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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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184/218

和平交渉

 泥がもう乾き始めている。日差しは冬の寒さを遠くに押しやり、新たな季節の到来を告げているようだった。

 湖ひとつ分の雪解け水が引いた後の低地は一面が、焼いた亀の甲羅のようにひび割れている。踏めば乾いた皮が薄く砕け、その下からまだ湿った黒い土が覗く。鼻を掠めるのは錆びた鉄と腐りかけた藁の匂い。この泥の底には首狩りの重騎兵と攻城塔が今も沈んでいるはずだった。

 その泥の真ん中に白い大天幕が張られている。

 麻布が峠からの風を孕んで低く鳴る。天幕の前には三本の旗竿。獅子と王冠。聖都王家の古い紋。そして三日月。どれもが冷たい空で乾いた音を立てていた。

「皮肉なものですね」

 馬を降りたユーグが小声で言う。

「牙を折った場所で筆を交わすとは」

「首狩りが選んだ場所だ」

 ロズヴェータは泥のひびを靴先でなぞった。乾いた土が粉になって風に散る。

「ここで負けたことを忘れていないと言いたいのだろう。あるいは忘れるつもりだと」

 背後では王配ルセーブルが馬から降りるのに手間取っていた。従卒の肩を借りてようやく泥を踏み毛皮の襟を掻き合わせる。その顔は朝の冷気のせいだけではなく白い。

 さらにその後ろにアブドゥルが一人で立っている。

 捕虜名簿の照合役。そういう名目で連れてきた。だが彼は天幕を見ず東の峠を見ていた。暗褐色の瞳に何が映っているのかロズヴェータには分からない。

 天幕の入口をくぐると三つの香が混じり合って鼻を打った。

 王都の蜜蝋の甘さ。聖都の乳香の清らかさ。そして帝国の没薬の苦く深い煙。

 どれも自分の匂いを譲ろうとしない。この天幕の中の空気そのものが、これから始まる話の縮図だった。

 東の入口の幕が上がる。

 冷たい風と共に金の髪が現れた。

 イブラヒム・ヒディスハーン・アルヒリ。首狩り総督。白皙の面は泥海の日から痩せたように見える。だがその目の冷たさは少しも変わっていない。

 首狩りはまっすぐにロズヴェータを見た。

 同じ天幕の下で同じ空気を吸うのは、これが初めてだ。

「銀の獅子か」

 低く澄んだ声。

「泥の礼を言うべきかな」

「礼には及びません」

「そうか。では借りにしておこう」

 イブラヒムの唇が薄く歪む。笑みと呼ぶには冷たすぎる形だった。

 その半歩後ろに菫色の瞳の娘がいる。

 ユーシャル。雪の冷気と甘い香をまとって祖父の影に控えていた。

 娘の目がロズヴェータを捉える。

 何も言わない。

 ただほんの一瞬銀の睫毛の下で菫色がゆるく細められた。何かを知っている者の笑み。問いかけるようでもあり、試すようでもある。

 そしてすぐに視線は外れた。

 ロズヴェータは表情を動かさない。だが胸の奥で帳面の底にしまった絹の文がかすかに香った気がした。


◇◆◇


 王都の正使は最後に入ってきた。

 グリムニル。王国北部の名家の出だという。背筋の伸びた端正な物腰で衣の仕立てにも手袋の縫い目にも一分の隙がない。北部の訛りはきれいに削ぎ落とされ口から出るのは磨き抜かれた宮廷語だけだ。

