交渉の席
崩れた穀物庫の中は泥の匂いで満ちていた。
乾きかけた泥が鎧の継ぎ目で割れて剥がれ落ちるたびに饐えた水の臭いが立つ。屋根の破れ目から射す朝の光が床に座り込んだ男たちの肩を白く撫でていた。濡れた革が擦れる音。鎖が石を打つ冷たい音。どこかで誰かが押し殺した咳をしている。
泥海から引き上げた帝国の重騎兵達。その数は四百と少し。
「養う麦がありません」
ガーデルが帳面を開いたまま言った。硬い声だった。
「十字軍の口ですら賄いきれていないのです。そこへ四百。薄粥にしても日に麦が──」
「分かっている」
「兵たちの中にはいっそ首を刎ねて峠へ送り返せという声もあります。首狩りの流儀を首狩りに返してやれと」
ロズヴェータは答えず囲いの中を見渡した。
泥に汚れた顔はどれも若い。髭の薄い者もいる。鎧は泥を落とせば見事な彫金が浮かぶだろう。だが今その鎧は主の体を泥の底へ引きずり込もうとした錘でしかなかった。
「アブドゥル」
背後に控えていた男が一歩進み出た。
かつて首狩りの第一の臣であった男は囲いの柵に手をかけて暗褐色の瞳で捕虜の列をゆっくりと辿った。捕虜の何人かが顔を上げて凍りついた。聡明なるアブドゥルの顔を知らぬ帝国の騎兵はいない。
「……裏切り者め」
誰かが低く吐き捨てた。
アブドゥルは眉ひとつ動かさなかった。
「一人ずつ顔を見せていただけますか」
ロズヴェータが頷くと三頭獣の兵が捕虜を一人ずつ柵の前へ立たせた。
アブドゥルは顎の形を見た。指の節を見た。泥の下の鎧の紋を爪で擦って確かめた。
「この者は西方の太守ダーウード殿の甥御です。主戦派の旗頭の一人」
次の男。
「ズンジェ派の大商家、ハーシム家の嫡子。帝都の塩の半分はこの家の蔵を通ります」
次は若い女の騎士。
「宗教学者の家の末娘。父君は帝都の神殿で説教壇に立つお方」
声は淡々としていた。だが一人名を挙げるごとにガーデルの帳面を持つ手がわずかに下がっていった。
二十人ほど検めたところでアブドゥルは柵から手を離した。
「重騎兵は帝国でも選ばれた兵科です。馬も鎧も自前で揃えねばならず、名家の子弟子女しか入れません」
彼はロズヴェータを振り返った。
「これは泥に沈んだ鉄屑ではありません。帝国の玉座に近い家々の跡取りの名簿です」
囲いの中が静まり返った。
屋根の破れ目で鳩が羽ばたく。乾いた羽音が埃を散らした。
「なら」
ロズヴェータは泥の匂いを深く吸い込んだ。
「この囲いは聖都でいちばん値の張る蔵だな」
ガーデルがゆっくりと帳面を閉じた。革表紙の擦れる音がやけに大きく響いた。
「……麦の勘定を組み直します」
「頼む。死なせるな。一人もだ」
◇◆◇
それから数日が過ぎた夜。宿営は獣脂の匂いがした。
蝋燭の炎が天幕の布に揺れる影を映し炭火の上で薄い麦粥が小さく泡を立てている。外では峠から吹き下ろす風が綱を鳴らし遠くで見張りの交代を告げる声が短く響いた。
ニャーニィは木の椀を両手で包んで粥を啜っていた。立ちのぼる湯気に目を細めながら。
「あー、あったかい。隊の荷が着くまで、まともなもの食べてなかったんだよね」
彼女の率いる騎士隊氷炎化け猫は、彼女に遅れること数日で大量の糧食と共に聖都ジュルル・サルムへ着いた。文官派閥から請け負ったその輸送は、彼女達の名を歓声と共に聖都の武官派閥へ広げた。
「明日には発つのか」
「ロズ次第かな」
先行したニャーニィが自身の騎士隊と合流すればすぐ帰るのだとばかり思っていたロズヴェータは、意外な返答に首を傾げる。
椀を置いた彼女の顔からふっと軽さが消えた。
天幕の中にいたユーグとアブドゥルが同時にその変化に気づく。
