【幕間】 新月の婚礼2 兄の選んだ娘
墓所は、城の裏手の丘にあった。
朝の風が冷たい。霜を吸った枯れ草が、踏むたびに脆く鳴る。丘の上には辺境伯家の代々の墓が並び、ひときわ大きな石の前には、まだ誰かが手向けたらしい香の燃えさしが残っていた。兄たちの母、父の正妻の墓である。
ロズヴェータの母の墓は、その列から少し離れていた。
小さな石だ。刻まれた名も、風に削られて浅い。庶子の母という立場は、死んだ後まで墓の置き場所を決めるのだ。
「……花が」
ユーグが、足を止めた。
小さな石の前に、干した野の花が一束置かれている。色は褪せていたが、束ねた紐はまだ新しい。この季節に摘める花ではない。夏のうちに摘んで干し、今日まで取っておいた者がいるのだ。
「家の者だろう」
ロズヴェータはそれだけ言って、ユーグから枯れ草の束を受け取った。道すがら、ユーグが丘の斜面で摘んだものだ。干した花の隣に並べると、二つの束はどちらも同じくらい色がない。
膝をつく。冷えた土の匂いが、鼻の奥に沁みた。
祈りの言葉は出てこない。聖都では朝夕に祈りの声を聞いているのに、いざ自分の母の前に来ると、何を言えばいいのか分からなかった。
「兄上が、結婚する」
結局、口をついたのはそれだけだ。
「相手の顔は、これから見る」
風が枯れ草を揺らす。返事はない。
ロズヴェータは立ち上がり、膝の土を払った。振り返らずに丘を降りる。ユーグは一度だけ干した花束に目をやり、何も言わずに後に続いた。
◇◆◇
中庭に戻ると、蹄の音が門をくぐってくるところだった。
五騎。先頭の一騎は、他の四騎を置き去りにする勢いで石畳に駆け込み、ぎりぎりのところで手綱を引いた。馬が嘶き、前脚を浮かせる。家人たちが悲鳴を上げて飛び退いた。
鞍の上にいたのは、女だった。
日に焼けた頬。風に乱れた黒い髪を、無造作に一本に編んで背に垂らしている。乗馬用の革の脚衣に、埃をかぶった外套。婚礼を二日後に控えた花嫁というより、砦の見回りから戻った騎兵のようだ。
「ハイジェ」
城の奥から、柔らかな声が響いた。
ディリオンが、石段を急ぎ足で降りてくる。ふくよかな体に、丸い顔。温和という言葉を絵に描いたような、優しげな風貌の男だ。その長兄が、女の手綱を取って困ったように眉を下げた。
「砦から駆け通しで来たのかい。婚礼の前に落馬でもしたら、どうするんだ」
「落ちないわ。落ちたことがないもの」
「一度も?」
「子供の頃に一度。あなたの馬を借りた時にね。あれはあなたの馬が悪い」
「……十年以上も前の話じゃないか」
「だから覚えているのよ」
ロズヴェータは、中庭の隅で足を止めていた。
長兄のこんな顔を、見たことがない。
ディリオンは家督を継ぐ者だ。父の横に立ち、家人を束ね、草原の使者とも帝国の商人とも渡り合う。誰に対しても物腰が柔らかく、声を荒らげたところを見た者はいない。その代わり、どんな相手の前でも穏やかな笑みを崩したことがなかった。その男がいま、耳まで赤くして、馬上の女に言い負かされている。
女が、ふとこちらを向いた。
黒い瞳が、中庭を横切ってまっすぐに刺さる。値踏みする目だ。父の目とはまた違う。市で馬を検める目ではなく、自分の砦に入ってくる者を、門の上から見定める目だった。
「あれが、そう?」
「うん。ロズだよ」
ディリオンが振り返り、いつもの穏やかな顔に戻ってロズヴェータを手招いた。
「おいで。紹介するよ」
ロズヴェータは石畳を渡り、女の前で足を止めた。
女はまだ鞍から降りない。見下ろされる形になる。
「ヴォルンスタインの、ハイジェよ」
「ロズヴェータです」
「知っているわ。聖都を銭で買った男。首狩りを泥に沈めた男。……でも砦でよく聞くのは、そちらの話じゃないわね。草原の略奪者を追い払った男。マルレー子爵家の兵を退けた男。辺境の英雄よ」
ハイジェは身を乗り出し、ロズヴェータの顔をしげしげと眺めた。革と馬の汗の匂いがする。
「……思っていたより、細いのね」
「噂は、本人より大きく育つものです」
「そう。なら、噂よりは信用できそうね」
ハイジェはそこでようやく鞍から飛び降りた。膝も使わずに、軽々と石畳に立つ。背丈はロズヴェータの肩ほど。だが、その立ち姿には砦の石のような据わりがあった。
「よろしく、義弟殿」
差し出された手は、剣だこで固かった。
