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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
勝者の取り立て

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198/211

勝者の財

 クロイツェル家の広間は、冷えていた。

 石の床から這い上がる冷気が、長靴の底を通して足の指を噛む。壁の綴織は色褪せ、狩りの場面を描いた糸はところどころ擦り切れて、猟犬の首が一匹分ほど欠けていた。暖炉には火が入っている。だが、薪は細く、炎は低い。

 上座に、痩せた長身の男が座っていた。

 五十の半ばほどだろうか。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、頬の肉は削げ落ちている。背筋だけは杖のようにまっすぐで、膝に置いた両手は動かない。

 エーベルハルト・クロイツェル。ザールブルクを治める、クロイツェル本家の当主だった。

 その脇に、ミーリアとサーリアが控えている。二人とも鎧を脱ぎ、分家の者として一段低い場所に立っていた。

 コンラートが一歩進み出て、王命の写しを読み上げた。

 グリオルド平原の和約。ザールブルクを帝国に留め置く代わりの年賦。滞った二年分と、その利息。払い得ぬ分は、東へ向かう者の通行の保証をもって充てること。

 読み終わるまで、エーベルハルトは一度も瞬きをしなかった。

「承った」

 乾いた声だった。宮廷で磨かれた言葉づかいが、かえって冷たく響く。

「敗者は、勝者の帳簿の上でしか息をできぬ。グリオルドの野で、私はそれを学んだ。今さら驚きはせぬ」

「クロイツェル卿」

 ロズヴェータが口を開くと、エーベルハルトの目が初めてこちらを向いた。灰色の、底の見えない目だった。

「貴殿の名は知っている。我が家の分家の娘たちを、グリオルドの森で捕らえたリオングラウスの騎士だ」

 サーリアの肩が、ぴくりと動いた。

「その騎士が、今度は本家の蔵を開けに来た。よくできた筋書きだ」

「王命です」

「分かっている。帝都も同じことを言ってきた」

 エーベルハルトは膝の上の指を、一本だけ持ち上げた。

「国境の家が払えぬなら、関ごと差し出せ。帝都の法官は、そう書いて寄越した。和約を結んだのは帝都だが、払うのは国境の家だ。リオングラウスも帝都も、同じ帳簿を見ている」

