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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
一年の平穏

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193/216

【幕間】掌の文字

 ハーゲンが西門を去ってから、四日が過ぎた。

 女王の居館の奥、小さな居間には、夜ごと一本だけ蝋燭が灯される。王家の紋を織り込んだ古い掛け布、磨かれて角の丸くなった卓、窓の鎧戸の隙間から忍び込む夜風。乳香の残り香が、石の壁に薄く染みついていた。

 ルセーブルは、その卓の前で帳面を開いていた。

 この居間に、臣下は呼ばれない。侍女も、夜番の衛兵も、扉の外までだ。女王が夫と二人きりになるこの刻限を、居館の者たちは、名だけの夫婦のつまらない決まりごとだと思っている。

 昼のうちにヴィタスから回ってきた写しだ。王都の使者が三日のあいだに見たもの、問うたもの、書き留めていったもの。名のない男は、自分が見られた場所まで含めて、何一つ省かずに記していた。

「……ハーゲンという騎士は」

 ルセーブルは、帳面から顔を上げずに言った。

「東の壁を、半日歩いた。帳簿は、二日目に見ている。三頭獣の糧の欄で、指が四度止まっている。止まったのは、どれも、麦の入りと、出の差が大きい日だ。……ちゃんと、数字を読める男だ」

 妻の前でだけ、言葉は途切れがちになる。人前でけだるく軽口を叩く時の滑らかさは、ここにはない。

 卓の向かいに、女王マリネットが座っている。

 喋らぬ女王は、夫の声に目を伏せて耳を傾けていた。蝋燭の火が、白い横顔の輪郭だけを淡く浮かび上がらせている。昼の謁見の間で玉座に座る時と同じ、揺るがない姿勢。だが、ここには臣下も衛兵もいない。いるのは、名だけの王と呼ばれる夫だけだ。

 ルセーブルは、帳面の頁をめくった。

「報告には、見たとおりを書くと言ったそうだ。見たとおりとは、何か。三頭獣の帳簿に、穴はない。東の壁は守られている。賓客は十三人とも、館にいる。条文は、どれも破られていない」

 そこで、声が変わった。

「だが、あの男は三日で、この都の麦の出入りを四度確かめた。和議の後、三頭獣の糧は日に麦三十袋。開墾に出る巡礼の糧が日に二百四十袋。これは都の蔵から出ている。名目は再建だが、王都から見れば、名代が三頭獣の抱える人数を都の蔵で養っているのと同じだ。志願の民が百人近く東の壁に立っている。これも、数えようによっては兵になる。ハーゲンは、それを数えた。数えたうえで、どう書くかは、あの男次第だ。書きようによっては、ロズヴェータ卿が都の蔵を使って俺兵を養っている、という報告になる」

 滑らかな声だった。

 数字に入った途端、言葉は途切れることをやめ、澱みなく流れ出す。和議の天幕で、グリムニルを黙らせたのと同じ声。自分でも止められないのだと、ルセーブルは知っている。

 そして、言い終えてから、いつも少し怖くなる。

「……すまない」

 ルセーブルは、帳面を閉じた。

「こういう話は、あなたには、つまらないだろう」

 女王は、首を横に振った。

 それから、卓の上に手を差し出した。掌を上に向けて。

 ルセーブルは一瞬ためらい、それから自分の右手を、その白い手の上に重ねた。女王はその手を裏返し、夫の掌を上に向けさせる。冷たい指先が、掌の真ん中に触れた。冬の石のような冷たさに、ルセーブルは思わず肩をすくめる。この冷たさにも、もう慣れたはずだった。

 ゆっくりと、文字をなぞる。

 一画ずつ。ルセーブルは目を閉じ、掌に書かれる形を読み取った。

「……つまらなく、ない」

 声に出して読む。女王の指が、次の文字をなぞった。

「……もっと、きかせて」

 ルセーブルは目を開けた。

 女王は、まっすぐに夫を見ていた。


◇◆◇


 二人がこうして言葉を交わすようになったのは、和議の天幕から戻った夜からだ。

 それまでの女王は、夫の前でも沈黙を崩さなかった。婚礼の日も、その後の幾月も。ルセーブルもまた、何も求めなかった。ルクレイン家に据えられた名だけの王。聖都の血も、志も、この都への情もない男。そう呼ばれていることを、彼は知っていたし、否定する理由もなかった。

