キルギス街道
その村は、丘の陰に隠れるようにしてあった。
王都を発って三日目の昼過ぎである。街道から外れた細い道の先に、獣除けの柵が見えてきた。杭は新しいものと古いものが混じり、ところどころに蔓が絡んでいる。
ヴィヴィが馬上で首を伸ばした。
「隊長。あの柵、アタシたちが直したとこじゃない」
「覚えているのか」
「杭の打ち方が、うちの分隊の癖だもん。斜めに一本、控えを入れてある」
言われて見れば、古い杭の脇に、斜めの支えが律儀に添えられている。誰かがそれを真似て、新しい杭にも同じ支えを入れていた。
柵の内側で、薪を運んでいた少年が立ち止まった。旗を見上げ、目を丸くして、それから村の奥へ駆けていく。
ほどなくして、鐘が鳴った。
出てきたのは村長だった。前に会った時よりも白髪が増え、背も少し丸くなっている。だが、険しかった顔は、今は目尻に深い皺を刻んで笑っていた。
「三つ首の獣の旗だ。まさかと思ったが」
「通りがかっただけだ。長居はしない」
「そうはいかんよ、騎士様。あんたたちの残していった柵のおかげで、去年の冬は狼に一頭もやられなかった」
村長の後ろから、女たちが籠を抱えて出てくる。焼きたての黒パンの匂いが、風に乗って兵たちの鼻をくすぐった。干した林檎、塩漬けの豆、壺に入った山羊の乳。子供たちが兵の馬の周りを跳ね回り、ヴィヴィの分隊の若い兵が照れくさそうに頭を掻いている。
ロズヴェータは馬を降りる。
あの時、この村から一枚の銀貨も余計には取らなかった。取れと言われた分だけを取り、それ以上は取らなかった。燃える館の煙の匂いが鼻の奥から消えず、せめてもの埋め合わせのつもりでそうしたのだ。
その村に、取り立ての途中で迎えられている。
皮肉な話だった。
列の後ろで、コンラートが籠の中の林檎を一つつまみ、しげしげと眺めていた。
「いい村ですね、ロズヴェータ卿」
「ああ」
「取り立ての帳簿には、載っていない村ですね」
細い目が笑う。ロズヴェータは答えず、村長の差し出した椀を受け取った。山羊の乳は温かく、少しだけ青草の匂いがした。
◇◆◇
日が傾くと、村長は自分の家の炉端にロズヴェータを招き入れる。
低い梁に吊るした干し草の束から、埃と乾いた草の匂いが落ちてくる。炉では白樺の薪が燃え、鍋の中で豆と塩漬けの豚が煮えていた。ユーグは戸口の外に立ち、コンラートは広場で子供たちに林檎の投げ方を教えている。
村長は酸っぱい麦酒を木の杯に注ぎ、ロズヴェータの前に置いた。
「ルフィーネ様も、あんたが来たと知ったら顔を見たがったろうがね。あいにく、しばらくお留守だ」
「会わずに済むなら、その方がいい」
「そう言いなさんな」
村長は自分の杯を両手で包んだ。節くれだった指が、炉の火に赤く照らされている。
「ミディ様の館が焼けた夜のことを、覚えていなさるかね」
薪が爆ぜた。
ロズヴェータは杯から目を上げない。
「この村の若いのが三人、あの館で下働きをしていた。戻ってきたのは、一人もいない」
鍋の煮える音だけが、しばらく続いた。
「あんたがあの館に入った騎士の一人だってことは、村の者はみんな知っている。あんたたちがここへ来た時、それで皆が顔を強張らせていたんだ」
「……ああ」
「だがね」
村長は麦酒を一口すすり、ゆっくりと飲み下す。
「あんたが来た年、この村は冬を越せた。取れと言われた分だけ取って、それ以上は取らなかった。柵を直して、狼を追って、帰る時には娘たちが泣いた」
皺だらけの顔が、炉の火の向こうで揺れる。
「恨みと恩が、同じ家の中で一緒に暮らしている。それが、村ってもんだよ、騎士様」
「恨んでいい」
「恨むさ。恨みながら、柵の杭を真似る」
村長は笑った。歯の欠けた口の奥が、暗く見えた。
「どっちか一つにしてくれと思ったこともある。だが、どっちか一つにしたら、この村はもっと貧しくなる」
ロズヴェータは杯を干した。麦酒は酸っぱく、喉の奥に苦みが残る。
昼に、コンラートは言った。あの宰相は、切るべき時には根まで切る方だと。
切ったのは、宰相だけではない。命じられて剣を振るった自分の手も、同じ根を切っている。その手で、この村の柵を直したのだ。
西の果てのザールブルクで、自分は何を取り、何を残すのか。取り立てられた家にも、恨みと恩が一緒に住むことになるのだろうか。
「もう一杯、どうだね」
「いただこう」
村長が杯を満たす。炉の火が、二人の影を土壁に大きく揺らしていた。
戸口を出ると、夜気が頬を冷やした。
ユーグが、壁にもたれたまま顔を上げる。
「長かったですね」
「酒が酸っぱかった」
それだけ答えると、副官は何も訊かずに隣を歩き出した。