握り返しながら、ロズヴェータは気づく。この女もまた、こちらを量っている。蝮の家に嫁ぐ者として、その家の末の弟がどういう男かを、自分の目で確かめに来たのだ。明後日の花嫁が、わざわざ砦から駆け通しで。
「値踏みは、お互いさまのようですね、義姉上」
「当たり前でしょう。嫁ぐ家の者の顔くらい、自分で見ておくわ」
ハイジェは悪びれずに笑った。父が昨夜、同じことを言ったのを思い出す。家の者の顔を、よく見ておけ。
「一つ、訊いておきたいの」
笑みを残したまま、ハイジェの声だけが低くなる。
「義弟殿は、この家の弟として来たの。それとも、辺境の英雄として来たの」
中庭のざわめきが、少し遠のいた気がした。
問いの意味は、聞き返すまでもない。
草原の略奪者を撃退し、マルレー子爵家の攻めを退けた。その功で、この家の者たちの一部はロズヴェータを次の世代の武の顔と見ている。中には、庶子であろうと長兄より当主にふさわしいのではないか、と囁く者さえいる。昨日、中庭で背中を追ってきた囁きの中にも、その響きは混じっていたはずだ。
兄の婚礼の日に、その弟が英雄として城に立てば、客たちは花婿の隣に誰が立つべきかを考え始める。
「兄の弟として来ました」
「なら、婚礼の間は英雄の顔をしまっておいて。祝いの席で、誰が次の当主にふさわしいかなんて話は聞きたくないの。あの人の隣に立つのは、わたしだけで十分よ」
「肝に銘じます、義姉上」
「ええ。そうして」
ハイジェは満足げに頷く。試されたのだと分かったのは、その後だった。長兄を守るために、この娘は砦から駆けてきたのだ。
背後で、ディリオンが咳払いをした。
「ハイジェ、婚礼の支度が……」
「分かっているわ。衣装合わせでしょう。あの重たい布を着せられて一晩座っているなんて、砦の見張りの方がよほど楽よ」
「一晩だけだよ」
「その一晩が長いのよ」
言い捨てて、ハイジェは城の奥へ歩き出す。数歩行ったところで、振り返りもせずに片手を上げた。
「あなた。あとで砦の話があるの。逃げないでね」
「逃げたことなんて、ないだろう」
「知っているわ」
その背中が、石段の上に消える。
ディリオンは、しばらくその方角を見ていた。それから弟の視線に気づき、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「……ああいう人なんだ」
「そのようですね、ディリオン兄上」
「笑わないでおくれよ」
「笑っていません」
「顔が笑ってるよ」
ロズヴェータは口元を押さえた。隣でユーグが、珍しく肩を震わせている。
昼過ぎ、ロズヴェータは城壁に上った。
乾いた風が吹きつける。眼下には枯れた草原がどこまでも広がり、その果ては灰色の空に溶けていた。聖都の東壁から見た平野とは違う。あちらには人の骸と泥があった。こちらには、風と草しかない。
城壁の先で、ハイジェが長兄の袖を引き、草原の一点を指さしていた。砦の見張り台から見える稜線の話でもしているのだろう。ディリオンは丸い顔をほころばせて頷き、時おり首を振る。花嫁と花婿の語らいには見えないが、二人とも楽しそうだった。
「似合いだろう」
いつの間にか、隣にナルクが立っていた。
長兄とは似ても似つかない、細身の男だ。風に吹かれる外套の下で、骨ばった指が城壁の縁を叩いている。子供の頃は書庫に籠もりきりで、ほとんど言葉を交わした覚えのない次兄だ。
「ええ。ナルク兄上」
「兄上はな、あの娘と話す時だけ、父上の息子じゃなくなる。ただのディリオンになるんだ」
ナルクは草原の彼方へ目をやった。
「婚礼には、草原からも祝いの使者が来るそうだ」
「草原から」
「ヴォルンスタインの砦は、草原の氏族と長く睨み合ってきた。その娘が蝮の家に嫁ぐ。祝いにかこつけて、こちらの顔ぶれを見に来るんだろう」
ナルクの細い目が、横目でロズヴェータを捉える。
「今年は、見られる顔が一つ多いからな」
「……俺ですか」
「さあな。今夜、酒の席で話そう。兄上も交えて」
言い置いて、ナルクは城壁の階段を降りていった。風が、その外套の裾を草原の方へ煽る。
◇◆◇
その夜、兄弟三人は城の小部屋に集まった。
婚礼の客を迎える大広間ではない。長兄の居室の奥にある、物置同然の小部屋だ。壁の漆喰は煤け、窓の鎧戸は隙間風に鳴る。卓の上には辺境の強い酒の壺と、炙った羊の肉。獣脂の蝋燭が、ちりちりと音を立てて燃えていた。
