【幕間】 新月の婚礼3 月のない夜に
辺境では、婚礼は月の無い夜に挙げる。
古い月が死に、新しい月が生まれる夜。その夜に、新しい家を始めるのだ。月明かりがない代わりに、城の中庭には夕刻から篝火が焚かれ、石畳の縁にはずらりと松明が並べられた。
その日の昼過ぎ、ロズヴェータは長兄の居室に呼ばれる。
ディリオンは婚礼の礼装を半ばまで着込んだところで、襟の留め金と格闘していた。ふくよかな首回りに、硬い襟がどうにも収まらないらしい。家人を呼べばいいものを、と思いながら、ロズヴェータは黙って留め金に手を伸ばした。
「ありがとう。……ロズ」
「はい」
「家の中にはね、ロズの方が当主に向いているって言う人がいるんだ。知ってるよ」
留め金を掛ける指が、一瞬止まる。
長兄の声は、いつもどおり柔らかかった。責める響きも、怯える響きもない。
「俺は聖都で手一杯です、ディリオン兄上」
「うん。だから、ここは僕が守るよ。ハイジェと一緒にね」
ディリオンは鏡代わりの磨いた銅板に映る自分の丸い顔を見て、少し照れたように笑った。
「ロズが外で戦っている間、帰る場所くらいは、僕が守っておく。それが僕の戦い方なんだ」
留め金が、小さな音を立てて掛かる。
ロズヴェータは一歩下がり、礼装に身を包んだ長兄を見た。英雄の顔をしまっておけと言った義姉の真意が、いまになってもう一段深く分かる気がした。あの娘が守ろうとしたのは、長兄の立場だけではない。この柔らかな男が、自分の戦い方を貫ける場所だったのだ。
陽が落ちると、空は墨を流したように暗い。その暗さの底で、無数の炎が揺れている。焼けた羊の脂の匂い、樹脂の爆ぜる匂い、客たちが持ち寄った強い酒の匂い。太鼓が低く鳴り、草原の笛に似た細い音色がそれに絡んだ。
ロズヴェータは、中庭の端の柱の陰にいた。
英雄の顔をしまっておけ、と義姉に言われている。紋章のない地味な上衣を選び、客の列からも一歩退いた。それでも時おり、誰かの視線が頬を撫でていく。あれが、草原の略奪者を追い払った。マルレーの兵を退けた。囁きは、篝火の爆ぜる音に紛れて途切れがちに届く。
隣では、ユーグが影のように控えている。
太鼓の音が変わった。
人垣が割れ、中庭の奥から花嫁が現れる。
ハイジェは、辺境の婚礼衣装をまとっていた。幾重にも染め重ねた厚い布が、肩から裾まで重たげに垂れている。一本に編んだ黒髪は解かれ、細かな銀の飾りを編み込まれて背に流れていた。砦の騎兵のようだった娘の面影は、どこにもない。
ただ、その足取りだけは変わらなかった。重い布を引きずりながら、まっすぐに、据わった歩みで石畳を渡っていく。
その先に、ディリオンが立っていた。
ふくよかな体を婚礼の礼装に押し込み、丸い顔を篝火に赤く照らされて、長兄は花嫁を待っている。穏やかな笑みはいつもどおりだ。だが、その目が潤んでいるのが、遠目にも分かった。
父ノブネルが、二人の前に立つ。
短い言葉が交わされた。誓いの言葉は、風に紛れてここまで届かない。ただ、ハイジェが長兄の手を取り、ディリオンがその手を両手で包むのが見えた。
中庭がどっと沸く。太鼓が乱れ打たれ、客たちが杯を掲げた。
その歓声の中で、ロズヴェータはふと、別の夜を思い出していた。
王都の舞踏会。天井から吊られた無数の燭台。磨き上げられた床に映る光。楽の音が止み、大勢の目がこちらを向いた、あの瞬間。婚約を解くと告げる声は、いまでも耳の奥に残っている。あの夜も、人々はこうして一斉に杯を掲げていた。祝うためではなく、笑うために。
「ここは、舞踏会ではございません」
低い声がした。
ユーグが、前を向いたまま言っている。人目のある場では、この乳兄弟は決して主を短い名では呼ばない。
「……分かっている」
