鷹の目
北の谷に、槌の音が戻ってきた。
三月前、夜ごと闇に紛れて石を運んだ谷だ。今は昼の日差しの下で、開墾の巡礼たちが列をなして土嚢を担いでいる。崩れた堰の跡に杭を打ち、石を積み、粘土を詰めて叩き固める。前の堰は、溜めて一度に切るためのものだった。今度の堰は、二度と切らないためのものだ。
ヴィタスが谷の斜面に立ち、沢の流れを指で示していた。
「ここで流れを止め、あちらの岩の割れ目から東へ逃がします。三月前、水が削ってしまった道を、もとの道へ戻すのでございます」
巡礼たちは汗を拭いながら頷き、また土嚢を担ぎに戻っていく。泥鰐に仲間を喰われた村の者たちが、誰よりも早く谷へ上がってきていた。
工事が始まって三日目の夕刻、ヴェルダーが宿営を訪ねてきた。
女王の名代は、供も連れずに天幕の垂れ布をくぐる。手には、ルセーブルの筆で書かれた紙が一枚あった。
「北の低地の縁に、麦が植わっている」
「知っています」
「低地から染み出す水で、この夏、あの辺りの麦は他のどこよりもよく育っている。殿下の写しによれば、開墾地の麦の二割近くが、あの縁にある」
ヴェルダーは紙を卓に置いた。数字が細かく並んでいる。
「卿は沼を干すと言う。沼が干上がれば、縁の麦も水を失う。獣を討つために、人を食わせる麦を枯らすのか」
「枯らします」
ロズヴェータは、紙から目を上げずに答えた。
「麦は来年も植えられる。喰われた人は戻りません」
「正しい理屈だ」
ヴェルダーは、わずかに眉を寄せる。
「だが、麦を植えた者たちに、同じ理屈が通じるとは限らぬ。仲間を喰われた村の者は堰を担ぐだろう。喰われていない村の者は、枯れていく自分の麦を見るだろう」
正しさの人は、正しさで刺してくる。それでも、今の言葉は刺すためではなかった。見えているものを、そのまま差し出しているだけだ。
「枯れた麦の分は、蔵から出します」
「蔵の数字は、それで保つのか」
「保たせます。ガーデルと殿下に、勘定させます」
ヴェルダーは長いあいだ黙っていた。やがて、紙を卓の上に残したまま背を向ける。
「卿の勘定に任せる。ただし、枯れた麦の前で恨みを買うのは、卿だ」
「分かっています」
垂れ布が下り、規則正しい足音が遠ざかっていった。
ロズヴェータは、残された紙を見下ろす。二割。数字の向こうに、まだ青い麦の穂が揺れていた。
◇◆◇
十日目の夕暮れ、堰が閉じた。
最後の土嚢が積まれると、谷を下っていた水音がふっと細くなる。岩の割れ目から、沢の水が東へ流れ出していく。三月ぶりに、もとの道へ戻った水だ。
それから、沼が痩せていった。
夏の日差しは容赦がなかった。沼の縁から水が引き、泥の表面が白く乾いてひび割れていく。ガッチェの分隊が巡礼たちと一緒に溝を掘り、残った水を低い方へ逃がした。
五日目、沼の縁から、錆びた兜が一つ姿を現した。
十日目には、折れた槍の柄が何本も、泥から斜めに突き出している。馬の肋の骨が、白い弓のように並んでいる。泥海に沈んだ重騎兵の名残だった。巡礼たちは遠巻きに眺め、ある者は十字を切り、ある者は黙って目を逸らす。
縁の麦は、日に日に色を失っていった。
畑の端に立って、枯れていく穂を見つめる老人がいた。評定がまとまらずにいた頃、畑があるなら耕させてくれと言った男だ。ロズヴェータが近づくと、老人は振り返らずに言った。
「若いの。これは、あんたが決めたことかね」
「そうだ」
「そうか」
老人は、それ以上何も言わなかった。乾いた穂を一本折り取り、掌の上で揉んで、実の入りの薄い粒を地面に落とす。
泥鰐は、その間も夜ごとに縁へ這い出してきた。だが、乾いた泥の上では長く留まれない。山羊を一頭咥えたまま、縁の手前で動けなくなり、慌てて沼へ戻っていく姿を、ナヴィータが見ている。
二十日目には、沼はもう沼ではなかった。
白くひび割れた泥の平原に、深みだけが三つ、黒い水溜まりとして残っている。真ん中の大きな一つと、その左右に小さな二つ。泥鰐は、そこへ追い詰められていた。
夜明け前、ヴィタスと二人で数えた。
「真ん中に三つ。左に一つ、右に一つ」
「もう一つ、おります」
ヴィタスが、真ん中の深みの底を指さした。水面が、わずかに盛り上がっている。他のどのうねりよりも、大きい。
「六頭、でございます。あれが群れの頭でしょう。今まで、一度も縁へ出てこなかった」
