傭兵の流儀
賓客の館の朝は、いつも静かだ。
聖都の西寄り、かつて商人の屋敷だった石造りの館である。中庭を囲んで二階建ての棟が三つ。噴水は涸れているが、井戸の水は冷たい。帝国の跡取りたちが雪解けまで預けられているこの館を、ルルの分隊が交代で守っていた。
その朝、最初に騒ぎになったのは、二階の東の部屋だった。
「……いない」
ルルは、空の寝台を見下ろして帝国の言葉で呟いた。
敷布は冷えている。窓の掛け金が外され、壁の蔦に新しい擦り跡が残っていた。椅子の背に掛けてあったはずの古い胸当てが、消えている。
「あの女騎士、自分で窓から飛んだか」
背の低い分隊長は、淡い金の髪の束を指で弾いた。北の低地で、今朝から獣狩りが始まることは館の誰もが知っている。あの女騎士が、この窓からひと月、干上がっていく沼を眺めていたことも。
「八人、北の低地へ行け。見つけても、無理に連れ戻すな。隊長のもとへ届ければいい」
「分隊長は」
「私は館に残る。賓客が一人消えた。この上、残りの十二人に何かあれば、飛ぶのは私たちの首だ」
八人が門を駆け出していく。
館に残ったのは、ルルを入れて十六人だった。
◇◆◇
陽が高くなる頃、アウローラが館を訪れた。
治療術師の白い服に、薬草の匂いを纏っている。ハーシム家の嫡子が、三日前から熱を出していた。
「お嬢様。今日、早い」
「ルルさん。一人、館を出たと聞きました」
「……耳、早いのだな」
「北の低地の方へ、金の髪の騎士が駆けていくのを、門の兵が見ていたそうです」
アウローラは、それ以上は訊かなかった。薬箱を抱え直し、二階の西の部屋へ上がっていく。
ルルは、その背中を見送った。
あの娘に、刃を向けたことがある。首狩りの手の者に、銭と家族を盾に脅されて、あの娘を狩る側に回った。脅しが解けた後も、刃の重さだけは手に残っている。
今は、その娘に「ルルさん」と呼ばれている。
門の方が、騒がしくなった。
「分隊長。巡礼が、施しを乞いに」
門番の兵が駆けてくる。
見れば、門の外に埃まみれの男たちが集まっていた。東から帰ってきた巡礼の一団だ。粗い外套に、杖と頭陀袋。二十人、いや三十人近い。口々に、施しを、主の御名において、と唱えている。
ルルは、門の格子越しに男たちを眺めた。
長い耳が、ぴくりと動く。
「……巡礼にしては、足並みが揃いすぎている」
帝国の言葉で、ルルは低く呟いた。
杖を突く音が、一定の間を刻んでいる。飢えて歩いてきた者の足ではない。歩幅を合わせて行軍してきた者の足だ。
「門を閉めろ」
言い終わる前に、館の奥で何かが割れる音がした。
東の棟の、物置の窓だった。そこから、黒い煙が噴き出してくる。
◇◆◇
門が破られたのは、煙が上がった直後だった。
巡礼の外套が、一斉に脱ぎ捨てられる。その下から現れたのは、革の胴着と、短い刃の剣。杖の先からは、仕込みの穂先が覗いていた。
「伝令を一騎、北の低地へ。隊長に知らせろ」
ルルが叫び、一人が厩へ走る。
「残りは、二人ずつ廊下を守れ。賓客を部屋から出すな。扉の前で死ぬ気でいろ。油断するなよ」
分隊の兵たちが散っていく。
中庭に、男たちがなだれ込んできた。二手に分かれる。一手は西の棟の階段へ、もう一手は北の棟へ。
西の棟の二階には、ハーシム家の嫡子とアウローラがいる。北の棟には、ダーウードの甥がいる。
狙いが、二つある。
ルルは西の階段へ走った。