「では、そのようなお顔はおやめください、ロズヴェータ様。兄君のお祝いです」
ロズヴェータは息を吐き、口の端をわずかに上げた。
篝火の向こうで、花嫁と花婿が客に囲まれている。ハイジェが何か言い、ディリオンが困ったように笑った。祝いの杯が、あちこちで鳴っている。
笑うための杯ではない。そう思えば、胸の奥の古い棘は少しだけ抜けた気がした。
しばらくして、客の輪を抜けた二人が、柱の陰まで歩いてきた。
重い衣装の裾を片手でたくし上げたハイジェが、杯を突き出す。
「よく隠れていたわね、義弟殿」
「義姉上のお言いつけですから」
「素直でよろしい」
ハイジェは満足げに杯を合わせた。陶の触れ合う乾いた音が、太鼓の合間に鳴る。
その横で、ディリオンが丸い顔をくしゃりと崩した。
「ロズ。来てくれて、ありがとう。二十日もかかる道を」
「兄の婚礼です。来ないわけがありません、ディリオン兄上」
「……そうか。そうだね」
長兄はそれだけ言って、弟の杯に自分の杯を軽く当てた。潤んだ目を、ハイジェが呆れたように横目で見ている。
「泣くのは明日にして。今夜は、まだ客がいるのよ」
「泣いてないよ」
「泣いているわ」
二人が言い合いながら客の輪へ戻っていく。その背中を見送りながら、ロズヴェータは杯の酒を口に含んだ。昨夜と同じ辺境の酒が、やはり少し甘い。
◇◆◇
宴が深まると、草原の使者がロズヴェータの前に現れた。
背の高い、日焼けした男だ。毛皮を縁取った長衣に、幾筋にも編んだ髪。腰には、湾曲した短い刀を吊っている。歳の頃は父と同じか、少し下か。篝火を映した目が、鷹のように細い。
柱の陰に退いていたはずが、この男はまっすぐにここへ来た。探していたのだ。
「辺境伯の、末の息子殿か」
訛りの強い言葉だった。
「そうです」
「あの冬、我らの騎兵を谷で追い返したのは、お前か」
ユーグの気配が、半歩だけ前に出る。ロズヴェータは目だけでそれを制した。
「そうです」
「そうか」
男は、それ以上は責めも誇りもしなかった。手にした杯をゆっくりと傾け、中庭の篝火を眺める。
「草原は、強い者の名を忘れない。敵であってもだ」
「光栄です」
「聖都で、首狩りの牙を泥に沈めたとも聞いた。帝国の姫から婿の縁談が来ているとも」
ロズヴェータは答えなかった。
草原の風は速い。聖都の話が、もうこの男の耳に届いている。
聖都から辺境までは二十日。噂はその道を、人より速く駆けるのだろう。それとも、草原の耳は王都や聖都にまで伸びているのか。どちらにしても、この男は婚礼の祝いのためだけに来たのではない。蝮の家の顔ぶれを見に来た、とナルクは言っていた。その顔ぶれの中で、男がまっすぐに選んだのは花婿でも当主でもなく、柱の陰の末の弟だった。
「姫を差し出せるのは、帝国だけではない」
男は低く言い、懐から何かを取り出した。
一本の矢だ。白い鳥の羽を矢羽に使い、矢柄には細かな文様が刻まれている。
「祝いの品だ。花嫁にではなく、お前に」
「……俺に、ですか」
「草原の風が変わったら、それを持って天幕を訪ねよ。席はいつでも空けておく」
押しつけるように矢を渡すと、男は踵を返した。毛皮の長衣が、篝火の赤を払うように揺れる。人垣の向こうに消えるまで、一度も振り返らなかった。
ロズヴェータは、手の中の矢を見下ろした。
白い羽が、夜風に微かに震えている。
「……帝国だけでは足りませんか」
ユーグが呟いた。
「足りないらしい」
東の帝国と、草原の国。二つの化け物の両方が、いまこちらを見ている。父が言った言葉が蘇った。値をつけに来る者がいる。
「捨てますか」
「捨てれば、草原への返事になる。受け取っても、返事になる」
「では」
「持って帰る。ユーシャル殿の文の隣にでも、しまっておくさ」
