【幕間】 新月の婚礼1 留守居と王都
その文が届いたのは、和議の印が乾いてからほどなくのことだった。
帝国軍は二つ目の峠を越え、約束どおり騎士たちの身柄も東へ返し終えている。東の城壁から見下ろす平野には、焼け残った柵と乾ききらない泥の跡が残るばかり。篝火の海は、もうない。
宿営の天幕で、ロズヴェータは封蝋を見つめていた。
押されているのは、見慣れた辺境伯家の紋だ。
「……家からか」
小刀の背で蝋を割る。乾いた音がして、羊皮紙の匂いが立った。聖都の乳香とは違う、獣脂と草いきれの混じった、懐かしい辺境の匂いである。
文面は短い。
――婚礼を挙げる。次の新月の夜だ。お前も来い。
署名はディリオン。長兄の、丸みを帯びた丁寧な字だ。その下に、別の手で、角ばった素っ気ない字の一行が添えてある。
――断る理由を探しているなら、先に言っておく。無い。ナルク
気づけば、ロズヴェータは口の端を緩めていた。
「ディリオン兄上が、結婚か」
背後で文箱を整えていたユーグが、手を止める。
「おめでたいことです」
「ああ。……相手の名が書いていない」
「向こうに着けば分かる、ということでしょう。辺境の方々らしい」
ユーグの赤い瞳が、わずかに細くなる。からかっているのだと分かるのは、乳兄弟くらいのものだろう。
「行かれますか」
問いは短い。だがその中には、いくつもの問いが畳まれている。
聖都から辺境までは、王都を経て片道二十日。往って還れば、ひと月半を優に越える。和議は成ったとはいえ、休戦は次の雪解けまでの紙一枚にすぎない。王都にはガベルがいる。グリムニルが帝国の副将に渡した封書の中身も、まだ誰も知らない。
「行く」
ロズヴェータは即答した。
「兄の婚礼に顔を出さぬ弟を、辺境の者はどう見る。それに、あの家の者たちの顔を一度見ておきたい」
「家の、ですか」
「俺の値をつけたがっている者の顔だ。盤の外に何人いるか、数えておいて損はない」
言いながら、文をもう一度見下ろす。無い、と書いたナルクの角ばった字が、なぜか目に残った。
「では、留守は」
「ヴィタスに預ける」
ユーグは何も言わない。反対ではないのだ。ただ、それがどれほど重い言葉かを、この男は誰よりもよく知っている。
「殿下には、留守の間の帳簿の見方を置いていく。ヴェルダー卿には、正式に届けを出す」
「名代の卿が、許されましょうか」
「許すさ。兄の婚礼に弟が出るのを止める理由は、あの人の正しさのどこにも書いていない」
ユーグは小さく頷き、文箱の蓋を閉じた。
◇◆◇
ヴィタスは東の城壁の上にいた。
夕暮れの風が、石の上を這っていく。かつて十万の人垣が並んだ平野には、いま鍬の跡が筋を引いている。巡礼の三割は路銀を持って西へ去り、残る者たちは荒地を畑に変え始めていた。戦の間は壁だった者たちが、今度は土を相手にしている。
その平野の先、峠の向こうを、名を捨てた男は黙って見ている。
「ここにいると思った」
声をかけると、ヴィタスはゆっくりと振り返り、深く一礼した。
「ロズヴェータ様」
「兄が婚礼を挙げる。辺境へ行ってくる。往き還りで五十日ほどだ」
「……おめでとうございます」
「その間、差配をお前に預ける」
風が止む。
ヴィタスの顔から、表情というものが一瞬消えた。
「私に、でございますか」
「そうだ」
「お言葉ですが」
ヴィタスは静かに首を振る。
「私は名もない男でございます。泥の海で死んだことになっている、帝国の元将にすぎません。その男に千年の都の差配を預けたと知れれば、ヴェルダー卿も王都も、黙ってはおりますまい」
「表に立つのは殿下とヴェルダー卿だ。お前が握るのは、三頭獣の手綱と盤を読む目だけでいい」
ロズヴェータは城壁の縁に手をついた。冷えた石が、掌に固い。
「ガーデルが帳簿を見る。エリシュが壁を見る。トーロウとグレイスが耳と目になる。だが、それを一つの盤として読める者がいない。俺の他には、お前しかいない」
「……名もない男に、でございますか」
「名は器だ」
東の暗がりを見たまま、ロズヴェータは言った。
「中身はもう見た。泥の海でも、天幕の中でもな」
長い沈黙が落ちる。
