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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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186/218

分かれ道

◇◆◇


 聖都の評定の間には、まだ石壁の冷たさが残っていた。攻城戦の傷を漆喰で埋めただけの壁は継ぎ目が生々しく、朝の光が斜めに差し込むたび、そこだけ白く浮いて見える。焦げた木の匂いはとうに消えたが、湿った漆喰の匂いがまだ薄く漂っていた。長机を囲むのは五人、そして扉の外に控える一人の沈黙だった。

「開墾と再建にあてる。それがいちばん血を流さない」

 ロズヴェータは地図の上に指を置いた。東壁の外に広がる荒地――攻城戦で踏み荒らされ、泥海の名残を今も湛えた土地を指している。十万を超える巡礼の群れを、鍬を持たせて畑に返す。人を人のまま使う、彼のやり方だ。

「言葉はいい」

ヴェルダーが遮る。淡々とした声だが、机の下で組んだ指先だけがわずかに白い。

「だが養う銭がどこにある。名分を失った軍に、都の蔵はもう開かぬぞ」

「軍ではない。人だ」

「人でも腹は減る。卿の帳簿にそう書いてあるはずだが?」

 正しさの人は、正しさで刺してくる。ロズヴェータは口を閉じ、代わりに窓の外へ目をやった。東壁の向こうに、まだ薄い煙が幾筋も立ち上っている。あの一本一本の下に飯を炊く鍋があり、鍋の数だけ人の腹があった。

「儂からも言わせてもらおう」

低い声が割って入った。ジキスムントだ。脇腹の包帯がまだ厚く、椅子に腰を下ろす仕草にも痛みが滲む。

「南部の所領は空だ。留守を預けた者からの文が、三月も前から届いておらん。お前に、借りを作ってから半年。儂の団も、もう十分すぎるほど返した」

「団を帰すことに異存はない」

「異存がないなら話は早い。ならば巡礼どももまとめて連れて帰る。西へ、生まれた土地へな。都に居座らせても、お前が飯を出し続けられるとは思えん」

 ヴェルダーが小さく頷いた。二人の利は、ここで一致している。軍費の削減と、故郷への帰還だ。ロズヴェータが立てたいのは、その逆――都に留め、労働にあてる案だった。三人の中で、彼だけが違う方角を見ている。

「ヴェルダー卿」

 呼びかけたのは、末席に座る若い修道士だった。日に焼けた頬に、行軍で負った古い痣が薄く残っている。ベルトルドの弟子を名乗る男で、アンゼルムという。師の遺した信徒の一部を束ね、この場に加わっていた。

「三日月と和すために、我らはここまで来たのではありません。師は壁の上で死にました。異教の徒との盟約に額づくためではなく、聖地を守るために」

「和議はもう成った。破れば次に死ぬのはお前の弟子たちだ」

「ならば、せめて聖都から離れることをお許しください。我らはまだ、聖地を歩き切っておりません」

 言葉は丁寧だが、目の奥に燠火があった。ロズヴェータはその火を知っている。飢えと信仰が擦り合わさった時に生まれる、消しようのない熱だ。水をかければ音を立てて煙を上げるだけで、消えはしない。

「アンゼルム殿」 

 ガーデルが帳面を繰りながら口を挟んだ。「あなたの一派だけで千を超える。西でも東でもなく、ただ聖都に居座られては、蔵の数字が保たない」

「数字の話は、あなた方の領分でしょう。我らの領分は魂です」

数字と魂。二つの物差しは、決して同じ台の上に乗らない。ロズヴェータは、その隔たりの深さを改めて思い知る。

 話し合いは、結局まとまらなかった。

 ヴェルダーは西への帰還を望み、ジキスムントは南部への帰還を望み、アンゼルムは東への進軍――あるいは少なくとも聖都からの解放を望む。三方向、三様の火が、机の上で行き場もなく燻っている。ロズヴェータの開墾案だけが、どこからも支持を得られずに宙に浮いていた。

 散会となり、椅子を引く音が重なる中、扉の外で控えていたルセーブルが動いた。

「陛下は……」

 王配は言葉を選ぶように間を置いた。

「あの群れを、都から出すことをお望みではない。そう思う」

「なぜそう思われる」

「壁だからだ。人の壁は、まだ役目を終えていないのだと」

 その一言だけを残し、王配は静かに去った。ロズヴェータは地図の上、東壁の外の荒地に指を戻す。開墾か、帰還か、防壁か。三つの利が、たった一つの群れを、それぞれ違う方向へ引っ張っていた。

