【幕間】名を預ける
王都からの使者が聖都の西門をくぐったのは、ロズヴェータが辺境へ発って二十日目の昼だった。
騎馬は十一。先頭の男は、獅子と王冠の小旗を鞍に差し、陽に焼けた顔を門の上の衛兵へ向けて、面倒そうに片手を上げた。四十に届くかどうか。鎖帷子の上に着た外套は擦り切れ、腰の剣の柄には、何度も握り直された跡が黒く光っている。飾りの騎士ではない。戦場を渡り歩いてきた者の身なりだった。
「王都より、和議の履行を検めに参った。ハーゲンだ。名代のヴェルダー卿にお目通り願いたい」
門番に告げる声は、よく通る。だが、その目は門番を見ていなかった。城壁の高さ、門扉の厚さ、衛兵の槍の穂先の向き。聖都に入る者が最初に目にするものを、一つずつ値踏みしている。
その報せは、半刻も経たぬうちに三頭獣の宿営へ届いた。
◇◆◇
「和議の履行を検める、でございますか」
ヴィタスは、報せを持ってきたトーロウの言葉を繰り返した。
宿営の奥、帳簿の積まれた天幕の中だ。インクと羊皮紙と、蝋燭の脂の匂いが籠もっている。ガーデルが算盤を弾く手を止め、眉間に皺を寄せた。
「条文のどこに、そんな検めがある」
「どこにもございません」
ヴィタスは静かに答える。
「ですが、王都は条文を結んだ側でございます。結んだ条文が守られているかを確かめたい、と言われれば、名代の卿は拒めません。正しいからです」
「……で、狙いは」
「ロズヴェータ様のおられぬ間に、聖都の差配の綻びを探すこと。それから」
ヴィタスは、言葉を切った。
天幕の外で、兵たちの笑い声がする。遠くで荷車が軋み、鍛冶場の槌の音が規則正しく響いていた。ロズヴェータが発ってから二十日。その間、この都は一度も割れていない。割らせないと、自分が約束したからだ。
「それから、名のない男を探すこと、かと」
トーロウが、猿に似た顔をしかめた。
「隊長の留守を狙って、ですかい」
「狙わない手はございません。私が首狩りの側にいたなら、同じことをいたします」
元は帝国の将だった男は、淡々と言った。
「使者には、会いません。私は帳簿の後ろにおります。表に立つのは、名代の卿と殿下。使者が三頭獣の帳簿を見たいと言えば、ガーデル殿が見せればよい。見られて困る数字は、一つもございません」
「お前の顔は」
「困るのは、そちらでございますね」
ヴィタスは、わずかに口の端を上げた。笑ったのではない。自分の置かれた場所の皮肉を、正確に測っただけだ。
◇◆◇
賓客の館は、聖墳墓にほど近い古い商家を改めたものだった。
泥の海で捕らえられ、和議によって次の雪解けまで聖都に残ることになった帝国の跡取りたち。十数名の若者が、家格に相応しく遇されている。条文にそう書いてある以上、糧も薪も衣も、三頭獣の帳簿から出ている。その出入りを検めるのも、ヴィタスの仕事の一つだった。
中庭の噴水は、とうに涸れている。乾いた石の縁に、午後の陽が斜めに射していた。回廊の奥から、帝国の香の匂いが微かに流れてくる。没薬だ。故郷の神殿で焚かれていたのと同じ匂いに、ヴィタスは一瞬だけ足を止めた。
「お待ちなさい」
背後から、声がした。
振り返ると、回廊の柱の陰に若い女が立っていた。
十代の後半だろう。白磁のような肌に、陽を集めたような金色の髪。やや垂れた目元は、温和で、人を和ませる形をしている。だが、その瞳の色だけが違った。青い。燃え上がる直前の炎の芯のような、青い色だ。
帝都の神殿の説教師の末娘。泥の海で重騎兵として捕らえられた、女騎士。
「ナスリーン殿」
「帳簿の方が、わざわざ賓客の館まで。ご苦労なこと」
ナスリーンは柱から離れ、ゆっくりと歩み寄ってきた。足取りに迷いがない。捕虜の、それも敵地の都に留め置かれた者の歩き方ではなかった。
「薪の数を、検めに参りました」
「薪なら、足りています。足りないのは、あなたの嘘の方」
ナスリーンは、ヴィタスの目の前で足を止めた。
垂れた目が、まっすぐにこちらを見上げている。
「泥の海で死んだはずの方が、なぜ聖都で薪の数を数えているのかしら。アブドゥル殿」
中庭の空気が、凍ったように思えた。
