泥海
削り合いは三日続きなお三日月帝国の有利は動かない。
西方の首狩り総督イブラヒムの率いる軍は精強を以って鳴る。その所以をまざまざと見せつけられた気分だった。土嚢の線の向こうに整然と並ぶ鉄兜の列は、朝ごとに数を減らす気配すら見せない。
「手堅いし、何より強い」
ロズヴェータの側で呟いたユーグの一言に全てが詰まっている。
獅子の紋と王冠の王国側はエルフィナスの兵一人を倒すあいだに十人も二十人も削られていく。数だけを見ればまだ十万の分がある。だがそれまで十字軍の心が保つかと言われれば──否だろう。
朝が来るたびに三日月の潮が寄せ、日が傾くたびに引いていく。そのあいだに土嚢の線からはまた幾百幾千の痩せた命が削られた。血の匂いと泥の饐えた臭気が朝靄に混じって鼻の奥にこびりつく。削られた命の分だけ、聖都ジュルル・サルムで防衛に当たる民草の心は抵抗する力を失っていく。まるで波打ち際に立った足元のように寄る辺を失っていくようだった。
人の壁は目に見えて薄くなっていた。
背骨たる竜殺しの槍も諸隊も数を減らしている。ジキスムントは脇腹の矢傷が癒えぬまま、それでも大槍を杖に線へ立ち続けた。傷口から滲む血が革鎧に黒い染みを広げている。分隊長たちの目の下には拭えぬ隈があった。
イブラヒムの言う通りだった。肉が尽きるのが先か薄氷が割れるのが先か。ただそれだけの戦。
このまま行けば負ける。
ロズヴェータはそれを冷えた頭で理解していた。だから彼は削られながら別のことをしていた。
夜ごと痩せた者たちを土嚢積みに回すその裏で、動ける手の一部をそっと北の谷へ送っていたのだ。
誰にも何を作らせているのかは告げず。
◇◆◇
その夜、天幕に四人が集まった。
ロズヴェータ、副官ユーグ、帳簿のガーデル、そして首狩りの窓アブドゥル。獣脂蝋燭の炎が四つの影を幕の布へ長く伸ばし、外を吹く峠の風がその布を低くはらませては鳴らす。
卓には東の平野を描いた一枚の地図。ロズヴェータはその北寄りの一点を指で押さえた。
「ここだ。壁の北の低い一角。ここで勝負をかける」
「北はいちばん削られた区画です」
兵糧の割り振りを担当するガーデルが硬い声で言う。兵站を担う彼の元には最も正確な被害と戦える人数の情報が集まる。だからこそロズヴェータに直言できた。
「背骨ももう数えるほどしか残っていない。あそこは放っておいてもじきに割れます」
「割れるんじゃない。割ってみせるんだ」
ロズヴェータの目が細く光った。蝋燭の火をその瞳が小さく弾く。
「明日、俺は北の一角から部隊を後退させる。わざと崩れたように見せる。──首狩りに"ここが破れ目だ、ここから門へ抜ける"と思わせる」
「囮ですか」
アブドゥルが暗褐色の瞳を上げた。黄金の髪に小麦色の肌、彫りの深い異国の面を持つ東方生まれの壮年は、低い声で問いかけた。
「破れ目の、あの手を、もう一度と?」
声音には成功の疑わしい作戦に対する疑問が滲む。
「桁と規模を変えてな」
ロズヴェータは地図の北の谷──平野の上手を指でなぞった。
「この三日、北の谷で堰を築かせた。早すぎた雪解けの水をせき止めてある。今は痩せた土手の裏に湖ひとつ分の雪解け水が溜まっている」
アブドゥルの暗褐色の瞳が見開かれた。その視線が隣の美貌の副官へ移る。ユーグは表情を変えず見返した。
実務を担ったのは副官ユーグ。動かした手勢は三頭獣の一部。それを見て取ってアブドゥルが口を噤む。
「まさか……あの低い一角へ水を?」
ガーデルの言葉にロズヴェータが頷いた。
「そうだ。首狩りが自慢の重騎兵をあの低地へ流し込んだその時。──堰を切る」
卓の上でロズヴェータの指が谷から北の一角へ一息に滑った。爪が地図の羊皮紙をかすかに擦る音が、静まった幕に妙に大きく響く。
「重騎兵の馬は泥に脚を取られ鎧は沈む錘になる。攻城塔も泥にはめ込めば二度と動かん。──首狩りの牙を水で鈍らせる」
天幕が静まった。炭の爆ぜる音だけが残る。
「良い手です」
