西への道
聖都を発って七日目、街道の脇に浅い沼が続きはじめた。
水はとうに引いている。乾いてひび割れた泥の底に、枯れた葦の根が白く浮き、ところどころに踏み固められた小道が残っていた。一本の深い溝ではない。何十という浅い窪みが、網の目のように西へ広がっている。
「辺境へ向かった時にも、ここを通りましたね」
馬を並べたユーグが言った。
「あの時は逆から辿った」
ロズヴェータは窪みの一つを目で追った。十万の飢えた群れが、西から聖都へ流れてきた跡である。本来なら一本の太い川になって、ひと息に城門へ押し寄せるはずだった。それを誰かが、二十筋に割って痩せさせた。
割ったのが宰相コルベールだと、今のロズヴェータは知っている。会ったこともない老人が、紙と算盤で、聖都に届く波の丈を削ったのだ。
「その首、容易く売られるな、でしたか」
「二度も言われた」
「三度目がないことを祈ります」
ユーグは淡々と言い、前を向いた。
先行していたグレイスが、馬を返してきた。
「若様。この先の橋は、春の水で一度流されたそうです。浅瀬を渡る方が早い」
「荷駄は通るか」
「先の分隊が、もう石を並べ替えています」
狩人上がりの斥候頭は、それだけ告げてまた前へ駆けていった。
乾いた泥の匂いに、どこかで焚かれた野火の煙が混じっている。沼の縁では、開墾に入った農夫が鍬を振るっていた。巡礼が捨てていった土地を、誰かがもう耕しはじめている。
◇◆◇
八日目の夜は、月がなかった。
新月である。川べりの野営地に篝火が焚かれ、その外は墨を流したような闇だった。星だけがやけに近い。水音と、繋がれた馬が草を食む音と、誰かの寝息が混じり合っている。
ロズヴェータが篝火の番を代わると、トラッドが薪を抱えてやってきた。
「隊長。まだ起きておられましたか」
「月がないと眠れない性分でな」
嘘である。トラッドもそれを分かった顔で、黙って薪をくべた。
火が爆ぜ、西方分隊の長の顔を下から照らす。軍議の夜から、この男の口数が減っていることにロズヴェータは気づいていた。
「軍議で、言い淀んだな」
「……聞こえておりましたか」
「あの人、と言いかけた」
トラッドは薪を一本、手の中で回した。
「呼び捨てにすると、自分まで野盗だったことになる気がするのです。殿を付けると、今度は隊長に拾われた身で何を言うのかと、自分で自分を嗤いたくなる」
「どちらでもいい」
「隊長は、そう仰ると思っておりました」
トラッドは薪を火に落とした。火の粉が闇に吸われていく。
「ザールブルクの近くにいる連中も、たぶん同じです。拾われた先で、前の主をどう呼ぶか決めかねている。そこへ、取り立ての旗が来る」
「俺の旗だ」
「はい。だから、分隊の者たちは口が重いのです」
ロズヴェータは篝火の向こうの闇を見た。
月のない夜は、何が来ても見えない。和議の帰りに、自分はそう言った。一年あれば目はいくらでも増やせる、とも。
目は増えた。だが増えた目の数だけ、見返してくる目も増えている。
「トラッド」
「はい」
「向こうで昔の仲間に会ったら、遠慮なく話せ。俺のことを悪く言われても、言い返さなくていい」
「……承知しました」
トラッドは立ち上がり、一礼して闇の中へ戻っていった。足音が遠ざかると、川の音だけが残る。
ロズヴェータは火の番を続けた。夜明けまで、まだ長い。
◇◆◇
十日目の夕刻、一行は王都の城壁を仰いだ。
宿は西の外れの、荷馬車宿を兼ねた古い旅籠である。厩の藁の匂いと、煮込みの脂の匂いが中庭にこもっていた。兵たちが荷を下ろし、馬に水をやる喧騒の中で、ロズヴェータは二階の奥の部屋に入った。
夜が更けてから、裏口の戸が小さく三度叩かれる。
ユーグが戸を開けると、外套の頭巾を目深にかぶった娘が滑り込んでくる。頭巾を払うと、見慣れた顔が満面の笑みを浮かべていた。
「隊長。お帰りなさいませ、と言うには早すぎますね。また西ですって」
「ネリネ。耳が早いな」
「写字生の子が教えてくれました。王命の写しを取ったのが、その子の兄弟子だったので」
ネリネは椅子に腰を下ろすなり、指を折って数えはじめた。
「王命は御前会議を通っていません。公爵家の筋から、陛下の御名を借りる手続きだけで出ています。リオリス様が摂政殿下の御前で異を唱えられたそうですが、私兵でないなら王命に使えるはずだ、という理屈に言い返しようがなかったと」
「リオリスは何と言った」
「聖都から戻ったばかりの者を、また遠くへやるのは酷だ、と」
ロズヴェータは苦笑した。あの男らしい。いちばんまっすぐな場所に、いちばん通らない言葉を置く。
「それから、目付が付きます。公爵家の家人で、コンラートという方です」
ユーグの赤い瞳が、わずかに細くなった。
