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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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182/218

頭越しの交渉

 泥水は引いた。

 峠を望む金糸の本営で、イブラヒムは東から届いた三通の書状を火桶の傍らに並べていた。炭の熱に乾いた砂の匂いが立ち、羊皮紙の端がかすかに巻く。どれも故国からの報せだ。戦況を問うものは一通もない。

 一通目は蔵の話だった。

 西征三年。東方の蔵は底を見せ始め、太守領のいくつかで重税に耐えかねた民が鍬を槍に持ち替えたという。飢えた村が徴税吏の首を刎ね、その火が乾いた草原を舐めるように隣領へ移っていく。首狩りは、遠い故郷の焦げた匂いを、この西の火桶の中に嗅いだ気がした。

 二通目は神の話だった。

 もとは一つの月を仰ぐ民の、その仰ぎ方が割れ始めていた。西の異教の都を獲るのは月神の務めだと焚きつけてきた強硬な説教者たち。だが糧を注ぎ尽くされた地方では、別の声が地を這い出していた。──遠い砂漠の果ての都のために、月の民の血と麦を捧げ切るのが、本当に信仰か。

 ズンジェ派とシェリア派は、三日月教の派閥の違いである。十字教の中にも、教会派、伝統派などがいるように、三日月教の中でさえ様々な宗派が入り乱れている。

 その中で最大のものがシェリア派とズンジェ派だ。

 イブラヒムの所属するのがズンジェ派、三日月帝国の支配地域の中では信仰している者は少数にとどまるものの、問題は信仰している者達が富裕でかつ権力にも近い者達だということだ。対してシェリア派は、多数の者達が信仰しているものの、貧しく権力から遠い者達が主流である。

「またぞろ、預言者の言動の論争か」

 うんざりとした声音がイブラヒムにも混じる。怜悧なこの男に、感情を面に出すことを強いたということで、本国の宗教学者達は、ある意味偉業を成していた。

「……私の影を、私の国が、嫌い始めたか」

 白皙の面に、泥海で消えた笑みは戻らない。乾いた唇の端が、皮肉に薄く歪んだだけだった。

 三通目に、彼はいちばん長く目を落とした。

 妥協派の太守アリマ。西征に一度も熱を上げなかった老獪な娘から、短い問いが届いていた。──そろそろ、潮時ではないか。

「和議、か」

 その二文字を、イブラヒムは声に出して確かめた。敗走の響きはない。退くのではない。盤を張り替えるのだ。

 聖都はもう一息には割れぬ。あの泥が、鉄の牙ごとそれを教えた。ならば西の削り合いに軍を沈め続ける意味はない。故国が内から割れる前に、この無傷の本隊を東へ引き抜き、背後の火を踏み消す。西を飢えさせるより、まず己の足元だ。元々イブラヒム自身西方の貧しい地域よりも東方の地域にこそ、興味がある。

「使者を、立てる」

 傍らの副将が息を呑んだ。

「和議の、ですか。──ですが本国の主戦派が、必ず"また逃げる将"と……」

「だから使者は、私の口ではない」

 イブラヒムは火桶の炎へ目を細めた。

「アリマの遣いに、託す。妥協派の名で運ばせれば、主戦派も表立っては噛めぬ。ちょうど、この西の盤を隅々まで知る娘が、あの太守の手の内にいる」

 副将が、その名に思い当たって顔を上げる。

「まさか、ユーシャル様を」

「あれは恋文の顔で毒を運ぶのが上手い」

 首狩りは、初めてかすかに笑った。だがその笑みは、孫娘への情ではなく、道具の切れ味を確かめる目のそれだった。

「王都リオングラウスへ差し向ける。──聖都の頭越しに、な。あの都は王国が掘り起こした人形だ。人形を挟んで話すより、糸を握る手と、じかに話す方が早い」

 風が幕を鳴らす。峠の雪解け水の音が、遠く低く響いていた。

「それに」

 イブラヒムは西の城を睨んだ。

「頭越しに話が動けば、あの城の中で最も賢い者が、いちばん先に気づく。銀の獅子のロズヴェータ……お前が拾い集めた盤は、お前の王が一筆で畳めることを、そろそろ思い知る頃だ」