「ロズ。この前の夜明け前に言ったよね。押しかけるって」
「……聞いていたのか」
「東の壁の上で独り言を言うなら猫の耳には気をつけたほうがいいよ」
ニャーニィは膝を揃えて座り直した。火炎魔術師の細い指が膝の上で組まれる。
「あの厭味ったらしい正論馬鹿の宰相様からもう一つ預かってるの。紙には書けない伝言」
ニャーニィの表現に苦笑するロズヴェータ。彼自身も確かに宰相の噂は聞いている。
「なぜすぐに言わなかった」
「言うなって言われてたから。それに本気かどうか、何日か見てたの」
彼女はまっすぐにロズヴェータを見た。
「アレはこう言ってたの。"あの者が首を守って引き籠もるならこの話はするな。卓に座る気を見せたらその時だけ伝えよ"って。嫌なやつでしょ?」
ロズヴェータは黙った。
会ったこともない老人に量られていた。そう知っても腹は立たなかった。むしろ背筋が伸びる思いがした。
「……聞こう」
「御前会議でね。ルクレイン公爵が和議を持ち出して宰相様が"頭越しは売り渡しだ"って噛みついたらしいの。場が割れかけて、そこで陛下が口を開いたの」
ニャーニィは少し声を低くした。自分の言葉ではない言葉をそっと運ぶように。
「"その者たちに黙って敵と話すのは卑怯ではありませんか"」
炭が小さく爆ぜた。
「それから"和議の話は進めてよい。でも聖都にも必ず知らせなさい。頭越しはよろしくない"」
天幕の中で誰も口を開かなかった。
ロズヴェータは少年王の姿を思い描こうとした。確か年齢は十を半ば過ぎたばかりのはずだ。王城の舞踏会で遠目に見かけたあの子供が庇ってくれたことに、悪い気はしなかった。
「宰相様が紙に書かなかったのは陛下のためだって」
ニャーニィが付け加えた。
「宛名のない手紙でも奪われたら"宰相が王の御言葉を私の使いで流した"ことになる。陛下を派閥の喧嘩に巻き込む。だから口で運べって。その間に数十の小言が入ったけどね」
嫌悪というより苦手意識を思い出したような苦り切った顔のニャーニィに、ロズヴェータは肩をすくめた。
「しかし、陛下がね」
これまで雲の上にいた少年王をロズヴェータはそこで初めて意識に乗せた。
「……慎重な方だ」
ユーグが低く言った。赤い瞳にかすかな敬意の色がある。
「本当に陛下がそう仰ったのか。確かめる術はありますか」
「それなら」
天幕の入口で声がした。
見張りの兵が一通の手紙を掲げて立っていた。
「王都のネリネ殿から。西からの荷に紛れて届きました」
ロズヴェータは封を切った。懐かしい丸い字が並んでいる。寮の食事が不味くなったこと。講堂の暖炉が壊れたこと。そして三枚目の半ばにこう書いてあった。
──若い騎士たちの間で噂が広まっています。御前会議に侍った小姓が漏らしたそうです。陛下がルクレイン公爵に"卑怯だ"と仰ったと。公爵はそれに同意して頭を下げたと。本当かどうか分かりませんが、講堂では皆その話ばかりです。
ロズヴェータは手紙をユーグに渡した。
「宰相の口と、講堂の噂が揃った」
「では、事実ですね」
「ああ。しかも王都の若い騎士の半分がもう知っている」
ロズヴェータの目が蝋燭の炎を映して細くなった。
「つまりルクレイン卿は、その同意をなかったことにできない」
アブドゥルが静かに口を開いた。
「"知らせよ"。命令としては確かに強い。ですがロズヴェータ様。いつ知らせるか誰に知らせるかどう知らせるか。そのどれも定められておりません」
「そうだ。公爵はそこを抜け道にする。事が固まってから一枚の紙を送りつけて"確かに知らせた"と言うだろう」
「では」