 それが変わったのは、あの帰り道だ。

 私はずっと口を塞がれていたのではなく、開かなかっただけなのだな。天幕からの帰路で、ルセーブルはロズヴェータにそう漏らした。その夜、居館に戻った夫の手を、女王は初めて取ったのだ。そして掌に、一言だけ書いた。

 みていました。

 以来、夜ごとの蝋燭の下で、女王は夫の掌に言葉を書く。夫はそれを声に出して読み、自分の言葉で答える。声を出さぬ女王と、本心の声を出すのが怖い王配。城壁の上で一度だけ放たれた妻のあの声を、夫はまだ、自分に向けられたことがない。二人の会話は、いつもひどくゆっくりと進んだ。

 女王の指が、また動く。

「……なぜ、かくしていた」

 ルセーブルは、息を止めた。

 掌の上で、女王の指先が止まっている。答えを待っているのだ。

 蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。


◇◆◇


「俺は、ルクレイン家の、傍流の生まれだ」

 ルセーブルは、自分の掌を見下ろしたまま話し始めた。

「父は、先代公爵の、従弟の、そのまた庶子。母は、父の屋敷の、下働きの女だった。……本家から見れば、枝の先の、そのまた先の、小さな芽だ。誰の目にも、留まらないはずの」

 言葉が、途切れ途切れに落ちていく。

「六つの時、家庭教師が、父に言った。この子は、算術が、本家の若様方より速い、と。……褒めたつもりだったのだろう。父は、その日のうちに教師を追い出した」

 女王の指先が、掌の上でわずかに動いた。続けて、という意味だと、ルセーブルには分かる。

「その夜、母が、俺の部屋に来た。……泣いていた、と思う。……昔、同じ傍流に、頭のいい子がいたそうだ。本家の嫡男より、剣も書も、よくできた子が。その子は、十二の冬に、落馬で死んだ。誰も、何も言わなかった。本家の馬丁が、次の春に、いい土地をもらった」

 蝋燭の火が、揺れた。

「母の手には、洗い場の灰汁の匂いが、染みついていた。……今でも、あの匂いだけは、はっきり覚えている。荒れて、ひび割れていて……その手で、俺の手を、痛いほど握って、言った。……愚かであれ。それが、お前の、生き延びる道だ、と」

 ルセーブルは、ふっと笑う。笑ったつもりだったが、唇の端が震えただけだった。

「それから、俺は、愚かになった。算術の問いは、わざと間違える。本を読んでいても、声をかけられたら、閉じる。何を訊かれても、退屈そうに欠伸をしてみせる。……何にも興味のない、怠け者の子。そう言われるように、なった。ずっと、なり続けて……そのうち、本気で話す時の言葉の方が、途切れるようになってしまった」

 掌の上で、女王の指は動かない。ただ、そこに置かれている。冷たかった指先が、いつの間にか、夫の掌の温度に近づいていた。

「ガベル殿は、それを、知っていた」

 ルセーブルは、窓の鎧戸に目をやった。その向こうの、遠い西の王都を見るように。

「知っていたから、俺を選んだ。聖都の女王に添える婿。御しやすく、余計なことを考えず、言われたとおりに座っている男。……本家の若様は、傍流の、愚かな芽の使い道を、よく分かっていらした」

「……」

「だから、俺は、ずっと座っていた。この都に来てからも。あなたの隣で。何も言わず、何も見ず。見えていても、見えないふりをして」

 ルセーブルは、そこで初めて顔を上げた。

「……ロズヴェータ卿が、帳面を、持ってきた時までは」

 この都へ発つ朝のことを、ルセーブルは覚えている。

 公爵家の屋敷の中庭で、ガベルは見送りに立った。大きな体を揺らして笑い、傍流の芽の肩を叩いた。聖都の女王の婿だ、傍流の身には過ぎた名誉だろう。何も案じることはない、座っていればいい。あちらには名代のヴェルダー卿がいる。考えるのは、あの男と、王都の我々の仕事だ。