◇◆◇


 王都リオングラウス。

 その日、南の伯爵家レジノール家の王都の屋敷では、園遊会が開かれていた。招かれたのは、南方出身に少なからず利権と権力を握る諸侯。下は爵位をかろうじて持っている男爵から、上はレジノールを頂点とした伯爵家。並べられた豪華な料理に王都で手に入る果実酒。だがそれらを手に取る者達の表情は一様に暗い。

「東の戦が、長引きすぎている」

 王都の始めた戦。

「名も知れぬ騎士が戦を指導しているとか」

「南の騎士団たる竜殺しの槍が不在のままでは、経済が回らない」

 様々な不満の声が、そこかしこで囁かれる。

 表面上は穏やかに、しかしながら確実に、その声は南部地域の総意として、出来上がりつつあった。

「ヨルを伴って来るべきだったな」

 ヨル・ウィン・トード。暗黒大陸出身の砂漠の人《ベーベナル》の女性。確かな智謀と深い知識を持った彼女は、奴隷であるがレジノール家の相談係と言っても良い。その彼女を連れてこなかったことを、当主ザグールは、少しだけ後悔していた。

 南部最大の貴族レジノール家の若き当主ザグールは、ため息を吐きながら南部の総意に向き合う。

 父バッファロから、当主の地位を継いで2年と少し。決して順風満帆とは言わないまでも、大過なく当主を務めれば構わないと考えていた自身の思いとは裏腹に、周囲の状況は予断を許さない状況に陥っている。しかしそこは、地方の雄として育てられた男である。口では愚痴を言いつつも、自身の家の利益を確保しながら要望を王に届ける役目を請け負う。

 ここで、私は関係が無いという態度を取れば、南部の雄と言う立場は一瞬にして崩壊する。

 南部の実態とはそんなものだった。

 王家が主催する御前会議において、各辺境伯家が顔をそろえるのは珍しいことだった。しかし今回は、公爵ガベルの強い要望によって、それが実現する。口を開けば、噴き出すのは戦に対する重い税に対する不満。東の辺境伯家ノブネル・スネク・カミューは、その席で一言も発しなかった。だが伏せた目の奥に、同じ火が灯っているのを、見る者は見ていた。戦を主導している騎士が辺境伯家の三男だとは、この場の誰も、あえて口にしない。

 地方の不満は、もはや火の粉ではなかった。焚きつければ燃え移る、乾いた薪の山と言って良い。

 その山へ、静かに手をかざす男がいた。

「皆の憂い、もっともだ」

 公爵家の当主にして王家の盾を自任する男ガベル・リード・ルクレイン。豪放と謳われる大男が、低く豊かな声で場を撫でる。

「聖戦は尊い。だが、尊さで蔵は満ちぬ。田は耕せぬ。──ならば、いちど筆を執るべきではないか。剣ではなく」

「筆、とは」

「エルフィナスとの、和議だ」

 ざわめきが、幔幕を揺らした。

 ガベルは動じない。むしろ待っていたように、言葉を継ぐ。

「聞けば、あの帝国の首狩り総督《アル・シャーユーブ・アミル》も西征に倦んでいるという。向こうから戦の幕を引きたがっている。ならば、こちらから手を伸ばして何が悪い。戦を畳めば、地方の民は鍬に帰れる。血も、銭も、これ以上は流れぬ」

 正論だった。誰もが頷きかけた。

 ただ一人、白髪痩身の老宰相だけが、細い指を組んだまま動かなかった。

「──和議には、異存ない」

 宰相コルベールの、平明な声が場を刺す。

「紙と算盤で国を支えてきた身だ。戦を長引かせて得るものなど、墓標の数しかないと知っている。若い頃に槍を握った身なら、なおのこと」

 ガベルの目が、わずかに細まった。老いた文官の言葉は、ただ賛同するだけ声音ではない。ましてや目の前の対立する派閥の領袖がそんな素直な男でないことを、ガベルは知っている。

