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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
勝者の取り立て

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199/211

朝靄の刃

 ザールブルクの東門が開いたのは、夜明けの一刻前。

 荷車が二十台、石畳を軋ませて門をくぐっていく。樽を積んだ荷台から、葡萄酒の甘い匂いが漏れていた。どの樽にも、南部の家紋を焼き付けた木の札が麻紐で括られている。御者たちの吐く息が白い。

 ラスタッツァは先頭から三台目の荷車の御者台に座り、道化の顔で欠伸をしていた。

「こんな早くに出なくてもいいのにねえ」

「日が高くなると、関が混む」

「関の番は、今はあの家のもんでしょ。顔で通れるって」

 ロズヴェータは答えず、門の上を見上げた。

 見張りの櫓に、人影はない。双子の姿も、見送りの中にはなかった。

 昨夜、商館に使いが来た。ミーリアの字で、短い文が一枚。国境の関まで、マチス殿と参ります。それだけだった。

 ユーグが馬を寄せてくる。

「コンラートの供は、まだ戻りません」

「だろうな」

「残る一人も、今朝は妙に口数が多い。何かを待っている者の喋り方です」

 ロズヴェータは、列の後ろを振り返った。コンラートは残った供と馬を並べ、細い目で東の空を眺めている。いつもの笑みが、今朝は少しだけ薄い。

 グレイスが、前方から馬を返してきた。

「若様。谷の底に、霧が溜まっています」

「どのくらいだ」

「窪地の道が、半里ほど沈んでいます。日が昇れば晴れますが、それまでは十歩先の馬の尻も見えません」

 月が欠けて、霧の出る朝。

 四日前の夜、自分でそう読んだ。読んだとおりの朝が来た。

「待てば、日が昇る」

「はい」

「荷車を谷の入口で止めろ。先に兵だけで抜ける」

 ロズヴェータは短く命じ、列の中ほどへ馬を下げた。

 コンラートが、それに気づいて声をかけてくる。

「おや、ロズヴェータ卿。先頭には立たれないのですか」

「霧の中で先頭に立つのは、的になりに行くようなものだ」

「用心深いことで」

 男は笑った。笑みの薄さは、変わらなかった。

「では、私は荷車と一緒に残りましょう。樽の検めも役目のうちですので」

 コンラートは供を連れ、谷の入口に止めた荷車の方へ馬を返していく。

 ユーグが、その背中を目で追った。

「兵と一緒に霧へ入るより、荷と一緒に残る方を選びましたね」

「検めの役目だそうだ」

「便利な役目です」

 副官は、それきり口を閉じた。


◇◆◇


 窪地に下ると、世界が白く溶ける。

 湿った冷気が頬に張りつき、鎧の継ぎ目から染み込んでくる。前を行く兵の背中が、三歩ごとに霞んでは現れる。蹄の音だけが妙に近く、草を踏む音、革の軋む音、誰かの咳払いまでが、霧に吸われずに耳元で鳴った。

 ガッチェの分隊が、盾を左右に掲げて道の両脇を固めている。ヴィヴィの分隊はその後ろ。ナヴィータは弓に矢をつがえたまま、馬上で首を傾けていた。長い耳が、霧の奥を探るようにわずかに動く。