 暖炉の薪が、細く鳴った。

「ミーリア。サーリア」

「はい、伯父上」

 ミーリアが頭を下げる。サーリアは一拍遅れて、姉にならった。

「明日から、街の商人と職人の蔵を改めよ。出せるものは、すべて出させる。分家は本家の手足だ。段取りはお前たちがつけよ」

「……承知いたしました」

 ミーリアの声は、微塵も揺れなかった。

 その隣で、サーリアの拳が白くなるほど握られているのを、ロズヴェータは見ていた。

 広間を辞して廊下へ出ると、マチスが後ろから追いついてくる。

 大柄な老騎士の足音が、石の廊下に重く響く。

「あれはのう、帝都にも見捨てられとる」

 低い声だった。酒の匂いはしない。

「和約を結んだ連中は、払う段になって国境の家に知らん顔をした。あの男に残っとるのは、誇りだけじゃ。誇りしか残っとらん男の前で、その誇りを踏むなよ」

 それだけ言うと、マチスは返事も待たずに別の廊下へ曲がっていった。


◇◆◇


 宿に割り当てられたのは、街の東門に近い古い商館である。

 夜、ガーデルが蝋燭の下に帳簿を広げた。インクと羊皮紙の匂いに、階下の厨房から上がってくる玉葱の匂いが混じっている。

「何度数えても同じです」

 帳簿係は、指で数字の列を叩いた。

「関の上がり、街の蔵、本家の財。すべてを差し出させても、滞った二年分の利息にも届きません。年賦の本体は手つかずのまま残る。王配殿下の読みどおりです」

「残りは通行の保証か」

「はい。付記の一行が、ザールブルクの関の鍵になります」

 ガーデルは目を細めた。

「どこを押しても、本家が潰れます。潰れなければ、関がこちらの手に渡る。どちらでも、この家は終わりです」

 ユーグが窓辺で腕を組んでいた。

「潰して関を取れば、隊長は西の憎まれ役になります。取らずに帰れば、王命に背いたことになる」

「分かっている」

 ロズヴェータは窓の外を見た。

 街の灯りはまばらだった。キルギス街道の関があるにしては、夜の人通りが少ない。

「ガーデル。この街の蔵には、何が眠っている」

「と、申しますと」

「銭ではなく、品だ」

 ガーデルは帳簿をめくり直した。しばらく黙って数字を追い、やがて顔を上げる。

「葡萄酒です。本家の葡萄畑と、周りの村の分。この三年、ほとんど動いていません」

「なぜだ」

「グリオルドの戦で、東への道が閉じたからでしょう。これまでの買い手はリオングラウスの西方諸家でした。その諸家が、戦の後に潰れるか、所属を変えた」

 ロズヴェータは、国境の石標の前で双子が差し出した酒壺を思い出した。近隣では名の知れた、カルリの葡萄酒。

 売り先を失った酒が、蔵の底で眠っている。


◇◆◇


 翌日から、徴発が始まった。

 ロズヴェータは街を歩いた。石畳の坂道に、荷車の轍が深く刻まれている。酒蔵の戸が開け放たれ、樽を転がす音が路地に響いていた。酢になりかけた葡萄酒の、ツンとした匂いが漂ってくる。

 酒蔵の前に、ミーリアが立っていた。

 手に帳面を持ち、蔵の主らしい初老の男と話している。男は何度も頭を下げ、ミーリアは微笑みを崩さずに数字を書き込んでいた。

 ロズヴェータに気づくと、ミーリアは帳面を閉じた。

「見物ですか、ロズヴェータ殿」

「いや」

「どうぞ、ご覧になって。勝者の帳簿が、敗者の蔵をどう数えるか」

 微笑んだまま、ミーリアは言った。

「この蔵の主は、三年前に息子をグリオルドで亡くしています。その前の年には、娘の嫁入り道具のために借金をした。私はそれを知っていて、樽の数を数えている」

「ミーリア殿」

「恩返しの続きを、今度はあなたの帳簿で払わされるのね」

 声はやわらかかった。そのやわらかさが、刃よりも深く刺さる。

 ロズヴェータは言葉を探したが、何も見つからなかった。

 背後で、荒い足音がする。

 振り返ると、サーリアが空の荷車を引いた兵たちの先頭に立っていた。短く切った髪に埃がつき、頬には汗の筋が走っている。

 妹は、姉とロズヴェータの間に視線を走らせた。

「……分かってるよ」

 低い声だった。

「来たのが誰でも同じだったってことは。誰かが来て、誰かが数えた。分かってる。分かってるから、余計に腹が立つんだ」

 短槍の石突きが、石畳を一度だけ叩いた。

「よりによって、なんで」

 それ以上は言わず、サーリアは荷車を引いて次の蔵へ向かった。

 ミーリアは妹の背中を見送り、それから静かに帳面を開き直した。

「数え終わるまで、あと三日かかります。それまでに何か手があるなら、どうぞ」

 背を向けたまま、姉は言った。

「私は、数えるしかできませんから」


◇◆◇


 二日後の夕刻、東門に南からの荷馬車が着いた。

 幌に、猫の印が描かれている。御者台から降りてきた男は、ロズヴェータを見つけると、懐から油紙に包んだ手紙を差し出した。それから荷台の奥に手を入れ、麻紐で束ねた木の札を重そうに下ろす。どの札にも、同じ家紋の焼き印が押されていた。

「ニャーニィ様からです。札は、樽の数だけ」

 封を切る。

 癖のある、少し右に傾いた字が並んでいた。

 ロズへ。

 西の葡萄酒の話、読んだよ。カルリなら知ってる。南じゃ三年前から入ってこなくなって、酒場の親父たちが嘆いてた。

 道は開けとく。国の中の関所は、うちの家の荷札をつけてれば文句は言われない。南の卸にも話を通してある。文官派閥の荷ってことにしておくから、公爵家も横から手は出しにくいでしょ。

