【幕間】月の満ちる野営
野営地は、枯れた河原に広がっていた。
幾百の天幕が、乾いた石の上に杭を打ち込んで並んでいる。三日月の旗が夕風に鳴り、馬の嘶きと鍛冶の槌音が、河原の石に跳ね返って低く響いていた。焚き火の煙に、羊の脂と没薬の匂いが混じる。聖都の和議の天幕で嗅いだのと同じ香だ。祖父の陣は、どこへ移ってもこの匂いがする。
ユーシャルは、馬上から陣を見渡した。
兵の数は、泥の海の前の半分にも満たない。重騎兵の天幕は、ほとんど見当たらなかった。あの鉄の潮を成していた名家の子弟たちは、いまも敵の都の穀物庫か、二つ目の峠を越えて故郷に帰ったか、泥の底にいる。代わりに目立つのは、軽騎兵と弓騎兵、そして徴発されたばかりらしい痩せた歩兵たちだ。
ここへ来る道すがら、ユーシャルは焼けた村を一つ通り過ぎていた。
反乱の火ではない。反乱を恐れた代官が、先に焼かせた村だという。燻る梁の匂い、焦げた麦の匂い。崩れた泥の壁の陰から、痩せた子供たちが、三日月の旗を掲げた騎馬の列をじっと見上げていた。石を投げるでもなく、手を伸ばすでもなく。ただ、見ていた。
あの目を、ユーシャルは忘れられずにいる。聖都の城壁の外で、十万の巡礼たちが同じ目をしていたと、国境の商人から聞いたことがある。飢えた者の目は、どの神を奉じていても変わらないらしい。
東へ三日の地で、太守領の一つが火を噴いた。
軍費の取り立てに耐えかねた民が、代官の館を焼き、蔵を開いたのだという。祖父イブラヒムは、和議で浮いた兵をそのまま東へ向け、自らその火を踏み消しに行く途中だった。
「お嬢様。総督閣下がお待ちです」
迎えの騎兵が、恭しく頭を下げる。ユーシャルは母アリマの書状を収めた革筒を抱え直し、馬を降りた。
河原の石が、靴の底で冷たく鳴る。
◇◆◇
本営の天幕には、先客がいた。
入り口の垂れ布をくぐった瞬間、ユーシャルはそれを空気で知った。香の煙が、いつもより重い。天幕の中の誰もが、息を詰めて何かを待っている。
奥の床几に、祖父が座っていた。
金色の髪も、伸びた背筋も、いつもどおり揺るがない。首狩り総督。長い耳の先まで、微動だにしていなかった。
その前に、二人の男が立っている。
一人は、肩幅の広い壮年の男だ。日に焼けた顔に、刈り込んだ黒い髭。腰の曲刀の柄に、指輪をはめた手を置いている。西方の太守、ダーウード。主戦派の頭目にして、その甥はいま聖都の賓客の館にいる。
もう一人は、痩せた初老の男だった。質素な灰色の長衣に、使い込まれた数珠。帝都の神殿の説教師だ。民の中に最も多くの信徒を持つシェリア派の、名の知れた説き手の一人。そして、泥の海で捕らえられた女騎士ナスリーンの父である。
「おお、アリマ殿の姫君か」
ダーウードが振り返り、髭の下で口の端を歪めた。
「ちょうどよい。お母上の和議の使いにも、聞いてもらおう。儂の話をな」
ユーシャルは祖父に一礼し、天幕の隅に控えた。
「聞こう」
祖父の声は、低く短い。
「では、遠慮なく」
ダーウードは、ぐいと一歩前に出た。
「一度目は、聖都を捨てての退き。二度目は、泥に牙を折られての退き。三度目が、和議という名の紙だ。退くたびに、帝国の名家の子らが敵の手に残る。儂の甥は、いまも聖都の館で、異教徒の飯を食わされておる」
「条文では、家格に相応しく遇される」
「遇されておるから、恥だと言うておるのだ」
ダーウードの声が、天幕の布を震わせた。
「帝国の太守の甥が、敵の都で客扱いだ。泥の海で捕らえられた、あの銀の獅子の捕虜としてな。儂の家の名が、どれほど笑われているか。総督の座にある方には、分かるまい」
祖父は答えなかった。
ユーシャルは、祖父の横顔を見た。表情は動かない。だが、唇の端がほんのわずかに締まったのを、孫娘は見逃さなかった。
