西と東の間で
東の棟は、夕刻までに焼け落ちた。
石の壁だけが黒く煤けて残り、屋根と床は灰になって崩れている。紅剣と分隊の兵たちが運んだ水で、火は北と西の棟へは移らなかった。焦げた梁の匂いが、館の中庭にまだ重く漂っている。
ロズヴェータは、中庭の涸れた噴水の縁に腰を下ろしていた。
西の棟の一階では、アウローラがルルの胸に布を巻いている。肋が二本、ひびが入っていた。背の低い分隊長は、巻かれるたびに顔をしかめながらも、文句は言わない。
「お嬢様。……痛い」
「我慢してください、ルルさん。これでも、手加減しています」
「手加減、それで」
「はい」
治療術師は涼しい顔で、もう一巻き布を締めた。ルルが帝国の言葉で何か短く呻く。訳さない方がいい種類の言葉だった。
二階の窓からは、ラーディーの部屋の灯りが見えている。熱は、昼の騒ぎの後で不思議と下がりはじめたらしい。アウローラが言うには、怖い思いをすると熱が引く子もいる、とのこと。
禿鷹は、二十人を縛り上げた。
残る十人のうち、何人かは中庭と廊下で倒れ、何人かは煙に紛れて館の裏の路地へ逃げている。逃げた者の足取りは、ナヴィータとグレイスが日暮れまで追ったが、東門の手前の巡礼宿の雑踏で途切れた。
「逃げた者は、東へ帰ります」
ユーグが、噴水の傍らに立って言った。
「今日のことを、ダーウードに伝えるでしょう」
「伝えさせればいい」
ロズヴェータは、焼け落ちた東の棟を見上げた。
「こちらからも、伝える。どちらが先に着くかだ」
◇◆◇
日が暮れる前に、アルマールが北の棟から降りてきた。
腕に布を巻き、剣は帯びていない。それでも、背筋を伸ばして歩いてくる姿には、昼に剣を構えた時と同じ硬さがあった。気位の高い跡取りは、ロズヴェータの前で足を止める。
「ロズヴェータ卿」
流暢な王国の言葉だった。帝国の高貴な家の子は、幼い頃から両国の言葉を叩き込まれる。訛りもなく、ルルの王国語よりよほど滑らかだ。
「叔父は、俺の名を使った。客として預けられた家で、客の一人を焼き殺す仕事に、俺の名を」
声が、わずかに震えている。恐れではない。怒りだ。
「総督閣下への文を書くと聞いた。書くなら、俺が拒んだことも書け。書かぬなら、俺は叔父と同じ側に立ったことになる」
ロズヴェータは立ち上がり、帝国の言葉で答えた。
文官を志していた頃に覚えた言葉だ。ヴィタスほど滑らかではない。それでも、意味を取り違えられることはない。
「書く。叔父上の筋書きを拒まれたことも、逃げるのは恥だと言われたことも。剣を払われ、腕をねじられてもなお、従われなかったことも。名は使われた。だが、使わせはしなかった。そう書く」
アルマールの目が、わずかに見開かれる。王国の騎士の口から、自分の国の言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
跡取りは、長いあいだ黙っていた。それから、帝国の言葉のまま言う。
「感謝する。……兎にも、もう言った。卿にも、言う」
踵を返し、北の棟へ戻っていく。その背中を見送りながら、脇腹を押さえたルルが帝国の言葉で呟いた。
「これで二度目だ。あの若様が、頭を下げたのは」
◇◆◇
翌日、ヴェルダーが館を訪れた。
女王の名代は、焼け落ちた東の棟を一度だけ見上げ、それから中庭に引き出された禿鷹の男たちの前に立った。縄で繋がれた二十人の先頭に、カッサーブがいる。顎に青黒い痣が広がり、片膝は布で固めてあった。
ヴェルダーは、ルセーブルの筆で書かれた紙を広げた。昨日の夕刻までに、捕らえた者たちから聞き取った言葉が、細かく記されている。訳したのは、ルルの分隊の兵たちだった。
「聖都の地で、女王陛下の名において預かる賓客を狙い、館に火を放った」
ヴェルダーは、紙から目を上げた。
「聖都の法に照らせば、死罪に値する」
縄の列が、わずかに揺れた。カッサーブだけが、表情を変えない。
「だが」
正しさの人は、そこで言葉を切った。
「この者たちに銭を払い、仕事を命じた主は、峠の東にいる。手を下した者だけを裁いて、命じた者を裁かぬのは、正しくない。裁くべきは、命じた者のいる国だ」
ヴェルダーは、ロズヴェータの方を見た。
「この者たちは、証人として峠の東へ送り返す。総督の手に渡し、総督の国の法で裁かせる。卿の文と一緒に」
「承知しました」
カッサーブが、初めて顔を上げた。
「生かして返すのか」
帝国の言葉だった。ルルの分隊の兵が、ヴェルダーに訳す。
「ダーウードの旦那の名を、総督の前で吐かせるためにか。銭の分は働いた。その上、口まで売れと言うのか」
「売るかどうかは、お前が決めることだ」
ヴェルダーは、表情を変えずに答えた。
