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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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185/218

名を得る

 誰も動かなかった。

 没薬の煙だけが天井へゆっくりと昇っていく。

 ロズヴェータの背後でユーグの手が剣の柄にかかりかけて止まった。革の擦れる小さな音。

 天幕の隅で名簿を抱えていたアブドゥルは動かない。まるで最初からその言葉を待っていたかのようだった。

「それは」

 グリムニルが先に口を開く。

「王国としては異存ございません」

 あまりにあっさりとした声だった。

「降将一人で戦が終わるのなら安いものです。聖都に身を寄せているとはいえもとは敵の将。王国がその身を守る理由はない」

 北部の名家の男はアブドゥルの方を見もしない。興味がないのだ。王配を認めたこととはまったく別の話だった。格下の降将は彼の目には卓の上の小石と同じらしい。

 ルセーブルが帳簿を握ったまま固まる。

 言葉が出てこない。数字では答えられない問いだった。

 ロズヴェータは奥歯を噛む。

 口を開けば議事の決まりを破る。破れば聖都の席そのものが卓から外される。ガベルが待っているのはまさにその一言だ。

 沈黙が長く続いた。

 天幕の外で風が旗を鳴らす。

 やがてルセーブルの指が帳簿から離れた。

 その指が毛皮の襟の奥を探る。

 取り出したのは小さな布の包みだった。

「……聖都は」

 声が震えている。だが王配は言葉を止めなかった。

「聖都はこの和議の知らせを受け女王の名をもって、返答いたします。その為の全権を既に私は受けています」

 グリムニルの眉が上がる。

「聖都の城壁の内にいる者を差し出す条項に」

 ルセーブルが包みを開いた。

 くすんだ金の指輪が卓の上に置かれる。聖都王家の古い紋。

「女王は"否"を返します」

 指輪が木の卓に触れる小さく硬い音がした。

 女王はここにいない。声もない。だがその指輪が天幕の中のすべての目を引き寄せている。

 グリムニルは指輪を見つめた。

 国王陛下の御下命。それを持ち出されては王都の正使が押し切ることはできない。御前会議で少年王が口にした言葉をこの男も知っていた。

「……王配殿下は」

 グリムニルはゆっくりと言う。

「陛下のお言葉までよくご存じだ」

 感心とも警戒ともつかない声だった。

 イブラヒムは指輪を見ていない。

 首狩りの目は天幕の隅に向いていた。

 アブドゥルが立ち上がっている。

 随員の身だ。口は開けない。彼はただ名簿を床几に置いて東の席に向かって深く一礼した。

 顔を上げる。

 暗褐色の瞳がかつての主をまっすぐに見返した。逃げない。

 イブラヒムも目を逸らさない。

 長い時間が過ぎていく。

 没薬の煙が二人の間をゆっくりと横切る。麻布が鳴る。誰も息をしていないかのようだった。

 やがて首狩りが口を開こうとした瞬間、横から鈴の音のような声が響いた。

「少し、お待ちください」

 ユーシャルが、進み出て華麗に一礼する。