アブドゥルが静かに言った。だがその声は沈んでいた。
「ですが一つ。──餌を、しかも高価なものを用意する必要があります」
「読まれる、と」
アブドゥルの答えにユーグが鋭い視線を向ける。実働部隊を率いた身としては、細心の注意を払って動いた結果を読まれていると言われれば面白くはない。
「後退では読まれます。ですが敗走なら……」
アブドゥルの暗褐色の瞳が熱を持つ。灯を映したその奥で何かがちらと燃え立った。
「疑いの中にあっても、あの方はそれでも来ます。二度目の撤退は本国の主戦派に首を差し出すのと同義。罠と疑いながら、それでも都を一息に落とす好機に手を伸ばさずにはいられない」
危険な色を湛えるアブドゥルの瞳に、ガーデルが不気味なものをみるように一歩引く。薄く笑みすら浮かべるその横顔には鬼気迫るものがあった。
「危険です。敗走となれば制御が効かない」
考え込むロズヴェータとユーグを見て、ガーデルが当然の指摘をする。ただの敗走ならまだいい。壊走となれば味方を巻き込んで被害を拡大させる。それを攻城戦でやろうなどと正気の沙汰ではない。一歩間違えば聖都ジュルル・サルムが落ちる。
だがガーデルの当然の懸念に対して、ロズヴェータは口の端で笑みを作った。
その表情がアブドゥルの主として相応しいように、細心の注意を払って。
「……あの男がこちらを読むように、こちらもあの男を読む。疑わせろ。疑いながらなお来させろ。それがお前にしかできないことだ。細部の仕上げは任せる」
アブドゥルはしばらく主を見つめ、やがて深く頷いた。
「餌の匂いづけはお任せを。──かつての主に、いちばん効く毒の混ぜ方は心得ています」
拾われた時のこの男は、朽ちるのを待つだけの静かな敗残者だった。負けを知り何も望まず、ただ沈んだ目をしていた。
だが今は違う。かつて仰いだあの絶対を──首狩りを"上回れるかもしれぬ"。その手応えが、死んだはずの目の底に熱を戻していた。希望は時に絶望より人を危うくする。
ロズヴェータはその戻ってきた熱を静かに測った。──使い切るために。
「ガーデル殿」
ユーグの言葉にガーデルは視線をロズヴェータとアブドゥルのやり取りから転ずる。
「このままではいずれ負けます」
「しかし……」
「勝負を先延ばしにしても我らの力がすり減るだけ。なれば戦える力があるうちに勝負を賭けねばなりません」
「……確かに」
頷くガーデルを横目に、ロズヴェータは卓上の地図をもう一度見据えた。明日、この盤を動かす。
◇◆◇
餌は丁寧に撒かれた。
まず北の一角の背骨を夜のうちに静かに抜いた。残った竜殺しの槍を南と正面へ回す。北に残したのは、いちばん痩せていちばん怯えた者たちばかり。
それに伴う竜殺しのジキスムントをはじめとする諸将の懸念を、ロズヴェータは信じてくれとだけ言って抑え込む。
翌朝の攻めで北の一角は面白いように崩れた。
演技ではない。本当に崩れたのだ。
土嚢を捨てて逃げ惑う痩せた背中を、三日月の斥候は確かにその目で見た。
そしてアブドゥルが最後のひと匙を垂らす。
捕らえていた三日月の間者を一人"取り逃がした"のだ。その男が持ち帰る絵図には、北の一角の手薄と、その奥の石壁の門までの手薄な道筋が描かれていた。あまりに都合よく。
「良いのかい。逃がしちまって」
潰れた耳のヴォルクは軍師として捕虜の管理も担っている。その男が遠目に逃げていく間者の姿を見て、並ぶアブドゥルへ問いかけた。
「──これで、あの方は二重に疑う」
アブドゥルは逃げていく間者の背を狭間から見送りながら言った。冷たい朝風がその痩せた頬を撫でていく。
「手薄すぎる北。都合よく逃げた間者。あの方は思うでしょう。"これは罠だ"と。──ですが同時に思う。"罠と分かるほど雑な罠を私が仕掛けるか?"と。疑いが疑いを食い合う。その堂々巡りの底で、あの方を最後に動かすのは理屈ではない。──退けぬという首の重さです」
陶然としたように呟くアブドゥルの暗褐色の瞳に、潰れた耳のヴォルクは鼻を鳴らした。