 彼はイブラヒムに深く一礼する。

 ユーシャルにも礼をした。

 聖都の席には一瞥もくれない。

「では、始めましょう」

 グリムニルは卓の上座に着いて書記から一枚の紙を受け取った。

「議事の決まりを読み上げます。三国の合意によるものと心得ていただきたい」

 乾いた紙の音が天幕に響く。

「一つ。卓で発言できるのは各国の正使のみとする」

 穏やかな声だった。

「一つ。随員の発言はこれを許さない」

 ユーグの赤い瞳がすっと冷える。

 ロズヴェータは動かなかった。

 座らせるだけ。王都の公爵が胸の内で呟いたであろう言葉が、今こうして一枚の紙になって読み上げられている。卓の脚にはしてやった。だが脚に口はない。そういうことだ。

「三国の合意と仰いましたか」

 ルセーブルがか細い声で言う。

「聖都はその決まりを事前に──」

「聖都はこの卓に招かれた側です」

 グリムニルは紙から目を上げない。

「招いた側の決まりに従っていただくのが筋でしょう。王配殿下」

 それきりだった。

 ルセーブルの顔から血の気が引いていく。毛皮の襟に顎を埋めて膝の上で手を握りしめる。話は私がします。そう言われていたのだ。その話し手が今口を塞がれた。

 ロズヴェータは黙って王配の背後の床几に腰を下ろす。

 そして身を屈めてルセーブルの耳元にだけ届く声で囁いた。

「殿下」

 ルセーブルの肩がびくりと揺れる。

「帳簿は殿下の頭の中にあります」

 それだけ言ってロズヴェータは背を伸ばした。

 ルセーブルは振り返らない。だが握りしめていた手がゆっくりとほどけていった。


◇◆◇


「王国の案を申し上げます」

 グリムニルが書記に目配せすると卓の上に清書された紙が広げられた。上質な羊皮紙に几帳面な字が並んでいる。

「骨子は三つ。帝国は兵を引く。王国は聖都を含む東の地を引き続き保つ。そして泥海で捕らえた帝国の方々は、速やかに全員をお返しする」

 ロズヴェータは背後でその言葉を聞いていた。

 速やかに全員を。

 捕虜は聖都の手にある。それを王都の案がついでのように差し出していく。

「悪くない」

 イブラヒムが卓に指を置いた。

「兵を引くのはもとよりこちらの望みでもある。捕虜が先に戻るなら、本国も黙らせやすい」

 首狩りが頷きかける。

 グリムニルも満足げに頷き書記が羽根ペンを取ろうとした。

 その時だった。

「……お、お待ちください」

 声がかすれている。

 天幕の中の目が一斉に聖都の席へ向いた。

 ルセーブルが帳簿を開いている。紙の端をめくる指が震え、頁が一枚二枚と滑ってようやく目当ての頁で止まった。

「捕虜の数を申し上げます」

 グリムニルがわずかに眉を寄せて書記へ目を流す。聞き流してよいとでもいうように。名だけの王配の話など、耳に入れる価値もない。その目はそう語っていた。

 ルセーブルが息を吸う。

「泥海で聖都が得た捕虜は四百十二名」

 声はまだ細い。

「うち二百十三名は帝国の名家の子弟子女。残る百九十九名は、彼らに付き従う従者と兵卒です」

 そこで声が変わった。

 数字に入った途端だ。震えが消える。ずっと埋もれていた何かが紙の上の数字を足場にして立ち上がったかのようだった。

「名家の子弟子女二百十三名。その身代金の見積もりは家格ごとに三つに分けて算出しました。上から順に一人頭の額と人数を掛け合わせますと、その総額は王国が此度の戦で各所から徴した戦費のおよそ三分の一に当たります」