「お前は、礼を勘定に入れぬと言ったそうだな。ならば、主への義理も勘定に入れぬはずだ。総督の前で何を言うかは、お前の勘定で決めればいい」
訳を聞いたカッサーブは、しばらく黙っていた。それから、喉の奥で短く笑う。
「聖都の役人は、傭兵の理屈まで使うのか」
それきり、口を閉ざした。
◇◆◇
その夜、宿営の天幕で文をまとめた。
ロズヴェータが言葉を選び、ガーデルが書き、ルセーブルが目を通す。ロズヴェータも帝国の言葉は書ける。だが、総督に宛てる文となれば、かつて帝国の書状を書き慣れていたヴィタスには及ばない。清書は、ヴィタスの役目だ。宛ては、総督イブラヒム。ユーシャルの伝手を使い、禿鷹の二十人と一緒に峠を越えさせる。
文には、二つの火種が並んでいた。
一つ目は、ダーウードの企み。禿鷹の傭兵団を雇い、巡礼に紛れて聖都へ入れ、賓客の館に火を放たせた。狙いはハーシム家の嫡子。甥のアルマールだけを連れ出し、聖都が賓客を守れなかったと東西に言い立てる筋書きだった。甥は筋書きを知らされておらず、連れ出しを拒んだ。
二つ目は、ナスリーン。賓客の身で館を抜け出し、北の低地で剣を取り、帝国の術を使って魔獣を討った。和議の条文に照らせば、咎められるべき振る舞いである。
「並べて書けば、ダーウードはナスリーンの件を口実に使えなくなる」
ロズヴェータは、文の下書きを見下ろした。
「賓客が術を使ったと騒げば、同じ紙に、自分が賓客を焼き殺そうとしたことが書いてある。どちらの火種が大きいかは、総督が決める」
「総督が、ナスリーン殿を咎めたら」
ガーデルが、ペンを止めて訊いた。
「咎めさせればいい。咎めるかどうかを決めるのは、俺たちじゃない」
天幕の垂れ布が揺れた。
入ってきたのは、ナスリーンだった。剣と胸当ては取り上げられ、館の外へ出ることは禁じられている。それでも、ヴェルダーの許しを得て、ルルの付き添いで宿営まで来たのだという。
「書くのね。私のことも」
「書く」
「隠されるより、ずっといいわ」
ナスリーンは、文の下書きを覗き込んだ。ヴィタスが帝国の言葉で清書したその紙を、しばらく黙って読んでいる。やがて、読み終えると顔を上げた。
「父は、私が剣を取ったことを恥じるでしょうね。ダーウードは、怒るでしょう。総督は、たぶん笑うわ」
「笑うのか」
「ロズヴェータ卿が、総督の盤に駒を一つ置いてくれたもの。笑わない理由がないわ」
付き添ってきたルルが、天幕の入口で一歩前に出た。帝国の言葉で、女騎士に向かって言う。
「麗しき野薔薇のナスリーン。あなたが窓から飛んだ朝、館に何が来たか、もうお聞きになりましたか」
ナスリーンの表情が、わずかに硬くなった。
「……聞いたわ。私が飛んだから、あなたの分隊が八人、館を離れた」
「はい」
「使われたのね。私も」
ナスリーンは、少しのあいだ目を伏せた。それから、背の低い分隊長に向き直る。
「ありがとう。館を守ってくれて」
ルルの長い耳が、ぴくりと跳ねた。
まだ、何も言っていない。お礼の言葉は、と言う前に、言われてしまった。分隊長は口を開けたまま、しばらく言葉を探していた。
◇◆◇
文をユーシャルの伝手に託した夜、ロズヴェータは東壁の上に立っていた。
北の低地は、月の光の下で白く広がっている。干上がった泥の平原に、泥鰐の骸はもうない。開墾の巡礼たちが、骨と鱗を集めて焼いた。枯れた麦の帯だけが、白と緑の境に黒く残っている。
懐に手を入れると、指先に小さな硬いものが触れた。
焼け跡で拾った、真鍮の釦だ。縁が溶けて歪み、煤はまだ落ちていない。
西から一本、東から一本。
西の刃は、霧の窪地の地図と、焼け跡の書き付けを残している。ガーデルは、どちらも写本の手の字だと言った。コンラートは、見覚えのある抜き方だと言ったきり、口を閉ざした。公爵家には、お屋敷がいくつもある。目付が言わなかったその先に誰がいるのか、ロズヴェータにはまだ見えていない。
東の刃は、総督の国の主戦派から来た。その証は、今夜、峠の東へ向かっている。
どちらも、戦にはならなかった。剣を交えた者たちは、旗を掲げていない。国の名も、家の名も名乗らない。銭で雇われた者と、恨みを抱えた者と、名を使われた者。戦にならない形で、刃だけが自分に向いてくる。
勝つほどに、刃の数は増えていく。
ユーグが、少し離れた所で控えていた。
「ロズヴェータ様。夜風が冷えます」
「ああ」
ロズヴェータは、釦を懐に戻した。
見上げれば、東の空に月がある。昨夜まで、わずかに欠けていた円が、今夜は丸く満ちていた。焼け跡へ向かう夜に痩せていった月が、ふた巡りして、また満ちたのだ。
東の空で、月が満ちている。
満ちた月は、明日から欠けはじめる。ロズヴェータはその白い円をしばらく見上げてから、壁の階段を降りていった。




