【幕間】 とある非番の日 聖都の小さな事件
台の前は、もう人垣になっていた。
巡礼たちが押し合い、痩せた腕を伸ばしている。聖釘に触れたい者、祈りたい者、銭を握って順番を争う者。汗と埃と乳香の匂いが、柱廊の陰に澱んでいた。
「ほら、下がって下がって。一本ずつだ。主の御手を貫いた釘だぞ、押すんじゃない」
売り手の男が、慣れた手つきで群れを捌いている。
ニャーニィが、その人垣に体をねじ込んだ。肘で巡礼たちの脇腹を突き、するすると前へ出る。ロズヴェータがその後に続き、エリシュとリオリスが左右を固めた。
「ちょっと見せて」
ニャーニィは台の上の釘を一本、断りもなく摘まみ上げた。
「おい、嬢ちゃん、触るなら銭を」
「見るだけ。見るのはタダでしょ」
売り手の抗議を聞き流し、ニャーニィは釘を陽にかざした。黒く錆びた鉄。頭は四角く平たく、胴は途中から細く絞られている。指の腹で先端をなぞり、それから鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
「……ふうん」
癖のある黒髪の下で、猫のような目が細くなる。
「これ、蹄鉄の釘だよ」
人垣が、ざわりと揺れた。
「頭が四角で、胴の途中から絞ってある。蹄の壁に斜めに打ち込むための形。しかもこの絞り方、遠征軍の鍛冶場の打ち方だね。うちの家が南部から鉄を卸してる工房と同じ癖がある。錆は新しいよ。塩水にでも漬けて、一晩で錆びさせたんでしょ」
「な、何を言いやがる」
売り手の顔色が変わった。
「千年前の釘が、こんなに柔らかい錆のわけないじゃない。本物の古い鉄はね、もっと固く、黒く締まってるの。これは、どこかの厩の床に落ちてたのを拾ってきたやつ」
ニャーニィは釘を台の上に戻し、にっこりと笑った。
「神の御手じゃなくて、馬の蹄を貫いた釘。値段つけるなら、十本で銅貨一枚かな」
巡礼たちが、顔を見合わせた。
銭袋を差し出しかけていた老婆の手が、宙で止まっている。皺だらけの顔に浮かんでいるのは、怒りではなかった。信じていたものが足元から崩れる時の、呆けたような色だ。故郷を捨て、飢えに耐え、ようやく辿り着いた聖地で、最後に手にしようとしたものが馬の釘だった。
ロズヴェータは、その顔から目を逸らさなかった。
一瞬、広場から音が消える。
次の瞬間、売り手が台を蹴り倒した。
釘と銭が石畳に散らばり、巡礼たちが悲鳴を上げて飛び退く。その隙に、男は柱廊の奥へ身を翻した。前掛けの算木が腰で鳴る。人垣を突き飛ばし、崩れかけた柱の間を抜け、裏の路地へ。
「エリシュ」
「分かってる」
ロズヴェータが名を呼ぶより先に、赤い髪が風を切っていた。
◇◆◇
聖都の裏路地は、迷路だ。
千年のあいだ、壊されては建て直されてきた家々が、互いにもたれかかるように並んでいる。路地は細く曲がりくねり、頭上では張り出した二階が空を塞いでいた。洗濯物の滴る水、腐った果物の匂い、どこかで煮込まれている豆の湯気。
足音が、石の壁に跳ね返って何重にも響く。どれが前でどれが後ろか、耳だけでは分からない。
売り手は、その迷路を知っていた。右へ、左へ、また右へ。追っ手をまくための道を、迷いなく選んで駆けていく。
だが、エリシュは路地を走らなかった。
壁の突起に足をかけ、窓の庇を掴み、一息で屋根の上に跳び上がる。赤い髪が陽を受けて燃えるように光った。そのまま平らな屋根から屋根へ、洗濯紐を飛び越え、煙突を回り込んで、路地を見下ろしながら追っていく。
下の路地で、売り手が振り返った。追っ手の姿が見えないことに安堵したのか、足が緩む。その真上の屋根の縁に、エリシュがしゃがみこんでいた。
「どこ見てんの」
男が顔を上げた時には、もう遅い。