「だが、ルクレイン卿。一つ、腑に落ちぬ」

 コルベールは顔を上げた。

「その和議、誰と、誰の頭越しに、結ぶつもりか」

 沈黙が落ちた。

「エルフィナスと、我がリオングラウスが、じかに筆を交わす。──では、その卓に聖都ジュルル・サルムの席は、あるのかね」

「聖都は」

 ガベルは、少しの淀みもなく答えた。

「我らが立てた都だ。我らが結んだ和議に、従うのが筋であろう」

「従わせる、と」

 コルベールの声が、低くなった。

「今この時、東の首狩りの刃を、その身一つで受け止めているのは、聖都だ。その都を卓に呼ばず、その頭上で敵と握手する。──それは和議ではなく売り渡しだ」

「言葉が過ぎますぞ、宰相」

「過ぎてはおらぬ」

 老宰相の痩せた背が、すっと伸びた。若き日、英雄の旗の下で槍を握った男の背だった。

「聖戦を私戦の刃に使うなと、私はいつぞや申し上げた。此度も同じだ。地方の憤りを鎮める薬に、味方の都を売る。──その処方は、いずれ王家の威信に病身の陰りを落とすだろう」

 場が、二つに割れかけた、その時。

「宰相」

 声変わりが終わったばかりの声が、上座から降りた。

 少年王リサディス。十を半ばまで過ぎた少年王が、玉座の肘掛けを両手で握り、まっすぐにコルベールを見ていた。傍らの摂政エリザベートは、口を挟まず見守っている。

「聖都の戦況はいかがか?」

「はい、陛下。この寒空の下、飢えた民ごと、東の壁を守っております」

「では」

 少年王は、少し考え言葉を選んだ。

「その者たちに黙って、敵と話すのは……卑怯ではありませんか」

 誰も、すぐには答えなかった。

 ガベルの豊かな顔から、一瞬、表情が抜けた。

「……和議の話は、進めてよい」

 リサディスは、少年なりに精一杯、王の声を作った。

「でも、聖都にも、必ず知らせなさい。頭越しは、よろしくない」

 震える手を隠して、リサディスはそう口にすると、ガベルは、深く頭を垂れた。

「御意」

 その口元が、垂れた頭の陰で、ほんのわずか、笑んだのを見た者はいない。

 知らせる、とは言った。だが、いつ、どう知らせるかは、言われていない。事が固まってから知らせれば、それはもはや相談ではなく、通告だ。少年王の楔は、確かに打たれた。だが打たれた木は、まだ倒れてはいなかった。

