勝者の財
クロイツェル家の広間は、冷えていた。
石の床から這い上がる冷気が、長靴の底を通して足の指を噛む。壁の綴織は色褪せ、狩りの場面を描いた糸はところどころ擦り切れて、猟犬の首が一匹分ほど欠けていた。暖炉には火が入っている。だが、薪は細く、炎は低い。
上座に、痩せた長身の男が座っていた。
五十の半ばほどだろうか。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、頬の肉は削げ落ちている。背筋だけは杖のようにまっすぐで、膝に置いた両手は動かない。
エーベルハルト・クロイツェル。ザールブルクを治める、クロイツェル本家の当主だった。
その脇に、ミーリアとサーリアが控えている。二人とも鎧を脱ぎ、分家の者として一段低い場所に立っていた。
コンラートが一歩進み出て、王命の写しを読み上げた。
グリオルド平原の和約。ザールブルクを帝国に留め置く代わりの年賦。滞った二年分と、その利息。払い得ぬ分は、東へ向かう者の通行の保証をもって充てること。
読み終わるまで、エーベルハルトは一度も瞬きをしなかった。
「承った」
乾いた声だった。宮廷で磨かれた言葉づかいが、かえって冷たく響く。
「敗者は、勝者の帳簿の上でしか息をできぬ。グリオルドの野で、私はそれを学んだ。今さら驚きはせぬ」
「クロイツェル卿」
ロズヴェータが口を開くと、エーベルハルトの目が初めてこちらを向いた。灰色の、底の見えない目だった。
「貴殿の名は知っている。我が家の分家の娘たちを、グリオルドの森で捕らえたリオングラウスの騎士だ」
サーリアの肩が、ぴくりと動いた。
「その騎士が、今度は本家の蔵を開けに来た。よくできた筋書きだ」
「王命です」
「分かっている。帝都も同じことを言ってきた」
エーベルハルトは膝の上の指を、一本だけ持ち上げた。
「国境の家が払えぬなら、関ごと差し出せ。帝都の法官は、そう書いて寄越した。和約を結んだのは帝都だが、払うのは国境の家だ。リオングラウスも帝都も、同じ帳簿を見ている」
暖炉の薪が、細く鳴った。
「ミーリア。サーリア」
「はい、伯父上」
ミーリアが頭を下げる。サーリアは一拍遅れて、姉にならった。
「明日から、街の商人と職人の蔵を改めよ。出せるものは、すべて出させる。分家は本家の手足だ。段取りはお前たちがつけよ」
「……承知いたしました」
ミーリアの声は、微塵も揺れなかった。
その隣で、サーリアの拳が白くなるほど握られているのを、ロズヴェータは見ていた。
広間を辞して廊下へ出ると、マチスが後ろから追いついてくる。
大柄な老騎士の足音が、石の廊下に重く響く。
「あれはのう、帝都にも見捨てられとる」
低い声だった。酒の匂いはしない。
「和約を結んだ連中は、払う段になって国境の家に知らん顔をした。あの男に残っとるのは、誇りだけじゃ。誇りしか残っとらん男の前で、その誇りを踏むなよ」
それだけ言うと、マチスは返事も待たずに別の廊下へ曲がっていった。
◇◆◇
宿に割り当てられたのは、街の東門に近い古い商館である。
夜、ガーデルが蝋燭の下に帳簿を広げた。インクと羊皮紙の匂いに、階下の厨房から上がってくる玉葱の匂いが混じっている。
「何度数えても同じです」
帳簿係は、指で数字の列を叩いた。
「関の上がり、街の蔵、本家の財。すべてを差し出させても、滞った二年分の利息にも届きません。年賦の本体は手つかずのまま残る。王配殿下の読みどおりです」
「残りは通行の保証か」
「はい。付記の一行が、ザールブルクの関の鍵になります」
ガーデルは目を細めた。
「どこを押しても、本家が潰れます。潰れなければ、関がこちらの手に渡る。どちらでも、この家は終わりです」
ユーグが窓辺で腕を組んでいた。
「潰して関を取れば、隊長は西の憎まれ役になります。取らずに帰れば、王命に背いたことになる」
「分かっている」