 グリムニルの手が止まる。

 書類をめくりかけた指が紙の端で動かなくなっていた。

「全員を先にお返しすれば」

 ルセーブルは続ける。

「帝国軍が峠を越えるという保証はこの紙一枚だけになります。紙一枚の保証に戦費の三分の一に当たる値を先払いする。帳簿の上ではそれは取引とは呼びません」

 天幕の中が静まり返る。

 麻布が風に鳴る音だけが低く続いていた。

「そして」

 ルセーブルが帳簿から顔を上げる。

「聖都は紙一枚に東の城壁を賭けることはできません。あの壁の上には十万の民が立っております」

 グリムニルは長いこと黙っていた。

 反論の数字を持っていない。その顔がそう言っている。王都の案は捕虜の値を数えてすらいなかったのだ。

 やがて北部の名家の男は手元の書類を静かに閉じた。

 そして初めて聖都の席をまっすぐに見る。

「……失礼いたしました、王配殿下」

 声の温度が変わっていた。

「お話を伺いましょう」

 イブラヒムが卓に置いた指をゆっくりと持ち上げる。首狩りの目が興味深げにルセーブルを眺めていた。

「聖都の王は飾りだと聞いていたが」

 ルセーブルは答えない。答える余裕がなかったのだろう。帳簿を握る指の関節が白い。

 その背後でロズヴェータは黙って座っていた。

 口の端だけがわずかに緩んでいる。


◇◆◇


 二日目の朝、卓の上には一枚の大きな地図が広げられた。

 聖都から東へ伸びる街道。その先にそびえる二つの峠。インクで描かれた山の稜線が、冬の朝の光の中で黒く沈んでいる。

 前の晩ロズヴェータとルセーブルは宿営の天幕で夜更けまで話し込んだ。獣脂蝋燭が三本燃え尽きて天幕には煤の匂いが残った。だが今卓の前に座っているのはルセーブル一人だ。

「聖都の案を申し上げます」

 王配の声は昨日よりも落ち着いている。

「帝国軍が一つ目の峠を越えた時に捕虜の第一団をお返しします。従者と兵卒、百九十九名」

 ルセーブルが地図の上に白い駒を一つ置く。駒が木の卓を打つ乾いた音が響いた。

「二つ目の峠を越えた時に第二団をお返しします。騎士の方々」

 二つ目の駒。

「そして最後の一団。家を継ぐべき跡取りの方々、十数名」

 三つ目の駒をルセーブルは聖都の上に置いた。

「この方々には休戦が守られる保証として一年のあいだ聖都にお留まりいただきます」

 イブラヒムの目が細くなる。

「人質を取るか」

 声が冷えた。天幕の温度が一段下がった気がする。

 ルセーブルの喉が小さく動いた。だが目は逸らさない。

「客人です」

 王配は言った。

「聖都の名にかけて丁重にお遇しします。食も寝所も家格に相応しいものを。祈りの場も用意いたします」

「言葉を飾っても檻は檻だ」

「では総督閣下」

 ルセーブルが地図の上の二つの駒を指先で押す。

「この方々を全員先にお返しした後で帝国軍が峠の手前で止まったとしたら。聖都は何を手に閣下と話せばよいのでしょう」

 イブラヒムは答えない。

 代わりに自分の側の黒い駒を一つ持ち上げて地図の上の峠の手前に置いた。

「一つ目の峠で、第一団と騎士の半分」

 値切りだった。

 ルセーブルが帳簿をめくる。

「騎士の半分では、帝国軍の後衛を峠に残す理由になります。第一団のみ。騎士は二つ目の峠で全員」

 黒い駒と白い駒が地図の上で何度も動く。駒が卓を打つ音は乾いた雨のようだった。

 グリムニルはその間黙って聞いている。

 昨日までならこの男は早く片付けることしか考えていなかっただろう。いや今もそうかもしれない。だが彼は王配を頭ごなしに退けようとはしなかった。

 やがて北部の男が口を開く。

「王配殿下。一つよろしいか」

「……はい」

「"客人"という語は、条文では"聖都の賓客として滞在する"と書くのがよろしいでしょう。北方の古い和約では、そう書いた例がございます。賓客を害すれば害した側が神の前で名を汚す。帝国の方々にとっても跡取りを"囚われた"と本国に伝えるより、"賓客として遇されている"と伝えるほうが体面が立つ」

 イブラヒムの眉がわずかに動いた。

「それに、滞在の期限は"一年"ではなく"次の雪解けまで"と書くのがよい。暦は国ごとに違いますが雪解けは誰の目にも同じです」

 ルセーブルは目を瞬かせてから急いで帳簿の余白に書きつけた。

「……ありがとうございます、グリムニル卿」

「礼には及びません」

 グリムニルは淡々と言う。

「条文は美しくあるべきです。美しい条文は破られにくい」

 ロズヴェータは背後でそのやりとりを見ていた。

 この男は認めた相手には手を貸す。それが教養の証であるかのように。だがその手が誰の袖から伸びているのか忘れてはならない。


◇◆◇


 午後になってイブラヒムが卓に両手を置いた。

「条件を一つ加える」

 天幕の空気が張り詰める。

「聡明なるアブドゥル」

 その名が没薬の煙の中に落ちた。

「我が臣でありながら我を裏切り敵に降った男。その身柄を帝国に引き渡してもらう」

 天幕が凍りつく。


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