王家派閥からの指名依頼
本編復帰
麦袋の山から、乾いた埃の匂いが立っていた。
聖都の東、三頭獣の宿営に張った糧秣の天幕である。帳面をめくるガーデルの指が同じ行を二度なぞって止まる。
「辺境へ往復した五十日のあいだに、糧が計算より四袋浮いております」
「浮いた?」
「ヴィタス殿が、開墾の巡礼に屑麦の挽き方を教えたそうで。粥の嵩が増えました」
ロズヴェータは短く笑った。留守を預けた男は、預けた以上のことをしている。
帰り着いて二日。辺境の城の篝火と、婚礼の夜に鳴った太鼓の響きが、まだ耳の底に残っている。長兄の居室で握った樫の杖の、ざらりとした木肌の感触も。
天幕の外で、砂を踏む硬い足音がした。
規則正しく、一歩の幅が変わらない。この都でそういう歩き方をする者は一人しかいなかった。
「騎士ロズヴェータ。在所か」
垂れ布を払って入ってきたのは、女王の名代アルブレヒト・ヴェルダー卿だった。供は連れていない。手に、獅子と王冠の封蝋を押した筒を一本携えている。
ロズヴェータは立ち上がって膝を折り、ユーグが無言で天幕の口に立った。
「王都より届いた。国王陛下の御名による王命だ。宛名は卿だが、名代を通して読み渡せとの添え書きがある」
「拝見いたします」
「読み上げて渡せ、とある」
ヴェルダーは封を切って羊皮紙を広げた。蜜蝋の甘い匂いが、麦の埃に混じる。
読み上げる声に、抑揚はなかった。
グリオルド平原の和約により、キルギス街道沿いのザールブルクはロスデリア帝国に留め置かれた。その代わりとして、ザールブルクを治めるクロイツェル家が、年賦の賠償を負う。しかるに二年分の支払いが滞っている。騎士ロズヴェータ・スネク・カミューは三頭獣を率いてザールブルクに赴き、滞った賠償を取り立てよ。払い得ぬ分は、和約の付記に定める「東へ向かう者の通行の保証」をもって充てしむべし。
「西方とキルギス街道の事情に通じた騎士として、特にこれを命ず。……以上だ」
羊皮紙が巻き戻される乾いた音がした。
ロズヴェータは膝をついたまま頭の中で地図を広げていた。
キルギス街道。ロスデリアと王国を結ぶ大動脈の一本。かつてその街道で、野盗に身を落とした騎士を追い、国境の石標の手前で捕らえた。西方を知る騎士、という文言はそこから引いてきたのだろう。
「添え書きがもう一枚ある」
ヴェルダーは二枚目を読まずにロズヴェータへ差し出した。
目を落とす。和議の履行を検めた騎士の報告を受け、とあった。聖都の蔵で養われている三頭獣が私兵ではなく王国の騎士団であるならば、王命に服することに何の支障もないはずである、と。
「私兵でないなら、王命に使えるはずだ、と」
「そう読める」
ヴェルダーの返事は短い。
「受けるか否かは卿が決めることだ。ただ、断る道はどこにも書かれていない」
「書かれていない道ほど、よく見張られているものです」
ロズヴェータが答えると名代の口元がわずかに動いた。笑ったのか、苦い顔をしたのか。見分けがつく前に、ヴェルダーは踵を返している。
垂れ布に手をかけたところで、足が止まった。
「日付を見たか」
「日付、ですか」
「卿が王都を通った頃の日付だ。王都から聖都まで十日。卿が戻って二日目に、ちょうど届く」
それだけ言って、正しさの人は出ていった。砂を踏む足音が、同じ幅で遠ざかっていく。
ロズヴェータは二枚の羊皮紙を見比べた。
往来の時刻を探っていた者がいる。王都でネリネがそう報せてきた。北の街道には網が張られ、空振りに終わったと聞いている。
網は空振りしても、時刻は掴まれていたのだ。
筆を執ったのは、おそらく同じ手だろう。女王に婿を添え、名代を送り込み、和議の卓から聖都を外そうとして外しきれなかった手。斧を振るわずに土から養分を抜く男が、今度は根ごと鉢を移しにかかっている。
