残るもの
窪地を抜けると、道は緩やかな上りになった。
負傷した兵を荷車に移し、列を組み直す。腕を折った若い兵が、樽の間に寝かされて呻いていた。ヴィヴィがその額に濡らした布を当て、何か冗談を言って笑わせている。
ユーグが、ロズヴェータの横に馬を並べた。
「次は、私が先に斬ります」
前を向いたまま、副官は言った。
「霧の中で、あの男が隊長の馬の腹に届くまで、私は一歩遅れました。二度目はありません」
「あれは、遅れたとは言わない」
「私が遅れたと言えば、遅れたのです」
赤い瞳が、ほんの一瞬だけこちらを向いた。怒っているのは、襲ってきた者たちに対してではない。自分自身に対してだった。
ロズヴェータは、しばらく黙って馬を進めた。
「聖都で、俺は言ったな。勝つほど、首の値が上がると」
「覚えています」
「西でも、同じだった。取り立てを果たせば、果たしたことが次の口実になる。果たさなければ、果たさなかったことが口実になる。どっちに転んでも、誰かが俺の首に値札を書き足す」
「だから、私がいます」
ユーグの声は、揺れなかった。
「値札をいくら書き足されても、首が胴についている限り、売り買いはできません」
ロズヴェータは、小さく笑う。笑いながら、左の肩がまだ疼いていることに気づいた。
国境の関に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
石標の前で、荷車の列が止まる。木の柵が開かれ、櫓の上から兵たちが見下ろしていた。関の役人が荷台に上がり、樽に括られた荷札を一枚ずつ改めていく。南部の家紋の焼き印を確かめるたびに、役人は小さく頷き、帳面に印をつけた。
その役人の横に、クロイツェル家の紋を縫い取った外套の男が立っている。関の番は、従前どおりクロイツェル家がこれを務める。書き足したばかりの一行が、もう形になって立っていた。
ラスタッツァが御者台から身を乗り出し、関の番の男に銀貨を一枚放った。
「関の料だよ。受け取りをちょうだい」
男は戸惑ったように銀貨を眺め、それから帳面に何かを書きつけた。
ガーデルが、ロズヴェータの横で小さく息を吐いた。
「一枚目です」
「ああ」
「二十台分で、関の上がりのひと月分になります。これが毎年続けば」
「続けばいい」
ロズヴェータは短く答え、石標に目をやった。
苔むした柱の根元に、今朝の霧の名残のような湿り気がまだ残っている。
◇◆◇
荷改めを待つ間、トラッドの姿が見えなくなった。
ロズヴェータが探すと、関の柵の外れにいた。キフォー家の兵たちが馬に水をやっている水場の脇で、一人の男と向き合っている。
四十がらみの、日に焼けた男だった。キフォー家の兵の揃いの外套を着ているが、腰の剣の提げ方が他の兵と違う。リオングラウスの騎士隊の癖だ。
トラッドがこちらに気づき、わずかに顎を引いた。来るな、ではなく、来てもいい、という合図だった。
ロズヴェータは少し離れた柵にもたれ、二人の声が届くところで足を止める。
「元気そうだな、トラッド」
男が言った。声に、国境の訛りはない。王国西方の、語尾の柔らかい話し方だった。
「そっちこそ。キフォーの外套が似合ってる」
「似合うもんか。袖が短え」
男は外套の袖を引っ張って見せ、それから笑った。
「お嬢たちは、俺らに飯を食わせてくれる。仕事もくれる。悪くはねえよ。……悪くはねえが、ここの者は、俺らのことを今でも野盗の残りだと思ってる」
「こっちも似たようなもんだ」
「だろうな」
水場で、馬が鼻を鳴らした。
男は、しばらく黙っていた。やがて、柵にもたれているロズヴェータの方を、ちらりと見る。
「あの人のことは、どう呼んでる」
「……決めかねてる」
「俺もだ」
男は、足元の石を蹴った。
「頭と呼ぶと、お嬢たちの前じゃ気まずい。呼び捨てにすると、自分が情けなくなる。だから、あの人、だ」
「同じだな」
「同じだよ。拾われた先が違っても、前の主の呼び方に困るのは同じだ」
男は顔を上げ、今度はまっすぐロズヴェータを見た。
「あの日、あんたは石標の前で、あの人に剣を向けてた」
「覚えている」
「俺は、その後ろで膝をついてた一人だ。あんたがトラッドたちを拾って、残りをお嬢たちに預けたのも、この目で見てた」
男の目に、恨みの色はない。ただ、あの日の砂埃を思い出している目だった。
「取り立てに来たって聞いた時は、腹が立った。お嬢たちが夜通し帳面をめくってたのを、俺らは見てたからな」
ロズヴェータは黙って頷いた。
「だが、蔵は空にならなかった。お嬢たちも、泣かずに済んだ」
男は、それ以上は言わなかった。礼でも、恨みでもない。見たことを、見たままに言っただけだった。