二階の廊下で、分隊の兵二人が扉の前に立ち、四人の男と斬り結んでいた。一人が肩を斬られて膝をつく。ルルは床を蹴り、その男の頭上を越えた。
「駆け抜けろ、六つ足の兎、牙を向け! 変身」
腕の紋章が熱を持つ。脚の筋が、獣のように張り詰める。
着地と同時に、下段の前蹴りが一人の膝を砕いた。悲鳴。振り向いたもう一人の顎へ、拳を突き上げる。小さな体からは信じられない重さで、男の体が浮いた。
残る二人が、一歩退く。
扉の向こうから、アウローラの声がした。
「ルルさん。こちらは無事です。この方を、寝台の陰に」
ルルは扉越しに、帝国の言葉で呼びかけた。
「芳醇なる夜のラーディー。どうか、お声を潜めて。この扉は、私の分隊が命に代えてお守りいたします。何ひとつ、ご案じ召されますな」
王国の言葉を話す時とは別人のように、滑らかな声だった。
扉の向こうで、震える返事がする。
「わ、私は……分かった。兎、頼む」
兎。帝国の跡取りたちは、いつからかルルをそう呼ぶ。
◇◆◇
北の棟から、怒鳴り声が聞こえてきた。
ルルは西の扉を兵に任せ、中庭を突っ切った。煙が渦を巻き、焦げた木の匂いが鼻を刺す。東の棟の火は、二階へ回りはじめていた。
北の棟の部屋の前に、男が三人立っている。扉は開け放たれ、中で若い男が剣を構えていた。
ダーウードの甥、アルマールだった。
「ダーウード様のお申しつけです、若様」
男の一人が、帝国の言葉で言う。
「館が焼け、賓客が一人逃げた。聖都は賓客を守れなかった。その混乱の中で、若様だけはお救いする。ハーシムの小僧は、火に巻かれて死ぬ。そういう筋書きでございます」
「ふざけるな」
アルマールの声が、震えていた。恐怖ではない。怒りだ。
「俺は叔父上から、そんな話は一言も聞いていない。客として預けられた家で、客の一人を焼き殺して、俺だけが逃げるのか。俺の名を、そんな仕事に使うのか」
「若様のお名前は、若様のためにあるのではございません」
「逃げるのは恥だ」
アルマールは剣を構え直した。
「帰るなら、雪解けに、峠を越えて帰る。叔父上の手下の背に担がれて、夜盗のように逃げ帰るつもりはない」
男たちが顔を見合わせる。
「では、担いでお連れするしかございませんな」
一人が踏み込み、アルマールの剣を払った。もう一人が腕を取り、背中へねじり上げる。若い跡取りが歯を食いしばって呻いた。
廊下の端で、小さな影が床を蹴った。
一歩目で壁を踏み、二歩目で天井近くまで跳ぶ。腕をねじり上げていた男の側頭部へ、空中で身を捻ったルルの踵が落ちた。男の手がアルマールの腕から離れ、体ごと壁へ叩きつけられる。
着地はしない。壁を蹴った反動のまま、ルルの体は床すれすれを滑った。剣を払った男の脛を、低い蹴りが刈る。男の脚が宙に浮き、背中から床に落ちるより早く、ルルはもう次へ向き直っていた。
三人目が、ようやく剣の柄に手をかける。
抜かせない。踏み込んだ肩で柄頭を押し戻し、その勢いのまま鳩尾へ拳をめり込ませる。男の息が詰まり、膝が折れた。崩れ落ちる体の脇をすり抜けて、ルルはくるりと回り、アルマールの前で足を止める。
三つの体が床に沈むまで、ひと呼吸の間もなかった。
アルマールは、腕を押さえたまま呆然と立っている。
ルルは乱れた髪の束を払い、帝国の言葉で言った。
「強壮なる鳳のアルマール。お怪我は」
「……ない」
「それは何より。では、恐れながら」
背の低い分隊長は、小首を傾げてにっこりと笑った。
「お礼の言葉は?」
