焼け跡の刃
夜明けの一刻前、焼け跡を囲む丘はまだ闇の中にあった。
ロズヴェータは谷の街道から少し登った窪みに伏せ、丘の上の黒い影を見上げている。石の塀が、ところどころ歯の抜けたように崩れていた。その内側に、屋根を失った館の骨組みが空へ突き出している。
草を踏む音もなく、グレイスが戻ってきた。
「若様。門に縄が三本」
「高さは」
「馬の脚、胸、それに首の高さです。結び目も窪地と同じでした。杭に二度巻いて、端を内へ折り込む結び方です」
同じ手だ。霧の窪地で縄を張った者と、同じ指が結んでいる。
「切ったか」
「触っていません。切れば気づかれます」
「それでいい」
グレイスは丘の裏手を指さした。
「馬は、館の裏の林に繋いであります。二十頭ほど。見張りは二人で、どちらも林の外ばかり見ています」
「中には」
「崩れた二階に弩が四、五挺。丘の縁の茂みにも同じほど。それと、地下から人の息がします。酒蔵の跡だと思います。数は分かりません」
ロズヴェータは頷いた。
「繋ぎ場の近くで待て。合図があるまで、手を出すな」
斥候頭の姿が、再び闇に溶ける。
ガッチェの槍列は、すでに谷の街道側に伏せていた。ヴィヴィの分隊は北の丘へ回り、トラッドの西方分隊は西の塀の外にいる。あの日、クリウベルの隊が越えたのと同じ塀だった。
丘の上の岩陰では、ガーデルが帳面を抱えて座り込んでいる。その隣に、コンラートの細い影があった。村に残るか、ついてくるか。選ばせたら、目付は迷わずこちらを選んだ。
「見たとおりを書くには、見なければなりませんので」
それが、昨夜の答えだった。
◇◆◇
東の空が白みはじめる。
ロズヴェータは馬に乗り、ユーグとナヴィータを左右に従えて丘を登った。三騎だけ。蹄の音が、湿った土に吸われていく。
壊れかけた城門の前で、馬を止めた。
あの夜と同じ門だ。片側の扉は焼け落ち、残った方は蝶番が外れて斜めに傾いでいる。門の内側の暗がりに、細い縄が三本、目を凝らさなければ見えない高さで張られていた。
ロズヴェータは馬を降りる。
ユーグとナヴィータも続いた。手綱を門柱に掛け、縄の下をくぐって中へ入る。馬の脚を払うための縄は、歩く者には膝の高さにすぎない。
中庭には、湿った炭の匂いがこもっていた。雨に打たれ続けた灰が泥になり、靴の裏に重く貼りつく。焼けた梁の陰に、土を掻き出した穴が口を開けている。その縁から、鼻を刺す獣の匂いが立っていた。村長の言っていた狐だろう。狐は巣の近くの目立つ場所に、縄張りの印として何度でも糞を残す。雨上がりの湿った朝気が、その匂いを地面の近くに重く留めている。
「……行くか」
口に出してから、ロズヴェータは気づいた。あの夜も、同じことを言ってこの門をくぐったのだ。
ユーグは答えない。ただ、剣の柄に手をかけたまま半歩前に出た。
「止まって」
ナヴィータの声が、低く鋭く響く。
「上。四つ。弦を引いた」
次の瞬間、崩れた二階の梁の上から、弩の矢が降ってきた。
ユーグがロズヴェータの肩を掴んで柱の陰に引き込む。矢が灰の泥に突き立ち、黒い飛沫が跳ねた。ナヴィータはもう弓を引いている。一矢。梁の上で、短い悲鳴が上がった。
丘の縁の茂みからも、矢が来る。
そして、館の奥から、足音が湧き出してきた。
焼け残った部屋の戸口から、地下へ降りる石段の口から。古びた鎧の男たちが、灰を蹴立てて走り出てくる。胸当ての形が古い。西方の従士が、ひと昔前に好んだ型だ。
先頭の男が、まっすぐロズヴェータを見据えて叫んだ。