「……止まって」

 低い声だった。

 ロズヴェータが手を上げると、列が止まる。蹄の音が消え、窪地に静けさが落ちた。

 水の滴る音。遠くで鳥が一声鳴き、途切れる。

「左の斜面に、七。右に、五か六。息を殺してる。弓の弦が、湿気で鳴ってる」

 ナヴィータの囁きが終わるより早く、先頭の馬が甲高くいなないた。

 馬の脚が、何かに掬われた。道を横切って張られた縄だ。先頭の兵が鞍から投げ出され、泥に落ちる鈍い音がした。

「盾、上げ!」

 ガッチェの号令と、斜面から矢が降るのが同時だった。

 霧の奥から、黒い棒のような矢が次々に現れ、掲げた盾に突き立つ。木の割れる音。誰かの呻き声。馬が暴れ、蹄が泥を跳ね上げる。

 斜面の上で、声がした。

 ロスデリアの言葉だった。進め、囲め、獅子の首を取れ。国境の兵がよく使う、短い掛け声。

「ナヴィータ」

「見えないけど、聞こえる」

 エルフの斥候は、弦を引き絞ったまま目を閉じた。

 一呼吸。放つ。

 霧の奥で、短い悲鳴が上がった。

 二本目、三本目。ナヴィータの矢は、斜面から降る矢の、放たれた場所へ正確に返っていく。見えない敵を、音だけで射抜いていた。

「ヴィヴィ、右を押し上げろ。深追いはするな」

「あいよ」

 赤髪の分隊長が盾を構えて斜面へ駆け上がる。分隊の兵たちが雄叫びを上げ、その後を追った。

 左の斜面から、今度は刃を抜いた一団が駆け下りてきた。霧を裂いて現れた男たちの鎧は、灰色に塗られ、胸に帝国の国境警備隊の徽章を縫いつけている。

 狙いは、まっすぐ列の中ほど。ロズヴェータのいる場所だった。

 だが、そこにはガッチェの槍列が待っていた。

「叩け!」

 頭上に掲げられた槍が、駆け下りてきた男たちの頭へ一斉に振り下ろされる。鈍い衝撃音が重なり、先頭の三人が泥に崩れた。

「上げろ。……叩け!」

 二度目の叩きで、一団の足が止まった。

 ユーグが、ロズヴェータの前に馬を入れていた。赤い瞳が、霧の奥のさらに奥を見据えている。

 槍列の脇を、一人がすり抜けた。

 低く身を屈め、泥を蹴って、まっすぐロズヴェータの馬の腹へ。短い刃が、霧の中で鈍く光る。

 ロズヴェータは手綱を引き、馬の首を返した。左の肩に、聖都の城壁で受けた傷が鋭く疼く。刃が鐙をかすめ、火花が散った。

 次の瞬間、ユーグの剣が男の背を斬り下ろしていた。

 男は声も上げずに泥へ沈んだ。ユーグは剣を振って血を払い、また霧の奥へ目を戻す。何事もなかったかのような横顔だった。

「肩を」

「大丈夫だ」

「そういう顔ではありません」

 ロズヴェータは答えず、左の肩から手を離した。

 斜面の上で、角笛が短く鳴る。

 それを合図に、襲撃者たちは一斉に背を向けた。来た時と同じ速さで、霧の中へ溶けていく。

「追うな」

 ロズヴェータの声が、窪地に響いた。

「霧の中で追えば、今度はこっちが縄に掛かる」

 足音が遠ざかり、やがて消えた。

 残ったのは、盾に突き立った矢と、泥に倒れた男たちと、馬の荒い息だけだった。


◇◆◇


 日が昇るにつれて、霧は薄れていく。

 窪地の全景が見えてくると、ロズヴェータは奥歯を噛んだ。

 道を横切る縄は、一本ではなかった。三本。それぞれ、馬の脚の高さと、胸の高さと、騎手の首の高さに張られている。両脇の斜面には、浅い穴がいくつも掘られ、枯れ草で覆ってあった。矢を射る者が身を伏せるための穴だ。

