そこに移動時間を1時間足したらさ……給料、単純計算で倍じゃね?」
「『倍じゃね?』じゃねぇよ!! 過労死のタイムスケジュールを笑顔で提案するな!!」
「よし、決まり! 超長時間労働を可能にする健康には、質のいい筋肉と健康な食生活。つまり、『豚汁』だわ!!
カモーーーン、マイスイート豚汁!!」
パァアアン!!!
突然、四畳半が濃厚な味噌とダシの湯煙で満たされる。
その煙を割って、巨大な鉄鍋を軽々と抱えた、エプロン姿の野生の塊がフロントダブルバイセップスのポーズで飛び出してきた。
「せやな。今のこいつの栄養状態なら、豚汁しかないな」
「誰だお前は!! 狭い! 部屋が狭い!!」
「発酵食品の味噌、根菜の食物繊維、豚肉から摂取する豊富なビタミン。これを毎日3食きっちり食って筋トレしてれば、人間は、1日に36時間は稼働できる」
「1日は24時間しかねぇよ!!!働かせる気満々じゃねぇか!!!なんだよ稼働って!! 今のブラックなバイト先より悪辣じゃねーか!!」
「あ、ごめんディーン、それは言い過ぎ。現代の人間って、実は20時間くらいまでしか連続稼働できない仕様らしいよ?」
「そっちも『稼働』って言うな!! 人間を重機か何かと勘違いしてんのか!?」
「まあ細かいことはいいのよ! 目指せ、ガッポリ大金持ち。
喝!神聖力注入!!」
「いや違……待っ、いやぁあああああああ!!!!」
オリビエが指をパチンと鳴らした瞬間、出井の脳内に、テラバイト級の「完璧な豚汁のレシピ」と「最新の筋トレ理論」、そして見知らぬハゲた外国人の熱い指導が直接流れ込んできた。
「あ、頭が割れる……!! っていうか、誰だよお前!!
誰だよビリーっ!!」
「お前、ビリー知らんのか? ブートキャンプのビリー隊長や。今めちゃくちゃ流行ってるやろ?」
「知らねぇよ!! いつの時代の流行だよ!!」
「も〜、神様って時間の感覚が薄いからしょうがないじゃん?
ちょっと前まで日本って焦土(※終戦直後)だったのに、いつの間にかビルがいっぱい建ってるし、下界の時間の流れって本当に速いわね〜」
「せやな。じゃ、俺らこれから、筋トレと豚汁の進捗を管理するために毎日ここに来るからな。イエス、マッスルライフ。筋肉は裏切らない」
「来るな! 不法侵入で警察呼ぶぞ……ああああ!!
やめろ来るな。
うぅ、び、VICTORY!!!」
---そして、出井は――劇的に健康になった。
毎晩、部屋に現れる筋肉の神々に追い込まれ、出井は泣きながらスクワットを始め、なけなしの貯金から食材を買い、毎食律儀に豚汁を大量に作るようになった。さらに、本格的なトレーニングのためにジムにも通い出した。
結果として。
ジムの会費、質のいい豚汁の具材費がかさみ、出井の出費は増えた。
つまり、まだ1ミリも金持ちにはなっていない。
だが、彼の「ブラック形態」は完全に変化していた。
これまでは気の弱さに付け込まれ、バイト先で理不尽なシフト変更や押し付けをされても「はい……」と引き受けるしかなかった出井だったが、今の彼は違う。
彼が深夜のブラックファミレスのシフトに入ると、店内の空気が変わる。
深夜に大騒ぎするタチの悪い迷惑客やクレーマーさえも、出井の、Tシャツの袖から除く完成された上腕二頭筋と、奥底に底知れぬ狂気を孕んだ「営業スマイル」を前にすると、ピタリと口を閉じて静かに退店していくのだ。
深夜のフロアに、出井の独り言が低く響く。
「うーん……1日8時間労働じゃあ、何かが足りない気がするな。もっと、もっと稼ぎたい。何より……」
出井は、自分の引き締まった拳を見つめた。
「質のいいオーガニックな豚汁の具材は、やっぱり高額だしな」
出井くんは、自分が完全に間違った方向へ覚醒してきていることに、まだ気づいていない。
「ふやすか・・・仕事」
ちなみに、バイト先の搬入作業で、ヘロヘロの先輩たちが2人がかりで運んでいた食品の超重量コンテナを、出井が片手で3人分まとめて軽々と持ち上げてバックヤードへ消えていったのは、また別の余談である。