エリシュが屋根から飛び降りる。男の背中に着地し、そのまま石畳に押し潰した。革の前掛けが裂け、算木がばらばらと転がる。
「放せ、放しやがれ」
「放すわけないでしょ」
エリシュは男の腕を背中にねじ上げ、膝で押さえつけた。息ひとつ乱れていない。
「ほら、非番の運動にはちょうどいいわね」
ロズヴェータがその路地に着いた時、男はすでに縛り上げられていた。
エリシュが自分の腰帯で手首を括り、石畳に座らせている。男は四十前後。日焼けした顔に、無精髭。巡礼の顔ではない。戦の後ろをついて回り、兵に物を売り、兵から物を買い叩いてきた者の顔だ。
「名は」
「……ペルツ」
「従軍商人か」
男の目が泳いだ。図星らしい。
「遠征軍の後ろについて、この都まで来たんだろう。遠征軍が聖都を落として、蔵の管理が厳しくなった。兵に物を売って稼ぐ筋が細った。それで、鍛冶場の屑鉄を拾い集めた」
「……旦那、何者だ」
「聖都で帳簿をつけている者だ」
ペルツは唇を噛み、それから吐き捨てるように言った。
「……噂があったんだよ。西から流れてきた巡礼どもが、口を揃えて言ってた。聖都で聖遺物が見つかった、奇跡が起きた、ってな。道中の説教師が、毎晩そう叫んでたんだとさ」
「それで」
「見つかったってんなら、見つかったことにすりゃいい。巡礼どもは、聖遺物を拝みに来てるんだ。拝ませてやって、銭をもらう。それの何が悪い」
エリシュの膝に、ぐっと力がこもった。ペルツが呻く。
ロズヴェータは黙って男を見下ろした。噂は、どこかで誰かが撒いた種だ。この男はその種から芽を摘んで、売りに出しただけだ。悪いのはこの男だが、この男だけではない。
ロズヴェータは、路地の奥の暗がりに目をやった。
いつの間にか、猿に似た顔の小男がそこに立っている。トーロウだ。その後ろには、元狩人の斥候頭グレイスの姿もある。非番の主が市場へ出た時から、二人は影のように後をついてきていたらしい。ユーグの差し金だろう。
「隊長。こいつの塒、分かりますぜ」
トーロウが、にやりと笑った。
「西門の近くの、崩れた酒蔵です。三日前から、妙な連中が出入りしてると、門番の爺さんが言ってましたんで」
「若様。蔵には、仲間が二人」
グレイスが短く付け加える。
「押さえろ。中のものは一つも動かすな。銭もだ」
「へい」
二人の影が、路地の奥へ溶けていった。
ペルツの顔から、最後の血の気が引いた。
◇◆◇
広場に戻ると、空気が一変している。
散らばった釘を拾い集めた巡礼たちが、柱廊の前に集まっている。数は、さっきの倍に膨れていた。騙されたと知った者、騙されかけた者、ただ騒ぎを聞きつけた者。手には拾った石、杖、泉の縁から剥がした煉瓦の欠片。
縛られたペルツが引き立てられてくると、その群れが唸った。
「そいつだ」
「神を騙った」
「聖墳墓の名で、わしらの銭を」
誰かが石を投げた。ペルツの額をかすめ、血が一筋流れる。それが合図になった。群れが一斉に前へ出る。痩せた腕が、ペルツの襟を、髪を、掴もうと伸びてくる。
エリシュが剣の柄に手をかけた。
「待て」
ロズヴェータが言うより先に、別の声が広場を割った。
「待ってくれ」
リオリスだ。
群れとペルツの間に、両手を広げて立っている。剣は抜いていない。胸の房飾りが、陽を受けて揺れていた。
「頼む。待ってくれ。こいつは悪い奴だ。それは俺も分かってる。でも、ここで殴り殺したら、あんたたちの方が罪人になる。聖墳墓の前で、人殺しをしたことになるんだぞ」
「どけ、若造」
「どかない」
リオリスは一歩も退かなかった。
「俺はリオングラウスの王族だ。リオリスという。王家の名にかけて、こいつは聖都の法で裁かせる。あんたたちの銭も、必ず返させる。だから、頼む。その石を下ろしてくれ」
群れが、戸惑ったように揺れた。
