朝靄の刃
ザールブルクの東門が開いたのは、夜明けの一刻前。
荷車が二十台、石畳を軋ませて門をくぐっていく。樽を積んだ荷台から、葡萄酒の甘い匂いが漏れていた。どの樽にも、南部の家紋を焼き付けた木の札が麻紐で括られている。御者たちの吐く息が白い。
ラスタッツァは先頭から三台目の荷車の御者台に座り、道化の顔で欠伸をしていた。
「こんな早くに出なくてもいいのにねえ」
「日が高くなると、関が混む」
「関の番は、今はあの家のもんでしょ。顔で通れるって」
ロズヴェータは答えず、門の上を見上げた。
見張りの櫓に、人影はない。双子の姿も、見送りの中にはなかった。
昨夜、商館に使いが来た。ミーリアの字で、短い文が一枚。国境の関まで、マチス殿と参ります。それだけだった。
ユーグが馬を寄せてくる。
「コンラートの供は、まだ戻りません」
「だろうな」
「残る一人も、今朝は妙に口数が多い。何かを待っている者の喋り方です」
ロズヴェータは、列の後ろを振り返った。コンラートは残った供と馬を並べ、細い目で東の空を眺めている。いつもの笑みが、今朝は少しだけ薄い。
グレイスが、前方から馬を返してきた。
「若様。谷の底に、霧が溜まっています」
「どのくらいだ」
「窪地の道が、半里ほど沈んでいます。日が昇れば晴れますが、それまでは十歩先の馬の尻も見えません」
月が欠けて、霧の出る朝。
四日前の夜、自分でそう読んだ。読んだとおりの朝が来た。
「待てば、日が昇る」
「はい」
「荷車を谷の入口で止めろ。先に兵だけで抜ける」
ロズヴェータは短く命じ、列の中ほどへ馬を下げた。
コンラートが、それに気づいて声をかけてくる。
「おや、ロズヴェータ卿。先頭には立たれないのですか」
「霧の中で先頭に立つのは、的になりに行くようなものだ」
「用心深いことで」
男は笑った。笑みの薄さは、変わらなかった。
「では、私は荷車と一緒に残りましょう。樽の検めも役目のうちですので」
コンラートは供を連れ、谷の入口に止めた荷車の方へ馬を返していく。
ユーグが、その背中を目で追った。
「兵と一緒に霧へ入るより、荷と一緒に残る方を選びましたね」
「検めの役目だそうだ」
「便利な役目です」
副官は、それきり口を閉じた。
◇◆◇
窪地に下ると、世界が白く溶ける。
湿った冷気が頬に張りつき、鎧の継ぎ目から染み込んでくる。前を行く兵の背中が、三歩ごとに霞んでは現れる。蹄の音だけが妙に近く、草を踏む音、革の軋む音、誰かの咳払いまでが、霧に吸われずに耳元で鳴った。
ガッチェの分隊が、盾を左右に掲げて道の両脇を固めている。ヴィヴィの分隊はその後ろ。ナヴィータは弓に矢をつがえたまま、馬上で首を傾けていた。長い耳が、霧の奥を探るようにわずかに動く。
「……止まって」
低い声だった。
ロズヴェータが手を上げると、列が止まる。蹄の音が消え、窪地に静けさが落ちた。
水の滴る音。遠くで鳥が一声鳴き、途切れる。
「左の斜面に、七。右に、五か六。息を殺してる。弓の弦が、湿気で鳴ってる」
ナヴィータの囁きが終わるより早く、先頭の馬が甲高くいなないた。
馬の脚が、何かに掬われた。道を横切って張られた縄だ。先頭の兵が鞍から投げ出され、泥に落ちる鈍い音がした。
「盾、上げ!」
ガッチェの号令と、斜面から矢が降るのが同時だった。
霧の奥から、黒い棒のような矢が次々に現れ、掲げた盾に突き立つ。木の割れる音。誰かの呻き声。馬が暴れ、蹄が泥を跳ね上げる。