 野盗の仕事ではない。

 一夜で掘れる数でもなかった。この窪地に霧が溜まることも、三頭獣が夜明け前に門を出ることも、知っていた者の仕事だった。

「隊長」

 ヴィヴィが、男を一人引きずってきた。斜面の上で、ナヴィータの矢に腿を射抜かれていた男だ。灰色の鎧に、国境警備隊の徽章。

 男は泥の上に投げ出され、顔を上げた。まだ若い。頬に、剃り残した髭がある。

「誰に雇われた」

 ロズヴェータが問うと、男はロスデリアの言葉で何か言った。

 答えではなかった。罵りでもない。祈りの言葉に似ていた。

 それを聞いていたトラッドが、眉を寄せた。

「隊長。この男の言葉、訛りがきれいすぎます」

「きれいすぎる」

「国境の者は、あんな喋り方をしません。語尾を呑むのです。こいつは、帝都の言葉を習い覚えた者の喋り方だ。国境の兵の掛け声だけ、真似て覚えている」

 男の目が、一瞬だけトラッドを見た。

 それから、顎が動いた。何かを噛み砕く、小さな音。

「口を」

 ユーグが叫ぶより早く、男の喉が痙攣した。口の端から泡が溢れ、甘く苦い、焦げた杏のような匂いが立ちのぼる。男は二度、三度と身を震わせ、それきり動かなくなった。

 窪地が、しんと静まり返った。

「……毒か」

 ガッチェが膝をつき、男の口をこじ開けた。奥歯の一本が、抜けている。その跡に、蝋で封じた小さな空洞があった。

「歯に仕込んでいたのでしょう。捕まったら噛む」

 筆頭分隊長の声は、いつもどおり平らだった。

「こういう死に方を仕込まれた兵は、傭兵にはいません。飼われている者です」

 ガーデルが、帳面を手に歩み寄ってきた。

「こちらの死者はありません。先頭で縄に掛かった者が腕を折り、矢傷が六。馬が二頭、脚を痛めました」

「襲ってきた方は」

「泥の上に四人。逃げた者は、数えようがありません」

 腕を折った若い兵は、ガッチェの分隊の者だった。仲間に添え木を当てられながら、歯を食いしばってロズヴェータを見上げてくる。

「すみません、隊長。縄に、気づけなくて」

「霧の中の縄に気づける奴はいない。よく落ちてくれた。お前が落ちたから、後ろが止まれた」

 若い兵は、痛みとは別の理由で顔を歪めた。

 谷の入口の方から、道化化粧の女が荷車の陰を縫って歩いてきた。裾に泥が跳ねている。

「ひひ。荷は無事だよ。樽一つ割れてない」

 ラスタッツァは窪地を見回し、泥の上の男たちに目を留めた。道化の顔から、笑みが消える。

「商売の邪魔をする奴は、嫌いだね」

 それだけ言って、女商人はまた荷車の方へ戻っていった。


◇◆◇


 グレイスが、斜面の穴の一つから何かを拾ってきた。

「若様。これが」

 薄くなめした革を、丸めて紐で括ったものだった。

 広げると、地図だった。

 ザールブルクから国境の石標まで、キルギス街道の道筋が細い線で描かれている。窪地の形、斜面の傾き、霧の溜まる場所。それらが、驚くほど精緻に書き込まれていた。等高の線まで引いてある。窪地の中ほどに小さな印が三つ。縄を張った場所だ。

 余白に、墨で一行。

 夜明けの一刻前、東門。

 ロズヴェータは地図を見つめた。三頭獣が門を出る刻限が、正確に書いてある。

 門を出る刻を決めたのは、昨夜だった。知っていたのは、三頭獣の者と、ラスタッツァと、コンラートと、その供。

「ロズ」

 ユーグが、目だけで列の後ろを示した。

 コンラートが、馬を降りてこちらへ歩いてくるところだった。泥ひとつついていない。残った供も、傷一つ負っていなかった。

「ご無事でしたか、ロズヴェータ卿」

 細い目が笑う。

「帝国の国境の兵が、和約の直後に襲ってくるとは。これは帝都に厳しく抗議せねばなりませんね。取り決めも、見直しが要るかもしれない」

 ロズヴェータは答えず、手の中の地図を男に見せた。

 コンラートの視線が、革の上の細い線を追った。窪地の形。縄の印。余白の一行。

 ほんの一瞬、細い目から笑みが抜け落ちた。

 すぐに戻る。だが、ユーグの赤い瞳は、その一瞬を逃さなかった。

「見事な地図ですね」

「ああ。見事すぎる」

「国境の兵に、これほどの地図が描けるとは思えませんが」

「俺もそう思う」

 ロズヴェータは地図を丸め、懐にしまった。

「帝都に抗議するのは、誰が襲ったのか分かってからでいい、コンラート殿」

「……ええ。もちろんです」

 コンラートは一礼し、自分の馬の方へ戻っていった。その背中を、ユーグが見送っている。

「今の顔を見ましたか」

「見た」

「知っていた顔ではありません。知らされていなかった顔です」

 ロズヴェータは、ユーグを見た。

「どういう意味だ」

「あの男は、何かが起きることは知っていた。だが、この地図のことは知らなかった。自分の知らないところで、自分より細かい絵を描いている者がいる。それに気づいた顔でした」