遠くで、巡礼たちが夕べの祈りを唱えていた。十字の祈りの声が、風に乗って細く届く。かつてこの男が仕えた神の名とは違う祈りである。
やがてヴィタスは、先ほどよりも深く頭を垂れた。
「承りました。お帰りまで、この都を割らせはいたしません」
「割らせるなよ。女王陛下との約束だ」
「存じております」
顔を上げたヴィタスの口元に、ごくわずかな笑みがあった。和議の天幕で旧主に名を捨てられて以来、初めて見る顔だ。
「ロズヴェータ様こそ、辺境で値をつけられませぬよう」
「……そんな顔をしていたか」
「お顔に書いてございました」
ロズヴェータは短く笑い、城壁の階段を降りた。
◇◆◇
発ったのは翌朝、まだ星の残るうちだった。
供はユーグと、ガッチェの率いる十騎。いずれも辺境の生まれで、草原の風を知る者たちだ。
ロズヴェータは初め、ユーグ一人を連れて行くつもりでいた。
「大勢で行けば王都で目立つ。俺はいま、目立ちすぎている」
「目立たぬ銀の獅子など、聞いたこともありませんが」
出立の間際まで、ユーグは一歩も引かなかった。結局、辺境へ帰る者を供に選ぶことで折り合いがついたのだ。故郷の婚礼に里帰りする一行なら、道中で誰に見られても言い訳が立つ。
「だから、たてがみを隠していく」
紋章の入った装具は一つも持たず、一行そろって商家の護衛のような粗い毛織の外套をまとう。ガッチェは故郷の名を聞いた時から、日焼けした顔を隠しもせずにほころばせていた。西の門をくぐる時、乳香の匂いが背中から遠ざかっていった。
街道は、半年前とはまるで違う顔をしている。
民衆十字軍が東へ流れた跡が、道の両脇に残っていた。踏み荒らされた畑。焚き火の黒い輪。ところどころに、粗末な木の十字を立てた土饅頭。宰相コルベールが二十筋に割ったという川筋の一本を、一行はいま逆に辿っているのだ。
「痩せた川の跡、ですね」
ユーグが呟く。
「一本の深い川なら、この道は墓で埋まっていた」
顔も知らぬ老宰相の筆が、この墓の数を減らした。ロズヴェータはそれを、馬上で黙って噛みしめる。
その夜は、街道脇の廃れた水車小屋で火を焚いた。
壊れた羽根車が、風が吹くたびに軋む。ガッチェたちは小屋の外に火を分け、故郷の歌を低く口ずさんでいた。小屋の中では、乾いたパンと干し肉を炙る匂いが籠もっている。
火の粉が、ぱちりと跳ねた。
火の番をしながら、ユーグはしばらく黙っていた。他人の耳のない所でだけ、この乳兄弟は主を短い名で呼ぶ。
「ロズ。母君の墓には、寄られますか」
炙った肉を持つ手が止まった。
母の顔は、もう輪郭しか思い出せない。親父殿の屋敷で育った自分が母に会えたのは、たまに領主の館へ戻る日だけだった。覚えているのは、窓の外の草原を見ていた横顔くらいのものだ。あの人が何を見ていたのか、幼い頃には分からず、いまも分からないままでいる。
「……寄る」
「では、花を」
「辺境の花は、この時期はもう枯れている」
「枯れ草でも、手向ければ花です」
ユーグの赤い瞳が、火を映して揺れていた。ロズヴェータは答えず、小さく息を吐く。軋む羽根車の音が、しばらく二人の間を埋めていた。
十日目の夕刻、王都の城壁が見えてきた。
獅子と王冠の旗が、傾いた陽を受けて塔の上で翻っている。門をくぐれば石畳に車輪の音が満ち、焼いた肉と蜜蝋と馬の匂いが入り混じって鼻を打つ。聖都の乾いた静けさに慣れた耳に、王都の喧噪はいささか騒がしすぎた。
ガッチェたちを別の宿に分け、ロズヴェータとユーグは騎士校にほど近い裏通りの一軒を選んだ。学生の頃に何度か使った安宿だ。軋む階段も、酸っぱい葡萄酒の匂いも、あの頃と変わらない。
変わったのは、戸口に立った者の姿だった。
「隊長」
旗持ちから騎士となった娘は、息を切らしている。背が伸びた。肩も、別れた時より厚い。
「ネリネ」
「本当に隊長だ……文をいただいた時は、たちの悪い冗談かと」
ネリネはそこで言葉を詰まらせ、慌てて姿勢を正した。騎士の礼をとろうとする手を、ロズヴェータは軽く押さえる。
「ここではやめろ。今夜の俺は、ただの旅の者だ」
「……はい」
それでもネリネの目は、隠しきれない喜びに光っていた。
卓に安い煮込みが三つ並ぶ。豆と塩漬け肉の、騎士校の者なら誰でも知っている味である。