ユーグは戸口の近くに控え、黙って杯に酒を注いでいる。
ロズヴェータは、壁に立てかけられた一本の杖に目を留めた。
樫の枝を削っただけの、粗末な杖だ。見覚えがある。
子供の頃、兄弟が揃って遊んだ記憶はほとんどない。ディリオンは嫡男としての教育に追われ、ナルクは文官になるための書物に埋もれていた。それでもごくたまに、長兄は教師の目を盗んで抜け出してきた。ロズヴェータが親父殿の屋敷から領主の館へ戻る数少ない日を狙って、決まって末の弟の手を引き、野山を駆けて、領都の東のユントリ山まで足を延ばしたものだ。この杖は、その山でディリオンが拾い、小さなロズヴェータに持たせてくれたものだった。
王都へ発つ時、城に置いてきたはずの杖。それがいつの間にか、長兄の部屋の壁にある。
「砦の話とは、何だったのです」
ロズヴェータが訊くと、ディリオンは杯を置いた。
「草原の騎兵が、この冬もまた国境を探っているらしい。砦の見張りを増やしたいんだって」
「花嫁の話ではありませんね」
「ああいう人だって、言っただろう」
ナルクが、細い指で杯の縁をなぞりながら笑う。
「兄上はな、ロズ。あの娘に三度も縁談を蹴らせたんだ」
「蹴らせたんじゃないよ。ハイジェが自分で断ったんだ」
「南の豪族からの縁談。王都の子爵家からの縁談。草原の氏族からの縁談まであった。ヴォルンスタインの親父殿は頭を抱えていたよ。娘がどれも嫌だと言って、砦の見張り台から降りてこないんだからな」
「……ナルク」
「その間、兄上は何をしていたと思う。父上に、毎年同じことを願い出ていたんだ。ヴォルンスタインの娘をもらいたいと。家格が足りぬ、草原との縁の方が家のためになる、と言われても、毎年」
ディリオンは答えず、丸い頬をさらに赤くして酒を口に運んだ。
ロズヴェータは、目の前の長兄を見た。誰にでも柔らかく笑い、自分の望みなど口にしたこともないような顔をしていた男。その男が、一人の娘のために、毎年父に同じ願いを繰り返していた。
知らなかった。
この家の中にいた頃、自分は何を見ていたのだろう。
「それで、父上は」
「今年、ようやく首を縦に振った」
ナルクは肩をすくめる。
「理由は訊くなよ。父上は理由を言わない人だ」
蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。
ナルクは杯を置き、ふと声の調子を変えた。
「さて。祝いの酒の席だが、一つだけ話しておくことがある」
ロズヴェータの背筋が、わずかに固くなる。
来た、と思った。
「エルフィナスの姫の話だ。ユーシャルとかいったな。お前に届いた、婿の縁談」
やはり、そこか。
ロズヴェータは杯を持つ手に力を込めた。辺境は東の帝国と草原の国に挟まれている。帝国の姫を娶れば、カミューは東に寄る。断れば西に寄る。父も兄も、その秤の上で家を守ってきた。弟の縁談ひとつも、家にとっては盤上の駒だ。
受けろと言われるか。断れと言われるか。どちらにせよ、家のために。
身構えたロズヴェータに、ナルクは静かに言った。
「家のために、お前が売られる必要はない」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……ナルク兄上」
「お前は聖都で、もう十分に売られかけているだろう。王都にも、帝国にも。この上、家まで値札をつけに行く必要はない」
「しかし、辺境の立ち位置は」
「それを考えるのは父上と兄上の仕事だ。お前の仕事じゃない」
ディリオンが、杯を静かに卓に置いた。
「嫌なら、断っていいんだよ」
長兄の声は、いつもどおり柔らかい。だが、その底に揺るがないものがあった。
「断った後の始末は、家でつける。帝国が文句を言ってきたら、それはカミューが受ける。僕と父上でね。ロズ一人に背負わせたりはしないよ」
それから、長兄は少しだけ口ごもった。
「……ハイジェも同じことを言っていたんだ。弟を値札つきで売り払うような家になら、嫁ぐ気はない、って」
「今日会ったばかりの義弟のために、ですか」
「会う前から言っていたよ。そういう人なんだ」
昼間、中庭で試された時の黒い瞳を思い出す。英雄の顔をしまっておけと言ったあの娘は、同じ口で、弟を売るなと長兄に迫っていたのだ。
ロズヴェータは、二人の兄を見比べた。