「イブラヒムが臣、ユーシャルと申します。差し出がましいようですが、一つ提案が」

 グリムニルは、突然の乱入者に驚きに二度三度ユーシャルとイブラヒムの間を視線が行き来するが、視線には非難の色が強い。

 イブラヒムも眉間に皺を寄せ、視線は鋭さを増す。

 ルセーブルは、突然のことに目を白黒とさせて言葉もない。

「時間も、煮詰まりました。少し休憩などなさっては?」

 和平交渉の主役たちは視線を交わしあう。

「その間に、少し余興をいたしましょう」

「……余興ですか?」

 苛立ちの混じった声でグリムニルが反芻する。

「ええ、エルフィナスとリオングラウス側の代表者による一騎打ち、などいかがでしょう? 勿論、余興です。どちらが勝利するか、賭けて頂いても構いません」

「……つまり、それは」

 グリムニルよりも、先に反応したのはルセーブル。

「折り合わぬ点を、賭けを以って解決しようと?」

 ルセーブルの言葉に、ユーシャルは微笑むだけで応えない。しかし、その笑顔が雄弁に語っているようだった。

 ルセーブルは、一度後ろに控えるロズヴェータを振り返る。無言で頷くロズヴェータに力を得たのか、ルセーブルは、大きく頷いた。

「私は、賛成です」

「……野蛮では?」

 グリムニルの非難の視線に、ルセーブルは、首を振る。

「そもそも戦自体が野蛮と言えば野蛮の極みでしょう」

 そんなことをしても無駄だとばかりに視線を転じてイブラヒムを見る。イブラヒムは、視線を鋭くしてユーシャルを見た。

「余興、か」

「はい、余興です」

「ならばよい。で、誰を?」

「無論、わたくし自身が」

 そう言ったユーシャルに、イブラヒムは冷たい笑みを返す。

「なるほど、王配殿、そちらは?」

 話を振られたルセーブルは、ロズヴェータを見た。

「我が、忠勇なる騎士を」

 一歩ロズヴェータが進み出る。

「……」

 グリムニルは、信じられない思い出両者のやり取りを見つめていた。その間にも条件がすり合わされる。得物は刃を潰した剣、盾、鎧の使用は自由。相手が降参、または戦闘不能と判断された場合は、勝者を審判が下す。

 審判は、グリムニルが選出した。

 一騎打ちの場が整った会場で、ロズヴェータは初めて自分の得物を確かめた。

 刃を潰した長剣。手に馴染まぬ重さが柄から腕へ伝わってくる。盾は借り物で、縁の革が乾いて硬い。足元は乾いた泥。踏めば薄い皮が割れて、黒い土が靴底に貼りつく。

 天幕から出てきた人垣が輪を作る。王国の書記。帝国の副将。聖都の従卒。誰の顔にも、余興を楽しむ色などなかった。

 輪の向こうにユーシャルが立つ。

 外套を脱いだ娘の体は細い。革の胸当てと刃を潰した曲刀が一振り。盾は持たない。銀の髪を一つに束ね、菫色の瞳だけが楽しげに笑っている。

「お手柔らかに、辺境の君」

「言う相手を間違えているな」

 ロズヴェータは短く返す。

「余興でこんな場を作る娘に、手加減の言葉は似合わん」

「あら。褒め言葉と受け取っておきます」

 審判の声が上がった。

 風が旗を鳴らす。

 娘が先に動いた。

 速い。

 耳長族の足は乾いた泥をほとんど鳴らさない。曲刀が下から跳ね上がり、ロズヴェータは盾を傾けて逸らす。鈍い衝撃が肘まで走った。刃は潰してあっても、当たれば骨は折れる。

