二枚目の地図
夜明け前の宿場では、馬の吐く息だけが白い。
ロズヴェータは厩の柱にもたれ、出立の支度をする兵たちを眺めていた。荷車に縄をかける音がする。腕を折った若い兵が、吊った腕をかばいながら片手で鞍を運ぼうとして、ガッチェに黙って取り上げられていた。
ユーグが、湯気の立つ椀を二つ持ってくる。
「麦粥です。塩が利きすぎていますが」
「宿場の粥は、どこもそうだ」
椀を受け取り、厩の反対側へ目をやる。
コンラートの供が二人、主の馬に鞍を置いていた。一人は四十近い寡黙な男。もう一人は若く、腹帯を締める手つきがやけに慣れている。霧の窪地の後、いつの間にか列に戻っていた方だ。
「昨夜も、出ませんでした」
ユーグが声を落とした。
「宿の裏の井戸まで一度。それだけです。ナヴィータが屋根の上で朝まで聞いていました」
「ナヴィータは寝たのか」
「今、荷車の上で寝ています」
見れば、樽の消えた荷台で、エルフの斥候が外套にくるまって丸くなっている。長い耳の先だけが、外套の端から覗いていた。
粥をすする。塩辛さが、喉の奥に沁みた。
「出ないなら、出る用が無いということだ」
「次の指図を待っている、と」
「あるいは、指図をもう持っている」
ユーグの赤い瞳が、若い供の背中に据えられる。
「斬りますか」
「斬れば、糸が切れる」
ロズヴェータは空の椀を副官に返した。
「糸の先に誰がいるのか、まだ見ていない。あの男は、途中の結び目にすぎない」
「では、泳がせると」
「餌をやる」
ユーグは、それ以上訊かなかった。ただ、椀を持つ指に、わずかに力がこもるのが見えた。
◇◆◇
昼過ぎ、街道脇の木立で馬を休ませる。
ガーデルが帳面を開き、ロズヴェータの隣に腰を下ろした。王都までの路程が、日ごとに区切って書き込まれている。
「このまま行けば、八日目の昼に王都の西門です」
「途中で、一日余計に使えるか」
「糧は足ります。ただ、使う理由がいります。目付の目がありますので」
「理由なら、ある」
ロズヴェータは、表の上を指でなぞった。灰石の修道院。徴税の村。その先で、街道は浅い谷に沿って北へ曲がる。曲がり角から少し外れた丘の上に、印も名もない空白があった。
ガーデルの指が止まる。
「……ミディ家の館ですか」
「焼け跡だ」
帳面の上で、ペン先が迷うように揺れた。
「寄る、と書けばよろしいのですね」
「書くのは二枚だ」
ロズヴェータは、紙をもう一枚抜き取って帳面の上に重ねた。
「一枚目は本物の路程。俺とユーグとお前だけが見る。二枚目には、こう書け。本隊は谷沿いに先へ進む。隊長は供を三騎だけ連れて、夜明けに焼け跡へ寄る。弔いのために」
「二枚目を、誰に見せるのです」
「見せはしない。見られるところに置くだけだ」
ガーデルは、しばらく黙っていた。やがて、二枚目の紙の端を指でそろえる。
「嘘は、どこにも書かないのですね」
「俺は本当に寄る。三騎で寄るのも本当だ。書かないのは、その周りに誰が伏せているか、だけだ」
帳面係は小さく息を吐き、ペンを走らせはじめた。書き損じのない、いつもの細い字だった。
ロズヴェータは立ち上がり、木立の外れで馬に水をやっているトラッドを呼んだ。
西方分隊の長は、焼け跡という言葉を聞いただけで顔を強張らせる。
「あの日、あの人の隊は、側から入りました」
トラッドの声は低い。
「この分隊の中にも、あの塀を越えた者がおります。私も、その一人です」
「道を覚えているか」
「忘れられる者は、おりません」