王族。その言葉だけなら、飢えた巡礼たちにとっては遠い空の上の話だ。だが、目の前の若者は、剣も抜かず、衛兵も連れず、泥だらけの石畳に立って頭を下げている。
その足元に、小さな影が駆け寄った。
昼間、リオリスの肩に乗っていた巡礼の子供だ。子供はリオリスの脚にしがみつき、群れの大人たちを見上げた。
「このお兄ちゃん、お菓子くれた」
それだけ言って、子供はリオリスの後ろに隠れる。
群れの前の方にいた女が、手にした煉瓦の欠片を、ゆっくりと下ろした。その隣の男も、杖を下ろす。一人、また一人。唸り声が、ざわめきに変わり、やがて囁きに変わっていった。
ロズヴェータは、その光景を黙って見ていた。
聖都を銭で繋ぎ止めた自分には、できない収め方だ。自分が前に出れば、群れは従うだろう。だがそれは、飯を食わせた者への義理か、冷酷の悪名への恐れからだ。リオリスの前で石を下ろした者たちは、ただ、この若者を信じたのだ。
「……ほらね」
隣で、ニャーニィが小声で言った。
「取り柄でしょ、あれ」
「そう言ったはずだ」
「言ってた。ロズって、たまに正しいこと言うよね」
エリシュが剣の柄から手を離し、つまらなそうに鼻を鳴らした。
◇◆◇
夕刻、ペルツとその仲間二人は、名代ヴェルダー卿の衛兵に引き渡された。
西門近くの酒蔵からは、蹄鉄の釘が樽に三つ、巡礼から巻き上げた銭が麻袋に二つ。塩水を張った桶と、釘を錆びさせるための炭火の跡まで残っている。
ヴェルダー卿は、押収品の目録に一行ずつ目を通し、最後に几帳面な字で署名した。
「聖都の法で裁く。聖遺物を騙った罪、巡礼を欺いた罪、ともに重い」
「銭は、巡礼たちに返していただきたい」
ロズヴェータが言うと、ヴェルダー卿は目録から顔を上げた。
「返す。それが正しい」
短い答えだった。この男の正しさは、時に都を飢えさせる。だが今日の正しさは、老婆の銭袋を持ち主の手に戻す。
ヴェルダー卿は、引き渡しの場に立つリオリスに一度だけ目を向けた。王族が巡礼の石の前に立ったという話は、すでに衛兵から聞いているのだろう。何も言わず、小さく頭を下げる。正しさの人が、正しくない場所で正しく振る舞った若者に払える、それが精一杯の礼なのかもしれない。
広場の泉の前で、トーロウが銭を返して回る。老婆は震える手で銭袋を受け取り、何度も何度も頭を下げた。その相手は、トーロウではなく、少し離れたところで子供たちに囲まれているリオリスだった。
◇◆◇
夜になると、四人は宿営の屋根の上に場所を移す。
平らな石の屋根に毛布を敷き、ニャーニィが荷車から持ち出した南部の葡萄酒の壺を回す。眼下には聖都の灯りが、坂に沿って星のように連なっていた。その灯りの一つ一つの下で、今夜は銭を取り戻した巡礼たちが眠っている。夜風は冷たいが、昼間の市場の匂いがまだかすかに残っている。
南の空には、半分に欠けた月が懸かっていた。
「学園の寮でも、こうやって屋根に登ったよな」
リオリスが、壺から直に酒をあおりながら言った。
「寮監に見つかって、四人とも便所掃除をさせられた」
「させられたのはリオリスとロズだけ。あたしとニャーニィは逃げた」
「そうだっけか」
「そうよ」
エリシュが、壺を奪い取って飲む。赤い髪が、夜風に流れた。
「あの頃は、剣術大会で誰が勝つかしか考えてなかったわね」
「ロズは違ったよな。文官の講義に出て、帳面ばっかりつけてた」
リオリスが、悪気なく言う。一瞬、屋根の上が静かになった。文官を志していた頃のロズヴェータが、誰のためにそうしていたか、三人とも知っている。
エリシュが、リオリスの脛を軽く蹴った。
「痛いな。なんだ」
「空気読みなさいよ」
「読んだぞ。帳面の話だ。ロズの帳面のおかげで、聖都は飢えずに済んだんだろう。あの頃の帳面が、ちゃんと役に立ったって話だ」