 二合、三合。

 打ち合うたびに娘の位置が変わる。正面から来ない。横へ後ろへと風のように回り込む。剣の腕で押し切れる相手ではなかった。

「ご存じですか」

 刃を交えたまま、ユーシャルが囁く。甘い香が汗の匂いに混じった。

「お手紙のお返事を、まだいただいておりません」

 切っ先が喉元を掠める。

「いま斬ればわたくしは死にます。縁談も終わります。祖父の孫娘を斬った男を、カミューの父上はどう庇いますでしょう」

 ロズヴェータの足が半歩遅れた。

 その半歩を娘は見逃さない。曲刀が盾の縁を叩いて腕が跳ね上がる。がら空きになった胴へ次の一撃が来る。

「ロズヴェータ様!」

 輪の外から声が飛んだ。

 アブドゥルだった。卓では口を開けぬ男が、ここでは叫んでいる。

「その娘の刃は口です! 耳を閉じて目だけで見なさい!」

 ロズヴェータは息を吐いた。

 そうだ。この娘の得物は最初から鉄ではない。恋文も、縁談も、今の一言も、全部が同じ一振りだ。斬られる前に耳を貸した者から倒れていく。

 次の一撃を、ロズヴェータは避けなかった。

 胴に受ける。鎧越しに肋が軋んで息が詰まる。だがその瞬間、娘の体は間合いの内にあった。

「──もらった」

 剣を手放す。

 乾いた音を立てて長剣が泥に落ちた。空いた手が娘の手首を掴み、盾で曲刀ごと押し込む。体を沈めて腰を入れ、娘の軽い体を投げる。

 背中から地に落ちた衝撃で、ユーシャルの喉から息が抜けた。泥が舞い上がる。ロズヴェータは膝で娘の腕を押さえ、盾の縁をその細い首の上に置く。

「剣を捨てましたわね」

 ユーシャルが咳き込みながら笑う。

「騎士の作法に反しませんの」

「相手が降参するか、戦えなくなるまで。決めたのはそちらだ」

 娘の菫色が、初めて笑いを消してロズヴェータを見上げた。

 それから、ふっと力が抜ける。

「降参いたします」

 審判が旗を上げた。

 輪の中にどよめきが走る。王国の書記が慌てて何かを書きつけ、帝国の副将は渋い顔で顎を撫でた。

 ロズヴェータは盾を引き、手を差し出す。

 娘はその手を取って立ち上がる。泥だらけの背を払いもせず耳元に口を寄せた。

「本気で投げましたわね。女相手に」

「本気で殺しに来た女相手にな」

「ふふ。ますます惜しい」

 囁きは風に紛れて誰の耳にも届かない。

 天幕に戻った時、卓の上の空気は変わっていた。

 賭けの対象が何であったか、ここにいる誰もが知っている。グリムニルは口を引き結んだまま羊皮紙に目を落とし、ルセーブルは膝の上で拳を握り、アブドゥルは輪の外から戻って隅に立っていた。

 イブラヒムだけが泥にまみれた孫娘を静かに眺めている。

 やがて首狩りが口を開いた。

「私の臣」

 低い声だった。

「聡明なるアブドゥルは、泥の海で死んだ」

 天幕の中に小さなざわめきが走る。

「あの泥の底に沈んで戻らなかった。本国にはそう伝える」

 イブラヒムの目はアブドゥルから離れない。

「そこに立っているのは、名もない男だ」

 ほんのわずか、その声の端が揺れた。

「名もない男の身柄など、帝国は要らぬ」

 アブドゥルは動かない。

 それからゆっくりとさらに深く頭を垂れた。

 泣いてはいない。

 ただ床几の脇に垂れた手が小刻みに震えている。

 ロズヴェータはその手を見ていた。

 首狩りは絞り切った人を捨てるように置く。ずっとそう読んできた。その読みで何度もこの男の手を先回りしてきたのだ。

 だが今この一瞬だけ読みは外れた。

 裏切り者を取り逃がした失点を"戦死"で消す。それは確かに政治の一手だろう。首狩りらしい冷たく計算された一手だ。

 けれどそれだけではない。道具を捨てたのではなく長い年月を共にした人を手放したのだ。

「……引き渡しの条件は取り下げる」

 イブラヒムは卓に目を戻した。

「その男の名は条文には書かぬ。問いもせぬ。それでよいな王国の正使殿」

 グリムニルは一拍置いて頷く。

「異存ございません」

 ルセーブルが卓の上の指輪を拾い上げてそっと布に包み直した。その手もまた震えている。


◇◆◇


 三日目。

 天幕の中には羽根ペンの音だけが続いている。

 三国の書記が同じ条文を三通ずつ清書していく。インクの匂い。溶かした蝋の甘く焦げた匂い。天幕の外では泥の上を吹く風がいつもより穏やかだった。

 条文は六つにまとまった。

 一つ。次の雪解けまでの一年、三国は干戈を交えない。

 二つ。帝国軍は二つの峠を越えて東へ退く。一つ目の峠を越えた時に従者と兵卒を、二つ目の峠を越えた時に騎士を聖都は帝国へ返す。

 三つ。家を継ぐべき跡取り十数名は次の雪解けまで聖都の賓客として滞在する。聖都はこれを家格に相応しく遇する。

 四つ。東の城壁の守りは聖都の管轄とする。

 五つ。聖墳墓を詣でる者の往来を何人も妨げない。

 六つ目は紙に書かれない。

 泥の海で死んだ男の名を三国は誰も問わない。

 王国の書記がその前の行で筆を止めた。

「恐れながら。昨日の余興の勝敗は、いずれの条に記しましょうか」

 羽根ペンの先が宙で迷っている。

「記さぬ」

 グリムニルは顔も上げずに答えた。

「和約に賭けの文字が入れば、後の世の者はこの三日を賭場と読む。条文は美しくあるべきです」

「ですが、第三条が決まった経緯は──」

「経緯は人の頭に残る。紙に残すのは結果だけでよい」

 書記が頷いて筆を戻す。

 イブラヒムは何も言わなかった。ただ第三条の文字を一度だけ指でなぞる。賓客として聖都に残る跡取りたちの条だ。昨日あの泥の上で決まったものが、そこに名を変えて収まっている。