ヴィタスは、表情を動かさなかった。動かせば、それが答えになる。
「人違いでございましょう」
「いいえ。私の目は確か」
ナスリーンは、自信に満ちた声で言い切った。
「父の神殿で、祝福の儀があった日。魔獣をただ一人で討ち果たした将軍が、神の祝福を受けに来た。私は十二で、人垣のずっと後ろから背伸びをして見ていたの。遠かったけれど、よく覚えています。父が指さして言ったわ。あれが、聡明なるアブドゥルだ。帝国でいちばん頭がよくて、いちばん勇敢な男だ、って」
「……」
「あの日のあなたは、もっと背筋が伸びていた。今は、少しだけ猫背ね。帳簿の後ろに隠れているからかしら」
ヴィタスは、しばらく黙っていた。
否定は、もう意味をなさない。この娘は確信している。そして、確信した者の口を塞ぐ方法は、この都には一つしかない。取引だ。
「……何をお望みでございますか」
ナスリーンの唇が、ゆっくりと笑みの形になった。
「話が早くて助かるわ。さすが、聡明なる方」
「その名は、泥の海に沈めました」
「では、名のない方。取引をしましょう」
ナスリーンは、涸れた噴水の縁に腰を下ろした。金色の髪が、午後の陽を受けて揺れる。
「雪が解けて、私たちが帝国へ帰る日が来たら。私を、最後の一人にして」
「最後の、一人」
「いちばん後ろ。返す順番の、いちばん最後。できれば、帰る日が一日でも、十日でも、遅くなるように」
予想していなかった答えだ。
ヴィタスは、娘の顔を見た。青い炎の瞳に、一瞬だけ、別の色がよぎったのを見逃さなかった。
「故郷に、お帰りになりたくないのでございますか」
「帰りたいわ。父にも、母にも会いたい。でも」
ナスリーンは、噴水の乾いた底を見下ろした。
「帰れば、婚礼が待っているの。父が決めた相手と。泥の海で捕らえられた娘を、それでも娶ってくださる奇特なお家があるそうよ。神殿の家の娘は、神殿の家の役に立たなければいけないから」
その声は、最後まで揺るがなかった。自分の運命を語る時でさえ、この娘は自信に満ちた言い方を崩さない。崩せば、何かが一緒に崩れてしまうのだろう。
「私は、重騎兵に入るために三年、剣を振った。女が重騎兵に入るのが、どれだけ難しいか知っている? 知っているわよね、将軍だった方なら」
ナスリーンは、そこでほんの一瞬だけ言葉を切った。
「……剣を取ったのは、あの日、祝福を受けるあなたを見たからよ。あんな風に、自分の手で何かを討ち果たして、誰かの妻としてではなく名を呼ばれてみたかった」
言ってしまってから、娘は小さく顎を上げた。悔やむ素振りは見せない。見せれば、自信に満ちた声が崩れるからだ。
「……存じております」
「泥の海で、私の馬は沈んだ。私の剣も沈んだ。この都に、私の居場所なんてない。でも、帰っても、居場所はない。どうせどちらにもないなら、少しでも長く、誰の妻でもない私でいたいの」
ナスリーンは顔を上げた。垂れた目の奥で、青い炎がまた燃えている。
「それが、私の値段。安いものでしょう? 帝国でいちばん頭のいい男の秘密にしては」
ヴィタスは、長いこと答えなかった。
この娘の頼みを叶える権は、自分にはない。賓客の返還の順は、和議の履行そのものだ。決めるのは王配殿下であり、名代の卿であり、そしてロズヴェータだ。
それでも。
「……ロズヴェータ様が、辺境からお戻りになります。その時に、お伝えいたします。それ以上のお約束は、私にはできません」
「伝えるだけ?」
「伝えるだけでございます。ですが、あの方は、拾った者との約束を違えたことがございません」
ナスリーンは、じっとヴィタスを見つめた。
それから、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「いいわ。では、その方が戻るまで、黙っていてあげる。戻った後も黙っているかどうかは、答え次第」
「承知いたしました」
「それから、アブドゥル殿」
立ち去りかけたヴィタスの背に、娘の声が追ってきた。
「王都から、使者が来たそうね。帝国訛りの男を探している、って噂を、下働きの子が聞いてきたわ」