「北の街道に網を張った男ですね」
「はい、副長。その方です」
ネリネの声が、そこでほんの少し弾んだ。
「実は三日前、講堂の渡り廊下ですれ違いました。向こうが立ち止まって、にっこり笑ったんです。旗持ちのお嬢さん、北は寒かったですよ、って」
部屋の空気が冷えた。
ロズヴェータは卓に肘をつき、娘の顔を見た。怯えている様子はない。むしろ目が輝いている。
「それで、お前はどうした」
「北は行ったことがないので存じません、と申し上げました」
「ネリネ」
「はい」
「明日の朝、その男がここに来る。お前は顔を出すな。見送りにも来るな。俺たちが王都を出るまで、寮から一歩も出るな」
ネリネは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに頬を染めた。
「はい、隊長。叱られました」
「叱ってはいない。命じている」
「同じことです」
ユーグが深い溜息をついた。
「ネリネ。講堂の協力者たちには、しばらく接触を控えさせなさい。その男が笑った以上、あなたの糸はもう見られていると思った方がいい」
「手配は済ませてあります、副長。洗い場の子も厩の子も、今月は里帰りです。あ、それから」
ネリネは思い出したように付け加えた。
「学園の厩に、また草原の馬商人が出入りしています。長い煙管の、あの人です。隊長たちが王都に入ったのと同じ日に、ふらりと顔を出したそうで」
「公爵家の網と、草原の耳か」
ロズヴェータは卓を指で叩いた。
「同じ門を、二つの目が見ているわけだ」
「三つです、隊長」
ネリネは自分の胸を指した。
「私も見ていますから」
ユーグがこめかみを押さえた。
ロズヴェータは革袋を一つ、卓の上に置いた。ネリネの目がそれを捉え、また輝く。
「寮から出るなと言った分の、手間賃だ」
「出ないだけでもらえるんですか」
「出ないのが、いちばん難しいだろう。お前には」
ネリネは声を立てずに笑い、革袋を懐にしまった。頭巾をかぶり直し、戸口で振り返る。
「隊長。西で、お気をつけて。あの方の笑い方は、何かを知っている時の笑い方でした」
戸が閉まり、足音が裏庭の闇に消えた。
◇◆◇
翌朝、中庭に三騎の馬が入ってきた。
先頭の男は二十代の半ばほど。旅装は質素だが、鞍の金具だけがよく磨かれている。細い目が、馬上から中庭を一巡りして、ロズヴェータの上で止まった。
笑っている。いや、笑った形のまま目が固まっているのだ。
男は馬を降り、胸に手を当てて一礼した。
「公爵家よりの目付として、取り立ての検めに同行いたします。コンラートと申します。道中、よしなに」
差し出された書付には、翼の盾に獅子の封蝋が押されていた。ルクレイン公爵家の紋である。ロズヴェータは受け取り、目を通してユーグに渡した。
「承った。検めるのは帳簿か、兵か」
「両方です。ついでに、ザールブルクの関の上がりも」
コンラートは細い目をさらに細めた。
「北の街道は、ずいぶん冷えました」
それだけ言って、また笑う。
ロズヴェータは表情を変えなかった。背中で、ユーグが剣の柄に指をかけずにいるのが分かる。かけずにいるのに、かけているのと同じくらい空気が張っていた。
「北は行ったことがない」
「でしょうね。こちらは、無駄足でした」
コンラートは肩をすくめ、自分の馬の手綱を供の者に渡した。
「出立はいつです」
「半刻後だ」
「では、それまで厩で馬を休ませておきます。なかなかいい厩だ。藁が新しい」
男は機嫌よさそうに鼻歌を歌いながら、厩の方へ歩いていった。
その背中を見送って、ユーグが低く言った。
「知っていると、わざわざ教えに来ましたね」
「隠す気がないのか、隠す必要がないのか」
「どちらにしても、厭な男です」
ロズヴェータは答えなかった。
◇◆◇
王都の西門を出たのは、日が高くなる前だった。
門をくぐる間際、鼻の奥をかすかな匂いが刺す。焦げた草のような、甘く苦い煙の匂い。辺境へ向かった朝にも、同じ匂いを嗅いだ気がする。
振り返ると、門の暗がりに人影はない。ただ、石壁の角に、細い煙の筋が一本だけ残っていた。
コンラートも振り返っていた。細い目が、ほんの一瞬だけ笑いを忘れている。すぐに元へ戻ったが、ロズヴェータはそれを見ていた。
網を張る者は、自分だけが網を張っていると思いたがる。
街道は西へまっすぐ延びていた。麦の刈り跡が続く平地に、ところどころ風車が立っている。荷馬車の轍に溜まった水が、空を映して白く光っていた。
昼過ぎ、コンラートが馬を寄せてきた。
「西へ行かれるのは、グリオルドの戦以来ですか」
「野盗を追って、一度」
「ああ、クリウベルの件」
後ろで、トラッドの馬の足並みがわずかに乱れた。コンラートは気づかないふりをして、話を続ける。