 ルセーブルが小さく息を吐いた。誰も勝者の名を書かない。だが天幕の中の全員が、誰が何を守ったかを知っていた。

 書記が三通の紙を卓に並べた。

 イブラヒムが自らの印を押す。三日月の紋が赤い蝋に沈む。

 グリムニルが王国の印を押した。獅子と王冠。

 最後にルセーブルが布の包みから指輪を取り出す。

 燭台の火で蝋を炙る。とろりと溶けた蝋に女王の指輪を押しつける。

 王配の手はもう震えていない。

 聖都王家の古い紋が三通の紙の上に並んだ。

 天幕の中に誰からともなく長い息が漏れる。

 グリムニルが席を立って聖都の席へ歩み寄った。

「王配殿下」

 ルセーブルが慌てて立ち上がる。

 北部の男は穏やかな声で詩を一節口にした。

「"雪は剣より長く大地を覆い、されど春はいつも筆より遅く来る"」

 ルセーブルが目を瞬かせる。

「北方の古い詩です。和約の席で先祖がよく引いたと聞きます」

 グリムニルは小さく笑った。昨日までの彼からは想像できない柔らかな笑みだった。

「良い筆でした、殿下。春が遅れぬことを祈ります」

 一礼して彼は去っていく。

 背後のロズヴェータにはやはり一瞥もくれない。

 ロズヴェータはそれを気にしなかった。むしろ好都合だ。見下されている間は見られていないのと同じだった。

 天幕の人々がそれぞれの帰り支度を始める。

 ユーグがそっとロズヴェータの側に寄った。

「ロズ」

 押し殺した声だった。

「グリムニル卿が別室に入りました。帝国の副将も一緒です」

 ロズヴェータは天幕の奥の小さな仕切りに目をやる。麻布の向こうで二つの影が向かい合っている。話し声は聞こえない。だが一枚の紙が影から影へ手渡されるのが見えた。

 影はすぐに離れる。

 グリムニルは何事もなかったかのように仕切りから出てきて書記たちに指示を与え始めた。

 帰り支度の喧騒の中でユーシャルが東の入口に立っている。

 祖父の後に続いて天幕を出る直前に娘は一度だけ振り返った。

 菫色の瞳がロズヴェータを捉える。

 唇がかすかに動いた。

 何かを言った。だが声はない。風が幕を鳴らしてその形を掻き消していく。

 娘は微笑んで背を向けた。


◇◆◇


 帰り道の泥は夕陽に赤く染まっていた。

 ひび割れの一つ一つに影が落ちて低地全体が乾いた血の色をした網のように見える。馬の蹄が泥の皮を砕く音が規則正しく続く。風は冷たく、どこかで鴉が鳴いていた。

 ルセーブルは馬上でずっと黙っている。

 毛皮の襟に顎を埋めて手綱を握ったまま前だけを見ていた。

 聖都の城壁が夕陽の向こうに見え始めた頃に王配がぽつりと呟く。

「……和約はなったのだな」

 ロズヴェータは馬を寄せた。

「はい、殿下」

「議事の決まりで口を塞がれたのは貴殿だった。私ではない。私はずっと口を塞がれていたのではなく開かなかっただけなのだな」

 ルセーブルが自分の手を見下ろす。指輪を押した手だった。

「殿下が話さなければ」

 ロズヴェータは静かに言った。

「あの男は今夜帝国の天幕で首を刎ねられていました」

 ルセーブルが振り返る。

 隊列の少し後ろを一人離れて馬を進める影がある。

 アブドゥルは東を見ている。峠の向こうへ沈んでいく帝国の旗をじっと見つめていた。

 誰も声をかけない。ロズヴェータもかけなかった。

 名を捨てた男には名を捨てた夜が要る。

 しばらくしてユーグが馬を寄せてきた。

「別室の件です」

「ああ」

「紙が一枚グリムニル卿から帝国の副将へ渡りました。封はしてありました。中身は分かりません」

 ロズヴェータは夕陽に目を細める。

「条文は三通。三国の印が並んだ」

「はい」

「だが条文の外にもう一枚紙がある」

 泥の網の上を長い影が伸びていく。

「その紙には聖都の印はない」


◇◆◇