 霧の名残が、窪地の底から最後の一筋を立ちのぼらせていた。


◇◆◇


 蹄の音が近づいてきたのは、日がすっかり昇ってからだった。

 街道の東から、槍を立てた騎馬の一団が駆けてくる。先頭に、大柄な老騎士。そのすぐ後ろに、短い髪をなびかせた騎士が一騎、老騎士を追い越さんばかりの勢いで馬を駆っていた。

 サーリアだった。

 妹は窪地の縁で手綱を引き、泥に倒れた男たちと、盾に突き立った矢と、そのただ中に立つロズヴェータを見る。

 唇が、何かを言いかけて止まった。

 ロズヴェータが片手を上げると、サーリアは目を逸らす。肩が大きく一度上下し、それから手綱を握り直す。

 遅れて、ミーリアが馬を並べる。姉は窪地を見渡し、何も言わなかった。

 マチスが、馬から飛び降りた。

 倒れた男の一人に歩み寄り、その胸の徽章を太い指でむしり取る。しばらく眺め、それから地面に叩きつけた。

「儂の国境で」

 腹の底から、声が響いた。

「儂の国の兵を騙りおって」

 老騎士は、倒れた男の鎧を足で転がした。灰色の塗りの下から、別の色が覗いている。

「この鎧は、儂の兵の支給品ではない。帝都の造りじゃ。それも、三年前の型よ。グリオルドの後に、払い下げで市に流れた品じゃな」

「誰でも買える、と」

「銭さえあればのう」

 マチスは唾を吐いた。

「帝都の者か、帝都の者に見せたい者か。どっちにしても、儂の顔に泥を塗ったことに変わりはない」

 ミーリアが馬を降り、マチスが叩きつけた徽章を拾い上げた。

 指先で縫い目をなぞり、裏を返し、糸の端を爪で引く。国境の関で、帳簿の不正を十日で見抜いた目だった。

「マチス殿。この縫い取り、国境警備隊のものではありません」

「なに」

「隊の徽章は、帝都から糸を送らせて、関の女たちが縫います。糸は麻に蝋を引いたもの。これは絹です。見た目だけ似せて、どこか別の場所で、手の良い者が縫っている」

 姉は徽章をマチスに手渡し、それからロズヴェータを見た。

「帝国の兵ではありません。それだけは、帝国の騎士として申し上げておきます」

「分かっている、ミーリア殿」

「分かっていても、言っておかなければならないことがあるのです」

 ミーリアの声は、硬かった。

 その後ろで、サーリアが馬を降りていた。泥を踏んで数歩近づき、ロズヴェータの左の肩に目を止める。何も言わず、ただ眉を寄せた。

「……生きてんなら、それでいい」

 小さく、吐き捨てるように言って、妹はすぐに背を向けた。

 マチスは徽章を握り潰し、まだ赤く燃える目で霧の名残を睨んでいる。

 ロズヴェータは、懐の地図に手を当てた。

 帝国の鎧。帝都の訛り。王都の鍛冶の蹄鉄を打った馬が、西の修道院の厩にいた。門を出る刻限を知っていた者は、限られている。

 点はいくつもある。だが、どの点も、線で結ぶには細すぎた。

 結べないように、描いてあるのだ。

 窪地の上の空に、白い月が残っていた。満月から二日ほど欠けた、いびつな円。霧が晴れても、それだけは消えずに浮かんでいる。

 刃は一度だけ振るわれ、届かずに引いた。

 次に振るわれるのがいつなのか、ロズヴェータには分からなかった。

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