「王都は、隊長の噂で持ちきりです」
匙を持ったまま、ネリネが声を落とした。
「首狩りを泥に沈めた話は、もう講堂の誰もが知っています。尾ひれがついて、隊長が雪解けの神を呼んだことになっている話まで」
「神は呼んでいない。呼んだのは谷の水だけだ」
「分かっています。でも若い騎士たちには、そういう話の方がよく回るんです」
それから、とネリネは続ける。
「陛下のお言葉も、まだ消えていません。ルクレイン家のガベル様に『卑怯』と仰ったという話です。あれ以来、寮では聖都の王配殿下に杯を上げる者まで出てきました。帳簿一つで首狩りを黙らせたお方だ、と」
「殿下が聞けば、困った顔をなさるだろうな」
「喜ばれるかと」
ユーグが珍しく小さく笑う。
「困った顔で喜ばれる。あの方はそういう方だ」
ロズヴェータがそう返すと、ネリネも声を立てて笑った。騎士校の寮で、夜更けに灯りを囲んだ頃のような笑いだった。
「聖都は、どんなところですか」
ネリネが身を乗り出す。
「乳香の匂いがする。どこへ行っても祈りの声が絶えない。それから……」
ロズヴェータは少し考えた。
「喋らぬ女王がいて、喋りすぎる巡礼が十万いる」
「それは、大変そうです」
「大変だ。だが、退屈はしない」
ひとしきり聖都の話をせがんだ後、ネリネの顔からふと明るさが引いた。
「……一つだけ、気になることがあります」
「言え」
「三日ほど前から、騎士校の門の近くに見慣れない男たちが立っています。家の紋はつけていません。でも立ち方が兵のそれです。聖都から来る旅人のことを、宿の主人たちに訊いて回っているとか」
ロズヴェータは匙を置いた。
煮込みの湯気の向こうで、ユーグの赤い瞳が冷たく細まる。窓の外では、日の暮れた王都の鐘が低く一つ鳴った。
「俺が王都を通ると、誰かが読んでいたか」
「隊長が来ると知っているのは、ごく僅かのはずです」
「兄上の婚礼は、辺境では隠しもしない話だ。辺境から王都へ話が流れる筋は、いくらでもある」
窓の外に目をやる。
満ちたばかりの月が、欠け始めていた。王都の屋根の上で丸みを一つ削がれた月は、どこか半眼の目に似ている。
「明日は、日の出前に発つ」
「承知しました」
ユーグの返事は短い。その手はすでに、腰の剣の位置を確かめていた。
ネリネは不安げに二人を見比べ、思い切ったように口を開く。
「隊長。聖都に戻られる時も、ここを通られますか」
「たぶんな」
「では、その時までにもっと耳を増やしておきます。寮にも、講堂にも、厩にも」
まっすぐな目だった。旗を預けた時と同じ目だ。
ロズヴェータは一瞬言葉を失い、それから、その肩を軽く叩いた。
「頼む。だが、無理はするな。お前の耳は代わりがきかない」
翌朝、まだ暗いうちに城門を抜ける。
門の脇の暗がりで、誰かが煙管の火を消した気がした。振り返っても、そこには湿った石壁があるだけだった。
「気のせいでしょうか」
「気のせいならいい。気のせいでなければ、帰り道で分かる」
ユーグは答えず、手綱を短く握り直す。後ろに続くガッチェが、無言で配下の間隔を詰めさせた。夜明け前の冷気の中で、焦げた煙草の匂いだけが、しばらく鼻の奥に残っていた。
◇◆◇
王都を過ぎると、道はしだいに険しくなる。
麦の畑が途切れ、石の多い丘が増えていく。木々は低く、風は日ごとに乾いていった。十八日目には、枯れ草と馬の汗と、遠い焚き火の煙の匂いが風に混じるようになる。目を閉じていても分かる匂いだ。
「帰ってきた、という顔をしています」
「そうか」
「ええ。騎士校に上がる前の、あの頃の顔です」
ロズヴェータは答えなかった。答えれば、何かを認めることになる気がしたのだ。
後ろでは、ガッチェたちが丘の名を一つずつ言い当てては笑い合っている。
二十日目の昼過ぎ、丘の上に城が見えた。
飾り気のない、灰色の石の城。王都の城のように塔を誇ることもなく、聖都の城壁のように千年を語ることもない。ただ二つの大国に挟まれた土地で、低く、厚く、しぶとく立っている。まるで持ち主そのものだ。
城門の前では、すでに婚礼の支度が始まっていた。羊が追われ、樽が転がされ、女たちが干し肉を束ねている。子供たちの甲高い声。遠い鍛冶の槌音。見知った顔の老いた門番が、馬上のロズヴェータを見上げて目を丸くした。