 ――誰の利も潰さずに、群れを割る。言うのは容易い。だが机の上の三本の指は、どれも同じ場所を指して離れない。

 その夜、聖墳墓の脇で松明が焚かれたという報せが入った。アンゼルムの一派、数百が集い、和議への抗議の祈りを上げているという。声は低く、まだ叫びにはなっていない。だが火種は、確かに燻り始めていた。


◇◆◇


 会議を終えると、ロズヴェータはすぐには策を練らず、外套を引っ掛けて宿営を出た。誰かに命じるより先に、自分の目で確かめておきたいことがあった。

 東壁の内側、崩れた家屋の間に張られた天幕の列を抜けていく。まず足を止めたのは、分隊長ガッチェの持ち場だった。土嚢を積み直す槌の音が絶えず響いている。

「隊長、また視察ですか」ガッチェが手を止めずに振り返る。

「みんな、いつまでここに留め置かれるのか気にしてます。決まらないなら決まらないで、はっきり言ってくれた方が楽だ、と」

「もうすぐ決まる。あと数日待て」

「隊長がそう言うなら、そう伝えておきます」

 次に向かったのは治療天幕の並びだった。ヴィヴィが包帯を巻く手を止めずに、目だけで会釈してくる。

「怪我人の数は減ってきてます。でも、動ける連中が暇を持て余して喧嘩が増えてる。誰かの拳が誰かの傷に当たる前に、仕事をくれてやってください」

「分かっている」

 さらに奥、開墾予定の荒地に近い一角では、老いた農夫が家族らしき数人と焚き火を囲んでいた。ロズヴェータが近づいても、男は警戒する素振りを見せず、乾いた声で言う。

「若いの。俺たちはもう、聖地に来た意味を忘れかけてる。畑があるなら、耕させてくれ。何もせず飯だけ待つのは、惨めなもんだ」

 その一言が、固まりかけていた案の芯を、もう一度確かめさせた。人は施しでは満ちない。仕事だけが、惨めさを消す。

 一巡り終える頃には、日はもう傾いていた。

「まずヴェルダー卿とジキスムントから片づける」

 宿営に戻ったロズヴェータは、地図を広げ直しながらユーグに言った。灯りの油が少なくなっていて、炎が細く揺れている。

「二人の望みは、どちらも似ていますね」

「似ているが、一致はしていない。ジキスムントの望みは団を家へ帰すことだ。巡礼どもまで背負って帰る義理は、あいつには本来ない」

「そこに楔を打つ、と」

「楔というほど大層なものじゃない。ただ、あいつが本当に欲しいものだけを渡す」

 ガーデルが帳面を抱えて入ってきた。数字を並べた顔は硬い。

「兵站を洗いました。竜殺しの槍だけで、一日に喰う麦は残り全軍の一割に相当します。あれが抜ければ、都の蔵は目に見えて息を吹き返す」

「そこを餌にする。ヴェルダーには数字で見せろ」

「承知しました。……ただ、坊主どもの千は、どう料理を」

「そっちは銭でも数字でも動かん……」

 翌朝、ロズヴェータはジキスムントの陣を訪ねた。矢傷を庇いながら椅子に座る大男は、ロズヴェータの顔を見るなり片方の眉を上げる。天幕の中には、薬草を煮た匂いがまだ残っていた。

「また何か企んでいる顔だな、お前は」

「単刀直入に言う。竜殺しの槍だけを、先に南部へ帰す。巡礼は都に残す。それでどうだ」

「巡礼どもの世話は儂の役目ではない」

「分かっている。だから、あんたには、帰る自由だけをやる」

 ジキスムントはしばらく黙り、包帯の上から脇腹を押さえながら、それから低く笑った。

「お前は本当に、貸し借りの計算だけは間違えないな。分かった。儂の口からヴェルダーには言っておいてやる。竜殺しの槍が抜けても、儂は反対しない、とな」

 一つ、糸がほどけた。ヴェルダーが帰還を望む理由の半分は、軍費と兵站の重さにある。竜殺しの槍という大所帯が抜ければ、養う口は目に見えて減る。ロズヴェータはガーデルの数字を携え、名代の執務室へ向かった。