◇◆◇
その翌朝、夜明けとともに北の低地に人が並んだ。
白い平原の縁に、ガッチェの槍列とバリュードの分隊が陣を敷く。真ん中の深みの正面にはエリシュと紅剣が立ち、その右に志願の民とヴィヴィの分隊が並んだ。ロズヴェータとヴィタス、ユーグは、少し下がった場所から深みを見下ろしている。ナヴィータは離れた土手の上で弓を構えていた。
囮の山羊が、真ん中の深みの縁に繋がれる。
その時、背後で蹄の音がした。
振り返ると、朝靄の中から一騎が駆けてくる。白磁の肌に、陽を受けて光る金の髪。借り物らしい古い胸当てを着け、手には騎兵の長槍を握っていた。
ナスリーンだった。
ユーグが剣の柄に手をかけ、ヴィタスが一歩前に出る。だが、帝国の女騎士は馬を止めると、まっすぐロズヴェータを見下ろした。
「館の窓から、ひと月見ていたわ」
声に、少しの迷いもない。
「沼が干上がっていくのも、骨が出てくるのも。私の仲間が沈んだ泥よ。そこに巣くった獣を討つのに、私が館で茶を飲んでいられると思う」
「賓客が剣を取れば、条文の上で何が起きるか、分かっているのか」
「分かっているから、来たのよ」
ナスリーンは、長槍の穂先を真ん中の深みへ向けた。
「帰せと言うなら、帰るわ。でも、ロズヴェータ卿が帰せと言うより、あれが顔を出す方が早いでしょうね」
ヴィタスが、何か言いかけて口をつぐんだ。
深みの水面が、ゆっくりと揺れはじめている。山羊の匂いを嗅ぎつけたのだ。
「……俺の隣にいろ。勝手に前へ出るな」
「七番の騎士は、命令には従うわ」
ナスリーンは馬を降り、手綱を握ったままロズヴェータの隣に並んだ。
◇◆◇
水面が割れた。
泥鰐が一頭、山羊めがけて縁を這い上がってくる。乾いた泥に前脚がかかった瞬間、その動きがわずかに鈍った。ひび割れた地面に、腹の鱗が擦れる。
真っ先に飛び出したのは、エリシュだった。
「あたしが行く」
止める間もない。赤い髪が白い平原を駆け、獣の鼻先で身を翻す。泥鰐が顎を向けると、紅剣の隊長はもう横へ跳んでいた。獣の背に手をつき、そのまま背の上へ躍り上がる。
一太刀目は、弾かれた。
背の鱗に当たった紅い剣が、甲高い音を立てて滑る。エリシュは舌打ちし、暴れる背にしがみついたまま鱗を見下ろした。
「……乾いてる」
陽に灼かれた鱗が、白く粉を吹いていた。一枚一枚の継ぎ目に、細いひびが走っている。泥の中にいた時の、濡れて粘る鱗ではない。
「ロズ、継ぎ目よ。乾いた鱗は継ぎ目から割れる」
叫ぶと同時に、エリシュは剣を逆手に持ち替え、ひびの走った継ぎ目へ切っ先を突き立てた。今度は、弾かれない。鱗が割れる乾いた音がして、刃が根元まで沈んだ。
獣が咆え、身をよじる。エリシュは振り落とされずに剣を押し込み続けた。やがて、泥鰐の脚から力が抜ける。
背から飛び降りた赤髪の隊長は、剣についた泥を振り払った。
「一つ」
血の匂いが、乾いた平原に広がった。
左右の深みが、ほとんど同時にうねる。匂いに誘われて、二頭が縁へ這い上がってきた。
「継ぎ目だ。穂先を継ぎ目に向けろ」
ヴィヴィの声が飛んだ。
志願の民が、縁から十歩の線に槍を揃える。ひと月前、泥の縁で仲間を喰われた者たちだ。誰も前へ出ない。獣が線を越えるまで、じっと待つ。
「まだだ。引きつけろ」
獣が十歩の線を越えた瞬間、槍が一斉に突き出された。穂先が鱗の継ぎ目に食い込み、二本、三本と割って入る。獣がもがくところへ、左から紅剣の隊員たちが駆け込んで脚を斬った。
最後に、志願の民の頭に立つ男が、開いた顎の奥へ槍を突き込んだ。
獣が倒れると、男は槍から手を放し、その場に膝をついた。肩が震えている。誰も声をかけなかった。
もう一頭は、紅剣が受け持った。三人が囮になって獣の向きを散らし、残る者たちが背の継ぎ目に剣を揃えて叩き込む。エリシュの見つけた弱みを、隊員たちは一度で覚えていた。
◇◆◇
真ん中の深みが、再びうねった。
今度は二頭だった。縁を這い上がり、乾いた平原を左右に分かれて進んでくる。
ナスリーンが、馬に飛び乗った。
「前へ出るな、と言ったはずだ」
「命令に従うと言ったわ。前へ出るとは言っていない。横へ出るのよ」
女騎士は長槍を脇に抱え、平原を斜めに駆けた。ひび割れた泥は、もう馬の蹄を呑まない。
駆けながら、ナスリーンは帝国の言葉で唱える。