「空いているところを、こちらで先に埋めてしまえばいい」
ユーグが眉を上げた。
「勅命の空白を辺境の騎士が埋めるのですか」
「俺は埋めない」
ロズヴェータは首を振った。
「埋めるのは聖都の女王だ」
◇◆◇
翌朝の王配臨席の軍議には珍しい顔が一つ加わっていた。
王配ルセーブル。女王の婿にして名だけの王。上等な毛皮の襟を立てて天幕の隅の床几に所在なげに腰かけている。だがその膝の上にはロズヴェータが与えた帳簿が開かれていた。紙の端は指の脂で柔らかく波打っている。何度もめくった跡だ。
卓の上には二枚の紙が広げられていた。
一枚は捕虜の名簿。もう一枚は白紙だった。
「策は二本立てだ」
ロズヴェータは名簿に指を置いた。
「一本目は東へ向ける。この名簿を首狩りに送る」
「脅すのか」
竜殺しのジキスムントが問う。
「いや。"返す用意がある"と送る」
ロズヴェータはアブドゥルを見た。
「イブラヒムは今本国でどう呼ばれている」
「"また逃げる将"と」
アブドゥルは即答した。
「一度聖都を捨てて退いた方です。今また和議で兵を引けば、主戦派は必ずそう言うでしょう。あの方が和議を妥協派の太守の名で運ばせているのはそのためです」
「そこへこの名簿だ」
「……ええ」
アブドゥルの暗褐色の瞳に久しく見なかった光が宿った。
「和議を結んで名家の跡取りを連れ帰れば、主戦派の太守も宗教学者も口を噤みます。子を返した将を"逃げた"とは罵れません。逆に連れ帰れなければ、和議はただの敗走です。四百の跡取りを敵地に残して逃げた将として、あの方の首は本国で吊られる」
彼は名簿に目を落とした。
「そしてこの四百を握っているのは王都ではありません。聖都です」
「つまり」
正しきヴェルダー卿が確かめるように言葉を継いだ。
「聖都と話さなければ首狩りは手ぶらで帰ることになるということか」
「そうです。王都と首狩りが頭越しに握手をしても卓の脚が一本足りない」
ロズヴェータは名簿を持ち上げた。
「誰に運ばせる?」
竜殺しのジキスムントの目に鋭い光がある。脇腹の負傷を乗り越えた南部最大の騎士団長はなお戦いへの気炎を失っていない。
「捕虜の中から一人。いちばん身分の低い者を」
アブドゥルが言った。
「重騎兵には必ず馬の世話をする従者が付きます。その中にサーミという若者がいました。家名もないただの馬丁です。あの者なら放っても名家の値は減りません」
「泥海の前に、こちらは偽の間者をわざと逃がした」
ロズヴェータが呟いた。
「首狩りはあの手口を覚えている。今度の使いも罠と疑うだろう」
「ですから」
アブドゥルは羽根ペンを手に取った。
「名簿は私が書きます」
天幕の中の視線が彼に集まった。
「あの方は私の字を知っています。長年私の書いた地図と報告を読んできた方です。この字で書かれた名簿なら必ず本物だと分かる」
アブドゥルはペン先をインク壺に浸した。
「泥海で私はあの方を罠にかけました。今度は本物を届けます。──それが私の務めでしょう」
羽根ペンが紙を掻く乾いた音が天幕の中に続いた。
ロズヴェータはその横顔をしばらく見ていた。それから白紙のほうへ手を移した。
「二本目は西へ向ける」
「陛下の"知らせよ"というお言葉か」
正しきヴェルダー卿が言った。
「ええ。聖都の側から先に答えを出します」
ロズヴェータは白紙に指で線を引くように言葉を並べた。
「一つ。女王陛下の名で和議の知らせを受ける正使を指名する。二つ。知らせを受けた聖都は女王の名で可否を返す。この二つを国王陛下への上奏文として送る」
ヴェルダー卿が息を呑んだ。
「それは……」