「竜殺しの槍は南部へ帰る。残る巡礼のうち、帰郷を望む者には路銀を持たせて西へ送る。数はおそらく三、四割になる」

 ヴェルダーは羊皮紙から顔を上げず、指先だけで数字をなぞる。

「残りは」

「開墾と再建に使う。都の外に、荒れた畑と崩れた壁がある。飯を出す代わりに、働かせる」

「養う口は減らない道理だな」

「減らない代わりに、都は肥える。次の雪解けまでに、荒地は畑に戻る。麦の分だけ、蔵の中身も戻ってくる」

 ヴェルダーは眉間を揉んだ。窓の外、東壁の方角を見やる横顔には、疲労の色が濃い。

「詭弁だ。だが……次善、ではあるな」ヴェルダーは一拍置き、ふと目を上げた。「麦を入れる商人どもに、目星は」

「ラスタッツァに声をかける。薄利多売で麦を入れさせた実績がある女だ」

 完全な勝ちではない。それでも、ヴェルダーの正しさは、目に見えぬほどわずかに緩んだ。


◇◆◇


 問題として残ったのは、アンゼルムだ。

 翌朝、ロズヴェータは誰にも告げず、ユーグの制止も聞かずに聖墳墓へ向かった。

 石段の下、座り込んだ巡礼たちの間を割って進むと、殺気立った視線がいくつも刺さる。誰かが唾を吐き、誰かが低く「裏切り者」と呟いた。段の途中でアンゼルムが振り返り、初めて正面から目が合う。

「話がしたい」

「聞く耳は持たない」

アンゼルムの声は静かだが、刃のように硬かった。

「三日月と握手した手で、次は何を差し出すつもりだ。畑か、飯か。師の血を売った銭で買った施しなど、受け取れるはずがない」

「お前たちを飢えさせたいわけじゃない」

「飢えて死ぬなら、まだ潔い」

 アンゼルムはそれだけ言って背を向ける。

「都合のいい生き方を説くくらいなら、黙って剣を抜け。その方がまだ、誠実だ」

 それ以上、言葉は続かなかった。石を投げる者こそいなかったが、群れの視線だけで、ロズヴェータは十分に押し返される。

 宿営へ戻る道すがら、彼は自分の中に残った苦い後味を持て余していた。銭でも恩でも動かない相手に、自分は結局、何も持たずに立っていただけだ。

 その夜、灯りを落とした天幕の中で、ロズヴェータは一人、地図も見ずに座り込んでいた。

 ――俺は、イブラヒムと、どこが違う。

アウローラの喪った故郷を、都合よく武器として差し出した。本物の痛みほど、深く刺さる楔になる――それは、絶望が本物になるのを待って落とした、首狩りの理屈と寸分違わない。

 マリネットの「掬える手は汚れた手だけ」という言葉も、ニャーニィの「沈めすぎて溺れるな」という忠告も、今はどちらも、刃のように鈍く胸に刺さる。

 まだ千人がいることを、忘れていいはずがない。だが拾おうとして拾えなかった手を、いつまでも握り続けていては、他の十万が飢える。

 答えの出ないまま、ロズヴェータは灯りも点けず、朝の気配が忍び込むまで座り続けている。

 翌朝、地図も広げないまま、彼はユーグにだけ短く告げた。

「俺が行っても、あれの耳には届かない」

「聖墳墓まで、行かれたのですか」

「行った。だが、アンゼルムの中で、俺はもう三日月と手を結んだ裏切り者だ」

「では誰が行きますか」

 答えたのは、ユーグではなかった。扉の外から、静かな足音とともに声が届く。

「私が行きます」

 治療天幕の匂いを纏ったまま入ってきたのは、アウローラである。

「アウローラ……。」

「首狩りに故郷を喰われた者です。あの人たちの怒りが、どこから流れてくるのか、私にはよく分かります。理屈で説けないなら、痛みで語るしかない」

 もう一人、遅れて部屋に入ってきた男がいた。片耳が潰れ、頬に古い刃傷のある老兵、ヴォルクである。

「俺も行こう」

「あんたにあの説教師たちが説得できるとでも」

「できるとは、一言も言ってねえ」

 ヴォルクは椅子も勧められないまま、勝手に腰を下ろす。木の椅子が軋んだ。

「元、王国軍の軍法官付き、下士のヴォルクだ。……と言っても、二十年前の話でな。上官の不正を告発して、逆に叩き出された。以来、あちこちの騎士隊を渡り歩いて、いまは食い詰めてる」