アルマールの頬が、さっと赤くなる。気位の高い跡取りは、しばらく口を開けたり閉じたりしていた。
「……礼を言う、兎」
「確かに、いただきました」
◇◆◇
中庭に戻ると、煙の中に大柄な男が立っていた。
巡礼の外套を肩から引き剥がし、地面に捨てる。肩幅の広い体に、使い込まれた革の胴着。手には、刃の幅の広い片手剣を提げていた。肉を断つ包丁を、そのまま大きくしたような刃だ。
「兎か」
男は、帝国の言葉で言った。
「ハリールの兎が、王国の犬になったと聞いてはいたが。本当だったか」
「禿鷹のカッサーブ」
ルルは、構えを解かずに答えた。
「骸の匂いを嗅ぎつけて、こんなところまで来たか。いや、骸を作りに来た、と言うべきかな?」
「仕事だ」
カッサーブは、肩をすくめる。
「ダーウードの旦那から、銭をもらった。ハーシムの小僧を始末して、甥を連れ出す。それだけの仕事だ。甥は駄々をこねて、小僧はまだ生きてる。割に合わねえ日だ」
「その仕事に、ありがとうと言う者はいるのか」
「礼なんぞで腹が膨れるか」
カッサーブは、笑った。
「お前もそうだったろう、兎。ハリールの下で、銭のために首を狩った。脅されて、娘一人を狩りに行った。そこの二階の、白い服の娘だろう」
ルルの長い耳が、わずかに伏せられた。
「そうだ」
否定は、しない。王国の言葉で話す時の拙さは、帝国の言葉にはひとかけらもなかった。
「あの時、私は誰にも礼を言われなかった。言われるような仕事ではなかったからな。だが、今は違う。今朝、あの娘は私の名を呼んだ。さっき、気位の高い若様が、私に礼を言った」
ルルは、拳を握り直した。
「私は、礼を勘定に入れる傭兵だ。お前は、入れない。それだけの違いだ」
「くだらねえ」
カッサーブが踏み込んできた。
幅広の刃が、横薙ぎに振るわれる。ルルは身を沈めてかわし、懐に飛び込んで下段の前蹴りを放った。だが、男の脚は岩のように動かない。逆に、膝が跳ね上がってルルの胸を打つ。
小さな体が、中庭の石畳を転がった。
「軽いな、兎」
息が詰まる。肋の奥が、焼けるように痛んだ。
カッサーブが、刃を振りかぶって歩み寄ってくる。
その時、館の門の方から蹄の音が雪崩れ込んできた。
一騎ではない。何十もの蹄だ。煙の向こうから、銀の髪が真っ先に飛び込んでくる。続いて、赤い髪。紅い剣。三つ首の獣の旗。
「ルル」
隊長の声だった。
カッサーブが振り返る。その一瞬を、ルルは逃さなかった。
石畳を蹴って跳ね起き、男の膝の裏へ、低く鋭い蹴りを叩き込む。岩のようだった脚が、初めて折れた。巨体が膝をついたところへ、跳び上がって顎を蹴り上げる。
禿鷹のカッサーブは、仰向けに石畳へ倒れた。
ユーグの剣先が、その喉元に突きつけられる。
ルルは、肩で息をしながら中庭を見回した。東の棟の火は、紅剣と分隊の兵たちが水を運んで抑えにかかっている。西の棟の窓から、アウローラが顔を出してこちらへ手を振った。北の棟の戸口には、アルマールが剣を提げて立っていた。
ロズヴェータが馬を降り、ルルの前に立つ。
「無事か」
「無事。賓客、十二人。……全員、生きてる」
「お前は」
「肋が、少し」
ルルは、胸を押さえて顔をしかめた。それから、隊長を見上げて言う。
「隊長。お礼の言葉は?」
ロズヴェータは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「よくやった、ルル。ありがとう」
背の低い分隊長は、満足そうに頷いた。