ロズヴェータは窓の外を見た。
街の灯りはまばらだった。キルギス街道の関があるにしては、夜の人通りが少ない。
「ガーデル。この街の蔵には、何が眠っている」
「と、申しますと」
「銭ではなく、品だ」
ガーデルは帳簿をめくり直した。しばらく黙って数字を追い、やがて顔を上げる。
「葡萄酒です。本家の葡萄畑と、周りの村の分。この三年、ほとんど動いていません」
「なぜだ」
「グリオルドの戦で、東への道が閉じたからでしょう。これまでの買い手はリオングラウスの西方諸家でした。その諸家が、戦の後に潰れるか、所属を変えた」
ロズヴェータは、国境の石標の前で双子が差し出した酒壺を思い出した。近隣では名の知れた、カルリの葡萄酒。
売り先を失った酒が、蔵の底で眠っている。
◇◆◇
翌日から、徴発が始まった。
ロズヴェータは街を歩いた。石畳の坂道に、荷車の轍が深く刻まれている。酒蔵の戸が開け放たれ、樽を転がす音が路地に響いていた。酢になりかけた葡萄酒の、ツンとした匂いが漂ってくる。
酒蔵の前に、ミーリアが立っていた。
手に帳面を持ち、蔵の主らしい初老の男と話している。男は何度も頭を下げ、ミーリアは微笑みを崩さずに数字を書き込んでいた。
ロズヴェータに気づくと、ミーリアは帳面を閉じた。
「見物ですか、ロズヴェータ殿」
「いや」
「どうぞ、ご覧になって。勝者の帳簿が、敗者の蔵をどう数えるか」
微笑んだまま、ミーリアは言った。
「この蔵の主は、三年前に息子をグリオルドで亡くしています。その前の年には、娘の嫁入り道具のために借金をした。私はそれを知っていて、樽の数を数えている」
「ミーリア殿」
「恩返しの続きを、今度はあなたの帳簿で払わされるのね」
声はやわらかかった。そのやわらかさが、刃よりも深く刺さる。
ロズヴェータは言葉を探したが、何も見つからなかった。
背後で、荒い足音がする。
振り返ると、サーリアが空の荷車を引いた兵たちの先頭に立っていた。短く切った髪に埃がつき、頬には汗の筋が走っている。
妹は、姉とロズヴェータの間に視線を走らせた。
「……分かってるよ」
低い声だった。
「来たのが誰でも同じだったってことは。誰かが来て、誰かが数えた。分かってる。分かってるから、余計に腹が立つんだ」
短槍の石突きが、石畳を一度だけ叩いた。
「よりによって、なんで」
それ以上は言わず、サーリアは荷車を引いて次の蔵へ向かった。
ミーリアは妹の背中を見送り、それから静かに帳面を開き直した。
「数え終わるまで、あと三日かかります。それまでに何か手があるなら、どうぞ」
背を向けたまま、姉は言った。
「私は、数えるしかできませんから」
◇◆◇
二日後の夕刻、東門に南からの荷馬車が着いた。
幌に、猫の印が描かれている。御者台から降りてきた男は、ロズヴェータを見つけると、懐から油紙に包んだ手紙を差し出した。それから荷台の奥に手を入れ、麻紐で束ねた木の札を重そうに下ろす。どの札にも、同じ家紋の焼き印が押されていた。
「ニャーニィ様からです。札は、樽の数だけ」
封を切る。
癖のある、少し右に傾いた字が並んでいた。
ロズへ。
西の葡萄酒の話、読んだよ。カルリなら知ってる。南じゃ三年前から入ってこなくなって、酒場の親父たちが嘆いてた。
道は開けとく。国の中の関所は、うちの家の荷札をつけてれば文句は言われない。南の卸にも話を通してある。文官派閥の荷ってことにしておくから、公爵家も横から手は出しにくいでしょ。
ただし、買うのはうちじゃない。値をつけて樽を買い取るのは、そっちの商人に任せな。損も儲けも、商人が持つのが筋だから。
荷札の代金は、きっちりもらうからね。棗のお返しも込みで。
それと、ロズ。人の蔵を数える仕事は、数えてる方の顔を見といた方がいいよ。数えられる方より、ずっとひどい顔をしてる時があるから。
ロズヴェータは、最後の一行を二度読んだ。
