【幕間】 とある非番の日 非番の1日
切りも良いのでいくつか幕間を挟みます。同期4人のお話。
和議の印が押されてから、八日目の朝だった。
聖都の西門に、長い荷車の列が着いた。先頭の荷車には、氷と炎を組み合わせた旗が翻っている。ニャーニィの騎士隊、氷炎化け猫だ。麦袋を山と積んだ荷車の軋む音、牛の鼻息、御者たちの陽気な掛け声。門番の兵たちが歓声を上げ、手を振って迎えた。前に糧食を運んできた時と同じ光景である。
違うのは、その列の中ほどに、獅子と王冠の小旗を掲げた一騎が混じっていることだった。
「よう、ロズ」
馬上から、屈託のない声が降ってくる。
リオリスだ。王族の証の房飾りを胸に揺らしながら、まるで騎士校の寮の廊下ですれ違ったかのような顔で片手を上げている。
「リオリス。お前が使者か」
「ああ。陛下の裁可が下りた。和議の批准書だ。聖都にも正式に届けろってことでな。俺が持っていくと言ったら、摂政殿下が笑っておられた」
「笑われたのか」
「笑われた。なんでだろうな」
リオリスは本気で首を傾げている。ロズヴェータは答えなかった。王族が自ら文使いを買って出れば、宮廷の誰もが一度は笑うだろう。そしてその笑いの半分は、この男の人の好さへの呆れであり、もう半分は、この男が聖都に肩入れしていると知らせるための計算だ。摂政エリザベートなら、その両方を承知で送り出したに違いない。
荷車の陰から、癖のある黒髪を揺らした影が飛び降りた。
「まいど、ロズ。麦、持ってきたよ」
「ニャーニィ。二度目か」
「三度目でも四度目でも持ってくるよ。宰相様のお財布が続く限りはね。あの厭味ったらしい正論馬鹿、今度は帳面を三回も突き合わせてから判を押したんだから」
ニャーニィは猫のような目を細め、ロズヴェータの顔を下から覗き込んだ。
「……ふうん。和議が成ったわりに、疲れた顔してるね」
「疲れてはいない」
「嘘。目の下、黒いよ」
人の腹を見透かす目は、相変わらずだった。
「前に来た時は、礼を言いそびれた」
「礼なら宰相様に言いなよ。私は運んだだけ」
「運んだのはお前だ」
「……ふうん。そういうとこ、変わんないね」
ニャーニィは鼻を鳴らし、荷車の方を振り返った。御者たちに麦袋の降ろし先を指図する声は、騎士校の頃の気まぐれな魔女猫とは別人のように手際がいい。南部の流通を握る家の娘は、荷の重さも人の使い方も、見ただけで分かるのだ。
◇◆◇
批准書の受け渡しは、女王の居館の小広間で短く済んだ。
玉座の女王マリネットは一言も発さず、差し出された羊皮紙に王家の紋の指輪を押す。その隣で名代のヴェルダー卿が、几帳面な字で副署を記した。王配ルセーブルは数字の欄に目を走らせ、小さく頷く。リオリスは跪いたまま、一度も欠伸をしなかった。それだけで、ロズヴェータには上出来に思える。
退出の間際、女王の目が一瞬だけリオリスに留まった。喋らぬ女王は、声の代わりに目で人を量る。王族の使者が、どちらの側の筆を運んできたのか。その目はたぶん、ロズヴェータよりも早く答えを出していた。
小広間を出ると、回廊でユーグが待っていた。
「ロズヴェータ様。本日は非番です」
「……何?」
「ヴィタス殿と話し合いました。帳簿はガーデルが、東の壁はバリュードとヴィヴィが見ます。今日一日、宿営に顔を出されても、仕事はございません」
ユーグは表情ひとつ変えずに言い切る。背後でヴィタスが、静かに一礼した。
「和議から八日、お休みになっておられませんので」
「お前たちが勝手に決めたのか」
「はい」
悪びれる様子もない。ロズヴェータが言い返す言葉を探している間に、ユーグは視線をリオリスへ移した。
「リオリス様も、本日は宿営のお客人です。どうぞ、ご同期の方々とごゆるりと」
「おお、話が分かるな、従者殿」
