泥の下で蠢く
聖都の東壁が見えてきたのは、王都を発って十日目の夕刻だった。
千年の石壁が、西日を受けて蜂蜜色に染まっている。その手前の荒地は、もう荒地ではなかった。鍬で起こされた畝が幾筋も伸び、背の低い麦の緑が風に波打っている。畝の間に、腰を屈めた巡礼たちの姿が点々と見えた。
ロズヴェータは馬の歩みを緩め、しばらくその緑を眺める。
王都での後始末は、三日で済ませていた。
焼け跡で降った雇われ者たちは、王都の衛士に引き渡した。罪状は街道での待ち伏せ。王都の男に銭をもらった、それ以上は何も知らない者たちだ。
老いた旧臣は、渡さなかった。後ろの荷車に、今も黙って揺られている。王都を出てから一言も口を利かない。ただ、聖都の壁が見えた時だけ、わずかに顔を上げた。
頭の懐から出た書き付けは、ロズヴェータの手元にある。コンラートに渡したのは、写しだけだ。
「本物は、私が持たない方がよろしいでしょう」
王都の西門で、目付は細い目を笑わせて言った。
「本物を持てば、本物の使い道を考えなければならなくなりますので。写しなら、写しの使い道で済みます」
若い供は、コンラートが連れて帰った。私の供ですので、とだけ言って。その後のことは、知らない。
東壁の門が近づいてくる。
風向きが変わり、北から湿った匂いが流れてきた。水と、泥と、何かが腐ったような甘い匂い。夏の夕暮れには不似合いな、重たい匂いだった。
◇◆◇
宿営に戻ると、ヴィタスが待っていた。
留守の差配を預けた男は、帳面を三冊抱えて天幕の入口に立っている。日に焼けた顔に疲れの色はあるが、背筋は少しも崩れていなかった。
「お帰りなさいませ、ロズヴェータ様」
「留守を、よく持たせてくれた」
「持たせたのは、殿下と、紅剣と、皆でございます」
ヴィタスは帳面を卓に置き、一冊目を開いた。蔵の出入り、開墾の巡礼の糧、賓客の館の費え。数字は几帳面に並び、乱れがない。
「お手紙にあった刃の件は、後ほど伺います。先に、一つだけお耳に入れておきたいことがございます」
「聞こう」
「北の低地で、家畜が消えております」
ヴィタスは地図を広げ、東壁の北、泥海の跡を指で囲む。
「最初は半月ほど前でございました。開墾の巡礼が飼っている山羊が一頭、夜のうちにいなくなったのでございます。狼の仕業だと、誰もが思いました。ですが、その後も続きます。山羊が四頭、羊が七頭。繋いだ縄ごと、低地の方へ引きずられた跡がございました」
「狼ではない、と」
「狼は、獲物を泥の中へ引き込みません」
ヴィタスの声が、わずかに低くなった。
「跡は、低地の泥の縁で消えております。泥の中へ、まっすぐに」
ロズヴェータは地図に目を落とす。
泥海の跡。三日堰いた雪解けの水を一度に流し、首狩りの重騎兵を沈めた低地だ。和議の天幕も、乾きかけたあの泥の上に張られた。
「あれから三月以上経つ。夏だ。まだ乾いていないのか」
「乾きませぬ」
ヴィタスは、地図の上の北の谷を指でなぞった。
「堰を切った時、水は谷の底を削って流れました。その時に、谷の流れそのものが変わったのでございます。以前は東へ抜けていた沢の水が、今は低地へ向かって染み出している。夏になっても、低地は乾かない。沼のまま残っております」
「水を引き込んだのは、俺だな」
「水を引き込んだのは、あの日の都でございます」
ヴィタスはそう言って、静かに地図を畳んだ。
ロズヴェータは、王都からの道中で嗅いだ北風の匂いを思い出していた。水と、泥と、甘く腐った何か。
泥の下に沈んだまま、まだ誰も引き揚げていないものがある。
◇◆◇
翌日の夕暮れ、叫び声が上がった。
ロズヴェータは東壁の上で、エリシュと並んで北の低地を見ている。紅剣の隊長は、留守の間に東壁で起きたことを、あらかた話し終えたところだった。
「あたしの見張りでも、夜に何かが泥の上を動いてるのは見えた。でも、近寄ると消えるのよ。弓を射かけても、泥が跳ねるだけ」
その時、北の畑の端から、男の悲鳴が聞こえた。
一度だけだ。長く引きずるような、喉の潰れた声。それきり、何も聞こえなくなる。
エリシュが壁の上を走り出す。ロズヴェータも後を追った。
畑の端に着いた時には、もう遅かった。
低地の縁の、葦の茂みが倒れている。泥の上に、桶が一つ転がっていた。水を汲みに来た巡礼のものだろう。その先の泥の表面に、何かが引きずられた跡が一筋、黒く光って沼の奥へ続いている。
跡は、途中で消えていた。
泥の面が、ゆっくりと揺れている。風はない。それなのに、泥がうねるように盛り上がり、また沈んでいく。一か所ではない。右にも、左にも、もっと奥にも。
「……一つじゃないわね」
エリシュが、紅い剣の柄を握りしめた。
ロズヴェータは、泥のうねりを目で追った。
四つ。いや、五つ。牛ほどの大きさのものが、泥の下で身を返している。夕陽が沼の面を赤く染め、その赤の下で、硬い背の鱗が一瞬だけ鈍く光った。
泥鰐、と誰かが後ろで呟く。
駆けつけた開墾の巡礼たちだった。誰が最初に言い出したのかは分からない。だが、その呼び名は、恐怖と一緒にたちまち畑から畑へ広がっていった。
◇◆◇