「美しき薔薇の茨よ! 突き穿て! 変異術」
遠目にも、長槍を握る腕にふっと力が満ちるのが分かった。袖口から覗く手首から甲へ、茨の蔓のような青い筋が這い上がっていく。
泥鰐が顎を向けるより早く、重騎兵の突撃が横腹を捉えた。
穂先が鱗の継ぎ目に触れた瞬間、槍が重さを変える。馬と騎手の重みのすべてが、一点に絞られて押し込まれるように。継ぎ目どころか、その両脇の鱗までが砕け散った。長槍は獣の胴を貫き、そのまま体ごと乾いた地面に縫い留める。
「ひとつ」
馬上で、ナスリーンは短く言った。
残る一頭は、ロズヴェータに向かってきた。
左の肩が疼く。ロズヴェータは後ろへは退かず、横へ回った。獣は乾いた泥の上で向きを変えようとして腹を擦り、もがく。その背に、白いひびが幾筋も走っているのが見えた。
ユーグが反対側へ回り込み、剣で鼻先を払う。獣の首が、副官の方へ振れた。
その一瞬、ロズヴェータは背の継ぎ目へ剣を叩き込んだ。
鱗が割れる手応えがあり、獣が咆える。もう一太刀、同じひびへ。泥鰐は崩れるように伏せ、それきり動かなくなった。
「ロズヴェータ様の獲物です」
ユーグが、剣の血を払いながら言った。
「お前が首を振らせたからだ」
「ひびを見たのは、ロズヴェータ様です」
ロズヴェータは息を吐き、剣を下ろした。
五つ。
真ん中の深みの水面は、静まり返っている。群れの頭は、まだ底にいるはずだった。
だが、ヴィタスは深みを見ていなかった。
元の名を捨てた男の目は、平原の端、皆の背後へ向いている。ガッチェの分隊が巡礼たちと掘った、排水の溝だった。深みから水を逃がすために掘った、細く長い溝。その底にはまだ、泥水が筋になって流れている。
その泥水が、逆さに波立っていた。
「ロズヴェータ様。後ろでございます」
溝の泥が弾けた。
這い出してきたのは、他の五頭の倍はある巨体だった。苔むした岩のような背から泥を滴らせ、溝の縁を乗り越えてくる。深みの底から、水の筋をたどって背後へ回り込んでいたのだ。
その先に、馬を降りて槍を拭っていたナスリーンがいた。
女騎士が振り向くより早く、ヴィタスが走った。
剣を低く構えたまま、獣の正面へ歩み出る。群れの頭が顎を開いて跳ぶ。その一瞬、ヴィタスの体が半歩だけ横へ流れた。顎が空を噛み、喉が晒される。そこへ、下から剣を突き上げた。鱗の薄い喉の継ぎ目を、正確に。
獣は二度、三度と身をよじり、乾いた泥の上で動かなくなった。
ロズヴェータは、ナスリーンの方を見た。
女騎士は、長槍を握ったまま立ち尽くしている。穂先は下がり、乾いた地面に触れそうになっていた。その目が追っているのは、倒れた獣ではない。剣を引き抜き、静かに血を払うヴィタスの背中だ。
青い炎のような瞳が、大きく見開かれている。槍を構えていた時の、自信に満ちた光とは違う。祭りの行列を初めて見る子供のような、ひどく幼い目だった。唇が、声にならない何かの形に動く。
何を言おうとしたのか、ロズヴェータには分からない。ただ、長槍を握る白い指が、かすかに震えているのが見えた。
陽が、すっかり昇りきっていた。
◇◆◇
六つの骸が、白い平原の上に横たわっている。
干上がった深みの底には、泥鰐の巣があった。骨と、錆びた鎧の欠片と、引きずり込まれた家畜の残骸。その奥から、志願の民の男の靴が片方だけ見つかった。巡礼の男の桶の取っ手も。
志願の民の頭に立つ男が、靴を拾い上げて胸に抱いた。
ナスリーンは、少し離れたところで馬を降りていた。長槍を地面に突き立て、借り物の胸当ての留め金を外している。ヴィタスがそばに寄ると、女騎士は顔を上げずに言った。
「あの時も、そうやって討ったのね」
「……あの時は、一頭でございました」
「知っているわ。遠くから、ずっと見ていたもの」
それきり、二人は何も言わなかった。
ロズヴェータは、平原の縁の方を見やった。枯れた麦の畑が、白い平原と緑の開墾地の境に、茶色い帯になって続いている。あの老人の姿は見えない。
その時、都の方角から、馬が一騎、土埃を上げて駆けてきた。
東壁の門から飛び出して、まっすぐこちらへ。乗っているのはルルの分隊の若い兵だった。鞍の上で身を乗り出し、声を張り上げる。
「隊長。館が。賓客の館が」
ロズヴェータは振り返り、都の方を見た。
千年の石壁の向こうに、一筋の黒い煙が立ち昇っていた。




