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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
一年の平穏

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191/216

【幕間】 新月の婚礼3 月のない夜に

 辺境では、婚礼は月の無い夜に挙げる。

 古い月が死に、新しい月が生まれる夜。その夜に、新しい家を始めるのだ。月明かりがない代わりに、城の中庭には夕刻から篝火が焚かれ、石畳の縁にはずらりと松明が並べられた。

 その日の昼過ぎ、ロズヴェータは長兄の居室に呼ばれる。

 ディリオンは婚礼の礼装を半ばまで着込んだところで、襟の留め金と格闘していた。ふくよかな首回りに、硬い襟がどうにも収まらないらしい。家人を呼べばいいものを、と思いながら、ロズヴェータは黙って留め金に手を伸ばした。

「ありがとう。……ロズ」

「はい」

「家の中にはね、ロズの方が当主に向いているって言う人がいるんだ。知ってるよ」

 留め金を掛ける指が、一瞬止まる。

 長兄の声は、いつもどおり柔らかかった。責める響きも、怯える響きもない。

「俺は聖都で手一杯です、ディリオン兄上」

「うん。だから、ここは僕が守るよ。ハイジェと一緒にね」

 ディリオンは鏡代わりの磨いた銅板に映る自分の丸い顔を見て、少し照れたように笑った。

「ロズが外で戦っている間、帰る場所くらいは、僕が守っておく。それが僕の戦い方なんだ」

 留め金が、小さな音を立てて掛かる。

 ロズヴェータは一歩下がり、礼装に身を包んだ長兄を見た。英雄の顔をしまっておけと言った義姉の真意が、いまになってもう一段深く分かる気がした。あの娘が守ろうとしたのは、長兄の立場だけではない。この柔らかな男が、自分の戦い方を貫ける場所だったのだ。

 陽が落ちると、空は墨を流したように暗い。その暗さの底で、無数の炎が揺れている。焼けた羊の脂の匂い、樹脂の爆ぜる匂い、客たちが持ち寄った強い酒の匂い。太鼓が低く鳴り、草原の笛に似た細い音色がそれに絡んだ。

 ロズヴェータは、中庭の端の柱の陰にいた。

 英雄の顔をしまっておけ、と義姉に言われている。紋章のない地味な上衣を選び、客の列からも一歩退いた。それでも時おり、誰かの視線が頬を撫でていく。あれが、草原の略奪者を追い払った。マルレーの兵を退けた。囁きは、篝火の爆ぜる音に紛れて途切れがちに届く。

 隣では、ユーグが影のように控えている。

 太鼓の音が変わった。

 人垣が割れ、中庭の奥から花嫁が現れる。

 ハイジェは、辺境の婚礼衣装をまとっていた。幾重にも染め重ねた厚い布が、肩から裾まで重たげに垂れている。一本に編んだ黒髪は解かれ、細かな銀の飾りを編み込まれて背に流れていた。砦の騎兵のようだった娘の面影は、どこにもない。

 ただ、その足取りだけは変わらなかった。重い布を引きずりながら、まっすぐに、据わった歩みで石畳を渡っていく。

 その先に、ディリオンが立っていた。

 ふくよかな体を婚礼の礼装に押し込み、丸い顔を篝火に赤く照らされて、長兄は花嫁を待っている。穏やかな笑みはいつもどおりだ。だが、その目が潤んでいるのが、遠目にも分かった。

 父ノブネルが、二人の前に立つ。

 短い言葉が交わされた。誓いの言葉は、風に紛れてここまで届かない。ただ、ハイジェが長兄の手を取り、ディリオンがその手を両手で包むのが見えた。

 中庭がどっと沸く。太鼓が乱れ打たれ、客たちが杯を掲げた。

 その歓声の中で、ロズヴェータはふと、別の夜を思い出していた。

 王都の舞踏会。天井から吊られた無数の燭台。磨き上げられた床に映る光。楽の音が止み、大勢の目がこちらを向いた、あの瞬間。婚約を解くと告げる声は、いまでも耳の奥に残っている。あの夜も、人々はこうして一斉に杯を掲げていた。祝うためではなく、笑うために。