「儂は、再戦を求める」
ダーウードは言い切った。
「雪解けを待つ必要はない。聖都の銀の獅子は、いま辺境に帰っておる。兄の婚礼だそうだ。都を空けたこの隙に」
「和議を破れと言うか」
「紙切れ一枚。首狩りと呼ばれた方が、紙を惜しまれるとは」
天幕の中の空気が、凍りついた。
ダーウードの背後に控えた家臣たちでさえ、息を呑んでいる。首狩り総督に向かって、その渾名を嘲りとして口にした者を、ユーシャルは知らない。
祖父は、ゆっくりと顔を上げた。
「……破ってもよい」
低い声だった。
「破って、聖都へ攻め上る。攻城塔は泥に沈んだ。重騎兵の半ばは、お前の甥と共に敵の手にある。残る兵は、東の火を消しに向かっている。……破るのは容易い。破った後、その兵をどこから出す。お前の太守領からか」
ダーウードの顔が、赤黒く染まった。
「儂の領からも、兵は出しておる」
「出しておる。そして、お前の領の民は、その兵のために蔵を空にしている。東で焼けた代官の館は、お前の隣の領だ。次に焼けるのが、お前の館でない理由を聞こう」
ダーウードは、言葉に詰まった。
その沈黙に、もう一人の男の声が静かに滑り込んだ。
「総督閣下」
説教師だった。
数珠を指に絡めたまま、穏やかに一礼する。
「東で火を噴いた者たちは、みな、わたくしどもの信徒でございます」
ユーシャルは、息を詰めた。
「シェリアの教えを奉ずる、貧しい民です。畑を耕し、羊を飼い、神に祈る者たち。その者たちが、なぜ代官の館を焼いたか。閣下はお分かりのはずです」
「軍費だ」
「さようでございます。聖都を攻めるための麦、聖都を捨てて退くための馬、泥に沈んだ攻城塔の木。そのすべてが、民の蔵から出ております。そして、それを命じられるのは、いつも」
説教師は、そこで言葉を切った。
言わずとも、天幕の中の誰もが続きを知っていた。支配する者たちの多くが奉ずるズンジェの教え。総督イブラヒムも、その一人だ。シェリアの民から麦を取り、ズンジェの貴人が戦をする。帝国の底に、長いあいだ沈んでいた澱が、いま東の太守領で火になって噴き上がっている。
「わたくしは、東の信徒たちに説くことができます」
説教師は、柔らかな声のまま続けた。
「神の御心は、館を焼くことにはない、と。刃を収め、畑に帰れ、と。わたくしの言葉なら、あの者たちは聞くでしょう」
「代わりに、何を望む」
「娘を」
短い答えだった。
「泥の海で捕らえられた、わたくしの末の娘。ナスリーンを、一日も早く帝国へ。雪解けを待たずに」
ユーシャルは、説教師の横顔を見た。穏やかな声の奥に、父親の顔がのぞいている。だが、それだけではなかった。
「娘には、嫁ぎ先が決まっております」
ダーウードが、口を挟んだ。
「儂の倅だ。神殿の家の娘と、太守の家の倅。泥の海で捕らえられた娘でも、儂の家は迎える。……迎える家が、ほかにあると思うか」
なるほど、とユーシャルは思った。
主戦派の太守と、民の宗派の説教師。本来なら交わるはずのない二つの家が、泥の海で捕らえられた娘一人を結び目にして、手を組んでいる。太守は民の宗派の後ろ盾を得て、総督を突き上げる。説教師は太守の武を得て、ズンジェの貴人たちに物を言う。
そして、その結び目にされた娘は、いま敵の都で、帰国を一日でも遅らせたいと願っている。
祖父は、しばらく黙っていた。
香の煙が、天幕の天井へ細く昇っていく。外で、馬が一声嘶いた。
「……条文にある」
やがて、祖父は言った。
「賓客は、次の雪解けまで聖都に留まる。それを早めるには、聖都の筆が要る。聖都の筆は、いまあの王配と、銀の獅子が握っている」
「ならば、閣下から聖都へ」