「知らせは通告では終われない。受ける正使がいて、返事の道が開いているのだ。"知らせた"と言い張るには正使と話すほかない」
「では、正使は誰に」
ルセーブルの問いに天幕が静まった。
「お前じゃダメなのか?」
竜殺しのジキスムントの視線の先にはロズヴェータがいた。若年と見下す気配はない。力のある戦友を見る目で問いかけている。
「駄目だ」
ロズヴェータは即座に首を振った。
「成り上がりの騎士が私心で卓に割り込もうとしている。ルクレイン卿はそう札を貼るだろう。リオリスの時と同じ手口でな」
「では誰が」
ロズヴェータは天幕の隅を見た。
全員の視線がそれを追った。
毛皮の襟に顎を埋めていた王配ルセーブルがゆっくりと顔を上げた。
「……私か」
「殿下です」
ロズヴェータは頷いた。
「殿下は聖都の王配にして名目の上では王であらせられる。しかも殿下をこの都に据えたのはルクレイン卿ご自身です」
ユーグの赤い瞳がわずかに見開かれた。
「公爵は自分で立てた駒を門前払いできない」
「そういうことだ」
ルセーブルはしばらく黙っていた。膝の上の帳簿に目を落とし指先で紙の端をいじる。
「……私は飾りだと思われている」
「存じております」
「その飾りが和議の卓に座るのか」
「飾りでなければ座れない卓です」
ロズヴェータは静かに言った。
「私は随員として殿下の後ろに控えます。話は私がします。殿下には座っていただくだけでよい」
ルセーブルは長いこと帳簿を見ていた。
やがてその指が一枚の頁をめくった。
「座るだけではつまらんな」
呟きは小さかった。だがそこには埋もれていた男の声がかすかに混じっていた。
「その上奏文。数字を添えたほうがよかろう」
「数字、ですか」
「捕虜四百の身代金だ。帝国の名家なら一人頭いくらになるか。それとこの戦で王都が各所から搾った戦費の穴。並べれば分かる。聖都を抜いた和議では四百人分の値がまるごと卓から消える」
ロズヴェータの騎士団の一人として軍議の隅に佇んでいたガーデルがぽかんと口を開けた。
ルセーブルは帳簿を閉じて少し気まずそうに襟に顎を戻した。
「……暇だったのでな。貴殿の帳簿を何度も読んだ」
ロズヴェータは初めてこの男に心からの笑みを向けた。
「では殿下。数字をお願いします」
◇◆◇
血の祈祷室は昼でも夜の匂いがした。
冷えた石の床。燃え残った香の甘い煙。色硝子を透かした冬の陽が床に青と紅の斑をゆっくりと這わせている。どこか遠くで水の滴る音が規則正しく響いていた。
女王マリネットは祭壇の前に坐していた。
ロズヴェータは跪いて一枚の紙を差し出した。正使指名状。王配ルセーブルの名が記されている。
女王は黙ってそれを受け取った。
細い指が文字を辿り夫の名の上で止まった。白い指先がその名をそっと撫でた。
ロズヴェータは女王が結んだ糸を思い出していた。わたくしの民を、あの愚かな夫をあなたの盤の上で殺さないで。
「殺しません」
彼は言った。
「殿下には卓の上に座っていただきます。今この盤の上で殿下がいちばん安全な場所は卓の上。敵も味方も正使を斬ることはできませんから」
女王は顔を上げなかった。
長い沈黙だった。水の滴る音が十を数え、二十を数えた。
やがて女王は指から指輪を抜いた。聖都王家の古い紋が刻まれたくすんだ金の指輪だった。
燭台の火で封蝋を炙る。赤い蝋がとろりと溶けて甘く焦げた匂いが香の煙に混じった。
女王は溶けた蝋に指輪を押しつける。
声はなかった。
だがその指先にためらいはなかった。
指輪を嵌め直した女王はロズヴェータをまっすぐに見た。色硝子の光が瞳の中で揺れていた。何も言わない。けれどその眼差しは言葉よりも重く告げていた。