斜面の上で、声がした。
ロスデリアの言葉だった。進め、囲め、獅子の首を取れ。国境の兵がよく使う、短い掛け声。
「ナヴィータ」
「見えないけど、聞こえる」
エルフの斥候は、弦を引き絞ったまま目を閉じた。
一呼吸。放つ。
霧の奥で、短い悲鳴が上がった。
二本目、三本目。ナヴィータの矢は、斜面から降る矢の、放たれた場所へ正確に返っていく。見えない敵を、音だけで射抜いていた。
「ヴィヴィ、右を押し上げろ。深追いはするな」
「あいよ」
赤髪の分隊長が盾を構えて斜面へ駆け上がる。分隊の兵たちが雄叫びを上げ、その後を追った。
左の斜面から、今度は刃を抜いた一団が駆け下りてきた。霧を裂いて現れた男たちの鎧は、灰色に塗られ、胸に帝国の国境警備隊の徽章を縫いつけている。
狙いは、まっすぐ列の中ほど。ロズヴェータのいる場所だった。
だが、そこにはガッチェの槍列が待っていた。
「叩け!」
頭上に掲げられた槍が、駆け下りてきた男たちの頭へ一斉に振り下ろされる。鈍い衝撃音が重なり、先頭の三人が泥に崩れた。
「上げろ。……叩け!」
二度目の叩きで、一団の足が止まった。
ユーグが、ロズヴェータの前に馬を入れていた。赤い瞳が、霧の奥のさらに奥を見据えている。
槍列の脇を、一人がすり抜けた。
低く身を屈め、泥を蹴って、まっすぐロズヴェータの馬の腹へ。短い刃が、霧の中で鈍く光る。
ロズヴェータは手綱を引き、馬の首を返した。左の肩に、聖都の城壁で受けた傷が鋭く疼く。刃が鐙をかすめ、火花が散った。
次の瞬間、ユーグの剣が男の背を斬り下ろしていた。
男は声も上げずに泥へ沈んだ。ユーグは剣を振って血を払い、また霧の奥へ目を戻す。何事もなかったかのような横顔だった。
「肩を」
「大丈夫だ」
「そういう顔ではありません」
ロズヴェータは答えず、左の肩から手を離した。
斜面の上で、角笛が短く鳴る。
それを合図に、襲撃者たちは一斉に背を向けた。来た時と同じ速さで、霧の中へ溶けていく。
「追うな」
ロズヴェータの声が、窪地に響いた。
「霧の中で追えば、今度はこっちが縄に掛かる」
足音が遠ざかり、やがて消えた。
残ったのは、盾に突き立った矢と、泥に倒れた男たちと、馬の荒い息だけだった。
◇◆◇
日が昇るにつれて、霧は薄れていく。
窪地の全景が見えてくると、ロズヴェータは奥歯を噛んだ。
道を横切る縄は、一本ではなかった。三本。それぞれ、馬の脚の高さと、胸の高さと、騎手の首の高さに張られている。両脇の斜面には、浅い穴がいくつも掘られ、枯れ草で覆ってあった。矢を射る者が身を伏せるための穴だ。
野盗の仕事ではない。
一夜で掘れる数でもなかった。この窪地に霧が溜まることも、三頭獣が夜明け前に門を出ることも、知っていた者の仕事だった。
「隊長」
ヴィヴィが、男を一人引きずってきた。斜面の上で、ナヴィータの矢に腿を射抜かれていた男だ。灰色の鎧に、国境警備隊の徽章。
男は泥の上に投げ出され、顔を上げた。まだ若い。頬に、剃り残した髭がある。
「誰に雇われた」
ロズヴェータが問うと、男はロスデリアの言葉で何か言った。
答えではなかった。罵りでもない。祈りの言葉に似ていた。
それを聞いていたトラッドが、眉を寄せた。
「隊長。この男の言葉、訛りがきれいすぎます」
「きれいすぎる」
「国境の者は、あんな喋り方をしません。語尾を呑むのです。こいつは、帝都の言葉を習い覚えた者の喋り方だ。国境の兵の掛け声だけ、真似て覚えている」