「副官でございます」
「そうか、副官殿。……いや、従者殿の方が呼びやすいな」
「……ご随意に」
ユーグの赤い瞳が、一瞬だけ遠くを見た。
そこへ、回廊の向こうから荒い足音が近づいてくる。
「ロズ。非番なんだって」
燃えるような赤い髪。腰に吊った剣。紅剣の長、エリシュ・ウォル・ルフラージュが、獲物を見つけた猟犬のような顔で立っていた。
「ユーグから聞いたのか」
「そう。あたしも非番。紅剣の連中には、今日一日あたしの顔を見なくて済むって言ったら、泣いて喜んでたわ」
「喜ばれたのか」
「泣いてたのよ。喜んでたんでしょ」
エリシュは肩をすくめ、リオリスとニャーニィを順に見た。
「四人揃うの、いつ以来?」
「騎士校の卒業の宴以来じゃない?」
ニャーニィが指を折る。
「あの時はリオリスが酔って、講堂の獅子像に登ったんだよね」
「登ってない。あれは像の方が低かったんだ」
「そういうのを登ったって言うの」
笑い声が、石の回廊に反響した。ユーグは一礼して下がり、ヴィタスもそれに続く。ロズヴェータは、しばらく二人の背中を見送っていた。追い出されたのだ、と遅れて気づく。
◇◆◇
聖都の市場は、昼前がいちばん賑やかだ。
石畳の坂道の両側に、布の日よけを張った露店がひしめいている。乳香を焚く煙、蜂蜜と胡麻をまぶした焼き菓子の甘い匂い、羊肉の串が脂を落として立てる煙、干した棗の山。それらが巡礼たちの汗と埃の匂いと混じり合い、坂の上から下まで、むっとするほど濃く漂っていた。十字の祈りを唱える声、値を叫ぶ声、驢馬の嘶き。三日月の帝国に治められていた頃の古い言葉も、耳を澄ませばまだ聞こえてくる。
「うまいな、これ」
リオリスが、焼き菓子を頬張りながら言った。
「王都にもこういうのはあるが、蜜がもっと薄い。いくらだ、親父」
「銅貨三枚でございます、旦那様」
「高いな。王都の倍だ」
露店の主の顔から、さっと血の気が引いた。
リオリスの胸の房飾りが、王族の証だと気づいたのだ。王族に「高い」と言われた商人がどうなるか、聖都の者なら噂くらいは聞いている。主の手が、震えながら銅貨を押し返そうとする。
「い、いえ、お代は結構で」
「なんでだ。うまかったぞ。払う」
リオリスは怪訝な顔で、銅貨を三枚、主の掌に押しつけた。それから、もう一つ焼き菓子を摘まんで口に放り込む。
「高いけど、うまい。うまいものは高い。そういうもんだろう」
主は銅貨を握りしめたまま、ぽかんと口を開けていた。
ロズヴェータは額に手を当てる。隣でエリシュが、腹を抱えて笑いを堪えていた。
「あいつ、騎士校の頃から全然変わってないじゃない」
「変わらないのが、あいつの取り柄だ」
「取り柄なの、あれ」
「取り柄だ。見ていろ」
エリシュは羊肉の串を齧りながら、疑わしげな目でリオリスを眺めた。脂が顎に垂れるのも気にしない。
「あたしには、ただの間抜けに見えるけど」
「攻城戦の間、王都で聖都に糧を送れと言い続けたのは、あの間抜けだ。宮廷で何度笑われても言い続けた」
「……ふうん」
エリシュは串を噛みちぎり、それ以上は何も言わなかった。紅剣もまた、東の壁で飢えた一隊だ。その糧がどこから来たのかを、赤い髪の狂犬は知らないわけではない。
露店の陰から、巡礼の子供たちがリオリスを見上げていた。五人、六人。痩せて、裸足で、目ばかりが大きい。リオリスはその視線に気づくと、焼き菓子の包みを丸ごと主から買い取り、子供たちの前にしゃがみこんだ。
「食うか。俺一人じゃ食いきれん」
子供たちは顔を見合わせ、それから一斉に手を伸ばした。いちばん小さな子が、リオリスの肩によじ登る。王族の房飾りを、小さな手が面白そうに引っ張った。
「こら、それは引っ張るな。取れたら怒られる」