 ただし、買うのはうちじゃない。値をつけて樽を買い取るのは、そっちの商人に任せな。損も儲けも、商人が持つのが筋だから。

 荷札の代金は、きっちりもらうからね。棗のお返しも込みで。

 それと、ロズ。人の蔵を数える仕事は、数えてる方の顔を見といた方がいいよ。数えられる方より、ずっとひどい顔をしてる時があるから。

 ロズヴェータは、最後の一行を二度読んだ。

 酒蔵の前で帳面を開いていた姉の横顔が浮かぶ。微笑みを崩さず、樽の数を書き込んでいた指先。数える方の顔。

「ニャーニィ殿は、何と」

 肩越しに、ユーグが覗き込もうとする。ロズヴェータは手紙を胸元に引いた。

「道は開けておく、だそうだ」

「それだけですか」

「それだけじゃないが、それだけでいい」

 副官は小さく肩をすくめた。見透かす女の文は、しまえない。前にも一度、そう思ったことがある。

 それから手紙を畳み、ガーデルとラスタッツァを呼んだ。


◇◆◇


 その夜から、三頭獣は酒蔵を数えはじめた。

 徴発の帳面とは別に、樽の数と、酒の年と、蔵の湿り具合を。グレイスとナヴィータが街の外の村々を回り、ガッチェの分隊が蔵の奥の樽を一つずつ叩いて中身を確かめる。叩いた音が澄んでいれば空、濁っていれば満ちている。辺境の酒蔵で覚えた数え方だと、筆頭分隊長は言った。

 ヴィヴィの分隊は、酢になりかけた樽を脇へ除けていく。

「隊長、これ全部捨てるの。もったいない」

「酢は酢で売れる。ガーデルに数えさせろ」

「あいよ」

 樽の列の間を、道化化粧の女が歩いていた。

 白く塗った顔に、目の周りだけを黒く縁取った化粧。その下の素顔が整っていることを、ユーグは知っていて、だから嫌っている。チソッド商会を率いる女商人ラスタッツァは、樽の栓を一つ抜かせると、小さな銀の杯に酒を受け、鼻を近づけた。

「ふ~ん」

 ひと口含み、舌の上で転がして、床の砂に吐き捨てる。

「三年寝かせたにしちゃ、悪くない。樽がいいんだね。南の酒場なら、喜んで飲むよ」

 ラスタッツァは杯を振って滴を切り、ガーデルの帳面を覗き込んだ。

「この数なら、うちの荷車を二十台は雇わなきゃね。値は南の相場から、運び賃と荷札代を引いて……こんなもんかな」

 女商人は帳面の端に、さらさらと数字を書きつけた。ガーデルがそれを読み、眉を上げる。

「ザールブルクの相場の、ほぼ倍です」

「買い取るのはうち。売れ残ったら損はうち持ち。そのかわり、儲けもうち持ち。それでいいね」

「頼む」

 ロズヴェータが短く言うと、ラスタッツァは道化の顔で笑った。

「へい、まいど~。ひひひ」

 ユーグが、露骨に顔を背けた。

 夜更けまで、蔵の中に樽を叩く音が響いていた。

 ミーリアが、一度だけその様子を見に来る。蔵の戸口に立ち、帳面を抱えたまま、三頭獣の兵たちが樽を叩き、道化化粧の女が酒を舐めるのを黙って見ている。

 何をしているのかとは、訊かなかった。

 ロズヴェータも、何をしているのかを言わなかった。まだ、言える段ではない。

 やがて姉は踵を返し、夜の路地へ消えていった。


◇◆◇


 四日目の朝、再び広間に一同が集まった。

 エーベルハルトは上座に、双子はその脇に。マチスは帝国側の立会いとして壁際に腕を組んで立ち、コンラートはロズヴェータの斜め後ろにいる。

 ロズヴェータは、ガーデルに一枚の紙を卓へ置かせた。

「滞った年賦を、品で払っていただきたい」

 エーベルハルトの眉が、わずかに動いた。

「本家とその周りの蔵に眠っている葡萄酒を、三頭獣に付いてきた商人が南の値で買い取る。南部の豪族の荷札をつけて、キルギス街道からリオングラウスへ入れる。買い取りの値を年賦に充てれば、二年分の滞りと利息には届きます」