顔の見えない相手と盤を挟むのは、これで何度目になるのか。
「ロズ」
天幕の口で、ユーグの赤い瞳が冷えていた。
「軍議を。今夜のうちに」
◇◆◇
日が落ちると、宿営の大天幕に灯がともった。
獣脂の蝋燭が爆ぜ、煤の匂いが低く漂う。卓には西方の地図が広げられ、ザールブルクの位置に小石が一つ置かれていた。
集まったのは、ユーグ、ガーデル、ヴィタス。東の壁から戻ったばかりのエリシュは、髪に石灰の粉をつけたまま、腕を組んで柱にもたれている。卓の端には王配ルセーブルが、女王の名代と同じく供も連れずに座っていた。
最後に垂れ布をくぐったのは、西方分隊の長トラッドである。
ロズヴェータが王命の中身を短く告げると、最初に口を開いたのはガーデルだった。
「断れば、どうなるかを先に申し上げます」
帳面を開く。
「検めの騎士が写していった数字では、三頭獣の糧は日に麦三十袋。これを王命の兵の糧と書くには、王命に従った実がいります。断れば、同じ三十袋が私兵の糧になる。蔵を私した、という話にできます」
「ハーゲンは、見たとおりを書くと言っていた」
「見たとおりの数字は、読み方で刃にも盾にもなります」
ガーデルの声は平らだった。数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、それを読む者の方だ。
ヴィタスが、静かに手を上げた。
「この王命の芯は、ザールブルクではございません」
元は三日月の将だった男は地図のザールブルクではなく、聖都の上に指を置いた。
「ロズヴェータ様を、聖都から外すことにございます。取り立てが果たされても、果たされなくても、発った時点で目的の半分は済んでいる。残る半分は、西で何かが起きるかどうか。起きれば、それも向こうの勘定に入りましょう」
「何か、とは」
「それが読めぬところが、この手の厭なところでございます」
蝋燭の芯が小さく鳴った。
しばらく黙っていたルセーブルが卓の上の写しに手を伸ばした。年賦の額が書かれた一枚である。
指が数字の列をたどる。途切れがちだった王配の息が、そこで整った。
「……この額は、払える額ではない」
言葉が、滑らかになる。
「ザールブルクは街道の関を持っているはずだが、関の上がりを丸ごと注いでも、年賦の三分の二に届かない。そこへ滞った二年分の利息が乗る。これは払わせるための額ではなく、払えないための額だ。払えなければ、残るのは付記の一行だけになる」
「通行の保証」
「そうだ。卿は、銭を取りに行くのではない。関の鍵を取りに行かされる」
天幕の中が、しんと静まった。
ロズヴェータは王配の横顔を見た。数字に入ると別人になる男の目は、まっすぐ写しの上にある。和議の天幕で覚醒したものは、戻っていない。
「東へ向かう者、というのは誰のことだ」
エリシュが柱から背を離した。
「巡礼じゃないでしょ。巡礼の往来なら、もう和議の条文にある」
「軍勢だろうな」
ロズヴェータは答え、それ以上は言わなかった。聖都が還った今、西の王侯たちがその先を見ている、という話は耳にしている。だが、確かめようのない話を軍議の卓に載せる気にはなれなかった。
「トラッド」
「はい、隊長」
呼ばれた西方分隊の長が、半歩前に出た。日に焼けた首筋に、古い火傷の痕が見える。
「ザールブルクのそばに、キフォー家の預かりになった連中がおります。あの人……クリウベル殿の下で、槍を並べていた者たちで。百に足りないほど」
「覚えている。国境で、あの姉妹が引き取った」
「向こうで会えば、話は通るはずです。ただ……」
「ただ?」