トラッドが男の肩を一度叩き、男もトラッドの肩を叩き返した。
「またな」
「ああ。生きてりゃな」
男は外套の短い袖を振り、キフォー家の兵たちの方へ戻っていった。
トラッドが、柵のところまで歩いてくる。
「隊長。聞いておられましたか」
「聞こえた」
「……悪く言われなかったのは、意外でした」
「言い返さなくていいと言ったのに、言い返す必要もなかったな」
トラッドは、少しだけ笑った。軍議の夜から初めて見る、この男の笑い顔だった。
◇◆◇
荷改めが終わる頃、マチスが関の詰所から出てくる。
手には、酒壺が一つ。今朝の窪地で見せた赤い怒りは、もう顔に残っていない。ただ、目の奥に熾火のようなものがくすぶっている。
「持っていけ」
老騎士は、酒壺をロズヴェータの胸に押しつけた。
「カルリじゃ。取り立てた樽からではないぞ。儂の詰所の、儂の酒じゃ」
「受け取れません」
「受け取れ。儂の国境で、儂の国の兵を騙った奴らに襲わせた詫びじゃ。詫びを受け取らんのは、礼を知らん者のすることよ」
ロズヴェータは、酒壺を両手で受け取った。ずしりと重い。封の蝋の隙間から、甘い香りがかすかに漂った。
「今朝の奴らのことは、儂が調べる」
マチスは声を落とした。
「鎧の出どころ、徽章を縫った者、あの窪地に穴を掘った者。国境で儂の知らんことが起きたのなら、それは儂の恥じゃ。恥は、自分で雪ぐ」
「何か分かったら」
「知らせる。嬢ちゃんらの手紙に紛れ込ませてな」
猛牛は、にやりと笑った。
「次に来る時は、取り立てではなく、酒を飲みに来い。そん時は、儂の酒蔵を空にしてやる」
老騎士は踵を返し、詰所へ戻っていった。
◇◆◇
双子は、石標の前で待っていた。
ミーリアは馬の手綱を持ち、サーリアは短槍を背負って腕を組んでいる。どちらも、今朝の窪地から着替えていない。姉の外套の裾に、泥が乾いてこびりついていた。
ロズヴェータは馬を降り、二人の前に立つ。
先に口を開いたのは、ミーリアだった。
「伯父は、礼を言いませんでした」
「求めていません」
「ええ。ですから、分家の私が申し上げます」
姉は手綱を放し、両手を体の前で重ねた。帝国の貴族の娘が、目上の者にする礼の形だった。
「本家を潰さずにいてくださって、ありがとうございました」
深く頭を下げる。長い髪が、肩から前へこぼれた。
顔を上げたミーリアは、微笑んでいなかった。国境で初めて会った日の悪戯っぽい笑みも、ザールブルクの門で見せた完璧な微笑みもない。ただ、静かな顔だった。
「恩返しの続きを、帳簿で払わされると思っていました。払わされたのは、あなたの方でしたね」
「俺は、何も払っていない」
「いいえ。私には見えていました。数えている方の顔は、数えられる方より、ずっとひどい顔をしている時があるのです」
ロズヴェータは、息を止めた。
南から届いた手紙の最後の一行と、同じ言葉だった。
ミーリアは、それに気づかずに続ける。
ロズヴェータは、ガーデルから受け取った紙を一枚、ミーリアに差し出した。ラスタッツァがつけた南の値と、運び賃と、荷札代の内訳。来年の年賦を同じ形で払うための、数字の写しだった。
「来年からは、これを元に、そちらで商人と話をつけてください。ラスタッツァは、値切られれば値切り返す。帳面を夜通しめくれる人なら、渡り合えます」
ミーリアは紙を受け取り、目を落とした。数字の列を、指がなぞる。酒蔵の前で樽を数えていた時と同じ指だった。だが、今はその指が、ほんのわずかに震えている。
「……数える方の仕事を、また私に渡すのですね」
「数えられる方には、させたくない」
姉は紙を丁寧に畳み、胸元にしまった。
「手紙を、また書いてください。別々に。妹が、うるさいので」
隣で、サーリアが舌打ちをした。
「うるさくねえよ」
「うるさいわ」
姉にそう言われて、妹は腕を組み直した。それから、ロズヴェータを睨むように見上げる。
「逃げ道ってのはさ」
低い声だった。
「二度は差し出せねえんだよ。一度目は、恩返しだった。二度目は、ただの間抜けだ」
「分かっている」
「分かってねえよ。分かってたら、手紙くらい寄越したはずだ」
サーリアは、短槍の石突きで地面を一度突いた。
「今度のことで、本家の連中はその顔を覚えた。伯父上も、施した者の顔は忘れないって言ってたろ。あれは褒め言葉じゃねえ。この先どっかで転んだ時に、手を貸す者と足を払う者が、この国境にどっちもいるってことだ」
妹の目が、わずかに赤くなっていた。怒っているのか、泣きそうなのか。たぶん、本人にも分かっていない。
「だから、転ぶなよ」
それだけ言うと、サーリアは馬に飛び乗った。手綱を引き、振り返らずに関の方へ駆けていく。
ミーリアは、妹の背中を見送ってから、小さく溜息をついた。