怒るどころか、リオリスは子供を肩に乗せたまま立ち上がる。子供が歓声を上げた。
計算も、人気取りもない。だから巡礼の子供たちは、王族の房飾りを怖がらない。ディルアン亡き後、摂政がこの男を軍の頭に育てようとしている理由の一つが、ロズヴェータには分かる気がした。
一方、ニャーニィは別の露店の前で腕を組んでいた。
「この干し棗、一袋銅貨十二枚って書いてあるけど」
「へい。聖都の棗は、神の庭で育ちますんで」
「神の庭ねえ」
ニャーニィは袋の口を開け、棗を一粒つまんで光に透かす。匂いを嗅ぎ、指先で潰して、果肉の色を見た。
「これ、南の港から入ってきた二番摘みでしょ。仕入れは一袋三枚。ガディフォールの市なら二枚半。神の庭じゃなくて、船の底で育ってるよ」
主の顔が引きつった。
「……お嬢さん、商家の方で」
「南部の流通、うちの家がだいたい握ってるから。港の相場なら、だいたい分かるよ」
にっこりと笑う。猫が鼠の前で尻尾を揺らす時の笑みだ。
「五枚。それ以上は払わない。代わりに、三頭獣の宿営に毎月十袋入れてもらう。それでどう?」
「……ま、まいど」
「まいど」
ニャーニィは棗の袋を受け取ると、ロズヴェータに放り投げた。
「はい、ロズ。目の下が黒い人は、甘いもの食べて」
「……値切った上に、売り口まで作ったのか」
「商売の基本でしょ。ロズだって、聖都でずっとそれやってるじゃない」
ロズヴェータは棗を一粒口に入れた。乾いた甘さが舌に広がる。確かに、船の底の味がした。
◇◆◇
坂を下りきると、巡礼たちが集う広場に出る。
聖墳墓へ続く大通りの手前で、石畳が大きく開けた場所だ。泉を囲んで巡礼たちが休み、水を汲み、祈り、眠っている。東の壁から戻った者たちも多い。痩せた顔に、戦の埃がまだこびりついていた。
エリシュが、露店で何かを二本買ってきた。
木剣だ。子供の遊び用の、粗末な代物である。
「はい」
一本を、ロズヴェータに放り投げる。
「……何のつもりだ」
「非番でしょ。腕が鈍ってないか、見てあげる」
「断る」
「断るなら、ここで勝手に打ち込むわよ。どっちがいい?」
エリシュの目が、笑っていなかった。いや、笑ってはいる。獲物を前にした狂犬の笑みだ。騎士校の剣術大会で、初めて剣を交えた時と同じ目だった。
ロズヴェータは溜息をつき、木剣を握った。左肩が鈍く疼く。攻城戦で受けた傷は、まだ癒えきっていない。
エリシュは、その一瞬の顔の歪みを見逃さなかった。
「左肩、まだ痛むんでしょ」
「気にするな」
「気にしないわよ。右から打つ」
言い終わる前に、木剣が唸った。
ロズヴェータは半歩退いて受ける。乾いた音が広場に響き、泉のまわりの巡礼たちが一斉に顔を上げた。二撃目、三撃目。エリシュの剣は、木剣とは思えないほど重い。右からだけ、宣言どおりに来る。だがその一撃ごとに、ロズヴェータの足は石畳の上を後ろへ押されていった。
「おい、なんだなんだ」
「騎士さまの喧嘩か」
「いや、あれは紅剣の赤い髪の……」
巡礼たちが輪になって集まってくる。子供を肩に乗せたリオリスが、その輪のいちばん前に陣取った。
「いいぞ、エリシュ。ロズ、押されてるぞ」
「見ていないで止めろ」
「止めたら怒られるのは俺だろう」
その横で、ニャーニィが干し棗の袋を開けて、何やら巡礼たちに声をかけていた。
「さあさあ、赤い髪の方に賭ける人はこっち、黒い外套の方はこっち。一口、棗一粒からだよ」
「ニャーニィ、胴元をやるな」
「まいど」
広場がどっと沸く。巡礼たちが棗の粒を握りしめ、輪の左右に分かれていく。赤い髪の側が、圧倒的に多い。
エリシュが笑った。
「人気ないわね、ロズ」
「聖都の巡礼は、見る目がある」
「俺はロズに賭けるぞ」
輪の前から、リオリスが棗を一粒掲げた。
「理由は」