トラッドは、自分の両手を見下ろしている。手綱を握り慣れた、節の太い指だ。
「なら、もう一度その側から入ってもらう」
顔が上がった。
「今度は、火を点けに行くんじゃない。火を点けに来る者を、待ちに行く」
トラッドは長いあいだ黙っていた。風が木立を揺らし、馬が水を飲む音だけが続く。
「……分隊の者に、話してもよろしいですか」
「お前が話せ。俺が話すより、いい」
「はい、隊長」
◇◆◇
二日後の夕刻、灰石の修道院の鐘楼が見えてきた。
往きには、この塀の内側で夜を明かしている。院長と公爵家とは昔からの付き合いだと、コンラートが手配した宿だった。
グレイスが先に駆け、門の前で馬を回して戻ってくる。
「若様。厩に、あの栗毛がおりません」
焼き印を削られた、王都の蹄鉄の馬だ。
「いつ出た」
「三日ほど前だと、厩番が。それと」
斥候頭は、門前の土を指さした。乾いた轍のあいだに、蹄の跡が一列、東へ続いている。
「蹄鉄の釘の並びが、あの馬と同じです。王都の鍛冶の打ち方で、前の左だけ釘が一本多い。こちらの先を、行っております」
ロズヴェータは蹄の跡をしばらく見ていた。
霧の窪地の前、自分たちが西へ向かっていた頃、あの馬は修道院の厩にいた。自分たちが東へ戻りはじめると、あの馬もまた東へ出ていく。
まるで、同じ地図を見ているかのように。
「今夜は、塀の外で野営する」
後ろで、コンラートが馬を止めた。
「院長は、部屋を空けてお待ちのはずですが」
「兵が多い。塀の内を汚したくない」
「お気遣いですね、ロズヴェータ卿」
細い目が笑った。笑ったまま、目付の視線は門前の蹄の跡をなぞっている。
◇◆◇
夜、焚き火の前にコンラートを呼んだ。
ユーグは少し離れた暗がりに立っている。目付の供たちは、天幕の脇で馬の世話をしていた。火の届かない距離だ。
ロズヴェータは懐から一枚の紙を取り出し、膝の上に広げた。
霧の窪地で拾った地図である。等高の線、縄を張った場所の印、斜面の伏せ穴。余白に、夜明けの一刻前、東門、と細い字があった。
「コンラート殿。これを、どう見る」
「見事な線ですね」
「あんたの網より、細かい」
コンラートの笑みは崩れない。
「北の街道に網を張ったのは、あんただ。あれは粗かった。わざと粗く張って、俺に見せたのだと思っている。見られて困る網なら、もっと上手に張れる人だからな」
「買いかぶりです」
「だが、これはあんたの絵じゃない」
ロズヴェータは、地図の余白を指で叩いた。
「窪地でこれを見た時、あんたは知らされていなかった顔をした」
焚き火の薪が爆ぜる。火の粉が一つ、二人のあいだを昇っていった。
「私の顔を、よくご覧になっている」
「あんたの供が一人、取り立ての夜に東門から出た。戻ったのは、襲撃の後だ」
沈黙が落ちた。
コンラートは、膝の上で手を組み直す。細い目は笑った形のままだが、その奥で何かが冷えていくのが分かった。
「……道に迷っていた、と申しておりました」
「あの男は、どこの家の飯を食っている」
「公爵家の、です」
目付は、少しだけ間を置いた。
「ただ、公爵家には、お屋敷がいくつもございますので」
それ以上は言わない。言わないことが、答えだった。
「一晩だけ、俺の側で口を利いてくれ」
「私は検めの者です。見たとおりを書きます」
「見たとおりでいい」
ロズヴェータは地図を畳み、懐に戻した。
「俺は焼け跡に寄る。三騎だけ連れて、夜明けに。それを、あんたの口から供に漏らしてくれればいい。嘘は一つも要らない」
「言わないことが、あるだけ」
「そうだ」