 帝国軍が一つ目の峠を越えたのは、それから四日後のことだった。

 約定どおり聖都は捕虜の第一団を返す。従者と兵卒、百九十九名。泥の落ちた粗末な服のまま彼らは何度も振り返りながら東へ歩いていった。名簿を抱えて先に峠を越えた馬丁の若者も、向こうで彼らを待っているはずだ。

 その夜宿営に一通の手紙が届いた。

 帝国の商人の荷に紛れていたという。絹の封筒。封を切る前から雪の冷気と甘い香が指先に立つ。

 封蝋は太守アリマの紋ではない。

 小さな菫の花が一輪赤い蝋に押されていた。

 私信だった。

 ロズヴェータは獣脂蝋燭の灯りの下でそれを開く。

 細く流れるような字が並んでいた。


 ──辺境の君へ。


 泥の天幕での和平、心よりお祝い申し上げます。

 王配殿下は、たいそう面白いお方でしたわね。祖父があのように興味深げに人を眺めるのを、わたくしは久しぶりに見ました。


 祖父があの方を"死んだ"とした意味を、辺境の君ならお分かりでしょう。

 祖父は情で動く人ではありません。

 けれど、情が一度もなかった人でもありません。

 あの天幕で、わたくしは初めてそれを見た気がいたします。


 余興のことも、一つだけ白状しておきます。

 三度目に打ち合った時、あなたの盾は左へ大きく流れておりました。あのまま右の肩の継ぎ目を突けば、腕は上がらなくなっていたはずです。

 わたくしは突きませんでした。

 理由をお知りになりたければ、いつか直接お尋ねくださいませ。手紙に書くには、少し恥ずかしいものですから。

 ああ、けれど投げられたのは本当に痛うございました。あれは手加減のしようがありません。


 さて、わたくしのお手紙のお返事のことです。

 この一年の間にいただければ結構です。

 休戦が続く限り、わたくしは待てます。

 休戦が破れたなら、その時はきっと、お返事の中身も変わってしまうでしょうけれど。


 天幕を出る時に申し上げたこと、お聞き取りいただけましたかしら。

 聞こえなかったのなら、それでよろしいのです。

 次にお会いする時まで、とっておきますから。


 ユーシャル


 追伸

 天幕の外で交わされた紙のことは、あなたのお国の方にお尋ねなさいませ。

 わたくしの口からは、何も。


 ロズヴェータは手紙を読み終えてしばらく動かなかった。

 蝋燭の炎が小さく揺れる。甘い香が獣脂の匂いの中にほどけていった。

 右の肩。

 あの日の夕方、鎧を脱いだ時に継ぎ目の革が緩んでいたのを思い出す。突かれていれば剣は握れなかった。

 勝ったつもりでいた一戦の底が、手紙一枚で抜けていく。

「……何も、か」

 苦笑が漏れる。

 何も言わないと書くことほど多くを語る書き方はない。

 彼は手紙を畳んで帳面を開いた。

 奥の頁に、最初の絹の文が眠っている。その隣に二通目をそっと重ねる。

 二つの菫の香が紙の間で混じり合った。


◇◆◇


 東の城壁の上は今夜も冷える。

 ロズヴェータは狭間に手をついて峠の方を見ていた。石の冷たさが掌から肘まで這い上がってくる。

 闇の向こうで帝国の篝火が一つまた一つと消えていく。二つ目の峠へ向かって首狩りの軍が退いていくのだ。昨夜より少なく、一昨夜よりさらに少ない。

 一年の和平。

 次の雪解けまで。

 城壁の下では十万の人の壁が眠っている。傷病者の呻きがかすかに風に乗ってくる。聖墳墓の方角からは夜通し祈る声が低く響き焚き火の煙が薄く流れていた。

 だがロズヴェータは知っている。

 これは和平ではない。一年分の時間だ。

 首狩りは本国の火を踏み消して身軽になって戻ってくる。王都の公爵は条文の外の紙で次の一手を打っている。聖都に留まる跡取りたちの家は恨みを数えているだろう。名を捨てた男にはいつか刺客が来るかもしれない。そして絹の文の返事は一年の期限と同じ長さで宙に浮いている。