 会議のあと、宰相コルベールは、自室で一枚の短い書状を認めた。

 宛先は書かなかった。

「お届けものですか?」

 問いかけるのは、文官派閥の依頼を受けて、東奔西走する騎士の一人。

「この手紙を、前線に」

「宛名ありませんけど?」

「無くても良い。三頭獣《ドライアルドベスティエ》に届ければ良い」

「……まいど」

 それを託すに値する騎士隊に依頼する。騎士を一瞥する瞳は、冷徹な為政者のもの。

「頼んだぞ。氷炎化け猫(オルジットキャルト)のニャーニィ」

 乾いた老いた声で、彼は付け足した。

「ああ、その者に会ったら伝言を頼む。その首、容易く売られるな、と。それだけ、届けてくれ」

 黙って頭を下げる彼女に、宰相は最後まで笑いかけることもせず、依頼をする。まるで、そちらの事情など全て承知していると言わんばかりだった。


◇◆◇


 聖都ジュルル・サルム、東の宿営。

 泥海の熱がようやく引き、傷ついた兵の呻きと、薬草を煮る青臭い湯気が、天幕の間に低く漂っていた。

 その静けさを割って、東の峠から、一騎の使者が来た。

 白い休戦の布を掲げ、供もわずか。だが狭間からその姿を認めたルルの長い耳が、ぴんと張った。

「……女だ。若い。それに──」

 耳長族《エルフ》の目が細くなる。

「あれ、帝国の、輝石の門の出だな」

 ロズヴェータが石壁の門へ出ると、馬上の人影が、フードを払った。

 現れたのは、まだ少女の面影を残す、耳長族の娘だった。銀の睫毛の下で、菫色の瞳が、悪戯っぽく笑む。

「お久しぶりです、辺境の君。お手紙のお返事、まだいただけておりませんけれど」

「ユーシャル殿か」

 ロズヴェータの声は動かない。だが胸の奥で、帳面の底に眠らせた一通の絹の文の、甘く危うい匂いが、ふいに立ち上った。

「あの縁談を断りにわざわざ峠を越えたなら、悪いが門は開けられん」

「まさか。今日は、祖父の遣いです」

 娘は馬を下り、しゃなりと雪を踏んだ。細い体のどこにも武器はない。それがいちばん恐ろしい。

「戦勝のお祝いを、と言いたいところですけれど。──もっと良い報せを持ってまいりました。あなたのために、ではなく。あなたに、見せるために」

「……聞こう」

「和議です」

 菫色の瞳が、まっすぐロズヴェータを射た。

「祖父は、この不毛な削り合いを畳むつもりです。妥協派の太守を通じて、もう筆が動いております。相手は──」

 娘は、そこで言葉を切り、いちばん甘い声で、いちばん鋭い毒を垂らした。

「あなたのお国、リオングラウスの王都と。じかに」

 風が、二人の間を吹き抜けた。

「聖都の頭越しに、王と首狩りが、握手をなさる。あなたがた聖都は、その卓には呼ばれておりません」

 ロズヴェータの顔は、動かなかった。

 だが、背後に控えたユーグの赤い瞳が、すっと冷たく光ったのを、娘は見逃さなかった。

「あら。副官殿のほうが、正直ですこと」

「見え透いた楔だな」

 ロズヴェータは、静かに言った。

「東と西を割れば、俺たちが勝手に崩れる。そう仕込んで、わざわざお前を寄越したか。首狩りらしい」

「ええ、そうですとも」

 ユーシャルは、悪びれもせず、あっさりと認めた。そこが、この娘のいちばん質の悪いところだった。

「これは楔です。あなたを揺さぶるための。──でも、辺境の君。楔が刺さるのは、そこに、もとから割れ目があるからです」

 娘は、馬に戻りながら、振り返った。菫色の瞳から、悪戯の色が消えていた。

「嘘か真か、お確かめなさいませ。ご自分のお国に。──痛いのはきっと、わたくしの毒より、そちらのほうです。ね、良い報せでしたでしょ?」

「……ああ、まったくだ」

 苦笑するロズヴェータに、ユーシャルが微笑みかける。ロズヴェータを試すような、色をした視線を隠しもしないのは、出会った時から変わらない。

 白い休戦の布が、峠の風に翻って、遠ざかっていく。

「ロズ」

 ユーグが、押し殺した声で言った。

「あの女の言葉です。話半分で良いのでは?」

「ああ」

 ロズヴェータは、去っていく背を見送っていた。

「だが、残りの半分が、本当なら……」


◇◆◇


「やっ! 来ちゃった」

「ニャーニィ!?」

 気楽な調子の声とは裏腹にもたらされたのは、重大な報せ。ユーシャルのもたらしたその半分。

 日に夜を継いで来たのか、同期のニャーニィが話す前に、差し出した封も宛名もない、一枚の短い書状を差し出した。

「これは?」

 ロズヴェータは、獣脂蝋燭の灯りに、それをかざした。

 ロズヴェータの疑問に、ニャーニィが肩を竦める。読んでみれば分かるということらしかった。

 文字は少ない。だが、その一枚が、ユーシャルの垂らした毒を、そっくり裏から支えていた。

 王都で、エルフィナスとの和議が検討されている。聖都を卓に呼ばぬまま。地方貴族の憤りを鎮める薬として。差配しているのは、ルクレインの手。

 そして、末尾に一行。

 ──その首、容易く売られるな。

「……宰相コルベール」

 ロズヴェータは、その筆跡に、会ったこともない老人の顔を見た気がした。文官派閥の底から伸びてきた、細いが確かな一本の糸。