「頼めと言うか。首狩りが、泥の礼も済まぬ相手に」
祖父の声に、初めてかすかな笑いが混じった。
「東の火は、私の刃で消す。説教師の言葉は、借りぬ。借りれば、次に火が噴いた時、民は私ではなくお前の顔を見るからな」
説教師の穏やかな顔が、ほんの一瞬だけ強張った。
「下がれ。二人とも」
ダーウードは何か言いかけ、奥歯を噛みしめて踵を返した。説教師は深々と一礼し、数珠を鳴らして後に続いた。
垂れ布が落ちる。
天幕の中に、祖父と孫娘だけが残った。
◇◆◇
垂れ布の向こうから、ダーウードの荒い声が漏れ聞こえてくる。家臣を怒鳴りつけているらしい。その声が、ふと途切れ、天幕のすぐ外で低く笑った。
「……アリマ殿の姫君は、銀の獅子に嫁ぐやもしれぬそうだな。帝国の姫を異教徒の婿に差し出す和議か。妥協派の考えそうなことよ」
聞かせるための声だった。ユーシャルは、眉一つ動かさなかった。
足音が遠ざかる。その後に、数珠の触れ合う乾いた音が続いた。説教師は、何も言わずに去っていく。何も言わない者の方が、ずっと多くを持ち帰るものだ。和議の天幕で、名もない書記たちが何を書き留めていたかを、ユーシャルは知っている。
「見ていたか」
「はい、お祖父様」
ユーシャルは、ようやく祖父の前に進み出た。母の書状を差し出すと、祖父は封も切らずに脇の卓に置いた。
「アリマは、和議を守れと言ってきたのだろう」
「ええ。一字一句、そのとおりに」
「よい」
祖父は、それだけ言った。
ユーシャルは、床几の傍らに膝をついた。天幕の隅の炭火が、赤く息づいている。夜が近い。外では、兵たちが夕餉の支度を始めたらしく、焼けた麦の匂いが漂ってきた。
「ダーウード様は、本気で和議を破るおつもりでしょうか」
「本気ではない。本気に見せたいだけだ。見せれば、主戦派の太守たちは、あれの後ろに並ぶ」
「説教師様は」
「あれの方が、厄介だ」
祖父は、炭火に目を落とした。
「刃は刃で折れる。だが、祈りは折れぬ。民の宗派の説き手が、主戦派の太守と縁を結んだ。……帝国の底が、動いている」
祖父の声は、いつもどおり低く短い。だがユーシャルには、その底にある疲れが聞こえた。泥の海から、二度目の撤退から、そして和議の天幕から、祖父は一度も休んでいない。
「お前は、聖都で何を見た」
不意に、祖父が訊いた。
ユーシャルは、少し考えた。
「王配殿下が、目を覚まされましたわ」
「知っている。天幕で見た」
「その後も、です。王都から来た使者が、三日かけて聖都を検めたそうですけれど、帳面の穴を一つも見つけられずに帰ったとか。数字を揃えたのは、王配殿下だと聞きました」
「……面白い」
祖父の唇の端が、わずかに持ち上がった。
「それから、名のない男が、元気にしております」
祖父の目が、ユーシャルに向いた。
一瞬だけだった。すぐに炭火へ戻る。だが、その一瞬の間に何かがよぎったのを、孫娘は見た。
「……そうか」
「賓客の館の薪の数まで、数えているそうですわ」
「そうか」
同じ言葉を、祖父は二度言った。炭火の赤が、祖父の頬の片側だけを照らしている。
それ以上は、何も訊かなかった。泥の海で死んだと宣言した男のことを、首狩り総督が問うてはならない。三国の了解だ。それでも、二度の「そうか」の間に置かれた沈黙の長さを、ユーシャルは胸にしまった。
「それから」
「辺境の君、か」
祖父が、先に言った。
ユーシャルは、口を閉じた。
「あれは、兄の婚礼に帰っているそうだな。ダーウードの言ったとおりだ。……その婚礼に、草原の使いが来ていたと、国境の耳から報せがあった」
炭火が、小さく爆ぜた。
「草原が」
「白い羽の矢を渡したそうだ。草原が、客の中から一人を選んで矢を渡すのは、天幕に招くという意味だ。……姫を出せるのは、帝国だけではないということだろう」