男の目が、一瞬だけトラッドを見た。
それから、顎が動いた。何かを噛み砕く、小さな音。
「口を」
ユーグが叫ぶより早く、男の喉が痙攣した。口の端から泡が溢れ、甘く苦い、焦げた杏のような匂いが立ちのぼる。男は二度、三度と身を震わせ、それきり動かなくなった。
窪地が、しんと静まり返った。
「……毒か」
ガッチェが膝をつき、男の口をこじ開けた。奥歯の一本が、抜けている。その跡に、蝋で封じた小さな空洞があった。
「歯に仕込んでいたのでしょう。捕まったら噛む」
筆頭分隊長の声は、いつもどおり平らだった。
「こういう死に方を仕込まれた兵は、傭兵にはいません。飼われている者です」
ガーデルが、帳面を手に歩み寄ってきた。
「こちらの死者はありません。先頭で縄に掛かった者が腕を折り、矢傷が六。馬が二頭、脚を痛めました」
「襲ってきた方は」
「泥の上に四人。逃げた者は、数えようがありません」
腕を折った若い兵は、ガッチェの分隊の者だった。仲間に添え木を当てられながら、歯を食いしばってロズヴェータを見上げてくる。
「すみません、隊長。縄に、気づけなくて」
「霧の中の縄に気づける奴はいない。よく落ちてくれた。お前が落ちたから、後ろが止まれた」
若い兵は、痛みとは別の理由で顔を歪めた。
谷の入口の方から、道化化粧の女が荷車の陰を縫って歩いてきた。裾に泥が跳ねている。
「ひひ。荷は無事だよ。樽一つ割れてない」
ラスタッツァは窪地を見回し、泥の上の男たちに目を留めた。道化の顔から、笑みが消える。
「商売の邪魔をする奴は、嫌いだね」
それだけ言って、女商人はまた荷車の方へ戻っていった。
◇◆◇
グレイスが、斜面の穴の一つから何かを拾ってきた。
「若様。これが」
薄くなめした革を、丸めて紐で括ったものだった。
広げると、地図だった。
ザールブルクから国境の石標まで、キルギス街道の道筋が細い線で描かれている。窪地の形、斜面の傾き、霧の溜まる場所。それらが、驚くほど精緻に書き込まれていた。等高の線まで引いてある。窪地の中ほどに小さな印が三つ。縄を張った場所だ。
余白に、墨で一行。
夜明けの一刻前、東門。
ロズヴェータは地図を見つめた。三頭獣が門を出る刻限が、正確に書いてある。
門を出る刻を決めたのは、昨夜だった。知っていたのは、三頭獣の者と、ラスタッツァと、コンラートと、その供。
「ロズ」
ユーグが、目だけで列の後ろを示した。
コンラートが、馬を降りてこちらへ歩いてくるところだった。泥ひとつついていない。残った供も、傷一つ負っていなかった。
「ご無事でしたか、ロズヴェータ卿」
細い目が笑う。
「帝国の国境の兵が、和約の直後に襲ってくるとは。これは帝都に厳しく抗議せねばなりませんね。取り決めも、見直しが要るかもしれない」
ロズヴェータは答えず、手の中の地図を男に見せた。
コンラートの視線が、革の上の細い線を追った。窪地の形。縄の印。余白の一行。
ほんの一瞬、細い目から笑みが抜け落ちた。
すぐに戻る。だが、ユーグの赤い瞳は、その一瞬を逃さなかった。
「見事な地図ですね」
「ああ。見事すぎる」
「国境の兵に、これほどの地図が描けるとは思えませんが」
「俺もそう思う」
ロズヴェータは地図を丸め、懐にしまった。
「帝都に抗議するのは、誰が襲ったのか分かってからでいい、コンラート殿」
「……ええ。もちろんです」
コンラートは一礼し、自分の馬の方へ戻っていった。その背中を、ユーグが見送っている。