 ルセーブルは、はい、とだけ答えた。途切れがちな声で。

 ガベルは満足げに頷き、それきり傍流の芽を振り返らなかった。その背中を見送りながら、ルセーブルは中庭の敷石の数を数えていた。数えていなければ、何かが口からこぼれそうだったからだ。

 あの日から、座っていることが、自分の仕事になった。


◇◆◇


 長い沈黙が落ちた。

 鎧戸の隙間から入り込んだ風が、蝋燭の火を細く引き伸ばす。掛け布の古い紋が、揺れる光の中で浮き沈みした。

 やがて女王の指が、ゆっくりと動き始めた。

 ルセーブルは、その形を一つずつ読んだ。

「……わたくしも」

 指が止まり、また動く。

「……えらんだ」

「選んだ」

「……だまることを」

 ルセーブルは、女王の顔を見た。

 喋らぬ女王。滅んだ王家のただ一人の生き残り。掘り起こされ、名分として担がれ、この都の玉座に据えられた女。その女が、自分の沈黙を「選んだ」と書く。

 女王の指が、続けて動いた。今度は、少し長い。

「……こえをだせば、つかわれる。だまっていれば、みていられる」

 ルセーブルは、それを声に出して読み、それから黙り込んだ。

 同じだ、と思った。

 愚かであれ、と教えられた自分。黙ることを選んだ女王。一人は言葉を途切れさせ、一人は声を封じた。どちらも、生き延びるために、自分の一部を埋めた。

「……あなたは、いつから」

 女王は答えなかった。代わりに、指が夫の掌をなぞる。

「……あなたは、おろかではない」

 ルセーブルの喉が、小さく鳴った。

「……それは、知っていた。和議の、天幕で」

「……もっとまえから」

 女王の指先が、掌の真ん中を、とん、と一度叩いた。

「……はじめてあった日。あなたは、わたくしのかおではなく、へやのあかりのかずをかぞえていた」

 ルセーブルは、目を見開いた。

 覚えている。婚礼の前、初めてこの居館に通された日だ。玉座の女王に頭を下げながら、自分は広間の燭台の数と、蝋燭の太さと、その減り方から、この居館の一月の蝋の費えを暗算していた。誰にも気づかれていないと思っていた。

「……見ていたのか」

 女王は、小さく頷いた。

 その唇の端が、ほんのわずかに持ち上がる。声を出さぬ女王が、夫の前で初めて見せた笑みだった。

 女王の指が、また掌に戻ってくる。今度は、先ほどよりも少しだけ速い。

「……わたくしは、ずっと、ひとりでみていた」

 ルセーブルは、読み上げてから、次の文字を待った。

「……この都も。ヴェルダーも。ガベルも。くびがりも。あのひとも」

 指が止まる。蝋燭の火が、女王の白い指の影を、夫の掌の上に長く落としていた。

「……ひとりでみるのは、さむい」

 ルセーブルは、息を呑んだ。

 滅んだ王家の、ただ一人の生き残り。掘り起こされるまでの年月を、この女がどこで、どうやって生きてきたのか、ルセーブルは知らない。訊いたこともない。ただ、その年月のあいだ、女王はずっと、誰にも見せずに見続けてきたのだろう。声を出せば使われる。だから黙って、一人で。

「……もう、一人じゃない」

 言ってから、自分の声の大きさに驚いた。途切れなかったのだ。

 女王は、答えを書かなかった。ただ、夫の掌の上に置いた指を、そっと絡めた。


◇◆◇


 蝋燭が、半分ほどに減っている。

 ルセーブルは、もう一度帳面を開いた。ハーゲンの三日間の写しを、指でなぞる。

 帳面の最後の頁には、ヴィタスの手で、もう一つの事柄が短く記されていた。賓客の一人、神殿の家の娘ナスリーンが、名のない男の素性に気づいたこと。黙っている代わりに、雪解けの返還で自分を最後の一人にせよ、と求めたこと。