「ここは、舞踏会ではございません」

 低い声がした。

 ユーグが、前を向いたまま言っている。人目のある場では、この乳兄弟は決して主を短い名では呼ばない。

「……分かっている」

「では、そのようなお顔はおやめください、ロズヴェータ様。兄君のお祝いです」

 ロズヴェータは息を吐き、口の端をわずかに上げた。

 篝火の向こうで、花嫁と花婿が客に囲まれている。ハイジェが何か言い、ディリオンが困ったように笑った。祝いの杯が、あちこちで鳴っている。

 笑うための杯ではない。そう思えば、胸の奥の古い棘は少しだけ抜けた気がした。

 しばらくして、客の輪を抜けた二人が、柱の陰まで歩いてきた。

 重い衣装の裾を片手でたくし上げたハイジェが、杯を突き出す。

「よく隠れていたわね、義弟殿」

「義姉上のお言いつけですから」

「素直でよろしい」

 ハイジェは満足げに杯を合わせた。陶の触れ合う乾いた音が、太鼓の合間に鳴る。

 その横で、ディリオンが丸い顔をくしゃりと崩した。

「ロズ。来てくれて、ありがとう。二十日もかかる道を」

「兄の婚礼です。来ないわけがありません、ディリオン兄上」

「……そうか。そうだね」

 長兄はそれだけ言って、弟の杯に自分の杯を軽く当てた。潤んだ目を、ハイジェが呆れたように横目で見ている。

「泣くのは明日にして。今夜は、まだ客がいるのよ」

「泣いてないよ」

「泣いているわ」

 二人が言い合いながら客の輪へ戻っていく。その背中を見送りながら、ロズヴェータは杯の酒を口に含んだ。昨夜と同じ辺境の酒が、やはり少し甘い。


◇◆◇


 宴が深まると、草原の使者がロズヴェータの前に現れた。

 背の高い、日焼けした男だ。毛皮を縁取った長衣に、幾筋にも編んだ髪。腰には、湾曲した短い刀を吊っている。歳の頃は父と同じか、少し下か。篝火を映した目が、鷹のように細い。

 柱の陰に退いていたはずが、この男はまっすぐにここへ来た。探していたのだ。

「辺境伯の、末の息子殿か」

 訛りの強い言葉だった。

「そうです」

「あの冬、我らの騎兵を谷で追い返したのは、お前か」

 ユーグの気配が、半歩だけ前に出る。ロズヴェータは目だけでそれを制した。

「そうです」

「そうか」

 男は、それ以上は責めも誇りもしなかった。手にした杯をゆっくりと傾け、中庭の篝火を眺める。

「草原は、強い者の名を忘れない。敵であってもだ」

「光栄です」

「聖都で、首狩りの牙を泥に沈めたとも聞いた。帝国の姫から婿の縁談が来ているとも」

 ロズヴェータは答えなかった。

 草原の風は速い。聖都の話が、もうこの男の耳に届いている。

 聖都から辺境までは二十日。噂はその道を、人より速く駆けるのだろう。それとも、草原の耳は王都や聖都にまで伸びているのか。どちらにしても、この男は婚礼の祝いのためだけに来たのではない。蝮の家の顔ぶれを見に来た、とナルクは言っていた。その顔ぶれの中で、男がまっすぐに選んだのは花婿でも当主でもなく、柱の陰の末の弟だった。