「ユーグ。難しい立場になった……」

 彼は、書状を静かに畳んだ。指先が、わずかに冷えていた。

 それをユーグに渡す。

 開いて読んだユーグは、忌々し気に眉を顰めた。

「王都の忌々しいルクレイン家が労せずして、必要な物だけ手に入れる、と言うわけですか」

「イブラヒムが噛んでいると思うか?」

 視線をアブドゥルに向けると、彼は暗褐色の瞳の瞳に確信を浮かべて深く頷く。

「間違いなく。正攻法で勝てないと分かった以上、政治的な決着を狙ったものかと」

 卓の一点を、彼は見据えた。

「リオングラウスはそれに乗ったわけか」

 苦々しく呟くロズヴェータ。

「勝ったのに、ですか」

 ガーデルの硬い声が、震えを堪えていた。

「……勝ったからだ」

 ロズヴェータの口の端が、笑みの形に歪んだ。だがそれは、勝者の笑みではなかった。

「聖都ジュルル・サルムを守った功績は、棚上げされている。宰相の見立てだと、この首も、その材料ということか」

 天幕が、静まり返った。炭の爆ぜる音だけが残る。

「ロズヴェータ様」

 殺気立つ美貌の副官に、ロズヴェータは首を振った。

「まぁ、そんな悲観的になる事ないんじゃない?」

 あっけらかんと腕を組むニャーニィに、天幕中の視線が集まる。

「え、だって、ルクレイン公爵家の思惑通りに全部ことが進むなら、ロズは今頃ここにいないんでしょ?」

 ぽかんとした表情のままニャーニィを見て居た、三頭獣《ドライアルドベスティエ》の面々が、互いに顔を見合わせる。

「……ま、確かに」

「捨てる神あれば拾う神ありって、東方の諺でもあるし、なんとかなるでしょ」

 優しく微笑むニャーニィの笑顔に、ロズヴェータは詰めていた息を吐き出した。

「ああ、そうだな。ありがとう。ニャーニィ」

「いえいえ、どういたしまして」

 お道化た彼女は、優雅に一礼した。

 


◇◆◇


 血の祈祷室に、女王マリネットは、ただ一人、坐していた。

 色硝子を透かした月の光が、床に青と紅の斑を落としている。ロズヴェータが報せを携えて訪れると、喋らぬ女王は、顔も上げずに、細い指で傍らの床を示した。座れ、と。

 彼は、かいつまんで伝えた。頭越しの和議。王都の卓。売られかけている、この都の命運を。

 女王は、長いこと、何も言わなかった。

 やがて、その唇が、ほんのわずかに開いた。喋らぬと決めた女が、選んで零す一滴の声。

「知っていました」

「……いつから」

「あなたが、泥の海で勝った、その日から」

 マリネットの、静かな眸が、色硝子の月を映していた。

「勝てば、売られる。この都は、いちど死んで、ルクレインの手で掘り起こされた人形。人形は、要らなくなれば、いつでも卓の上の駒に戻される。──わたくしは、それを、生まれた時から知っています」

 女王は、初めてロズヴェータを見た。

「割らずに、春まで生かして。そう、お願いしました。──外の刃からではなく、味方の筆から、この都を守れますか。あなたに」

 ロズヴェータは、すぐには答えなかった。

 同じ夜、東の城壁で、名代ヴェルダーが、その報せを聞いていた。

 几帳面な白髪が、峠の夜風に乱れる。乾いた横顔から、いつもの揺るがぬ正しさが、初めて、剥がれ落ちていた。

「……私は、女王陛下の名代だ」

 絞り出すような声だった。

「聖都の政と、この遠征軍を統べる者だ。だが、私をこの座に据えたのは、リオングラウスだ。その王都が、聖都の頭越しに敵と握手をするなら──私は、どちらの正しさに、従えばいい」

 正しさの人が、二つに引き裂かれていた。仕える王冠と、任じた手が、初めて別々の方を向いたのだ。

「ヴェルダー卿」

 ロズヴェータは、その背へ言った。斬り付けるような言葉は、奥に仕舞い込み判断を仰ぐ部下の声だ。

「貴方の正しさは、聖都のものか。それとも、王都のものか」

 ヴェルダーは、答えなかった。

 だがその沈黙は、拒絶のそれではなかった。生まれて初めて、正しさの物差しが折れた男の、途方に暮れた沈黙だった。


◇◆◇


 短い仮眠を取った後、時刻は既に夜明け前、ロズヴェータは、一人、東の壁の上に立っていた。

 東を見れば、峠の向こうに、牙を折られてなお退かぬ首狩りの陣。西を見れば、見通せぬ遥かな地平の彼方に、味方であるはずの王都。──そのどちらもが今、この都の頭越しに、筆を交わそうとしている。

 剣で削り合った戦は、まだ終わっていない。だがもう一つ、剣も水も届かぬ戦が、盤の外で、静かに始まっていた。

 筆の戦。

 その卓に、彼は、呼ばれていない。

「……呼ばれていないなら」

 凍てた石の上で、白い息が、朝の薄明にほどけていく。

「押しかけるまでだ」

 削り合いの秤を、泥海で少しだけ、こちらへ傾けた。その重みを、今度は盤の外の卓へ、持ち込む番だった。

 東の空が、雪解けの雲の裂け目から、鈍く白み始めていた。



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