酒蔵の前で帳面を開いていた姉の横顔が浮かぶ。微笑みを崩さず、樽の数を書き込んでいた指先。数える方の顔。
「ニャーニィ殿は、何と」
肩越しに、ユーグが覗き込もうとする。ロズヴェータは手紙を胸元に引いた。
「道は開けておく、だそうだ」
「それだけですか」
「それだけじゃないが、それだけでいい」
副官は小さく肩をすくめた。見透かす女の文は、しまえない。前にも一度、そう思ったことがある。
それから手紙を畳み、ガーデルとラスタッツァを呼んだ。
◇◆◇
その夜から、三頭獣は酒蔵を数えはじめた。
徴発の帳面とは別に、樽の数と、酒の年と、蔵の湿り具合を。グレイスとナヴィータが街の外の村々を回り、ガッチェの分隊が蔵の奥の樽を一つずつ叩いて中身を確かめる。叩いた音が澄んでいれば空、濁っていれば満ちている。辺境の酒蔵で覚えた数え方だと、筆頭分隊長は言った。
ヴィヴィの分隊は、酢になりかけた樽を脇へ除けていく。
「隊長、これ全部捨てるの。もったいない」
「酢は酢で売れる。ガーデルに数えさせろ」
「あいよ」
樽の列の間を、道化化粧の女が歩いていた。
白く塗った顔に、目の周りだけを黒く縁取った化粧。その下の素顔が整っていることを、ユーグは知っていて、だから嫌っている。チソッド商会を率いる女商人ラスタッツァは、樽の栓を一つ抜かせると、小さな銀の杯に酒を受け、鼻を近づけた。
「ふ~ん」
ひと口含み、舌の上で転がして、床の砂に吐き捨てる。
「三年寝かせたにしちゃ、悪くない。樽がいいんだね。南の酒場なら、喜んで飲むよ」
ラスタッツァは杯を振って滴を切り、ガーデルの帳面を覗き込んだ。
「この数なら、うちの荷車を二十台は雇わなきゃね。値は南の相場から、運び賃と荷札代を引いて……こんなもんかな」
女商人は帳面の端に、さらさらと数字を書きつけた。ガーデルがそれを読み、眉を上げる。
「ザールブルクの相場の、ほぼ倍です」
「買い取るのはうち。売れ残ったら損はうち持ち。そのかわり、儲けもうち持ち。それでいいね」
「頼む」
ロズヴェータが短く言うと、ラスタッツァは道化の顔で笑った。
「へい、まいど~。ひひひ」
ユーグが、露骨に顔を背けた。
夜更けまで、蔵の中に樽を叩く音が響いていた。
ミーリアが、一度だけその様子を見に来る。蔵の戸口に立ち、帳面を抱えたまま、三頭獣の兵たちが樽を叩き、道化化粧の女が酒を舐めるのを黙って見ている。
何をしているのかとは、訊かなかった。
ロズヴェータも、何をしているのかを言わなかった。まだ、言える段ではない。
やがて姉は踵を返し、夜の路地へ消えていった。
◇◆◇
四日目の朝、再び広間に一同が集まった。
エーベルハルトは上座に、双子はその脇に。マチスは帝国側の立会いとして壁際に腕を組んで立ち、コンラートはロズヴェータの斜め後ろにいる。
ロズヴェータは、ガーデルに一枚の紙を卓へ置かせた。
「滞った年賦を、品で払っていただきたい」
エーベルハルトの眉が、わずかに動いた。
「本家とその周りの蔵に眠っている葡萄酒を、三頭獣に付いてきた商人が南の値で買い取る。南部の豪族の荷札をつけて、キルギス街道からリオングラウスへ入れる。買い取りの値を年賦に充てれば、二年分の滞りと利息には届きます」
「南の値だと」
「ザールブルクの二倍と見ています。南ではこの三年、カルリの酒が入っていない」
ガーデルが、横から数字を読み上げた。樽の数、南での相場、運び賃と荷札代。最後の合計は、滞りの額をわずかに上回っていた。
広間が静まり返る。
ミーリアが、息を呑む音が聞こえた。
「年賦の残りは」
エーベルハルトの声は、まだ冷たい。
「来年からも同じようにすればいい。酒は毎年できる。道が開いていれば、毎年売れる」
「なぜ、そこまでする」
エーベルハルトの問いは、短かった。
「私は、取り立てに来ました。家を潰しに来たのではない」
ロズヴェータは、当主の灰色の目をまっすぐに見返した。