「姫を差し出せるのは、帝国だけではない」

 男は低く言い、懐から何かを取り出した。

 一本の矢だ。白い鳥の羽を矢羽に使い、矢柄には細かな文様が刻まれている。

「祝いの品だ。花嫁にではなく、お前に」

「……俺に、ですか」

「草原の風が変わったら、それを持って天幕を訪ねよ。席はいつでも空けておく」

 押しつけるように矢を渡すと、男は踵を返した。毛皮の長衣が、篝火の赤を払うように揺れる。人垣の向こうに消えるまで、一度も振り返らなかった。

 ロズヴェータは、手の中の矢を見下ろした。

 白い羽が、夜風に微かに震えている。

「……帝国だけでは足りませんか」

 ユーグが呟いた。

「足りないらしい」

 東の帝国と、草原の国。二つの化け物の両方が、いまこちらを見ている。父が言った言葉が蘇った。値をつけに来る者がいる。

「捨てますか」

「捨てれば、草原への返事になる。受け取っても、返事になる」

「では」

「持って帰る。ユーシャル殿の文の隣にでも、しまっておくさ」

 ロズヴェータは矢を外套の内に収めた。白い羽が胸元をくすぐる。毒の味を覚えておくための箱が、また少し重くなった。


◇◆◇


 宴の輪から少し離れた井戸の縁に、ナルクが一人で腰かけていた。

 細い指で杯を弄びながら、篝火の群れを眺めている。祝いの席にいても、この次兄はどこか盤の外から全体を見ているような顔をしていた。

「見られたな」

 ロズヴェータが近づくと、ナルクは顔も上げずに言った。

「ご覧になっていたのですか」

「あの男が柱の陰に向かった時から。何を渡された」

「矢です。白い羽の」

「草原の招きだ。受け取らないわけにはいかない代物だよ」

 ナルクは杯を置き、ようやく弟を見上げた。

「父上には、こちらから話しておく。お前は聖都に戻ることだけ考えろ」

「ナルク兄上」

「何だ」

 ロズヴェータは、しばらく言葉を探した。

 篝火の爆ぜる音。遠くの太鼓。酔った客の笑い声。そのどれもが、少しだけ遠くなる。

「王都の舞踏会の後始末の件です」

 ナルクの眉が、わずかに動いた。

「あの時、兄上が方々に頭を下げて回ってくださったと、人づてに伺っています。礼を言いそびれたまま、今日まで来てしまいました。……ありがとうございました」

 深く頭を下げる。

 しばらく、返事はなかった。

 顔を上げると、ナルクは井戸の縁で、珍しく困ったような顔をしていた。骨ばった指が、杯の縁を落ち着きなく叩いている。

「今ごろか」

「今ごろです」

「……遅い礼だな」

「遅すぎましたか」

「いや」

 ナルクは目を逸らし、篝火の方を向いた。

「遅い礼ほど、よく効く。覚えておけ。お前の商売にも使える」

 それだけ言って、次兄は杯の残りを一息にあおった。耳の端が、ほんの少し赤い。長兄と同じだ、とロズヴェータは思う。似ても似つかない兄弟だと思っていたが、照れた時の癖だけは同じらしい。


◇◆◇


 宴が果てたのは、夜半を過ぎてからだった。

 父の居室の扉を叩くと、短く入れと返ってきた。

 暖炉の火が、小さく燃え残っている。父は窓際の椅子に座り、何も持たずに暗い外を見ていた。窓の向こうには、中庭の隅の、あの小さな窓がある。鎧戸は今夜も閉ざされたままだ。

 卓の上に、干した野の花が一束置かれていた。

 墓の前にあったものと同じ花だ。同じ紐で、同じように束ねてある。

 ロズヴェータは、それを見なかったふりをした。

「ロズヴェータ」

「はい、父上」

「草原の男に、会ったな」

「矢を渡されました」

「ナルクから聞いた」

 父はそれ以上、何も訊かなかった。矢の意味も、受けるべきか否かも。昨日の兄たちと同じく、その判断をロズヴェータから取り上げようとはしない。

 沈黙が落ちる。暖炉の薪が、ことりと崩れた。

「父上。一つ、伺ってもよろしいですか」

「言え」

「ディリオン兄上の縁組を、なぜ許されたのです」

 父の目が、ゆっくりとこちらに向いた。

「ヴォルンスタインの家格では、辺境伯家の嫡男の妻としては足りぬ。草原の氏族と結べば、国境はもっと静かになったはずです。父上は毎年、そう言って兄上の願いを退けておられたと聞きました。それが、なぜ今年」

「家に要るのは、結果だ」

 父は短く言った。

「ディリオンは家を継ぐ。ヴォルンスタインの砦は、草原に向けた家の盾になる。あの娘は、砦の者を束ねられる。その結果があれば、それでいい」

「では、兄上の恋は」

「過程に恋があろうと、何の問題もない」

 あまりにあっさりとした答えだった。

 ロズヴェータは、父の顔を見た。辺境の蝮。二つの化け物に挟まれて、なお呑まれずにいる男。その顔には、いつもと同じく何の色も浮かんでいない。

 だが、父の視線はもう窓の外に戻っていた。中庭の隅の、閉ざされた小さな窓の方へ。

 卓の上の、干した野の花。

 墓の前に置かれていた、夏のうちに摘んで取っておかれた花。一年のあいだ埃ひとつ積もらなかった部屋。草原の見える窓辺にいつも座っていた、母の横顔。

 この男も、恋を知らないわけではないのだ。

 ロズヴェータは、それ以上を訊かなかった。訊けば、父はきっと何も答えない。答えないことで、何かを守っている。庶子の母のために墓の置き場所さえ変えられなかった男が、それでも毎年、誰にも言わずに花を干している。