「知っている。それがどうした」

「俺は正しさで生きて、正しさに殺されかけた男だ。あの説教師の目にある火は、俺にも見覚えがある。あれは道理じゃ消えねえ」

「なら何で消す」

「消さん。逸らすだけだ」

 ヴォルクは煙草の葉を懐から取り出しながら、唾を吐くように続ける。

「それとな、あんた。そのやり方には、いつも一つ抜けがある」

「聞こう」

「あんたは人を拾う時、その人間が何を怖がっているかを見てねえ。何が欲しいかしか見てねえんだ。アンゼルムが欲しいのは聖地への道じゃない。師の死を無駄にしたくない、それだけだ」

 ロズヴェータは黙った。図星だった。灯りの炎が、彼の影を壁に長く伸ばしている。

 昨夜、答えの出ないまま明かした自問の続きが、ここにあった。認めるのは癪だが、老兵の目は嘘をついていない。

 その日の午後、アウローラとヴォルクは聖墳墓へ向かった。ロズヴェータは同行しなかった。行けば火に油を注ぐだけだと、頭では分かっている。だが宿営に残り、地図を睨みながら過ごす時間は、思いのほか長く感じられた。

 聖墳墓へ続く石段には、線香とも違う、油と汗の饐えた匂いが立ち込めていた。座り込んだ巡礼たちの間を、アウローラは白い治療服の裾を汚しながら進む。何人かが石を握り、何人かが唾を吐いた。ヴォルクは黙って一歩後ろを歩き、誰かが立ち上がるたびに、その視線だけで座らせる。

 アンゼルムは階段の最上段、師の名を刻んだ即席の墓標の前に立っていた。風が吹くたび、粗末な布の裾が墓標の影に重なる。アウローラが口を開くと、彼は初め、聞く素振りさえ見せなかった。

「ベルトルド様が命を懸けたのは、聖地のためだけではないはずです」

 アウローラは声を落とした。

「壁の上で守ろうとしたのは、その内側にいる人たちでしょう。だったら、その人たちの手で壁を立て直すことも、師の願いの続きにはなりませんか」

 一瞬、アンゼルムの目の奥の火が揺れた。だが彼はすぐに顔を背け、それ以上は何も言わなかった。

 夕刻、二人が戻る。石畳を踏む足音がいつもより重い。アウローラの顔には疲労が濃く滲み、ヴォルクは煙草の葉を噛みながら肩をすくめた。

「半分は説得できました」

 アウローラが言う。

「聖墳墓の階段に、アンゼルムの一派が座り込んでいて、近づくだけで数人が石を握りました。それでも構わず、師の死を都の再建に捧げる形にできないかと持ちかけたのです。ベルトルド様が守った壁の内側を、その弟子たちが立て直す――そう名付ければ、少なくとも聖墳墓に額づく理由にはなる、と」

「アンゼルム本人は」

「頷きませんでした」

 ヴォルクが煙を吐く。灰色の煙が、天井の梁に沿って薄く広がった。

「あの男は、和議そのものが許せねえんだ。理屈じゃない。師の血を、三日月と握手した都の土に混ぜたくないだけだ。話の途中で背を向けやがった」

「残るのは」

「百人足らずだろう。それ以外は、アウローラ殿の言葉に頷いたようだ」

 百対数千。少ないと言えば少ない。だがその百人が、これから先ずっと燻り続ける火種になることを、ロズヴェータは理解していた。


◇◆◇


 最後に、女王の意を確かめておく必要がある。

 血の祈祷室は、いつも通り蝋の匂いと石の冷たさに満ちていた。マリネットは一枚の紙を差し出す。文字はない。指輪の印だけが、蝋の上に押されている。傍らに控えるルセーブルの手が、わずかに震えていた。

「陛下は、何をお望みか」

 答えたのは、ルセーブルだった。

「陛下は……都の外壁が、まだ薄いと仰っている。人の数がいなくなれば、次の春、また同じことが起こる、と」

「壁として使えと」

「全部ではない。ほんの一握りでいい、と」

「一握りでも、軍を作れば名分になる。王都に、また恰好の口実を渡すだけだ」

ルセーブルは目を伏せ、また間を置いた。

「陛下は、それも承知の上だと仰っている。……ただし、名を出さずに済む形なら、と」

「名を出さない、とは」

「東壁の守りを、聖都の常備軍にはしない。あくまで三頭獣が預かる、志願の民という形にすれば、王都に咎める理由はない」

それなら、増えるのは兵の数ではなく、ロズヴェータ個人の抱える人数だ。都合の良い建前だが、少なくとも表向き、軍事化の証拠にはならない。

「その代わり、預かった以上は俺の裁量だ。誰を選び、どう使うかは口を出させない」

「……お伝えします」

 ロズヴェータは印の押された紙を見つめた。マリネットは沈黙の中で、盤の全部を見ている。彼女が本当に望んでいるのは、十万の労働力でも、帰郷の恵みでもない。次の春に備える、薄氷の下の補強だった。