約束は覚えている。
ロズヴェータは深く頭を垂れた。
◇◆◇
東の城壁の上は指が千切れそうなほど冷えていた。
峠から吹き下ろす風が狭間を抜けて笛のように鳴る。眼下の平野には泥海の跡が黒く広がっている。その縁で両軍の斥候が小さな影となって動いていた。朝方にも一つ小競り合いがあったと聞いている。矢が二本飛んで馬が一頭倒れただけの。
名代アルブレヒト・ヴェルダーは狭間の石に手をついて東を見ていた。
几帳面に撫でつけた白髪が風に乱れている。頬は削げて目の下に濃い影があった。眠れていないのだろう。
「ヴェルダー卿」
ロズヴェータが上奏文を差し出すと名代は振り返らずに言った。
「読んだ。女王陛下の意志も確認している」
「では」
「副署せよと言うのだな」
ヴェルダーはようやく振り向いた。その目には疲れと警戒が同じだけ宿っていた。
「名代の副署がなければ、この上奏は王都の手続きに乗らぬ。聖都の女王の印だけではルクレイン卿は"聖都の私信"として握り潰す。──分かっている。あの軍議に加わった時から分かっていたのだ」
「迷いを解けとは申しません」
ロズヴェータは静かに言った。
「ただこれは王命の履行です。国王陛下は"聖都にも必ず知らせよ"と仰った。ならば知らせを受ける者を定めておくのは聖都の政を預かる名代の務めではありませんか」
ヴェルダーは口を開きかけて閉じた。
「聖都のための書状であり、同時に王都の命に従う書状です。この一枚の上では卿の二つの正しさは同じ方を向いている」
風が鳴った。
ヴェルダーは長いこと上奏文を見下ろしていた。凍えた指が紙の端を押さえる。紙が風にはためいて乾いた音を立てた。
従卒が小さな携帯用の文箱を差し出した。
名代は羽根ペンを取った。インク壺の中身は半ば凍りかけていてペン先が重い。
ヴェルダーは一度ペンを止めた。
それから署名した。
羽根ペンが紙の上で軋む。冷えたインクがゆっくりと繊維に滲んでいく。几帳面で揺るぎのない字だった。
「王命に従っただけだ」
ペンを置いたヴェルダーは再び東を向いた。
「それ以上の意味は私には無い」
「承知しております」
ロズヴェータは上奏文を受け取って深く一礼した。
名代の背は答えない。だがその背はもう途方に暮れた男の背ではなく自分で選んだ者の背だった。
◇◆◇
同じ日の昼。泥海の縁に一人の若者が放たれた。
馬丁のサーミ。泥の落ちきらない粗末な服でアブドゥルの書いた名簿を油紙に包んで抱えている。与えられたのは痩せた驢馬が一頭と二日分の干し麦だけだった。
「東へ行け。峠の本営へ。総督閣下にじかに渡せ」
グレイスが言うと若者は震える声で問うた。
「……本当に行っていいのですか」
「行け。お前が届けなければお前の主人たちは帰れない」
若者は驢馬の手綱を握りしめて何度も振り返りながら東へ歩き出した。
枯れ草を踏む音が遠ざかる。平野の向こうで帝国の斥候の影が動いた。その影が小さな背を見つけて駆け寄っていくのが見えた。
同じ頃西門ではニャーニィが馬に跨がっていた。
鞍袋には女王の印を押した正使指名状と名代の副署を得た上奏文。それに王配ルセーブルが一晩で書き上げた数字の束が収まっている。
「今度は宛名つきだね」
ニャーニィは鞍袋を叩いて笑った。
「ああ」
ロズヴェータは馬の首を撫でた。汗と干し草の匂いがした。
「宛名は、国王陛下だ」
「重たいなあ」
「落とすなよ」
「落とさないよ。氷炎化け猫をなんだと思ってるの」
ニャーニィは手綱を引いた。