「取り立てに来た男の話を、どこまで聞くかは分かりません」
トラッドはそう言って、視線を落とした。
ロズヴェータは卓の上の小石を見た。ザールブルクを治めるのはクロイツェル家。双子はその分家、クロイツェル・キフォーの娘たちだ。本家が取り立てを受ければ、分家が知らぬ顔でいられるはずがない。
「受ける」
短く言った。
「王命の兵であることを、王命で証す。ヴェルダー卿の言うとおり、断る道はない。ならば、行く道の方を選ぶ」
誰も異を唱えなかった。
ロズヴェータは地図の上で指を二つに割った。
「連れていくのは三頭獣の半分。ユーグ、ガーデル、斥候はグレイスとナヴィータ。それにトラッドの西方分隊と、ガッチェ、ヴィヴィの分隊だ。残りは聖都に置く」
「留守の差配は」
ユーグの問いに、ロズヴェータはヴィタスを見た。
「前と同じだ。ヴィタスに預ける」
「承りました」
「東の壁は」
「あたし」
エリシュが即座に答えた。
「紅剣が持つ。だからロズ、西でさっさと片付けて、さっさと帰ってきなさい。長引かせたら、あたしが迎えに行くから」
「迎えに来られたら壁が空く」
「だから長引かせるなって言ってるの」
笑いが起きた。天幕の空気が、わずかに緩む。
ルセーブルだけが笑わず、写しを静かに卓へ戻していた。
◇◆◇
軍議がはねた後、ロズヴェータは宿営の外れへ足を向けた。
焚火が三つ、四つ。西方分隊の天幕の前で、ガッチェとヴィヴィが鍋を囲んでいる。煮詰まった豆と塩漬け肉の匂いが、夜気に重く溜まっていた。
「隊長」
ヴィヴィが椀を置いて立ち上がりかけるのを、手で制する。
「聞いたか」
「西へ行くって話なら。ついでに、取り立てだってことも」
赤髪の分隊長は焚火に小枝を放り込んだ。ぱちりと火の粉が跳ねる。
「徴税なら前にもやったね。あの村。取るもんだけ取って、それ以上は取らなかった」
「今度の相手は村ではない。ロスデリアの貴族の家だ」
ガッチェが静かに言い添えた。筆頭分隊長の琥珀色の目が、火を映して揺れている。
「取らねば王命に背く。取りすぎれば、国境の向こうに恨みが残る。どちらに転んでも、隊長の名が勘定に入ります」
「分かっている」
「分かっておられるなら、よろしいのです」
ガッチェはそれだけ言うと鍋の底をかき回す。辺境の出の男は、いつも言葉を惜しむのだ。
少し離れた焚火の脇では、トラッドが西方分隊の者たちと車座になっていた。誰も声を上げない。酒の革袋だけが、無言で手から手へ回っている。
故郷の話をしているのだろう、とロズヴェータは思った。焼かれた村と、晒された首と、国境の石標の前で膝をついた日の話を。
あの日、彼らはロスデリアへ逃げようとして、逃げ道を塞がれた。塞いだのは猛牛マチスの槍と、あの双子だ。
そして拾ったのが、自分だった。
「……バリュードは、置いていかれるのを知ってえらく拗ねてましたよ」
ヴィヴィがわざと明るい声を出す。
「斬る相手がいないなら、せめて東の壁で三日月の斥候でも追い回してろと言っておきました」
「休戦中だぞ」
「だから追い回すだけです」
ロズヴェータは苦笑して、差し出された椀を受け取った。豆は塩が強く、舌に少し苦い。
西の風が、焚火の煙を東へ流していく。
◇◆◇
夜更け、ロズヴェータは自分の天幕で筆を執っていた。
一通目は、南へ送る。宛名はニャーニィ。
書き終えて封をすると傍らのユーグが眉を上げた。
「何を頼まれたのです」
「頼み事だ。断られたら、帰り道が長くなる」
それ以上は言わない。ユーグも重ねて問わなかった。聞かずとも、いずれ分かると知っている顔だった。
ロズヴェータは次の紙を二枚並べる。