 どの火も消えていない。ただ灰を被っただけだ。

「ロズ」

 背後からユーグの声がした。

「冷えます」

「ああ」

 ロズヴェータは頷いたがすぐには動かない。

 東の空を見上げる。

 欠け続けていた月が今夜は爪の先ほどに細くなっていた。

 あと幾晩かで月は隠れる。

「ユーグ」

「はい」

「月の無い夜は何が来ても見えない」

 ロズヴェータは白い息を吐いた。

「だから目を増やしておけ。一年あれば目はいくらでも増やせる」

 細い月が雲の端に沈んでいく。


◇◆◇


 翌朝の宿営は麦粥の匂いで満ちていた。

 天幕の外では兵が鍋を囲み、湯気の中に欠伸と笑い声が混じる。休戦という二文字が、まだ実感になりきらない朝だ。

 ロズヴェータが帳面を広げていると、入口の幕が静かに揺れた。

「ロズヴェータ様」

 アブドゥルが立っている。暗褐色の瞳の下に眠らなかった証の影があった。

「一つ、お伺いしても」

「座れ。粥はまだある」

「いえ」

 男は座らない。手には何も持たず、背だけをまっすぐに伸ばしている。

「名簿を書き写しておりました。捕虜の名です。家の名、父の名、生まれた土地。書き終えて筆を置いた時に、一つだけ空いた欄に気づきました」

 ロズヴェータは黙って先を待つ。

「照合役の名を書く欄です」

 アブドゥルの指が、何もない紙をなぞるように動いた。

「私は昨日から、そこに書く名を持っておりません」

 炭が小さく爆ぜる。

「聡明なるアブドゥルは泥の海で死にました。あの方がそう仰った以上、あれは本当のことになります。帝国の記録からも、あの名は消える。……ならば、ここに立っている男は何と呼ばれるべきなのでしょう」