「それよりロズ。今度こそちゃんと寝なよ。目の下真っ黒。あと王都に帰ったらまたごはん一緒に行こうね」
返事を待たずに彼女は馬の腹を蹴った。
ロズヴェータはユーグと視線を交わして苦笑した。
蹄が凍った土を叩く。白い息が風に千切れる。小さな背は西の街道へ吸い込まれやがて見えなくなった。
◇◆◇
名簿が放たれて四日後。峠の本営。
金糸の幕の内は火桶の熱と乾いた砂の匂いに満ちている。
イブラヒムは自身の元に届いた泥と汗に汚れた油紙の包みを開いた。
中から現れた一枚の紙に目を落とした瞬間白皙の面がわずかに動く。
イブラヒムの視線に入ったのは、特筆すべき筆跡。
長年自分の机に届き続けた字。几帳面で無駄がなく一画の終わりにかすかな癖がある。
「……アブドゥル」
首狩りはその名を誰にも聞こえぬほど低く呟いた。
名簿には四百余りの名が並んでいた。一人ひとりの家名と父の名と生死と傷の具合まで。ダーウードの甥。ハーシム家の嫡子。神殿の説教師の末娘。泥の底に消えたと諦めていた名が生きた者として並んでいる。
末尾に一行だけ添え書きがあった。
──いずれも、返す用意がある。聖都ジュルル・サルム。
イブラヒムは長いこと動かなかった。
火桶の炭が爆ぜた。橙の照りが名簿の上で揺れた。
「閣下」
傍らの副将が恐る恐る声をかける。
「罠ではございませんか。泥海の前にもあの城は偽の間者を──」
「罠ではない」
イブラヒムは静かに言った。
「あれが書いた字だ。罠ならあれは別の者に書かせる。私が見抜くと知っているからな」
首狩りの唇の端が薄く歪んだ。
「頭越しに話すつもりが。私の手荷物を頭の上から攫われたか」
笑みだった。泥海の日に消えた笑みがほんのわずかだけ戻っていた。
「ユーシャルを呼べ」
ほどなく菫色の瞳の娘が幕をくぐってきた。雪の冷気と甘い香をまとっている。
「お呼びでしょうか、お祖父様」
「筆の行き先を改める」
イブラヒムは名簿を孫娘に渡した。
「王都だけでは卓が立たぬ。脚が一本足りぬ」
ユーシャルは名簿に目を走らせ愉快そうに喉を鳴らした。
「なるほど」
「アリマに伝えよ。聖都を卓に加える。王都にもそう申し入れる」
「かしこまりました」
娘は名簿を胸に抱いて一礼した。菫色の瞳が悪戯っぽく光った。
「では縁談のお返事も。卓の上でいただけますわね」
◇◆◇
ニャーニィが西門を発って八日後。王都リオングラウス。
御前会議の間には冬の陽が高い窓から斜めに射し込んでいた。磨かれた床に光の帯が伸びて暖炉の薪がぱちぱちと鳴る。蜜蝋の甘い匂いが居並ぶ諸侯の衣擦れに混じっていた。
「陛下に申し上げます」
宰相コルベールが立ち上がった。白髪痩身の老人の手には数枚の紙がある。
「聖都ジュルル・サルムより上奏が届きました」
ガベル・リード・ルクレインの豊かな眉がわずかに動いた。
「先の会議にて陛下はエルフィナスとの和議を聖都にも必ず知らせよと仰せになりました。聖都はその御下命を謹んで承り知らせを受ける正使を定めた由にございます」
コルベールは一枚目を掲げた。赤い封蝋には聖都王家の古い紋が押されている。
「正使は王配ルセーブル殿下」
ざわめきが起きた。
ガベルの顔から一瞬、表情が抜けた。
「なお知らせを受けた聖都は女王陛下の御名にて可否を返上するとのこと。名代ヴェルダー卿の副署がございます」
「……聖都は」
玉座の少年王リサディスが身を乗り出していた。
「聖都はちゃんと聞いてくれるのですね」
「はい、陛下」
コルベールは深く頭を垂れた。その口元に老人らしからぬ不敵な笑みが浮かんでいた。
「さらに添え状がございます」
二枚目。数字の並んだ紙だった。