いつもそうしている。姉のミーリアと妹のサーリアには、必ず別々に書く。同じ文を二通書き写したことが知れた時、妹の方からひどく叱られたのだ。別々に寄越すんだぞ、と国境で念を押されたのを覚えている。
筆先に墨を含ませる。
紙の上で、手が止まった。
思い出すのは、グリオルド平原の南に広がる森だった。後ろ手に縛られ、足に血の滲む包帯を巻いて座らされていた二人の女騎士。ユーグの剣先に怯えながら、それでも家名だけは誇りをもって名乗った声。
それから、国境の石標の前に並んだ五百の槍。猛牛と呼ばれる老騎士の隣で、悪戯っぽく笑った姉の顔。少しはあの時の恩義を返せたかしら、と。
その恩義の続きを、今度は取り立てに行く。
同じ戦の後で、自分は燃える館に兵を入れた。女子供を問わず、と命じられたとおりに。煙に巻かれた使用人の顔も、口止めを含んだ報酬の重さも、忘れてはいない。
あの西へ、また行くのだ。
墨が、筆先で乾いていく。
「書かないのですか」
ユーグの声は低い。
「書けば、嘘になる。取り立てに行くとは書けない。書かなければ、向こうで顔を見るまで何も知らせないことになる」
ロズヴェータは筆を置いた。
「どっちがましだ」
「……私に聞かないでください」
ユーグは目を伏せた。
「どちらを選んでも、あの二人は貴方を恨みます。恨まれ方が違うだけです」
二枚の紙は、白いまま文箱に戻された。
◇◆◇
三日後の明け方、西門の前に出立の列が並んだ。
馬の吐く息が白い。鞍に積んだ麦袋が軋み、蹄が石畳を掻く音があちこちで鳴っている。見送りに出てきた開墾の巡礼たちが、門の脇で遠巻きに手を振っている。
門の影に、灯りが一つあった。
角灯を提げて立っているのは、王配ルセーブルだった。やはり供はいない。
「殿下。わざわざ」
「陛下から、言葉を預かっている」
ルセーブルは自分の左の掌を見下ろした。そこに何も書かれていないことは分かっている。それでも、指でなぞられた跡を確かめるような目だった。
「こう書かれた。……るすは、わたしたちが、あずかる」
途切れがちな王配の声が、そこだけ途切れなかった。
「私たち、と書かれた。陛下と、私のことだ」
ロズヴェータはしばらく言葉を探した。
喋らぬ女王と、愚かであれと育てられた王配。この都でいちばん軽く見られていた二人が、留守を預かると言っている。
「殿下」
ロズヴェータは馬を降り、胸に手を当てた。
「お預けいたします」
「卿は、戻ってくればいい。帳簿は、私の頭の中にある」
ルセーブルはそう言って、わずかに口の端を上げた。和議の天幕でロズヴェータが囁いた言葉を、そのまま返したのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
角笛が短く鳴る。
列が動き出した。ガッチェの分隊が先を行き、ヴィヴィの分隊が荷駄を挟む。トラッドの西方分隊は、誰に言われるでもなく列の最後尾についた。故郷へ向かう者たちの背中は、どこか硬い。
荷駄の列の中ほどでは、道化化粧の女商人ラスタッツァの幌馬車が揺れていた。西へ行くと聞くなり、稼げる商売に手を出さないのは商人じゃない、と言って勝手に荷をまとめてきたのだ。
ユーグが馬を寄せてきた。
「王都で、目付が付くでしょう」
「付くだろうな」
「北の街道に網を張った男なら、どうなさいます」
「笑って迎えてやれ。向こうもそうする」
副官は答えず、赤い瞳だけを細めた。
西門をくぐる。
振り返ると、東の空が白みはじめていた。あの地平の向こうでは、首狩りが内乱の火を踏み消している。休戦の一年は、まだ始まったばかりだ。
前を向く。
西の空に、欠けはじめた月が白く残っていた。これから向かう先へ、ゆっくりと沈んでいく。