自分とは合わない生き方だ。
軍師は算盤を弾くが、この投降者は復讐という名前の酒に生きている。
「あまり賢いやり方じゃねえな」
「そうでしょうか?」
アブドゥルの疑問の声に、ヴォルクは眉間に皺を寄せる。
「長生きできんやり方だ」
「……申し訳ありません。御心配をおかけします」
にこりと笑うアブドゥルの顔から、ヴォルクは視線をそらした。
「ふん、王国語ももう少し勉強しとけよ。そういう時はありがとうだろ?」
ヴォルクはもう見えなくなった間者の行方を見つめていた。
◇◆◇
峠を望む金糸の本営で、イブラヒムは間者の持ち帰った絵図を長いこと見ていた。火桶の熱が乾いた砂の匂いを立て、羊皮紙の端をかすかに炙る。
「……北が割れた、か」
白皙の面に笑みはない。
「手薄すぎる。逃げた間者も出来すぎだ。──罠の匂いが濃いな」
「では見送りますか」
副将が問う。
イブラヒムは答えなかった。
罠だ。
おそらくアブドゥルの絵図。あの男は私が疑うことまで勘定に入れている。ここで踏み込めば何かが口を閉じる。それが見える。
だが──と首狩りは東ならぬ西の城を睨む。
私は退けない。この三日削りに削って、ようやく北の背骨が抜けた。ここで手を伸ばさねばまた幾日、肉を挽き続ける羽目になる。そのあいだに本国の主戦派は"聖都をいまだ落とせぬ将"と騒ぎ立てる。
時がない。それは敵だけの話ではない。
私にもない。
──あの子と。いつからか面白がってそう呼んでいた。だがもうそうは呼べぬ。私をここまで追い詰める者を、微笑んで眺める余裕はとうに削られた。あれは"敵"だ。私の首を狩りに来る者だ。
「罠でも構わぬ」
イブラヒムは静かに言った。その声から、いつもの楽しげな色が消えていた。
「罠を承知で、それでも噛み千切れるなら噛み千切る。──重騎兵を全て北へ。攻城塔も二基、北へ寄せろ。一息に門まで抜く。敵が何を仕込んでいようと、我が鉄の速さがそれを上回れば勝ちだ」
副将が青ざめる。
「全軍の要の重騎兵を一点に……もし、しくじれば」
「しくじれば私は負ける」
首狩りは剣を抜いた。鞘走る鋼が篝火を白く弾く。
「だが踏み込まねば私はじわじわと殺される。──ならば賭ける」
角笛が鳴った。腹の底へ響く長い音が峠の空気を震わせる。
三日月の重騎兵の本隊が鉄の塊となって、崩れた北の一角へ──低いあの一角へ、いっせいに雪崩れ込んでいく。無数の蹄が凍てた地を叩き、地鳴りとなって東の壁まで届いた。
◇◆◇
石壁の狭間で、ロズヴェータはそれを見ていた。
鉄の潮が北の低地へ深く広く流れ込む。日を弾く甲冑の群れが、うねりながら泥の平野へ吸い込まれていく。攻城塔の巨影も二つ、ぎしぎしと軋みを上げてその後を追い、泥の平野へ乗り入れていく。
ルルの長い耳がぴんと張った。
「……来た。本隊だ。全部、北へ来てる」
「アブドゥルの言った通りだ」
ロズヴェータは乾いた唇を舐めた。「疑いながら来た。──退けない男はこうなる」
彼は北の谷を振り仰いだ。痩せた土手の裏で、湖ひとつ分の雪解け水が出口を求めて身をよじっている。土手の縁からは早くも細い水の筋が滲み、じわりと黒く土を濡らしていた。
まだだ。もっと深く。袋の底まで呑ませる。
鉄の潮が低地の奥、石壁の門の手前まで殺到した。勝利を確信した喊声が地を揺らす。門はもう目の前。
その頃合いを。
「──今だ!」
ロズヴェータの声が朝を裂いた。
「堰を切れェ!」
上がる狼煙を合図に、北の谷で待っていた者たちが痩せた土手の要をいっせいに崩した。
次の刹那。
地の底から、地鳴りとは違う低く太い咆哮が湧き上がった。
水だった。
三日堰き止められ行き場を失っていた雪解けの水が、堰を破り谷を下り、傾いた平野を北の低地めがけて一息になだれ落ちてきたのだ。茶色く濁った泥の壁。冷えた飛沫の匂いが狭間まで届き、耳を聾する轟音が空気そのものを押してくる。
鉄の潮の真上へ。