「何でもいい」

「ロズヴェータ様」

「本気で言っている」

 ロズヴェータは帳面を閉じた。

「名は器だ。中身が決まる前に選んだ器は、たいてい合わない。俺も一度そうなりかけた」

 婚約破棄の夜のことだ。あの時に自分へ貼ろうとした名は、復讐者という安い器だった。

「だから急ぐな。お前が次に何をする男か決まってから選べ」

 アブドゥルはしばらく黙っていた。

 やがて口の端がわずかに緩む。笑みと呼ぶには薄すぎるが、昨日までの顔にはなかったものだ。

「では、一つ申し上げたき儀が」

 男は背をさらに伸ばした。

「ヴィタス。そう名乗らせていただきたく存じます」

 ロズヴェータは湯気の立つ椀から目を上げる。

 聞き覚えのある響きだった。だが東の言葉にも王国の言葉にも、そんな名は思い当たらない。

「どこの言葉だ」

「どこの言葉でもございません」

 男は静かに答えた。

「あなた様の御名の、後ろ半分をいただきました」

 炭が爆ぜる。

 ロズ・ヴェータ。舌の上で自分の名を転がしてみる。後ろの半分。そこから音を一つ落とし、東の舌に馴染む形に整えれば、確かにヴィタスになる。

「……勝手に持っていくやつがあるか」

「無断で頂戴しました。お叱りは受けます」

 顔を上げた男の目に、ためらいの色はなかった。

「帝国へ戻るつもりはございません。あの方はもう私を死なせてくださいました。あちらに私の椅子はなく、探す気もない」

「分かっている」

「ならば残るのは、どこで何のために生きるかという話だけです」

 男は一度言葉を切った。

「私は、あなた様と共にこの国で働く者になります。領地もなく家名もない身です。ならば名の由来を主に求めるのが筋でしょう」

「筋の通し方が重いな」

「軽い名では、二度と裏切らぬ証になりませんので」

 ロズヴェータは黙った。

 王国にも辺境にも、主が臣へ己の名の一字を分ける慣わしはある。だがそれは上から下へ与えるものだ。下から取りに来た例など聞いたことがない。

 しかもこの男は、与えられるのを待たなかった。自分で器を選び、自分でその中身を決めて、卓の上に置いてきたのだ。

 入口の幕が風に鳴る。

 朝の光が泥の地面を白く照らす。遠くで角笛が撤収を告げていた。

「ヴィタス」

 試しに呼んでみる。

 男の肩がわずかに揺れた。返事より先に体が反応している。もう他人の名ではないらしい。

「……悪くない響きだ。帳面にはそう書く」

「……恐れ入ります」

「ただし一つ言っておく」

 ロズヴェータは椀を一つ押しやった。

「俺の名の半分を担ぐなら、俺より先に死ぬな。半分だけ墓に入られては据わりが悪い」

「……心得ております」

 ヴィタスはようやく腰を下ろす。

 両手で椀を受け取り、湯気を吸い込んでから、ゆっくりと口をつけた。薄い麦粥だ。名家の卓に並ぶ品ではない。

 それでも男は長いこと、その温さを口の中に留めていた。

 湯気の向こうで、峠の雪がまた一日分だけ薄くなっていた。


ロズヴェータ:新進気鋭の騎士団長


称号:同期で二番目にやべー奴、三頭獣《ドライアルドベスティエ》隊長、銀の獅子、七つ砦の陥陣営、遠征軍の騎士団長、聖都の調停者


特技:毒耐性(弱)、火耐性(中)、薬草知識(低)、異種族友邦、悪名萌芽、山歩き、辺境伯の息子、兵站(初歩)、駆け出し領主、変装(初級)、遭遇戦、策略家、追撃戦、魔物の雫保有者


同期で二番目にやべー奴:同期の友好上昇

三頭獣《ドライアルドベスティエ》隊長:騎士隊として社会的信用上昇

銀の獅子:国への貢献度から社会的信用度の上昇

遠征軍の騎士団長:騎士としての信頼度が大幅上昇(更新)

聖都の調停者:遠征軍からの信頼度が大幅上昇(新規)

毒耐性(弱):毒からの生還確率が上昇。

火耐性(中):火事の中でも動きが鈍らない。火攻めに知見在り。

薬草知識(低):いくつかの健康に良い薬草がわかる。簡単な毒物を調合することができる。

異種族友邦:異種族の友好度上昇

悪名萌芽:行動に裏があるのではないかと疑われる。

山林歩き:山地及び森林内において行動が鈍らない。

辺境伯の息子:辺境伯での依頼で影響度上昇

陥陣営:連続で城塞を落とし続けている限り、味方の能力に強化効果。(連続10回)

兵站(初歩):兵站の用語が理解できる。

駆け出し領主:周囲から様々な助言を得ることが出来る。

変装(初級):周囲からのフォローを受ければ早々ばれることはない。

遭遇戦:臨機応変な戦いの経験がある。(1回)

策略家:他の騎士隊から戦術・戦略的助言を求められる。他の騎士隊に対して影響力上昇。ただし、警戒感を同時に抱かせる。

追撃戦:追撃で戦果を拡大できる。(1回)

魔物の雫保有者:今はまだ効果が不明

籠城戦の主:籠城戦で指揮を執ったことがある(1回)

信頼:武官(+90)+10、文官(+55)+10、王家(+2)-10、辺境伯家(+35)-5

聖都:60、エルフィナス:40

信頼度判定:

王家派閥:精々有用な盾になってもらいたいものだ。しかし、目障りだな。

文官派閥:今死なれると、国が死ぬ。

武官派閥:コイツがいないと、派閥が崩壊する。どうしよう?

辺境伯家:武官派閥に取り込まれてない?

聖都:リオングラウスなんてやめてうちに所属しなよ。

エルフィナス:粘り強い敵だ。しかし戦い方が騎士じゃない……。取り込めないかな?


副題:ロズヴェータちゃん、聖都の和平を成し遂げる。

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― 新着の感想 ―
お、重い・・・ アブドゥル改めヴィタスからも、ユーシャルからも、各派閥からも感情が重い・・・ ヒロインって誰だっけ? あと地味に辺境伯家からの信頼度がダウンしてる?
感想一覧
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