「……分かりました」

「そうか」

「兄上は、よい方を選ばれました」

 父は答えなかった。

 ただ、窓の外を見たまま、ほんのわずかに顎を引いた。それが頷きだったのかどうか、ロズヴェータには分からない。

「下がれ。明日は早いのだろう」

「はい。おやすみなさいませ、父上」

 扉を閉める間際、振り返る。暖炉の残り火に照らされた父の背中は、蝮というより、ただ一人で夜を見ている男の背中に見えた。


◇◆◇


 翌朝、一行は城門の前に揃った。

 ガッチェたちは故郷の者に持たされた干し肉や酒の包みで、鞍を膨らませている。老いた母親らしい女に抱きつかれ、日焼けした顔を真っ赤にしている者もいた。ガッチェ自身も、門の脇で幼い子供たちに袖を引かれ、困ったように頭を撫でている。見送りの家人たちの中に、ディリオンとハイジェの姿があった。婚礼の翌朝だというのに、ハイジェはもう乗馬用の革の脚衣に着替えている。

「砦に戻るのですか、義姉上」

「見張りを増やすって言ったでしょう。草原の風が変わる前にね」

 ハイジェは、ロズヴェータの外套の胸元からのぞく白い羽に目を留め、片眉を上げた。ナルクから聞いたのか、それとも昨夜、花嫁の座から見ていたのか。

「もう、変わりかけているみたいだけど」

「そのようです」

「次に来る時は、英雄の顔で来てもいいわ」

 ハイジェは腕を組み、長兄の方へ顎をしゃくった。

「その時は、あの人の隣を半歩だけ空けてあげる。半歩だけよ」

「肝に銘じます、義姉上」

 ディリオンが、丸い顔をほころばせて前に出た。

「ロズ。体に気をつけるんだよ。聖都は食べ物が合わないって聞いたから」

「ディリオン兄上。俺はもう子供では」

「分かってるよ」

 ディリオンは笑い、それから少しだけ声を落とした。

「あの杖、見つけただろう」

「……はい」

「あれは、僕が預かっておくよ。取りに帰ってくる理由が、一つくらいあった方がいいだろう」

 ロズヴェータは、何も言えなかった。

 代わりに、深く頭を下げる。長兄の柔らかな手が、その肩を二度叩いた。

 城壁の上に、細い人影が見えた。ナルクだ。見送りの列には加わらず、骨ばった指で城壁の縁に手をついて、こちらを見下ろしている。ロズヴェータが手を上げると、次兄は面倒そうに片手を振り返した。

 その奥の窓に、もう一つ人影がある。父だ。

 父は手を振らない。ただ、そこに立っている。

 ロズヴェータは馬首を返した。

 丘を下り、振り返る。灰色の石の城は、朝の光の中で低く、厚く、しぶとく立っていた。来た時と何も変わらない。変わったのは、見る側の目の方だ。

 夕刻、西へ向かう街道の上で、ユーグが空を指さした。

「ロズヴェータ様。月が」

 西の空の低いところに、糸のように細い月が懸かっていた。

 昨夜死んだ月の後に生まれた、新しい月だ。沈みかけた陽の名残の中で、白く、頼りなく、それでも確かにそこにある。

 外套の内で、白い羽の矢が胸元に触れている。絹の文と並べてしまう日も、そう遠くはないだろう。街道の先には王都があり、ネリネが増やしているはずの耳があり、城門の暗がりで煙管の火を消した誰かがいる。さらにその先には、名を捨てた男に預けてきた聖都がある。

 次の雪解けまで、あと一年足らず。

 月はこれから、一日ずつ肥えていく。


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― 新着の感想 ―
優しい世界・・・ もしかしてロズが自分は庶子だからって勝手に壁を作っていたのでは。 この善人すぎる長兄を排除しようとか言ってた親父殿がいるってマ?
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