「潰した家からは、来年の年賦は取れません」
エーベルハルトは答えなかった。ただ、膝の上の指が、一本だけわずかに動いた。
「通行の保証の一行は」
「残ります。王命の文言なので、消せません」
そこで、ロズヴェータはもう一枚の紙を置いた。
「ただし、書き足します」
付記の写しだった。東へ向かう者の通行を保証する、という一行の下に、新しい一文が加えられている。
関の番は、従前どおりクロイツェル家がこれを務める。
「東へ向かう者が通るなら、関で改め、関の料を取るのはこの家です。通る者が多ければ、それだけ関の上がりが増える。軍勢が通るなら、糧も水も要る。それを売るのも、この街だ」
コンラートが、一歩前に出た。細い目が、初めて笑っていなかった。
「お待ちください、ロズヴェータ卿。王命の文言に手を入れる権は、卿にはないはずです」
「文言は、一字も変えていない」
ロズヴェータは振り返らずに言った。
「番人の名を書き足しただけだ、コンラート殿。付記には、誰が関を守るとは書いていない。書いていないところに書いた。王命のどこにも背いていない」
コンラートの唇が、何かを言いかけて閉じた。
壁際で、マチスが腕を解いた。
「帝国の側の立会いとして、言わせてもらうぞ」
猛牛は、のしのしと卓に歩み寄った。
「関の番を国境の家が務めるのは、帝国の法にも適っておる。帝都の法官どもが文句を言うなら、儂が酒でも持って黙らせてこよう。……で、どこに書けばいい」
ガーデルが羽根ペンを差し出す。マチスはそれを太い指でつまみ、証人の欄に自分の名を大きく書きつけた。インクが滲み、紙の端まで飛んだ。
エーベルハルトは、長いあいだ紙を見つめていた。
やがて、痩せた手が伸び、ペンを取る。
署名は、細く、硬い字だった。一画ごとに、何かを削り取るように書かれていく。
書き終えると、当主は顔を上げた。
「礼は言わぬ」
「求めていません」
「勝者が敗者の蔵に知恵を貸す。それを我らの国では、施しと呼ぶ」
灰色の目が、まっすぐにロズヴェータを射た。
「施しを受けた家は、施した者の顔を忘れぬ。覚えておけ、リオングラウスの騎士」
「覚えておきます」
ロズヴェータは頭を下げる。
顔を上げると、ミーリアと目が合った。姉は微笑んでいなかった。ただ、帳面を胸に抱いたまま、じっとこちらを見ている。
サーリアは、窓の外を見ていた。
広間を出たところで、コンラートが並んできた。
細い目に、いつもの笑みが戻っている。だが、口の端が少しだけ硬い。
「筋書きどおりには、終わらせない方なのですね。ロズヴェータ卿は」
「王命どおりに終わらせただけだ」
「ええ。王命どおりです。私の役目は検めですので、検めたとおりに書きます」
コンラートは、そこで少し間を置いた。
「何をどう書くかは、私が決めますが」
どこかで聞いた言葉だった。聖都に来た借金持ちの騎士が、同じことを言ったとヴィタスの報告にあった。公爵家の家人たちは、皆同じ言葉を教わるのかもしれない。
「好きに書けばいい、コンラート殿」
「そうさせていただきます」
男は一礼し、廊下の角を曲がっていった。
◇◆◇
その夜、商館の窓辺でユーグが言った。
「コンラートの供が、一人いなくなりました」
ロズヴェータは、書きかけの報告から顔を上げた。
「いつだ」
「日が落ちてすぐ。東門から、馬で。グレイスが見ています」
「王都への報せか」
「おそらく。取り立てが、向こうの筋書きどおりに終わらなかったという報せです」
ユーグの赤い瞳が、窓の外の闇を見据えていた。
「筋書きが外れた時、書いた者は次の筋書きを書きます」
ロズヴェータは筆を置き、窓に歩み寄った。
街の屋根の上に、ほとんど丸くなった月が昇っている。石畳を白く照らし、関の櫓の影を長く伸ばしていた。
満ちるまで、あと二日。
明るい夜には、刃は来ない。来るとすれば、月が欠けて、霧の出る朝だろう。