ヴィタスは、振り返らなかった。
「背筋は、そのまま少し丸めておいた方がいいわ。あなた、立っているだけで将軍に見えるから」
賓客の館を出ると、聖墳墓の鐘が鳴っていた。
十字の祈りの刻を告げる鐘だ。低く、長く、石の街に染みていく。ヴィタスはその音の中を、ゆっくりと宿営へ歩いた。
祝福の儀。覚えている。帝国の山あいの村々で人を喰らっていた魔獣を、手勢を退かせて一人で仕留めた年だ。帝都の神殿の大広間に、没薬の煙が雲のように漂っていた。説教師の祝福の言葉を聞きながら、自分は誇らしさよりも、あの魔獣に喰われた村の数を数えていた。
あの広間の人垣の後ろに、背伸びをする十二の娘がいたのだ。その娘は、あの日の自分を見て剣を取ったという。
そして、その娘が今、敵の都の涸れた噴水の縁で、自分の名を人質に取っている。帰れば婚礼が待っている、と言った時の声を思い出す。最後まで揺らがなかったあの声の底に、泥の海で沈んでいった馬と剣と、三年の歳月があった。
首狩りは、絞った人を捨てるように置く。ロズヴェータはそう言っていた。帝国もまた、同じことをする。神殿の家の娘を、神殿の家の役に立つ場所へ置く。泥にまみれた娘でも、娶ってくださる奇特なお家へ。
ヴィタスは、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じていた。脅されたからではない。脅した娘の値段が、あまりに安かったからだ。
◇◆◇
ハーゲンの検めは、翌日から三日に及んだ。
初日は、東の壁を歩いた。和議の条文にある「東の城壁の守りは聖都の管轄」が守られているか、というのが名目だった。竜殺しの槍は和議の後に南部へ引き揚げており、東の壁はいま、三頭獣が預かる志願の民と紅剣が守っている。エリシュが赤い髪を風に流しながら案内に立ち、ハーゲンは土嚢の線と空堀と、泥の海の乾ききらない跡を、黙って見て回った。壁の外の荒地では、巡礼たちが鍬を振るい、踏み荒らされた土を畝に起こしている。
「ここで、首狩りの重騎兵を沈めたのか」
「そうよ。あたしもその縁にいたわ」
「……えげつねえことをしやがる」
「えげつなかったわよ。でも、勝った」
ハーゲンはそう言って、足元の泥を長靴の先で掘った。錆びた鎧の欠片が、ひとつ転がり出る。それを拾い上げ、しばらく眺めてから、泥の上にそっと戻した。
二日目は、三頭獣の帳簿を見る。ガーデルが一冊ずつ開いて見せ、ハーゲンは数字の列を指でなぞった。何も言わない。だが、なぞる指はいくつかの欄で止まり、また動いた。帳簿を読む目を持っている、とガーデルは後でヴィタスに告げた。
そして三日目。ハーゲンは、賓客たちを一人ずつ呼び出した。
場所は、名代の居館の小広間。ヴェルダー卿が上座に座り、ハーゲンはその脇の卓に着いた。呼ばれた跡取りたちが、一人ずつ扉をくぐる。
ヴィタスは、その場にはいなかった。小広間の隣の控えの間で、壁一枚を隔てて声を聞いていた。
「帝国の者で、名を変えてこの都にいる者を知らぬか」
ハーゲンの問いは、毎回同じだった。
跡取りたちの答えも、ほとんど同じだ。知らぬ。聞いたこともない。捕らえられてから、館の外には出ていない。ハーシム家の嫡子は怯えて言葉を詰まらせた。
ダーウードの甥は、怒りを露わにした。
「帝国の者を裏切り者に仕立てて、何を引き出すつもりだ。泥の海で我らを溺れさせておいて、今度は名を変えた者探しか。王都の騎士は、よほど暇と見える」
「暇じゃねえよ。借金返すので手一杯だ」
ハーゲンの返しに、壁の向こうで誰かが吹き出しかけて、慌てて咳でごまかした。ヴィタスは目を閉じたまま、この騎士の人となりを一つ書き留める。怒りを受け流す術を知っている。そういう男は、手強い。
七人目が、ナスリーンだった。
控えの間で、ヴィタスは目を閉じる。
「帝国の者で、名を変えてこの都にいる者を知らぬか」
「知っています」
壁の向こうで、ハーゲンの椅子が軋んだ。
「……誰だ」
「私です」
一拍の間。