「獅子の騎士。わしらが守りきれなんだこの館で、終わってもらう」
語尾が柔らかい。トラッドの分隊が麦刈りの唄を歌う時と、同じ響きだった。
◇◆◇
柱の陰で、ロズヴェータは息を整えながら敵の動きを見ていた。
鎧の男たちは、迷わない。崩れた壁のどこに足場があり、どの戸口が奥へ抜けるのかを知っている。焼けた梁をくぐり、炭の山を回り込み、灰の中を最短の道で迫ってくる。かつてこの館の門と廊下を、夜ごと見回っていた者の歩き方だ。
主に従ってこの館に詰め、この館を守る役目を負っていた者たち。守りきれなかった場所へ、守れなかった者が戻ってきている。
だが、弩を構える者たちは違う。
二階の梁の上で、茂みの縁で、一矢放つたびに首を巡らせる。見ているのは、こちらではない。館の裏、林の方角だ。
銭で来た者は、帰り道を見る。
恨みで来た者は、前しか見ない。
「ナヴィータ。笛だ」
エルフの斥候が、指を唇に当てた。
鋭い指笛が、焼け跡の空を裂く。
一呼吸の間を置いて、館の裏手で馬がいななく。一頭ではない。何頭もが同時に、怯えた声を上げて駆け出していく。繋ぎ場の綱を、グレイスたちが断ち切ったのだ。蹄の音が林を抜け、谷の方へ遠ざかっていった。
梁の上の弩が、止まる。
「馬が」
誰かの声が上ずった。
「馬が逃げたぞ。おい、帰りの足が」
茂みの縁の男たちが、次々に立ち上がる。弩を抱えたまま、林の方へ走り出す者がいる。それを見て、梁の上の者も慌てて飛び降りる。
北の丘から、ヴィヴィの分隊が斜面を駆け下りてきた。
「はいはい、そこまで。走っても馬はもういないよ」
赤髪の分隊長が、槍の石突きで一人の膝を払う。
「銭はもう出ないんだから、命まで売ることないでしょ。武器を捨てな」
雇われ者たちは顔を見合わせ、一人、また一人と弩を地面に投げ出した。
◇◆◇
中庭に残ったのは、古い鎧の男たちだけになった。
十に満たない。だが、退く気配はなかった。仲間が消えたことにも気づかぬように、ロズヴェータとの間合いを詰めてくる。
その背後で、西の塀が崩れた。
崩したのではない。もともと崩れていた箇所から、トラッドの分隊がなだれ込んできたのだ。あの夜、クリウベルの隊が入ったのと同じ場所だった。
鎧の男の一人が振り返り、目を見開く。
「その訛り……西の者か」
トラッドの分隊の誰かが、何か言い返そうとして言葉に詰まった。
「西の者が、西の館を、また焼きに来たか」
「焼きに来たんじゃない」
トラッドの声だった。
低く、揺れのない声だ。西方分隊の長は剣を抜いたまま、相手と同じ柔らかい語尾で言った。
「火を点けに来る者を、待ちに来た。あんたたちが、そうでないなら、剣を下ろしてくれ」
鎧の男たちが、わずかにたじろいだ。
門の方からは、ガッチェの槍列が上がってくる。穂先を揃えた槍が、崩れた城門をふさいだ。前に獅子の騎士、後ろに西の者、門には槍。逃げ道は、どこにもない。
先頭の男が、歯を食いしばった。白髪交じりの髭に、灰がこびりついている。
「どのみち、生きて帰る道など勘定に入れておらん」
男は剣を振りかぶり、灰を蹴ってロズヴェータへ走った。
その剣が届くより先に、銀の髪が横から割り込む。
ユーグの剣が、一度だけ閃いた。鎧の継ぎ目を正確に抜き、男の体が前のめりに崩れる。灰の泥が、鈍い音を立てて跳ねた。
副官は剣を引き、血を払ってから振り返る。
「先に斬りました」
「ああ」
ロズヴェータは、それしか言えなかった。窪地の後、副官が言った言葉を覚えている。二度目はない、と。