ロズヴェータは矢を外套の内に収めた。白い羽が胸元をくすぐる。毒の味を覚えておくための箱が、また少し重くなった。
◇◆◇
宴の輪から少し離れた井戸の縁に、ナルクが一人で腰かけていた。
細い指で杯を弄びながら、篝火の群れを眺めている。祝いの席にいても、この次兄はどこか盤の外から全体を見ているような顔をしていた。
「見られたな」
ロズヴェータが近づくと、ナルクは顔も上げずに言った。
「ご覧になっていたのですか」
「あの男が柱の陰に向かった時から。何を渡された」
「矢です。白い羽の」
「草原の招きだ。受け取らないわけにはいかない代物だよ」
ナルクは杯を置き、ようやく弟を見上げた。
「父上には、こちらから話しておく。お前は聖都に戻ることだけ考えろ」
「ナルク兄上」
「何だ」
ロズヴェータは、しばらく言葉を探した。
篝火の爆ぜる音。遠くの太鼓。酔った客の笑い声。そのどれもが、少しだけ遠くなる。
「王都の舞踏会の後始末の件です」
ナルクの眉が、わずかに動いた。
「あの時、兄上が方々に頭を下げて回ってくださったと、人づてに伺っています。礼を言いそびれたまま、今日まで来てしまいました。……ありがとうございました」
深く頭を下げる。
しばらく、返事はなかった。
顔を上げると、ナルクは井戸の縁で、珍しく困ったような顔をしていた。骨ばった指が、杯の縁を落ち着きなく叩いている。
「今ごろか」
「今ごろです」
「……遅い礼だな」
「遅すぎましたか」
「いや」
ナルクは目を逸らし、篝火の方を向いた。
「遅い礼ほど、よく効く。覚えておけ。お前の商売にも使える」
それだけ言って、次兄は杯の残りを一息にあおった。耳の端が、ほんの少し赤い。長兄と同じだ、とロズヴェータは思う。似ても似つかない兄弟だと思っていたが、照れた時の癖だけは同じらしい。
◇◆◇
宴が果てたのは、夜半を過ぎてからだった。
父の居室の扉を叩くと、短く入れと返ってきた。
暖炉の火が、小さく燃え残っている。父は窓際の椅子に座り、何も持たずに暗い外を見ていた。窓の向こうには、中庭の隅の、あの小さな窓がある。鎧戸は今夜も閉ざされたままだ。
卓の上に、干した野の花が一束置かれていた。
墓の前にあったものと同じ花だ。同じ紐で、同じように束ねてある。
ロズヴェータは、それを見なかったふりをした。
「ロズヴェータ」
「はい、父上」
「草原の男に、会ったな」
「矢を渡されました」
「ナルクから聞いた」
父はそれ以上、何も訊かなかった。矢の意味も、受けるべきか否かも。昨日の兄たちと同じく、その判断をロズヴェータから取り上げようとはしない。
沈黙が落ちる。暖炉の薪が、ことりと崩れた。
「父上。一つ、伺ってもよろしいですか」
「言え」
「ディリオン兄上の縁組を、なぜ許されたのです」
父の目が、ゆっくりとこちらに向いた。
「ヴォルンスタインの家格では、辺境伯家の嫡男の妻としては足りぬ。草原の氏族と結べば、国境はもっと静かになったはずです。父上は毎年、そう言って兄上の願いを退けておられたと聞きました。それが、なぜ今年」
「家に要るのは、結果だ」
父は短く言った。
「ディリオンは家を継ぐ。ヴォルンスタインの砦は、草原に向けた家の盾になる。あの娘は、砦の者を束ねられる。その結果があれば、それでいい」
「では、兄上の恋は」
「過程に恋があろうと、何の問題もない」
あまりにあっさりとした答えだった。
ロズヴェータは、父の顔を見た。辺境の蝮。二つの化け物に挟まれて、なお呑まれずにいる男。その顔には、いつもと同じく何の色も浮かんでいない。
だが、父の視線はもう窓の外に戻っていた。中庭の隅の、閉ざされた小さな窓の方へ。
卓の上の、干した野の花。