「泥海の戦にて聖都は帝国の重騎兵四百余りを捕らえております。いずれも帝国の名家の子弟子女。その身代金の見積もりと我が国が此度の戦で各所より徴した戦費の額が並べて記されております」
コルベールは紙を読み上げた。
数字が一つ読まれるたびに居並ぶ諸侯の顔色が変わった。
とりわけ南の伯爵家の若き当主の顔色が。
「……それは」
ザグール・レジノールが思わず声を漏らした。
「それだけの身代金が入るなら我ら南部が負った戦費の穴もかなり埋まる」
「左様」
コルベールは頷いた。
「ただしこの捕虜を握っているのは聖都です。聖都を卓に呼ばぬ和議ではこの値はまるごと卓から消えます」
幔幕が揺れるほどのざわめきが広がった。
ガベルは動かなかった。
ただ頭の中で一つの場面を思い返していた。この同じ間で自分が深く頭を垂れて"御意"と答えた場面を。
知らせよ、とは言われた。いつ、誰に、どう、とは言われていなかった。その空白こそが自分の逃げ道だったはずだ。
その空白を聖都は先に埋めてきた。
しかも正使に立てたのはルクレインが自ら掘り起こして据えた名だけの王配。拒めばルクレインが立てた王配をルクレインが卓から締め出したことになる。
そのうえ王都の若い騎士たちの間ではあの"卑怯"の一言がすでに噂となって広まっていると聞く。今さらなかったことにはできない。
「ルクレイン卿」
少年王が呼んだ。
「聖都の正使を交渉の席に呼んでくれますね」
ガベルはゆっくりと立ち上がった。
豪放と謳われる大男は豊かな声で答えた。
「──御意」
深く頭を垂れる。
垂れた頭の陰で今度は笑みは浮かばなかった。
伐らずに枯らすつもりの大樹が根を王の足元まで伸ばしてきたか。
ガベルは床の木目を見つめながら胸の内で呟いた。
それに宰相だ。あの大樹と絡み始めている。
だが呼ぶだけだ。座らせるだけだ。卓の上で何を語らせ何を語らせぬか。それを決める筆はまだこちらの手にある。
顔を上げた公爵の目はもう次の盤を見ていた。
◇◆◇
名簿を放ってから十五日目の夜。
ロズヴェータは一人東の城壁の上に立っていた。
懐には二通の書状が入っている。
一通は王都から。国王の名で和議の卓に聖都の正使を招く旨が記されていた。封を切ったとき蝋の匂いに混じってかすかに紙の埃が香った。王都の蔵の匂いだった。
もう一通は峠の向こうから。妥協派の太守アリマの名で同じ卓への招き。こちらの紙からは雪の冷気と甘い香が立っていた。末尾に小さく見覚えのある字で書き添えてある。
──お返事、お待ちしておりますわ。
ロズヴェータは苦笑した。
呼ばれていなかった卓が呼ばざるを得ない卓に変わった。
だが呼ばれることと話を聞いてもらえることは違う。ガベルは卓の上で聖都の口をどう塞ぐかを考えているだろう。首狩りは四百の名家を取り戻したうえで何をこちらから削り取るかを量っているだろう。
剣の戦も水の戦もまだ終わってはいない。
眼下の平野では今夜も斥候の篝火が小さく揺れていた。時おり風に乗って短い剣戟の音が届く。この半月両軍が交わしたのはそれだけだった。
「ロズ」
背後からユーグの声がした。
「冷えます。お戻りください」
「ああ」
ロズヴェータは頷いたがすぐには動かなかった。
東の空を見上げる。
数日前に丸く満ちた月が今夜は片端をわずかに削られていた。
満ちた月が欠け始めている。
「ユーグ」
「はい」
「卓の脚は三本になった」
ロズヴェータは白い息を吐いた。
「三本脚の卓は倒れにくい。だがどの脚がいちばん短いかで卓は傾く」
凍てた石の上でその息が夜にほどけていった。
「次は卓の上だ」