「あの子の言葉は、いつも半分しか口から出ないのです」
「残りの半分は」
「手紙に書くでしょう。別々に届いた方に」
姉は馬に乗り、一度だけロズヴェータを見下ろした。
「ご無事で、ロズヴェータ殿」
「ミーリア殿も」
ミーリアは小さく頷き、妹の後を追った。
二騎の姿が、関の柵の向こうに消えていく。
◇◆◇
石標を越え、リオングラウスの側へ入った。
街道の脇で、荷車の列が再び動き出す。ラスタッツァの荷車が先に立ち、南へ向かう分かれ道で、列は二つに割れた。樽を積んだ荷車は南へ。三頭獣は、東へ。
分かれ際、ラスタッツァが御者台から手を振った。
「南で捌いたら、銭は王都の商会に預けとくよ。取りに来な。ひひひ」
「頼む」
「へい、まいど~」
道化化粧の女商人を乗せた荷車が、土埃を上げて遠ざかっていった。
東へ向かう列は、急に軽くなった。
樽の軋みが消え、蹄の音だけが街道に残る。グレイスが先を駆け、ナヴィータが列の横を流れるように馬を進めていた。ガッチェは腕を折った兵の荷車の脇を歩き、ときどき添え木の具合を確かめている。
列の後ろの方から、低い歌声が聞こえてきた。
西方分隊の者たちだった。王国西方の、麦を刈る時に歌う唄。語尾の柔らかい節回しが、刈り跡の畑の上を渡っていく。聖都を出てから、この者たちが声を揃えるのを聞くのは初めてだった。
トラッドは歌っていなかった。ただ、馬の上で目を細めて、仲間の声を聞いている。
ヴィヴィが馬を寄せてきて、ロズヴェータの横で肩をすくめた。
「隊長。あの唄、アタシも覚えようかな」
「好きにしろ」
「ひどい音痴だって、バリュードに言われたことあるけどね」
赤髪の分隊長は笑い、それから列の後ろへ馬を返していった。
コンラートは、東へ向かう列に残っている。いつの間にか、戻らなかったはずの供が一人、その脇に並んでいた。どこで合流したのか、誰も見ていない。
男は馬を寄せてきて、世間話のように言った。
「取り立ては、見事に果たされましたね、ロズヴェータ卿。王都には、そのとおりに書きます」
「そのとおりに書けばいい」
「ええ。付記の一行も、きちんと果たされる形になりました。東へ向かわれる方々にとっては、ありがたい話でしょう」
細い目が笑う。
「東へ向かう方々、というのは」
「さあ。私は検めの者ですので」
「供が戻ったようだな、コンラート殿」
ロズヴェータが言うと、男は振り返りもせずに頷いた。
「ええ。道に迷っていたそうで。この辺りは、霧が出ますから」
「霧の出る場所を、よく知っている供だ」
「知らないから迷ったのですよ、ロズヴェータ卿」
細い目が、また笑う。
コンラートは一礼し、列の後ろへ下がっていった。
ロズヴェータは、懐から付記の写しを取り出した。
東へ向かう者の通行を保証する。関の番は、従前どおりクロイツェル家がこれを務める。
書き足した一行で、あの家は潰れずに済んだ。だが、上の一行は消えていない。
東へ向かう者。巡礼ではない。巡礼の往来なら、和議の条文にもうある。では、誰だ。
灰石の修道院で、痩せた修道士が叫んでいた。聖地は還った、ならばその先へ。
ロズヴェータは写しを畳み、懐に戻した。考えるのは、聖都に戻ってからでいい。今は、まだ細すぎる糸だ。
◇◆◇
その夜、ロズヴェータはリオングラウスの側の宿場で筆を執った。
二枚の紙を、並べる。
今度は、手が止まらなかった。
一枚目の書き出しは、ミーリア殿へ。二枚目は、サーリア殿へ。
書き終えると、三枚目の紙を取った。
宛名はニャーニィ。荷札の礼と、棗の礼と、最後に一行だけ。数えている方の顔は、確かに見た。
四枚目は、聖都へ。ヴィタスとルセーブルに宛てて、取り立てが果たされたこと、帰路に刃が一度振るわれたこと、帰りは急ぐことを短く記した。刃の主については、何も書かない。書ける確かなことが、まだ一つもない。
双子への二通に何を書いたのかは、ユーグにも見せなかった。副官も、訊かなかった。ただ、二通が別々に封をされ、別々の宛名で使いに渡されるのを、黙って見ている。
窓の外で、宿場の犬が一声吠える。
ロズヴェータは窓を開けた。夜気が、昼の埃の匂いを洗っていく。マチスに押しつけられた酒壺が、卓の上で蝋燭の灯りを鈍く映していた。
東の空に、欠けた月が遅れて昇ってくるところだった。
満月から数えて二日。右の縁が、わずかに削れている。
あの月の下に、聖都がある。女王と王配が、留守を預かると言った都。ヴィタスが差配し、エリシュが東の壁を守っている都。
そして、あの月の下を、いずれ誰かの軍勢が東へ向かって通っていく。
ロズヴェータは窓を閉め、酒壺の封を切る。
カルリの葡萄酒は、甘く、少しだけ苦かった。