墓の前に置かれていた、夏のうちに摘んで取っておかれた花。一年のあいだ埃ひとつ積もらなかった部屋。草原の見える窓辺にいつも座っていた、母の横顔。
この男も、恋を知らないわけではないのだ。
ロズヴェータは、それ以上を訊かなかった。訊けば、父はきっと何も答えない。答えないことで、何かを守っている。庶子の母のために墓の置き場所さえ変えられなかった男が、それでも毎年、誰にも言わずに花を干している。
「……分かりました」
「そうか」
「兄上は、よい方を選ばれました」
父は答えなかった。
ただ、窓の外を見たまま、ほんのわずかに顎を引いた。それが頷きだったのかどうか、ロズヴェータには分からない。
「下がれ。明日は早いのだろう」
「はい。おやすみなさいませ、父上」
扉を閉める間際、振り返る。暖炉の残り火に照らされた父の背中は、蝮というより、ただ一人で夜を見ている男の背中に見えた。
◇◆◇
翌朝、一行は城門の前に揃った。
ガッチェたちは故郷の者に持たされた干し肉や酒の包みで、鞍を膨らませている。老いた母親らしい女に抱きつかれ、日焼けした顔を真っ赤にしている者もいた。ガッチェ自身も、門の脇で幼い子供たちに袖を引かれ、困ったように頭を撫でている。見送りの家人たちの中に、ディリオンとハイジェの姿があった。婚礼の翌朝だというのに、ハイジェはもう乗馬用の革の脚衣に着替えている。
「砦に戻るのですか、義姉上」
「見張りを増やすって言ったでしょう。草原の風が変わる前にね」
ハイジェは、ロズヴェータの外套の胸元からのぞく白い羽に目を留め、片眉を上げた。ナルクから聞いたのか、それとも昨夜、花嫁の座から見ていたのか。
「もう、変わりかけているみたいだけど」
「そのようです」
「次に来る時は、英雄の顔で来てもいいわ」
ハイジェは腕を組み、長兄の方へ顎をしゃくった。
「その時は、あの人の隣を半歩だけ空けてあげる。半歩だけよ」
「肝に銘じます、義姉上」
ディリオンが、丸い顔をほころばせて前に出た。
「ロズ。体に気をつけるんだよ。聖都は食べ物が合わないって聞いたから」
「ディリオン兄上。俺はもう子供では」
「分かってるよ」
ディリオンは笑い、それから少しだけ声を落とした。
「あの杖、見つけただろう」
「……はい」
「あれは、僕が預かっておくよ。取りに帰ってくる理由が、一つくらいあった方がいいだろう」
ロズヴェータは、何も言えなかった。
代わりに、深く頭を下げる。長兄の柔らかな手が、その肩を二度叩いた。
城壁の上に、細い人影が見えた。ナルクだ。見送りの列には加わらず、骨ばった指で城壁の縁に手をついて、こちらを見下ろしている。ロズヴェータが手を上げると、次兄は面倒そうに片手を振り返した。
その奥の窓に、もう一つ人影がある。父だ。
父は手を振らない。ただ、そこに立っている。
ロズヴェータは馬首を返した。
丘を下り、振り返る。灰色の石の城は、朝の光の中で低く、厚く、しぶとく立っていた。来た時と何も変わらない。変わったのは、見る側の目の方だ。
夕刻、西へ向かう街道の上で、ユーグが空を指さした。
「ロズヴェータ様。月が」
西の空の低いところに、糸のように細い月が懸かっていた。
昨夜死んだ月の後に生まれた、新しい月だ。沈みかけた陽の名残の中で、白く、頼りなく、それでも確かにそこにある。
外套の内で、白い羽の矢が胸元に触れている。絹の文と並べてしまう日も、そう遠くはないだろう。街道の先には王都があり、ネリネが増やしているはずの耳があり、城門の暗がりで煙管の火を消した誰かがいる。さらにその先には、名を捨てた男に預けてきた聖都がある。
次の雪解けまで、あと一年足らず。
月はこれから、一日ずつ肥えていく。