「グリオルドの後といえば、ミディ家の件もございましたね。三頭獣がずいぶんお働きになったとか」
ロズヴェータは前を見たまま、手綱を握る指に力が入るのを感じた。
「王命に従っただけだ」
「ええ、存じております。あれは王国の総意でしたから」
コンラートは、世間話のような調子で言った。
「あの根切を御前で献策なさったのが、宰相閣下だったそうで。いえ、宮廷では誰でも知っている話ですが。あの方は紙と算盤のお人だと思われがちですが、切るべき時には、根まで切る方なのですね」
風が止んだ気がした。
知っている。あの時、ルフィーネ・オルシャの口から聞いた。宰相閣下が提案され、それが国の総意になったのだと。だから恨むなら国を恨め、と。
知っていて、しまっておいた話だった。
その宰相が、二度も首を案じる言葉を寄越している。会ったこともない男の首を。
「宰相閣下は、ずいぶんお優しい方だとか」
コンラートは笑った。今度の笑みは、目の奥まで届いていた。
「どなたにも、お優しいのでしょう。切ると決めた相手にも」
それだけ言って、男は馬の頭を返し、列の後ろへ下がっていった。
鼻の奥に、また煙の匂いがした。今度は草の煙ではない。燃える館の、油と布と人の焼ける匂いだった。
ユーグが、黙って馬を寄せてきた。
「楔ですね」
「分かっている」
「分かっていても、刺さる楔です」
ロズヴェータは答えなかった。
コルベールの文は、ニャーニィの手で運ばれてきた。宛名のない紙に、首を案じる一文だけ。あれが情なのか、算盤なのか。考えたことがないと言えば嘘になる。
考えないようにしていたのだ。
楔はそこへ打たれた。
抜くことはできる。コンラートの言葉を、公爵家の揺さぶりだと片付けてしまえばいい。だが、言われたことは嘘ではない。嘘でないから、抜いても穴が残る。
ならば、抜かずに握っておく。
ユーシャルの絹の文も、草原の白い羽の矢も、そうしてきた。毒だと分かっているものほど、手放さずに味を覚えておく。いつか、どちらの手で握るべきかが分かる日まで。
「ユーグ」
「はい」
「宰相閣下の文は、焼かずに取ってある」
「存じております」
「これからも取っておく」
ユーグは少しだけ間を置いて、頷いた。
◇◆◇
夕刻、一行は街道脇の丘で野営を張った。
西の空が茜から紫へ移っていく。刈り跡の畑を渡る風が、冷たさを帯びはじめていた。兵たちの鍋から湯気が上がり、ヴィヴィの笑い声が遠くで弾けている。
コンラートは供の二人と、少し離れた木陰に天幕を張った。近すぎず、遠すぎず。見張るにはちょうどいい距離だった。
天幕を張る前に、その距離を一度だけ詰めてきている。
野営の支度が整うと、コンラートはガーデルの天幕を訪ね、帳簿を見せてほしいと言った。検めの役目である。ガーデルは顔色一つ変えずに帳面を差し出し、ロズヴェータもそれを止めなかった。
コンラートは立ったまま頁をめくった。三頭獣の糧、荷駄の数、兵の頭数。指はそこで止まらず、最後に挟まれたクロイツェル家の年賦の写しの上で止まる。
「なるほど」
細い目が、数字の列をなぞった。
「払えない額ですね」
ガーデルの眉が、ほんのわずかに動いた。
「検めの方が、そう仰いますか」
「検めるのは、取り立てが正しく行われるかどうかです。額が正しいかどうかではない」
コンラートは写しを帳面に戻し、丁寧に閉じてガーデルへ返した。
「額を決めたのは、もっと上の方ですので」
それだけ言って、男は自分の天幕へ戻っていった。
ガーデルは返された帳面を膝に置き、しばらく黙っていた。やがて、独り言のように呟く。
「知っていて検めに来る者の方が、知らずに来る者よりずっと厄介です」
「数字を知っていても、使い道までは知らないかもしれない」
「使い道を知っていたら、なおさらです」
帳簿係は帳面を革の袋にしまい、紐を固く結んだ。
ロズヴェータは丘の上に立ち、西を見た。
沈んだ日の名残の中に、細い月が浮かんでいる。新月から数えて、まだ三日目か四日目。爪で引っかいたような、生まれたばかりの弧だった。
あの月が満ちる頃には、ザールブルクに着いている。
双子の顔が浮かんだ。白いまま文箱に戻した二枚の紙も。
背後で、草を踏む音がした。ユーグだろうと思って振り返らずにいると、声は別の方角から来た。
「いい月ですね」
コンラートだった。細い目が、月と同じ形に笑っている。
「西の月は、よく見えます。遮るものがないので」
「東の月も、よく見えた」
「ええ。聞いておりますよ、泥の海の話は」
男は一礼して、自分の天幕へ戻っていった。
ロズヴェータはもう一度、西の空を見上げる。
生まれたばかりの月は、細いぶん、よく切れそうに見えた。