楔は抜けていない。だが、刺さっているのは、もう一本だけではなかった。
◇◆◇
二日後の夕刻、一行は灰石の修道院にたどり着いた。
宿の手配は、コンラートがつけている。
「この辺りで、兵をまとめて屋根の下に入れられるのはここだけです。院長とは、公爵家が昔からの付き合いでして」
その名のとおり、灰色の石を積んだ古い修道院だった。苔むした塀の内側に、麦畑と葡萄棚が広がり、鐘楼が夕空に黒く立っている。石の廊下は冷えきっていて、乳香と湿った黴の匂いがした。
晩の祈りの鐘が鳴ると、礼拝堂に人が集まりはじめた。修道士だけではない。東へ向かう巡礼たちが、埃まみれの外套のまま長椅子を埋めている。和議の条文にある、聖墳墓を詣でる者の往来。その流れが、もうこの西の果てまで届いているのだ。
ロズヴェータは、礼拝堂の最後列に腰を下ろした。
祭壇の前に、一人の修道士が立った。
三十前後。頬がこけるほど痩せていて、粗い僧衣が肩から落ちそうに見える。だが、口を開いた途端、その声は石の天井に響き渡った。
「兄弟たちよ。聞くがいい」
巡礼たちのざわめきが、ぴたりと止まる。
「聖都は還った。千年の都は、再び主の御手に戻ったのだ。そして、私は聞いた。聖墳墓の地下深く、主の御血を受けた杯が、土の中から見出されたと」
どよめきが広がった。祈るように手を組む者、涙ぐむ者がいる。
「私はクレメンス。この灰石の院で、主に仕える者だ。兄弟たちよ、考えてみるがいい。なぜ今、聖遺物が姿を現したのか。聖地が還ったことを、主が喜ばれたからだ。そして、主はこう仰せなのだ。ここで立ち止まるな、と」
痩せた修道士は、両腕を広げた。
「聖地は還った。ならば、その先へ。東の果てまで、主の御名を」
巡礼たちが一斉に唱和する。
その熱が石の壁に跳ね返り、蝋燭の炎が揺れた。
ロズヴェータは、膝の上で拳を握っていた。
聖遺物が見つかった、という噂。聖都で偽の聖釘を売っていた男も、西から来た巡礼から同じ話を聞いたと言っていた。出どころは、公爵家の筋が西の修道院に出入りしているという話として、リオリスが漏らしていた。
この院長は、公爵家と昔からの付き合いだという。
隣で、ユーグが小さく息を吐いた。何も言わない。ロズヴェータも、何も言わなかった。
祈りが終わり、巡礼たちが列をなして礼拝堂を出ていく。
ロズヴェータが立ち上がろうとした時、祭壇の前にいたはずの痩せた修道士が、いつの間にか長椅子の端に立っていた。
「騎士殿。聖都の方から来られたのか」
近くで聞くと、声は驚くほど細い。祭壇の前で響いていたのと同じ喉から出ているとは思えなかった。
「東から来た。これから西へ行く」
「では、聖都を見てこられた」
クレメンスの目が、熱を帯びて光った。
「杯を、ご覧になったか」
「見ていない」
「そうでしょう。そうでしょうとも」
修道士は、何度も頷いた。
「見ていない者ほど、信じる値打ちがあるのです。見えるものを信じるのは、誰にでもできる」
ロズヴェータは、しばらくその顔を見ていた。こけた頬に、偽りの色はない。この男は本気で信じている。信じているから、声が石の天井まで届くのだ。
「聖都では、ふた月ほど前に一人の男が捕まった」
「ほう」
「蹄鉄の釘を塩水で錆びさせて、聖釘だと言って巡礼に売っていた。西から来た巡礼が、道中の説教で聖遺物の話を聞いたと言っていたのを耳にして、商売にしたそうだ」
クレメンスの顔から、ゆっくりと熱が引いていった。
「……それは、嘆かわしいことです」
「ああ。嘆かわしい」
ロズヴェータはそれだけ言い、礼拝堂を出た。
廊下の角で、コンラートが院長らしき老修道士と立ち話をしていた。細い目がこちらを見て、軽く会釈する。老修道士の方は、目を合わせようとしなかった。
◇◆◇
夜更け、グレイスが部屋の戸を叩いた。
「若様。少し、厩へ」
狩人上がりの斥候頭は、それ以上言わずに先に立った。
修道院の厩は、石造りの長い建物だった。藁と馬糞の匂いがこもり、角灯の明かりが馬たちの目を濡れたように光らせている。グレイスは奥の仕切りの前で足を止め、一頭の栗毛の尻を灯りで照らした。
「ここです」
焼き印の跡があった。
だが、印そのものは読めない。皮膚ごと削り取られ、その上から別の焼き鏝を当てて潰してある。ただ、削り損ねた縁に、細い線が一筋だけ残っていた。弧を描く、羽根のような線。
「修道院の馬ではありません。蹄鉄が王都の鍛冶の打ち方です。それに、この院の馬はみな右の肩に十字の印を押してある」
「誰の馬だ」
「院長の客人の馬だと、厩番は言っていました。客人の名は知らないと」