コンラートは、焚き火を見つめている。炎が細い目の縁を赤く照らしていた。
「公爵家の家人の名を借りて、知らぬところで勝手な絵を描かれる。それは、私も困ります」
ふっと、目付の口元がほどける。いつもの笑みとは、少しだけ形が違っていた。
「お引き受けしましょう。何をどう書くかは、私が決めますが」
「好きに書け」
◇◆◇
二日後、徴税の村に着いた。
獣除けの柵の向こうで、村長が手を振っている。往きに会った時よりも、腰が少し伸びて見えた。取り立ての帰りを、誰かが先に知らせていたらしい。
「無事に戻りなさったかね、騎士様」
「ああ。今夜だけ、世話になる」
村の広場で、兵たちが馬を下りる。女たちが黒パンの籠を抱えて出てきて、子供たちがヴィヴィの分隊にまとわりついた。赤髪の分隊長は一人を肩車にしながら、もう一人に兜をかぶせてやっている。
ロズヴェータは、井戸端で村長と並んだ。
「明日、ミディ家の館に寄るつもりだ」
村長の顔から、笑みが消える。
「……あそこへ行くのかね」
「通り道だ。夜明けに寄って、すぐに発つ」
皺だらけの手が、井戸の縁を握った。
「村の者は、誰も近寄らん。焼けた梁が崩れたまま、雨ざらしだ。去年の秋には、狐が棲みついたと聞いた」
「見てくる」
「見てきてくれ」
村長は、井戸の底を覗き込むようにうつむいた。
「あの三人が、どこで終わったのか。見てきて、わしに話してくれ」
「話す」
ロズヴェータは短く答える。
井戸の向こうで、コンラートの若い供が馬に水を汲んでいた。桶を持つ手が、一度だけ止まった。
◇◆◇
夜半を過ぎた頃、ナヴィータが天幕の垂れ布を指先で叩いた。
「出た」
それだけ言って、エルフの斥候は闇に溶ける。
ロズヴェータは寝床から身を起こした。眠ってはいない。隣で、ユーグもすでに剣帯を締めていた。
天幕の外は冷えていた。夜露に濡れた草の匂いと、消えかけた焚き火の煙の匂いが混じっている。村の犬は鳴かない。ヴィヴィの分隊が日暮れに干し肉を配って回ったので、どの犬も腹がくちて寝ている。
一刻ほどして、グレイスが戻ってきた。
「谷の曲がり角まで行きました。待っていたのは、一騎です」
「顔は」
「見えませんでした。ですが、馬の蹄の跡は見ました。前の左に、釘が一本多い」
修道院の門前から続いていた、あの跡だ。
「供は何か渡したか」
「何も。口で話しただけです。話はすぐに終わって、一騎は北へ、供は村へ戻りました」
ユーグが、闇の向こうの村を見やった。
「咥えましたね」
「ああ」
ロズヴェータは、天幕の脇に立てかけてあった剣を取った。左の肩が、夜気に冷えて鈍く疼く。
「ガッチェとヴィヴィを起こせ。トラッドもだ。夜明けまでに、焼け跡の周りの丘に散る。荷車と負傷者は、村に残す」
「目付殿は」
「荷車と一緒に残ってもらう。……いや」
少し考えて、首を振った。
「本人に選ばせろ。見たとおりを書く人だ。見たいものがあれば、ついてくる」
ユーグは一礼して、闇の中へ消えていった。
ロズヴェータは、東の空を見上げる。
夜半を過ぎてようやく昇ってきた月が、丘の端にかかっていた。満月から数えて八日。円の半分が、きれいに削り取られている。
東の空で、月がまた一日分、痩せていた。
この半月の下に、焼け跡がある。あの夜、自分が煙の中へ入っていった館。抱き合って震えていた二人の使用人。助けてやれと、言いかけてやめた声。
あの丘で、自分を待っている者がいる。
ロズヴェータは剣帯を締め、冷えた鞘を一度だけ握りしめた。