「分かった。開墾に残る者のうち、志願する者だけを東壁の守備に加える。数は絞る。全軍化はしない」

 紙の上、印だけが答えた。それで良い、というように。マリネットの視線は、最後までロズヴェータの顔に据えられている。声は、一つも出ない。だがその沈黙は、確かに何かを了承していた。

 祈祷室を出る間際、ルセーブルが小さく言った。

「卿は、誰の言い分も丸ごとは呑まないのだな」

「丸ごと呑めば、他の誰かがこぼれる。それだけです」

 ルセーブルはそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いて廊下の暗がりへ戻っていった。


◇◆◇


 三日後、東壁の外の荒地に、ロズヴェータは全員を集めた。晴れた空の下、十万近い人影が地平まで続く。風が土埃を巻き、遠くで誰かの咳が響いた。

「竜殺しの槍は、明日発つ。南部へ帰る」

 歓声とも溜息ともつかぬ声が上がる。ジキスムントは列の先頭で、ロズヴェータに小さく頷いてみせた。もう言葉はいらない。

「巡礼のうち、故郷へ帰りたい者は名乗り出よ。路銀は都が持つ」

 三割ほどの手が挙がった。老いた者、傷を負った者、家族の待つ者たち。列の中で、子を抱いた女が一人、静かに涙を拭っているのが見える。

「残る者は、荒地を畑に変える。飯は都が出す。働いた分だけ、この土地はいずれお前たちのものにもなる」

 大半が頷いた。乞食にはしない。仕事は人を人のままにする――辺境の教えを、ロズヴェータはここでも繰り返す。

「そして、志願する者があれば、東壁の守りに加わってもらう。数は多くは要らない」

 百人近くが前に出た。それで十分だ。マリネットの望みは、量ではなく芯にある。

 離れた場所で、アンゼルムとその一派、百に満たない群れが、荷物をまとめて聖都を出ていくのが見えた。誰も振り返らない。老いた巡礼が一人、去りゆく列に向かって手を合わせているのが遠目にも分かった。ヴォルクがその背を見送りながら、煙草の灰を落とす。

「あれは、まだ終わっとらんぞ」

「分かっている」

「あんたが拾わなかった百人が、いつかどこかで何かの種になる。忘れるなよ」

 ロズヴェータは何も言わず、ただ荒地に立つ十万近い人影を見渡す。畑になる土地、南へ帰る槍、東壁に立つ数十人、そして西と東の間からこぼれ落ちるように去っていく百人。一つの群れが、幾筋にも分かれて、それぞれの生きる場所へ歩き出していく。誰一人、完全には満たされていない。

 ヴェルダーは次善と言った。ジキスムントは借りを返し終え、南へ発つ支度を進めている。マリネットは印だけで答えを示した。アンゼルムは怒りを抱いたまま去っていった。それでも血は流れず、都は焼けていない。

 傾き始めた日差しの中、ロズヴェータは荒地に立ち尽くす自分の影が、思いのほか長く伸びているのに気づいた。誰かを拾うたび、誰かをこぼす。その影の長さだけが、今の彼の背負う重さを、静かに教えているようだった。


◇◆◇


 宿営に戻ると、ユーグが茶を淹れて待っていた。湯気の匂いが、土埃と血の名残の混じる空気の中で、場違いなほど穏やかに漂う。

「三方向、どこも完全には満たしていません。よくこれで収まりましたね」

「収まってはいない。ただ、崩れる速さを遅らせただけだ」

「アンゼルム殿の百人は」

「行き先までは追わない。追えば、また誰かの利にぶつかる」

 ユーグは茶碗をロズヴェータの前に置き、しばらく黙っていた。それから、ふと思い出したように言う。

「ヴォルク殿の言葉、気にしていますか」

「怖れを見ていない、か」

「図星だったのでしょう」

 ロズヴェータは茶碗を両手で包んだ。指先に伝わる熱だけが、今日一日で唯一、はっきりとした確かさだった。

「今度からは見る。だが、全部を見ようとすれば、今度は自分が拾えなくなる」

「それも、いつかの誰かに突きつけられるでしょうね」

「そうだろうな」

 短く答え、ロズヴェータは茶を飲んだ。東の空で、月がまた一日分、肥えているのが、開け放した窓から見える。雪解けまで、あとひと月に迫っていた。


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