「……返還の順は、和議の履行だ」

 ルセーブルは、その行を指でなぞった。

「和議の正使は、俺だった。……だから、返す順を記す筆も、たぶん、俺が執ることになる。ロズヴェータ卿が戻られたら、相談しなければ」

 女王の指が、夫の掌に、短く書いた。

「……あなたのふで」

「俺の、筆」

 ルセーブルは、自分の指先を見つめた。名だけの王の筆が、一人の娘の一年を、そして名のない男の名を、左右しようとしている。

「……ハーゲンの報告が、王都に着けば、ガベル殿は読む」

 声は、また途切れがちに戻っていた。

「そして、たぶん、気づく。和議の天幕で、グリムニル殿を黙らせたのが、誰だったか。……聖都の数字を、王都の書記より先に揃えたのが、誰だったか。据えたはずの、愚かな芽が、勝手に、枝を伸ばし始めたことに」

 女王の指が、夫の手首を掴んだ。

 強い力だった。細い指が、骨に食い込むほどに。

「……ガベル殿は、使えない駒を、捨てるのが早い。考え始めた駒は、もっと早い。あの落馬した子のように」

 ルセーブルは、自分の手首を掴む妻の手を見下ろした。

「……俺は、また、愚かに戻るべきなのかもしれない。帳面を閉じて、また、退屈な顔をして。そうすれば、あの人は、まだ俺を、使い道のある芽だと」

 女王の指が、手首から離れた。

 そして、掌に、強く書いた。

 一文字ずつ、爪が皮膚に跡を残すほどに。

「……もどらないで」

 ルセーブルは、その文字を読んだ。声が、掠れた。

「……もどらないで」

 女王の指は、止まらない。

「……ころさせない」

「……」

「……あのひとの、ばんのうえでも。ガベルの、ばんのうえでも」

 あの人、というのが誰を指すのか、ルセーブルには分かった。辺境へ発った銀の獅子。この都を割らずに春まで生かしてくれと、女王が願った男だ。

 ルセーブルは知らない。

 いつかの夜、血の祈祷室で、女王が初めて銀の獅子に声を聞かせたことを。その時、女王が何を願ったかを。わたくしの民を、あの愚かな夫を、あなたの盤の上で殺さないで。

 愚かな夫。

 女王は、夫が愚かでないことを、初めて会った日から知っていた。知っていて、そう呼んだのだ。愚かな夫と呼ばれている限り、夫は誰の盤の上でも、使い道のある駒でいられる。そう呼ぶことで、女王は夫を守ってきた。

 それを知らないまま、ルセーブルの目の奥が、熱くなる。

「……マリネット」

 初めて、その名を口にした。

 陛下でも、女王でもなく。

 女王の指が、掌の上で止まる。蝋燭の火が、二人の間で揺れていた。

 長い間があって、女王はゆっくりと夫の掌を両手で包んだ。冷たかった指は、もうすっかり温まっている。

 そして、最後に一つだけ、書いた。

「……もういちど」

「マリネット」

 今度は、途切れなかった。数字を読む時と同じ、滑らかな声で。

 女王は目を閉じた。その睫毛の先が、蝋燭の光を受けて、かすかに震えている。


◇◆◇


 居間を出ると、回廊の窓の低いところに、細い月が見えた。

 新月から四日。糸のような月が、西の空に沈みかけている。

 ルセーブルは、自分の右の掌を見下ろした。女王の爪が残した小さな跡が、まだ薄く赤い。もどらないで。ころさせない。その文字の形が、まだ皮膚の上に残っている気がした。

 明日から、帳面を開こう、と思った。

 愚かに戻るのではなく。途切れる言葉のままでもいい。数字だけは、途切れさせずに読もう。ハーゲンの報告が王都でどう読まれようと、ガベルが据えた芽が枝を伸ばしたと気づこうと。

 妻が、それを見ていてくれるのなら。

 回廊の先の暗がりで、衛兵が槍の石突きを一度鳴らした。夜番の交代の合図だ。ルセーブルは掌を握りしめ、自室へ向かって歩き出した。

 その背筋は、ほんの少しだけ、伸びていた。

 居間の蝋燭は、まだ消されていない。鎧戸の隙間から漏れる細い灯りが、回廊の石畳に、一筋の線を引いている。今夜はもう少しだけ、そこに誰かが起きているのだ。


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