「帝都では、私はナスリーンと呼ばれていました。重騎兵の中では、ただの七番の騎士。泥の海に沈んだ時は、名前なんてなかった。溺れかけた女の一人。そしてこの都では、賓客。名前は、もう三度変わっています」
ナスリーンの声は、よく通った。自信に満ちて、少しの揺らぎもない。
「騎士殿がお探しの方は、私ではないのでしょうけれど。私が知っているのは、泥の海で死んだ方々の名前だけ。その方たちは、もうどこにもいません。探すなら、泥の底をお探しになって」
沈黙が落ちた。
やがて、ハーゲンの低い笑い声が聞こえた。
「……気の強えお嬢さんだ」
「よく言われます」
「下がっていい」
扉の開く音。軽い足音が遠ざかっていく。
続いて、ヴェルダー卿の声がした。
「これ以上の問いは、無用と考える」
「なぜだ、ヴェルダー卿」
「和議の天幕で、三国の使者が口頭で了解している。泥の海で死んだ男の名を、三国は問わぬ、と。王都の正使が交わした了解だ。王命で結ばれた和議の一部である以上、王の使者がそれを破ることは、王命に背くことになる」
控えの間で、ヴィタスは目を開けた。
正しさの人が、正しさで名のない男を守っている。この男は、ロズヴェータのやり方を一度も認めていない。それでも、条文と王命の前では、誰の側にも立たず、ただ正しい。その正しさが、今日は盾になった。
ハーゲンは、しばらく黙っていた。
「……問わねえよ。問わねえが、見てきたものは、見てきたとおりに報告する。俺はそれで飯を食ってる」
「好きにされるがよい」
椅子を引く音。重い足音が、小広間を出ていった。
◇◆◇
ハーゲンが聖都を発ったのは、その日の夕刻だった。
西門へ向かう途中、騎馬の列は三頭獣の宿営の前を通る。帳簿の天幕の入り口で、ヴィタスは荷を数えるふりをして、背を丸めて立っている。
ハーゲンの馬が、その前で歩みを緩めた。
馬上から、陽に焼けた顔が見下ろしてくる。値踏みする目。三日のあいだ、聖都の城壁と帳簿と人を量り続けた目だ。
ヴィタスは顔を上げなかった。
「帳簿番にしちゃ、いい手をしてるな」
ハーゲンが、ぽつりと言った。
「剣だこの跡が、まだ消えてねえ」
ヴィタスは答えない。答えれば、それが答えになる。
「……俺はな、借金で首が回らなくなった時、王家派閥の旦那方に肩代わりしてもらった。だから、言われた仕事はする。見てこいと言われたものは見るし、見たものは報告する」
馬が、鼻を鳴らした。
「だが、報告の中身までは、旦那方も指図してこねえ。何をどう書くかは、俺が決める」
ハーゲンは手綱を引き、馬首を西門へ向けた。
「泥の海は、えげつなかった。あれを考えた奴と、あれに使われた奴。どっちの首も、王都の旦那方は欲しがるだろうよ。……せいぜい、背中を丸めてな」
騎馬の列が、西門の向こうへ消えていく。
蹄の音が遠ざかるまで、ヴィタスはその場を動かなかった。
◇◆◇
その夜は、新月だった。
ヴィタスは、東の城壁の上に立つ。月のない空に、星だけが冷たく散っている。風が、石の上を這っていく。
遠い辺境では、今夜、ロズヴェータの兄が婚礼を挙げているはずだった。月のない夜に新しい家を始めるのが、辺境の習いだと聞いている。
名は器だ、とロズヴェータは言った。中身はもう見た、と。
その器を、今日は二人の他人が見た。一人は、器を割らずにおく値段を口にした娘。一人は、器の中身を見たとおりに書くと言った騎士。そしてもう一人、条文という盾で器を覆った正しさの人。
自分の名は、もう自分一人のものではない。
泥の海に沈めたはずの名が、今は他人の口と、他人の筆と、他人の正しさの中に預けられている。それが恐ろしいのか、それとも。
ヴィタスは、東の闇を見た。
峠の向こうに、かつての主がいる。自分を「泥の海で死んだ」と言って手放した男が。
「……名を捨てても、人は一人にはなれないものでございますね」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
賓客の館の方角に、小さな灯りがひとつ、まだ消えずに揺れていた。誰の窓かは、分かっている。
ヴィタスは、背を丸めた。それから、少しだけ伸ばした。