その夜、志願の民の中から、討伐に出たいと言う者たちが現れた。
殺されたのは、彼らと同じ村から来た男だった。同じ道を歩いて聖地へ来て、同じ畑を耕している。東壁の守りに名乗り出た者たちの何人かは、その男と同じ鍋の飯を食っていた。
「槍なら、毎日振っています」
志願の民の頭に立つ男が、宿営の天幕の前で言った。日に焼けた腕に、まだ新しい鍬の豆が残っている。
「隊長たちが西に行ってる間も、壁の上で毎日。獣一匹くらい」
「一匹ではない」
「それでも」
男の目は、真っ赤だった。泣いた後の目ではない。眠れなかった目だ。
ロズヴェータは、すぐには答えなかった。
止めれば、止まる。だが、止まった後に残るのは、何もさせてもらえなかった百人だ。評定がまとまらずにいた頃、ガッチェが言っていた。決まらないなら決まらないで、はっきり言ってくれた方が楽だと。
「明日の朝、俺も出る。泥の縁から先には、一歩も入るな。それが守れるなら、来い」
男は、深く頭を下げた。
◇◆◇
夜明けの低地には、白い靄が這っていた。
志願の民の三十人が、槍を揃えて泥の縁に並ぶ。穂先は朝日を受けて光り、構えは悪くない。バリュードが毎日、壁の上で仕込んできた構えだ。その後ろに、ロズヴェータとユーグ、それにバリュードの分隊が控えた。
泥の面は静かだった。
葦の葉から露が落ちる音さえ聞こえる。腐った甘い匂いが、朝の冷えた空気の中で、いっそう濃く鼻を突いた。
「来ない、ですね」
志願の民の誰かが、小さく言った。
ロズヴェータは答えず、泥の面を見ている。
静かすぎる。昨日の夕暮れには、あれほどうねっていた泥だ。
「下がれ」
声を張ったのと、泥が弾けたのは、ほとんど同時だった。
縁の真正面ではない。右と左、志願の民の列の両端だった。泥の中から、平たい頭が二つ、跳ね上がるように飛び出してくる。牛ほどの胴に、短く太い四本の脚。泥に塗れた背の鱗が、一斉に逆立った。
列の端の男が、槍を突き出す。穂先は鱗に弾かれ、甲高い音を立てた。
次の瞬間、顎が開く。
男の脚に食らいつき、泥の方へ引く。悲鳴。隣の男が槍の柄で頭を叩くが、獣は離さない。そのまま後ずさりして、泥の縁を越えようとする。
「脚を叩け、縁から先へ行かせるな」
バリュードが怒鳴り、分隊が飛び込んだ。数人がかりで獣の脚と尾を押さえ、槍の柄を顎に噛ませてこじ開ける。男の体が、泥の縁の手前で止まった。
だが、左の端では間に合わなかった。
もう一頭が、志願の民の一人を咥えたまま泥へ戻っていく。追おうとした者たちを、ユーグが腕を広げて止めた。
「入るな」
泥の面が大きくうねり、それきり静かになった。
残る二つ、三つのうねりが、遠巻きに泥の奥を巡っている。こちらの列が崩れるのを、待っているかのように。
「退け。縁から離れろ。走らずに、槍を前に向けたまま」
ロズヴェータの声に、志願の民はようやく我に返った。槍の穂先を泥に向けたまま、一歩ずつ後ずさる。誰も走らない。走れば、背を向けることになる。
泥の縁から十歩離れたところで、うねりは止まった。
追ってこない。
ロズヴェータは、その一点を見逃さなかった。
◇◆◇
その夜、東壁の上に、ヴィタスと二人で立った。
北の低地は闇に沈み、時おり泥の跳ねる音だけが届く。昼の惨事の後、畑の端には篝火が並べられていた。開墾の巡礼たちが交代で火の番をしている。
「脚を噛まれた者は、命は助かります。アウローラ殿が診ております」
「もう一人は」
「見つかっておりませぬ」
ヴィタスは短く答え、闇の中の沼を見下ろした。
「泥の縁から、あれは出てこなかった」
ロズヴェータが言う。
「十歩離れたら、追ってこない。獲物がまだ目の前にいたのにだ」
「泥から離れられぬのでございます」
ヴィタスの声は、確信を帯びていた。
「あの獣は、乾いた土の上では長く生きられませぬ。体が乾けば、鱗が割れる。だから昼は泥の底に沈み、獲物が水を求めて縁へ来るのを待つ。泥の縁が、あれの城壁なのでございます」
「詳しいな」
ヴィタスは、しばらく黙っていた。
篝火の明かりが、遠く畑の端で揺れている。その火を見つめたまま、元の名を捨てた男は静かに口を開いた。
「山あいの村々を喰らっていた獣が、あれと同じでございました」
ロズヴェータは、隣の横顔を見た。
聡明なるアブドゥル。単身で魔獣を討ち、帝都の神殿で祝福を受けた男。その話は、聖都の誰もが一度は耳にしている。
「なら、討ち方も知っているな」
「知っております」
ヴィタスは、わずかに目を伏せた。
「ただし、あの時は一頭でございました」
夜風が、北から湿った匂いを運んでくる。泥と、水と、腐った甘い何か。
ロズヴェータは、北の谷の方角へ目をやった。闇の中に、谷の稜線がかすかに浮かんでいる。あの谷の上流で、三月前、自分は雪解けの水を堰き止めた。
「泥の縁が城壁なら、城壁を崩せばいい」
「堰、でございますか」
「水を止める。今度は、溜めるためじゃない。干すためにだ」
ヴィタスは、ゆっくりと頷いた。
東の空に、半分を少し過ぎた月が昇っている。王都で細っていた月は、新月を越えて、また満ちはじめていた。
東の空で、月がまた一日分、肥えている。