細い指で杯を回すナルク。丸い顔で穏やかに弟を見つめるディリオン。どちらの顔にも、盤を読む時の冷たさはない。
聖都では、誰もがロズヴェータの値を量った。首狩りも、ガベルも、王都の筆も。この家に帰る道すがらも、父の城で量られる覚悟をしてきたのだ。
それが、どうだ。
「……俺は」
言葉が続かない。
喉の奥で、何かがつかえている。酒のせいではない。
「てっきり、家の駒にされるものと思っていました」
「父上は、駒にしたがったさ」
ナルクが鼻で笑った。
「ロデリクをお前のところへやったのは、父上の意を汲んだお前の親父殿だ。だが、兄上と私で止めることにした。お前が騎士校で婚約を捨てられた時も、武官に転じた時も、父上は黙っていた。お前が自分で立つのを待っていたんだと思う。立った弟を、今さら家の都合で売るのは筋が違う」
「ディリオン兄上も、文に書いておられました。家として勘定に入れねばならん男になった、と」
「書いたよ」
ディリオンが、穏やかに頷いた。
「勘定に入れたうえで、こう決めたんだ」
ロズヴェータは、ふと思い出す。
騎士となって間もない頃、王都の舞踏会でロズヴェータは方々の家に迷惑をかけた。苦情の文がいくつも届き、辺境伯家の名にまで泥がはねかける。その後始末に奔走したのが、ナルクだった。子供の頃にはほとんど口もきかなかった次兄が、頭を下げるべき家の名を書き連ねた紙を手に、王都の屋敷を一軒ずつ回ってくれたのだ。
礼を言いそびれたまま、今日まで来ている。
「ナルク兄上は、餌には釣り針がついていると文を寄越したではありませんか」
「ついているさ。だから気をつけろと言った。食えとも食うなとも書いていない」
「……屁理屈です」
「兄の特権だ」
ディリオンが、肩を揺らして笑い出した。つられてナルクも笑う。
ロズヴェータは、口元が緩むのを止められなかった。杯を持ち上げて隠そうとしたが、うまくいかない。酒が妙に甘く感じる。辺境の強い酒は、こんな味だったろうか。
「顔が笑ってるよ、ロズ」
昼間の仕返しのように、ディリオンが言った。
「笑っていません」
「笑ってるよ」
「……少しだけです」
兄二人が、今度は声を上げて笑った。
戸口の近くで、ユーグが黙ってその様子を見ている。赤い瞳が、蝋燭の灯りを映して柔らかく揺れていた。主のこういう顔を、この乳兄弟はいつ以来見ていなかったのか。ユーグはただ、空いた杯に静かに酒を注ぎ足す。
◇◆◇
夜更けに小部屋を出ると、城の回廊は冷えきっていた。
石の床が、長靴の底から冷気を伝えてくる。どこかで犬が一声吠え、それきり静かになった。中庭の篝火だけが、婚礼の支度の残骸を赤く照らしている。
「よい兄君たちですね」
並んで歩きながら、ユーグが言った。
「……ああ」
「お顔に書いてございます、とヴィタス殿なら申すでしょう」
「お前まで言うな」
ロズヴェータは苦笑し、それから足を止めた。
回廊の窓から見える空に、月はない。今夜の月は、夜明け前にならなければ昇らない。昇ったところで、もう糸のように細いはずだ。
「ユーグ」
「はい」
「墓の花を置いたのは、誰だと思う」
ユーグは少しの間、黙った。
「家の者だろう、と仰いました」
「そう言った」
「では、家の者でしょう」
乳兄弟の答えは、それ以上を言わない答えだった。ロズヴェータもそれ以上は訊かない。
干した野の花。夏のうちに摘み、今日まで取っておいた誰か。蝮の城に、そういう手間をかける者がいる。
暗い空を見上げる。星だけが、草原の上に冷たく散っていた。
あてがわれた部屋は、一年前に発った時のままだった。
狭い寝台。擦り切れた毛皮の敷物。窓際の小さな卓には、発つ前夜に読みさしにした兵書が、栞を挟んだまま置かれている。埃ひとつ積もっていない。誰かが、この一年のあいだ欠かさず拭いていたのだ。
ロズヴェータは寝台に腰を下ろし、兵書の栞を指でなぞった。
聖都では、寝る前に必ず帳簿を開く。銭の出入り、糧の残り、巡礼の数、東の峠の報せ。数字を追っているうちに眠りに落ちるのが常だった。
今夜は、何も開く気にならない。
酒の甘さが、まだ舌の奥に残っていた。家のためにお前が売られる必要はない。嫌なら断れ。二つの声が、耳の中で交互に鳴る。
蝋燭を吹き消す。獣脂の焦げる匂いが、闇の中にしばらく漂った。
新月まで、あと二日。