水はまず攻城塔の足を掬った。泥に脚を沈めた巨塔がぎしりと傾き、断末魔の悲鳴のような軋みを上げて横倒しに崩れ落ちる。乗っていた兵が泥の中へ放り出された。飛沫が高々と上がり、朝日に虹の欠片を散らす。
そして重騎兵。
勝ち誇っていた鉄の塊が足元から崩れた。馬の脚がみるみる泥に呑まれる。もがけばもがくほど深く沈む。鉄で固めた鎧はもはや守りではない。ただ泥へ引きずり込む重い錘だった。
「馬を捨てろ! 沈むぞ!」
三日月の兵が叫ぶ。だが鎧を着たまま泥に落ちた者は、二度と立ち上がれない。泥を掻く手が水面を叩き、その音がひとつまたひとつと途切れていく。
鉄の潮が泥の海の底で溺れていく。
「今度はこっちだ!」
ヴィヴィが、バリュードが、退いていた人垣を率いて泥の縁へ殺到した。動けぬ敵の鎧の隙間へ鍬を、鎌を突き立てていく。石壁の狭間からはヴェルダーの号令一下、近衛の矢が泥にはまった鉄へ雨のように降り注いだ。弦の唸りと、鏃が鉄を裂く硬い音が幾重にも重なる。
人の壁が退いて低地を空け、水が呑み、泥が沈め、人の波が蓋をする。
首狩りのいちばんの牙が、水と泥の底で砕けていった。
◇◆◇
峠の本営で、イブラヒムは泥に沈む我が重騎兵を身じろぎもせず見ていた。
「……水、か」
白皙の面に薄い笑みが浮かぶ。
「早すぎた雪解けを天の恵みと思っていた。それをそっくり返された。──敵は私が急ぐことまで読んでいたか」
「閣下、退き太鼓を……!」
副将が悲鳴じみた声を上げる。
「重騎兵が、攻城塔が……あれを失えば我が軍はもう」
「打て」
イブラヒムは静かに言った。もう笑ってはいなかった。
退き太鼓が泥の戦場にむなしく鳴り渡る。泥から這い出せた者だけが鎧を捨て、味方の陣へと這って戻っていった。全身を茶色く塗り込められた兵たちが、亡者のように土手を這い上がる。
残されたのは傾いた二基の攻城塔と、泥の海に沈んだ数えきれぬ鉄の骸。
首狩りの機動の要と城を崩す道具が、一日でその大半を泥に呑まれた。
「……」
イブラヒムはしばし無言で東の城を見据えていた。
「この首、か」
やがて自らの首にそっと手を当てる。──あの子と呼んでいた頃には考えもしなかった感触だ。指の腹に触れる脈の熱が、やけに生々しい。潮目が変わったことを、首狩りは誰よりも鋭く感じ取っていた。
◇◆◇
泥海と化した北の低地に、日が傾いていく。
沈んだ鉄が夕日を鈍く弾いていた。泥と水と血の匂いが、まだ温い戦場に重く漂う。踏み出すたびに泥がぶちゅと足を吸い、そこかしこから水の引く低い音が絶えず聞こえていた。
ロズヴェータは裂かれた肩を庇いながら、その泥の縁に立った。
「……勝ったので?」
傍らのユーグが静かに問う。
「いや」
ロズヴェータは首を振った。
「まだ勝ってはいない。首狩りの兵はまだ残っている。あの男自身も無傷だ。──だが」
彼は泥に沈んだ攻城塔の黒い影を見た。
「あの男の"速さ"と"厚み"を削いだ。重騎兵と攻城塔がなければ、あの男はもう一息にこの壁を割れない。削り合いの秤が少しだけこちらへ傾いた。──初めて俺たちの側に、選べる手が生まれた」
削られるだけの肉の壁ではない。
この泥海が、次の一手を打つための足場になる。
アブドゥルが暗褐色の瞳で、泥に沈む敵を静かに見ていた。かつての主の牙が砕けていくのを。その横顔に勝者の喜びはない。餌を撒いた時のあの熱も、もうそこにはなかった。かつての主を上回った──その先に待っていたのは快哉ではなく、ただ静かな空虚だった。負けを知る者がもう一つの負けを見届ける、静かな影だけがそこにあった。
「窓は両方に開いている」
ロズヴェータはその横顔にそっと言った。
「よくこじ開けてくれた。──ここから先は、こちらが盤を動かす番だ」
夕日が泥海の向こう、東の峠へ沈んでいく。長く伸びた影が、沈んだ鉄の群れを黒く縁取っていった。
削り合いの戦はまだ続く。だが今日、削られるだけだった男が初めて削り返した。
薄氷の上に一枚、確かな足場が張った。