「今の顔を見ましたか」
「見た」
「知っていた顔ではありません。知らされていなかった顔です」
ロズヴェータは、ユーグを見た。
「どういう意味だ」
「あの男は、何かが起きることは知っていた。だが、この地図のことは知らなかった。自分の知らないところで、自分より細かい絵を描いている者がいる。それに気づいた顔でした」
霧の名残が、窪地の底から最後の一筋を立ちのぼらせていた。
◇◆◇
蹄の音が近づいてきたのは、日がすっかり昇ってからだった。
街道の東から、槍を立てた騎馬の一団が駆けてくる。先頭に、大柄な老騎士。そのすぐ後ろに、短い髪をなびかせた騎士が一騎、老騎士を追い越さんばかりの勢いで馬を駆っていた。
サーリアだった。
妹は窪地の縁で手綱を引き、泥に倒れた男たちと、盾に突き立った矢と、そのただ中に立つロズヴェータを見る。
唇が、何かを言いかけて止まった。
ロズヴェータが片手を上げると、サーリアは目を逸らす。肩が大きく一度上下し、それから手綱を握り直す。
遅れて、ミーリアが馬を並べる。姉は窪地を見渡し、何も言わなかった。
マチスが、馬から飛び降りた。
倒れた男の一人に歩み寄り、その胸の徽章を太い指でむしり取る。しばらく眺め、それから地面に叩きつけた。
「儂の国境で」
腹の底から、声が響いた。
「儂の国の兵を騙りおって」
老騎士は、倒れた男の鎧を足で転がした。灰色の塗りの下から、別の色が覗いている。
「この鎧は、儂の兵の支給品ではない。帝都の造りじゃ。それも、三年前の型よ。グリオルドの後に、払い下げで市に流れた品じゃな」
「誰でも買える、と」
「銭さえあればのう」
マチスは唾を吐いた。
「帝都の者か、帝都の者に見せたい者か。どっちにしても、儂の顔に泥を塗ったことに変わりはない」
ミーリアが馬を降り、マチスが叩きつけた徽章を拾い上げた。
指先で縫い目をなぞり、裏を返し、糸の端を爪で引く。国境の関で、帳簿の不正を十日で見抜いた目だった。
「マチス殿。この縫い取り、国境警備隊のものではありません」
「なに」
「隊の徽章は、帝都から糸を送らせて、関の女たちが縫います。糸は麻に蝋を引いたもの。これは絹です。見た目だけ似せて、どこか別の場所で、手の良い者が縫っている」
姉は徽章をマチスに手渡し、それからロズヴェータを見た。
「帝国の兵ではありません。それだけは、帝国の騎士として申し上げておきます」
「分かっている、ミーリア殿」
「分かっていても、言っておかなければならないことがあるのです」
ミーリアの声は、硬かった。
その後ろで、サーリアが馬を降りていた。泥を踏んで数歩近づき、ロズヴェータの左の肩に目を止める。何も言わず、ただ眉を寄せた。
「……生きてんなら、それでいい」
小さく、吐き捨てるように言って、妹はすぐに背を向けた。
マチスは徽章を握り潰し、まだ赤く燃える目で霧の名残を睨んでいる。
ロズヴェータは、懐の地図に手を当てた。
帝国の鎧。帝都の訛り。王都の鍛冶の蹄鉄を打った馬が、西の修道院の厩にいた。門を出る刻限を知っていた者は、限られている。
点はいくつもある。だが、どの点も、線で結ぶには細すぎた。
結べないように、描いてあるのだ。
窪地の上の空に、白い月が残っていた。満月から二日ほど欠けた、いびつな円。霧が晴れても、それだけは消えずに浮かんでいる。
刃は一度だけ振るわれ、届かずに引いた。
次に振るわれるのがいつなのか、ロズヴェータには分からなかった。