今度は、エリシュが黙った。
ロズヴェータは、思わず小さく笑った。この男は、空気を読まないのではない。読んだうえで、いちばんまっすぐな場所に言葉を置くのだ。
「エリシュは今でもそれしか考えてないでしょ」
「うるさい」
ニャーニィが喉の奥で笑う。ロズヴェータは黙って、月を見ていた。
あの頃、自分は文官になるつもりでいた。婚約者の望む道を、疑いもせずに歩くつもりで。それが今は、千年の都の帳簿を握り、首狩りと筆で渡り合っている。この四人の誰一人として、あの屋根の上で、こんな夜を想像してはいなかっただろう。
「なあ、ロズ」
リオリスが、ふと声の調子を変えた。
「今日の、あの釘売り。聖都で聖遺物が見つかったって噂に乗っかってたんだろう」
「そうだ」
「その噂な。王都でも聞いた」
屋根の上の空気が、少しだけ冷えた。
「西の修道院に、公爵家の筋の者が出入りしてるらしい。聖都で奇跡があった、聖遺物が見つかった、って話を広めてるのは、そのあたりだって。摂政殿下の侍従が、そう言ってた」
リオリスは、深い意味もなさそうに言った。この男はいつもそうだ。何気ない顔で、いちばん重いものを卓に置く。
ロズヴェータは、手の中の壺を見下ろした。
ルクレイン公爵家。ガベル。十字軍の洪水を聖都へ導いた、見えない手。その手が撒いた噂の種が、この都の中で、蹄鉄の釘を聖遺物に変える小悪党を生んでいた。老婆の最後の銭を、奪いかけていた。
「ろくでもない匂いって、言ったでしょ」
ニャーニィが、膝を抱えて呟いた。昼間と同じ、軽くない声だった。
「あの公爵家、やることがいちいち薄汚いんだよね。自分の手は汚さないで、いつも誰かの手を汚させる」
「……ロズ」
エリシュが、低く言う。
「そいつ、斬っていいなら、あたしが斬ってくるけど」
「王都まで二十日だ。非番では足りない」
「じゃあ、次の非番で」
「……考えておく」
冗談とも本気ともつかない狂犬の言葉に、リオリスが慌てて手を振った。
「待て待て。王族の前で、公爵家の次期当主を斬る相談をするな」
「リオリスは聞いてなかったことにして」
「聞こえてるぞ」
ニャーニィが吹き出し、エリシュがつられて笑った。リオリスも、困ったように頭を掻きながら笑う。冷えかけた空気が、また少しだけ温まった。
ロズヴェータは、三人の顔を順に見た。
同期の三人。立つ場所は、もうそれぞれに違う。王族として国の軍を背負わされる者。南部の流れを握る家の娘として、宰相の筆を運ぶ者。紅剣を率いて、東の壁に血を流した者。それでもこうして屋根の上に集まれば、学園の頃と同じように、くだらないことで笑える。
それが、いつまで続くのかは分からない。
「……もう一杯くれ」
ロズヴェータが手を伸ばすと、ニャーニィが壺を渡しながら、にやりと笑った。
「目の下の黒いの、ちょっと薄くなったね」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないよ。私の目は、確かなんだから」
それから、ニャーニィは少しだけ声を落とした。
「宰相様がね、ロズのこと、また言ってたよ。その首、容易く売られるなって」
「二度目だな」
「あの人、同じことしか言わないの。でも、ほんとに気にしてるよ、あの正論馬鹿。会ったこともないくせにね」
ロズヴェータは壺を傾けた。南部の葡萄酒は、辺境の酒より軽く、甘い。
半分の月が、少しずつ西へ傾いていく。
◇◆◇
翌朝、宿営の天幕に一通の文が届いた。
運んできたのは、辺境から駆け通しで来たという使いの者だった。
ユーグがそれを受け取り、卓の上に置く。ロズヴェータは、封蝋に押された紋を見た。見慣れた、辺境伯家の紋だ。
「……家からか」
まだ少し酒の残る頭で、ロズヴェータは小刀に手を伸ばした。