「エリシュが勝つと、あとでずっと自慢されるからな」
「聞こえてるわよ、リオリス」
エリシュの木剣が、ついでのようにロズヴェータの脇腹をかすめる。息が詰まった。聞こえているなら、手加減の一つもすればいいものを。
打ち合いながら、エリシュが低く言った。
「東の壁で、紅剣からも死人が出たわ」
「知っている」
「泥の海の日、あたしたちは低地の縁にいた。溺れていく重騎兵を、上から突き落とした。あれは戦じゃなかった」
「……ああ」
「でも、勝った」
木剣が噛み合い、二人の顔が近づく。赤い髪の下で、エリシュの目がまっすぐにこちらを射ていた。
「だから今日くらい、ロズを叩きのめしても罰は当たらないでしょ」
「理屈になっていない」
「なってるわよ。あたしの中では」
ロズヴェータは押されるに任せて退き、泉の縁まで下がった。背中に水の冷気が触れる。これ以上は退けない。エリシュが大きく踏み込み、右から横薙ぎに木剣を振るった。
その瞬間、ロズヴェータは泉の縁を蹴った。
左へ跳ぶ。痛む左肩の側へ。エリシュの剣が空を切り、水面を叩いて飛沫が上がった。宣言どおり右からしか打たないと分かっていれば、逃げる先は一つしかない。
「……ずるい」
「右から打つと言ったのはお前だ」
「言ったけど」
エリシュの頬に、泉の飛沫が光っている。巡礼たちの歓声と、賭けに負けた者たちの嘆きが、同時に広場を埋めた。
エリシュが、今度は本当に楽しそうに木剣を構え直す。
「次は、左からも打つわよ」
「次はない」
「あるわよ。あたしが決めた」
その時だった。
輪の外から、別の声が上がった。
「聖釘だ。聖墳墓の土の下から出た、主の御手を貫いた釘だ。本物だぞ」
甲高い、よく通る声だ。
巡礼たちの頭が、一斉にそちらを向く。賭けの棗を握ったまま、何人かが輪を離れ、声の方へ駆け出した。
ロズヴェータは木剣を下ろし、人垣の隙間からそちらを見た。
広場の端、崩れかけた柱廊の陰に、粗末な台が置かれている。その上に、布に載せた黒い釘が数本並んでいた。台の前には、もう巡礼たちが群がり始めている。
台の後ろに立つ男は、巡礼の身なりをしていなかった。袖をまくった麻の上衣に、革の前掛け。腰には、小銭を数えるための算木を吊るしている。聖職者の顔でも、狂信者の顔でもない。値を叫び慣れた、商人の顔だ。
聖都で聖遺物が見つかった。そんな噂が西に流れていることを、ロズヴェータは知っている。誰が流したのかまでは分からない。だが、聖地を目指す群れの熱に薪をくべるには、これ以上ない噂だった。
その薪が、巡り巡って、こんなところで火を噴いている。
群れの中に、腰の曲がった老婆がいた。
擦り切れた巡礼の外套。痩せた手。その手が、首から下げた小さな銭袋を外し、震えながら台の上の男へ差し出している。聖地まで生きて辿り着くためだけに、故郷の畑も家も捨ててきた者の、最後の銭だ。
「……ロズ」
ニャーニィが、隣で小さく呟いた。いつもの軽い声ではない。
「あれ、ろくでもない匂いがする」
エリシュが木剣を肩に担ぎ、目を細めた。泉の飛沫に濡れた赤い髪の下で、狂犬の笑みが消えている。
「聖墳墓の土の下から出た釘、ねえ。聖墳墓なら、あたしたちが奪い返した日から、ずっと衛兵が張りついてるはずだけど」
「張りついている。誰も掘ってはいない」
リオリスが、肩の子供をそっと地面に下ろした。いつもの屈託のない顔のまま、しかし声だけが少し低くなる。
「じゃあ、あの釘はどこから出てきたんだ」
誰も答えない。答えは、たぶん四人とも同じだった。
ロズヴェータは答えず、木剣をエリシュに返した。
非番の一日は、どうやら昼を回ったところで終わるらしい。
宿営に戻った後、ユーグに何と言われるか。それは、考えないことにする。