「南の値だと」

「ザールブルクの二倍と見ています。南ではこの三年、カルリの酒が入っていない」

 ガーデルが、横から数字を読み上げた。樽の数、南での相場、運び賃と荷札代。最後の合計は、滞りの額をわずかに上回っていた。

 広間が静まり返る。

 ミーリアが、息を呑む音が聞こえた。

「年賦の残りは」

 エーベルハルトの声は、まだ冷たい。

「来年からも同じようにすればいい。酒は毎年できる。道が開いていれば、毎年売れる」

「なぜ、そこまでする」

 エーベルハルトの問いは、短かった。

「私は、取り立てに来ました。家を潰しに来たのではない」

 ロズヴェータは、当主の灰色の目をまっすぐに見返した。

「潰した家からは、来年の年賦は取れません」

 エーベルハルトは答えなかった。ただ、膝の上の指が、一本だけわずかに動いた。

「通行の保証の一行は」

「残ります。王命の文言なので、消せません」

 そこで、ロズヴェータはもう一枚の紙を置いた。

「ただし、書き足します」

 付記の写しだった。東へ向かう者の通行を保証する、という一行の下に、新しい一文が加えられている。

 関の番は、従前どおりクロイツェル家がこれを務める。

「東へ向かう者が通るなら、関で改め、関の料を取るのはこの家です。通る者が多ければ、それだけ関の上がりが増える。軍勢が通るなら、糧も水も要る。それを売るのも、この街だ」

 コンラートが、一歩前に出た。細い目が、初めて笑っていなかった。

「お待ちください、ロズヴェータ卿。王命の文言に手を入れる権は、卿にはないはずです」

「文言は、一字も変えていない」

 ロズヴェータは振り返らずに言った。

「番人の名を書き足しただけだ、コンラート殿。付記には、誰が関を守るとは書いていない。書いていないところに書いた。王命のどこにも背いていない」

 コンラートの唇が、何かを言いかけて閉じた。

 壁際で、マチスが腕を解いた。

「帝国の側の立会いとして、言わせてもらうぞ」

 猛牛は、のしのしと卓に歩み寄った。

「関の番を国境の家が務めるのは、帝国の法にも適っておる。帝都の法官どもが文句を言うなら、儂が酒でも持って黙らせてこよう。……で、どこに書けばいい」

 ガーデルが羽根ペンを差し出す。マチスはそれを太い指でつまみ、証人の欄に自分の名を大きく書きつけた。インクが滲み、紙の端まで飛んだ。

 エーベルハルトは、長いあいだ紙を見つめていた。

 やがて、痩せた手が伸び、ペンを取る。

 署名は、細く、硬い字だった。一画ごとに、何かを削り取るように書かれていく。

 書き終えると、当主は顔を上げた。

「礼は言わぬ」

「求めていません」

「勝者が敗者の蔵に知恵を貸す。それを我らの国では、施しと呼ぶ」

 灰色の目が、まっすぐにロズヴェータを射た。

「施しを受けた家は、施した者の顔を忘れぬ。覚えておけ、リオングラウスの騎士」

「覚えておきます」

 ロズヴェータは頭を下げる。

 顔を上げると、ミーリアと目が合った。姉は微笑んでいなかった。ただ、帳面を胸に抱いたまま、じっとこちらを見ている。

 サーリアは、窓の外を見ていた。

 広間を出たところで、コンラートが並んできた。

 細い目に、いつもの笑みが戻っている。だが、口の端が少しだけ硬い。

「筋書きどおりには、終わらせない方なのですね。ロズヴェータ卿は」

「王命どおりに終わらせただけだ」

「ええ。王命どおりです。私の役目は検めですので、検めたとおりに書きます」

 コンラートは、そこで少し間を置いた。

「何をどう書くかは、私が決めますが」

 どこかで聞いた言葉だった。聖都に来た借金持ちの騎士が、同じことを言ったとヴィタスの報告にあった。公爵家の家人たちは、皆同じ言葉を教わるのかもしれない。

「好きに書けばいい、コンラート殿」

「そうさせていただきます」

 男は一礼し、廊下の角を曲がっていった。


◇◆◇


 その夜、商館の窓辺でユーグが言った。

「コンラートの供が、一人いなくなりました」

 ロズヴェータは、書きかけの報告から顔を上げた。

「いつだ」

「日が落ちてすぐ。東門から、馬で。グレイスが見ています」

「王都への報せか」

「おそらく。取り立てが、向こうの筋書きどおりに終わらなかったという報せです」

 ユーグの赤い瞳が、窓の外の闇を見据えていた。

「筋書きが外れた時、書いた者は次の筋書きを書きます」

 ロズヴェータは筆を置き、窓に歩み寄った。

 街の屋根の上に、ほとんど丸くなった月が昇っている。石畳を白く照らし、関の櫓の影を長く伸ばしていた。

 満ちるまで、あと二日。

 明るい夜には、刃は来ない。来るとすれば、月が欠けて、霧の出る朝だろう。

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