「若様……」
言いかけて、門番は口をつぐむ。皺だらけの顔をくしゃくしゃにして、深く頭を下げた。
中庭を抜ける間、すれ違う家人たちが次々と足を止めた。囁きが、背中を追ってくる。あれが聖都の、銀の獅子の、と。王都で聞いた噂と同じ言葉が、ここでは少しだけ違う響きを帯びていた。誇らしさと、どこか遠巻きにするような怯えの混じった響きだ。
ふと、中庭の隅の窓に目が留まる。
日当たりの悪い、小さな窓。鎧戸は閉ざされ、その下に枯れた蔦が絡みついていた。
「……ロズ」
ユーグが低く呼ぶ。
「分かっている。墓は、明日だ」
窓から目を引き剥がし、広間への石段へ向かう。
その石段の下に、熊のような男が腕を組んで立っていた。
白髪交じりの髪を短く刈り、顔には古傷が幾筋も走っている。辺境の戦場で幾度となく草原の騎兵を叩き返してきた、獰猛な戦士の体躯。ロズヴェータを育てた屋敷の主、ユバージルだ。
「親父殿」
「戻られたか。十一騎で二十日の道とは、また大胆な」
ユバージルは、ロズヴェータの供の数を一目で数えたらしい。それから、その後ろに控えた赤い瞳へ目を移した。
「……で、そっちは。主の供を十騎で済ませる副官がどこにいる。甘いですな」
「十騎で済ませたのは、私ではありません」
ユーグの声が、いつもより一段低い。
「私は止めました。このクソ親父」
「聞こえておるぞ、倅」
父子の間に、剣呑とも親しげともつかない沈黙が落ちる。ロズヴェータは思わず口元を緩めた。この二人は昔から、顔を合わせればこうだ。
「お館様がお待ちです。ロデリクを追い返した件も、耳に入っておりますぞ」
ユバージルは太い指で、広間の扉を顎で示した。
「縁談を運ばせたのは、お館様の意を汲んだこちらだ。恨み言なら、後で聞きましょう」
ロズヴェータは小さく頷き、石段を上る。辺境伯ノブネルは、広間の奥の椅子にいた。
立ち上がりもせず、迎えの言葉もない。暖炉の火が爆ぜる音だけが、石の広間に響いている。獣脂の灯りの匂い。壁に掛けられた古い槍と、使い込まれた鞍。王都の宮廷なら恥じるほどの質素さを、この男は少しも恥じていない。
辺境の蝮。二つの化け物に挟まれて、なお呑まれずにいる男。
一年ぶりに見る父は、何ひとつ変わっていない。髪の色も、肘掛けに置かれた手も、人を量る時のわずかに傾けた顎も。蝮は、年さえ呑み込んでしまうらしい。
その目が、ゆっくりとロズヴェータを見た。
「ロズヴェータ」
「ただいま戻りました、父上」
膝をつき、頭を垂れる。
沈黙が続いた。父の視線が、頭の上から足の先までを量っていく。王都の舞踏会で婚約を捨てられた日も、武官へ転じると告げた日も、父はこうして黙って見ていた。褒めることも、叱ることもなく。
「遠かったか」
「二十日です」
「そうか」
短い。それだけで話は終わるのかと思う。
だが父は、暖炉の火を見たまま、もう一言だけ続けた。
「聖都を銭で保ち、首狩りの牙を泥に沈めたそうだな」
「はい」
「それで、その功はいくらで売れた」
ロズヴェータは顔を上げる。
父の目には、称賛も嘲りもなかった。あるのは、市で馬の歯を検める者の目だけだ。
「……まだ、値はついておりません」
「ならば、つけに来る者がいる」
ノブネルは椅子の肘掛けを、指で一度叩いた。
「婚礼は三日後、新月の夜だ。それまで、家の者の顔をよく見ておけ」
話は、それで終わりだった。
広間を辞して回廊に出ると、ユーグが待っていた。
「いかがでしたか」
「量られた。昔と同じだ」
「それだけですか」
「……それだけだ」
嘘ではない。だが耳には、父の最後の言葉が残っている。値をつけに来る者がいる。あれは脅しだったのか、それとも。
回廊の窓から、夕暮れの草原が見えた。風が吹くたびに、枯れた草が波のようにうねる。その向こうに、もう一つの大国がある。
どこかで、兄たちの笑い声がした。一年前と変わらない、聞き覚えのある声だ。一つは丸く柔らかく、もう一つは細く、よく通る。
月はもう、夜明け前の東の空にしか昇らない。爪の先ほどに痩せて、白く、消えかけている。
新月まで、あと三日。