「残りは生かせ」
声を張る。
「一人も殺すな。縛るだけでいい」
頭を失った男たちは、もう剣を構えていなかった。トラッドの分隊が近づくと、一人が膝をつき、続いて皆が灰の上に座り込む。誰も抗わない。抗う理由を、目の前で斬られたのだ。
◇◆◇
日が昇りきる頃、丘の上からガーデルとコンラートが降りてきた。
ユーグが、斬った男の懐から油紙の包みを取り出す。中には、折り畳んだ紙が一枚。夜明け、三騎、門より入る、と短く記されていた。
ガーデルが、懐から霧の窪地の地図を出して並べた。
帳面係は二枚の紙を交互に見比べ、やがて指で一つの字をなぞる。地図の余白の東門の門と、書き付けの門より入るの門。
「縦の線の終わりを撥ねずに、筆を浮かせて細く抜いています。どちらも同じです」
「同じ者の字か」
「帳簿をつける者の字ではありません。帳簿の字は、読み違えられないように止めます。これは、見て美しいように抜く字です」
ガーデルは少しためらってから、続けた。
「写本の手だと思います。聖典や詩の写しで、こういう抜き方を見たことがあります」
ロズヴェータは、コンラートの方を見た。
目付は二枚の紙を覗き込んでいる。細い目は、笑った形をしていなかった。窪地で見せた一瞬の空白とは違う。目の奥で、何かを確かめ、確かめ終えた顔だった。
「……見覚えのある抜き方です」
それだけ言うと、コンラートは口を閉ざした。どこで見たのかは、言わない。ロズヴェータも、訊かなかった。
縛られた男たちの中から、かすれた声がする。
「騎士」
一番年かさの男だった。頬がこけ、髪は灰と区別がつかないほど白い。
「一つだけ、訊かせてくれ」
ロズヴェータは男の前に膝をついた。
「あの夜、この館に、幼い小姓が一人いた。わしらの主家の末の子で、ミディ様のもとへ小姓に上がっておった」
老いた男の目は、恨みよりも、すがるような色をしていた。
「見なかったか」
ロズヴェータは答えようとした。
だが、言葉が出てこない。煙の充満した廊下と、抱き合って震えていた二人の使用人と、燃え落ちる梁の音。あの夜に見たものは、どれも顔の形をしていなかった。
「……分からない」
老いた男は、しばらくロズヴェータの顔を見ていた。それから、ゆっくりと目を伏せる。
「そうか」
それきり、口を開かない。
◇◆◇
捕らえた者たちを荷車へ引き立てていくあいだ、ロズヴェータは一人で館の奥へ入った。
屋根も天井も、もうない。見上げれば、灰色の朝の空がそのまま覗いている。壁の跡をたどって、一つの部屋の前で足を止めた。
ここだった、と思う。
床はとうに抜け落ち、灰と瓦礫が膝の高さまで積もっていた。隅に、焼けた寝台の脚が一本だけ突き出している。あの夜、この部屋の隅で二人の使用人が抱き合っていた。若い兵が、殺すのかと訊く。年かさの兵が、聞いてやるなと叱った。
自分は、頷いたのだ。
足元の灰の中に、何かが光っている。拾い上げると、小さな真鍮の釦だった。煤で黒ずみ、縁が溶けて歪んでいる。誰の服についていたのかは、分からない。
分からないことばかりだった。
背後で、灰を踏む足音がした。振り返らなくても分かる。
「村に寄ります」
ユーグの声だった。
「ああ。村長に、話すと約束した」
「何を話すのですか」
ロズヴェータは、釦を掌の上で転がした。
「見たとおりを、だ」
釦を懐にしまい、焼け跡の部屋に背を向ける。
丘の上を、朝の風が渡っていった。湿った炭の匂いが、少しだけ薄れていく。