ロズヴェータは、削られた跡を見つめた。
翼の盾に、獅子。公爵家の紋の縁を、指でなぞるように思い描く。重なるかどうかは分からない。分からないように、削ってあるのだ。
「グレイス」
「はい」
「見なかったことにしろ。誰にも言うな。ユーグにも、俺から話す」
「……承知しました、若様」
グレイスは角灯を下げ、何事もなかったように厩を出ていった。
ロズヴェータは、もう一度だけ栗毛の尻を見た。馬は迷惑そうに鼻を鳴らし、藁を踏み替える。
◇◆◇
二日後の昼、国境の石標が見えてきた。
キルギス街道が二つの丘のあいだの低い切れ目を抜けるところに、苔むした石の柱が立っている。その向こうに、ロスデリア帝国の関所が構えられていた。木の柵と見張りの櫓、槍を立てた兵たち。
かつてこの場所で、野盗に身を落とした騎士を追い詰めた。前には五百の槍が並び、背後からは自分が迫り、あの男は剣を地面に投げ捨てたのだ。
トラッドの西方分隊が、列の後ろで黙り込んでいた。
何人かが、石標の手前の道端に目を落としている。あの日、膝をついて座り込んだ場所だ。土はとうに踏み均され、何の跡も残っていない。それでも彼らの目は、そこから離れなかった。
トラッドが馬を寄せてきて、低く言う。
「隊長。少しだけ、ここで」
「行ってこい。列は待たせる」
西方分隊の長は馬を降り、石標に手を当てて短く頭を垂れた。祈ったのか、ただ触れただけなのか。ロズヴェータには分からなかった。
関所の門が開き、大柄な老騎士が歩み出てくる。
酒焼けした赤ら顔に、白いものの混じった顎髭。猛牛と呼ばれるにふさわしい肩幅だった。
「来たか、来たか」
マチス・ノトス・ロスデクは、腹の底から笑った。
「話は聞いておるぞ。儂が案内役じゃ。帝国の側の立会いも兼ねてのう」
笑いながら、老騎士の目はロズヴェータの背後を一巡りした。帳簿の入った革袋を抱えるガーデル。細い目で笑うコンラート。そして、王家の封蝋を押した取り立ての書状。
笑い声が、ほんの少しだけ低くなった。
「……ついてこい。ザールブルクは、この先の谷じゃ」
◇◆◇
谷へ下る道で、マチスが馬を並べてきた。
「嬢ちゃんらはのう、この半年ほど、本家の蔵の帳面を夜通しめくっておった」
前を向いたまま、老騎士は言う。
「どこを削れば年賦に届くか。削れるところは、もう削り尽くしておる。儂は数字は分からんが、あの二人の目の下の隈は分かる」
それきり、マチスは黙った。
ザールブルクは、谷の出口に築かれた城壁の街だった。
キルギス街道が街の中を貫き、東西の門に関が置かれている。荷馬車が列をなし、関の役人が荷を改めるたびに、銅貨の鳴る音がした。鍛冶屋の槌音、家畜の鳴き声、焼いた肉の脂の匂い。国境の街らしい、雑多な喧騒だった。
東の門の前に、二つの人影が立っていた。
長い髪を後ろで一つにまとめた姉と、短く切りそろえた髪の妹。小麦色に焼けた肌に、使い込まれた鎧。ミーリアとサーリアの姉妹騎士だった。
ミーリアが微笑んだ。
「ようこそ、ザールブルクへ。ロズヴェータ殿」
嫋やかな声だった。唇も、頬も、完璧に笑っている。ただ、瞳だけが笑っていない。
隣でサーリアが、一歩前に出かけていた。頬がうっすらと赤い。口を開きかけ、その視線がロズヴェータの後ろへ滑った。
ガーデルの抱えた革袋。そこから覗く、獅子と王冠の封蝋。
サーリアの顔から、赤みが引いていった。
「本家に、王都からの触れが届いたのは三日前です」
ミーリアは、微笑んだまま言った。
「リオングラウスの騎士団が、賠償の取り立てに来る。率いるのは騎士ロズヴェータ・スネク・カミュー。そう書いてありました」
「ミーリア殿」
「手紙は、届きませんでしたね」
ロズヴェータは答えられなかった。
白いまま文箱に戻した二枚の紙が、脳裏に浮かぶ。
サーリアが、低い声で言った。
「別々に寄越せって、言ったけどさ」
短槍を背負った妹は、ロズヴェータをまっすぐに見据えていた。
「どっちにも寄越さないってのは、なしだろ」
街の鐘が鳴った。
関の喧騒が、一瞬遠くなる。マチスが天を仰ぎ、コンラートが細い目をさらに細めた。
ロズヴェータは、二人の前で膝を折った。
「すまない。言い訳はしない」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ミーリアの睫毛が、わずかに震えた。
「……本家の当主が、お待ちです。ご案内します」
姉は踵を返した。妹は一度だけロズヴェータを睨み、それから姉の後を追った。
夕暮れの空に、半分より少し膨らんだ月が白く浮かんでいる。
満ちるまで、あと六日。