ユーシャルは、膝の上で指を組んだ。
知らなかった。聖都の噂にも、母の書状にも、そんな話はなかった。祖父の耳は、いつも孫娘の耳より一歩遠くまで届いている。
「縁談の返事は」
祖父が訊いた。
「天幕を出る時、お前は何か言っていたな。声を出さずに」
ユーシャルは、息を止めた。
見られていたのだ。当然だ。この人は、盤の上のすべてを見ている。
「……申し上げましたわ」
「何と」
「次に辺境の君にお会いする時まで、取っておくと、お約束しましたの」
祖父は、黙って孫娘を見た。
長い耳の先が、炭火の赤を受けて淡く光っている。その目は、ダーウードを見た時とも、説教師を見た時とも違った。
「……よい」
祖父は言った。
「取っておけ。草原が矢を渡したなら、お前の言葉の値は上がる。安く使うな」
「はい、お祖父様」
「それと」
祖父は、床几から立ち上がった。天幕の入り口へ歩き、垂れ布を片手で持ち上げる。夕闇の向こうに、東の空が藍色に沈んでいた。
「ナスリーンという娘のことは、アリマにも伝えておけ。あの娘を、雪解けより早く返させてはならぬ。……ダーウードと説教師の結び目は、あの娘一人だ。結び目が敵の都にある限り、あの二人の縁は結ばれぬ」
ユーシャルは、目を見開いた。
祖父は、娘の帰りを求める父親の願いを、政の盤の上で断ち切ろうとしている。敵の都に囚われた娘を、盾に使って。
首狩りは、絞った人を捨てるように置く。敵も味方も、そう言う。
ユーシャルは、帝都の神殿で一度だけ見かけた娘の顔を思い出す。重騎兵に入るのだと言い張って、父親を困らせていた娘。青い炎のような目をしていた。
あの娘は、望んで帰るだろうか。太守の家の倅の妻になるために。
もし望んでいないのなら、祖父の冷たい一手は、たまたま、あの娘の願いと同じ方を向いていることになる。
たまたま、なのかどうか。
ユーシャルには、分からなかった。
◇◆◇
夜更け、ユーシャルは自分の天幕を出て、河原に立った。
石の上に、霜が降り始めている。吐く息が白い。外套の合わせ目から忍び込む冷気に、指先がかじかんでいく。野営地の篝火が、河原に沿って点々と連なり、その向こうの東の闇には、明日祖父が向かう火の国がある。
見上げると、月が満ちていた。雲ひとつない。
丸く、白く、冷たく。聖都の和議の天幕を出た夜は、爪の先ほどの細い月だった。あれから、月は一度死んで、また生まれ、いまこうして満ちている。
辺境の君は、この月をどこで見ているのだろう。
兄の婚礼は、新月の夜だったと聞く。ならば今ごろは、辺境から聖都へ戻る道の途中だ。王都を通るのか、避けるのか。草原の矢を、どんな顔で受け取ったのか。
白い羽の矢。
草原の娘たちは、馬を駆り、弓を引き、男と並んで天幕を守るのだと聞く。辺境の君は、そういう娘を好むだろうか。それとも、絹の文に毒を一滴垂らすような女の方が、あの人の盤には似合うだろうか。
考えて、ユーシャルは小さく笑った。自分が誰かと比べられることを気にするなど、帝都の園遊会でも一度もなかったことだ。
ユーシャルは、唇に指を当てた。
天幕を出る時、声を出さずに告げた言葉がある。
祖父にも言わなかった。母にも言っていない。あの人が、あの時、唇の形を読み取れたのかどうかも、分からない。
それでも、取っておく。
次に会う時まで。草原の矢が、帝国の恋文の隣に並んだとしても。この一年のうちに、休戦が破れて、言葉の中身が変わってしまったとしても。
ユーシャルは、指を唇から離した。
河原の風が、満月の光を揺らして吹き抜けていく。遠くで、祖父の天幕の灯りだけが、まだ消えずに灯っていた。




