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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
戦にならぬ刃

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207/207

幕間 写本師

 王都の朝は、写本所の窓から始まる。

 東向きの高い窓が三つ。その下に長い机が並び、写本師たちが背を丸めて羊皮紙に向かっている。鵞ペンが紙を擦る音と、時おり小刀で誤字を削る音。煮詰めた墨の、渋く酸っぱい匂いが部屋の隅々まで沁みついていた。

 ルクレイン公爵家の次男が営む写本所である。聖典、詩集、算術の手引き、騎士の心得。注文があれば何でも写し、写したものを売り、貸す。王都で字を読む者のうち、この写本所の手を一度も目にしたことのない者は少ない。

 一番奥の窓際の机で、エリザはペンを走らせていた。

 窓際のいちばん明るい机は、写本所の筆頭の席である。仕上がった写しはどれもこの机に回ってきて、エリザが検めてから綴じられる。西で潰れた家の出で、しかも嫁ぎ先から離縁された女が、本来座れる席ではない。名を伏せたままの女をここに座らせているのは、ノインだ。古参の写本師の中には、陰で眉をひそめる者もいる。それでも、口に出す者はいない。この写本所で、ノインの決めたことに異を唱える者はいないのだ。

 写しているのは、古い聖人の伝記だった。羊皮紙の上に、細い文字が整然と並んでいく。一行書くごとにペン先を墨壺に浸し、余分な墨を壺の縁で切る。指の動きに迷いはない。

 縦の線を引き終える。撥ねずに、筆を浮かせて細く抜く。

 師について字を学んだ者なら、誰もが一度は直される癖だ。読み違えられないように、線の終わりは止めなさいと。だが、エリザの抜く線は美しかった。美しいから、誰も直せなかった。

 窓から差す光が、机の上をゆっくりと移っていく。


◇◆◇


 扉が開いたのは、昼の鐘が鳴る少し前だった。

 写本師たちが一斉に顔を上げ、椅子から腰を浮かせる。

「いいよ、いいよ。座ってて。手を止めさせに来たんじゃないから」

 軽やかな声だった。仕立てのいい上着の裾を翻して、ノインが机の間を歩いてくる。線の細い体つきに、社交界の花と謳われる整った顔立ち。歩くたびに、どこかの香水の匂いが墨の匂いに混じった。

 ノインはエリザの机の前で足を止め、羊皮紙を覗き込んだ。

「相変わらず、きれいな字だなあ。エリザの写したものは、貸し出すとすぐ戻ってこなくなるんだよ。皆、返さずに買い取りたがる」

「お褒めにあずかり光栄です、ノイン様」

 エリザはペンを置き、立ち上がって頭を下げた。

「座ってていいってば」

 ノインは隣の空いた椅子を引き寄せ、勝手に腰を下ろす。

「今日はね、いい話を持ってきたんだ」

「いい話、ですか」

「兄上がね、もうすぐ一年だって言ってた」

 エリザの指が、机の縁でわずかに止まった。

「ロスデリアの賠償が、やっと回り始めたんだって。ほら、国境の何とかいう家が、二年も払いを滞らせてたやつ。それを、辺境の騎士が取り立てに行って、きれいに片付けたらしい。兄上も、これで一年待てと言ったのが、ようやく数えられるって」

「……辺境の騎士」

「うん。ロズ……何だったかな。兄上は覚えてたけど、僕は聞いたそばから忘れちゃった」

 ノインは屈託なく笑う。

「とにかくね、あと一年もしないうちに、君の名前を表に出せる。匿名のエリザじゃなくて、オルディ家のエリザとして本を出せるんだ。西で潰れた家の人たちを、王家が拾って給金を出す。その最初の一人が、君になる」

 エリザは黙って、膝の上で手を重ねた。

 ノインの理想は知っている。男爵や子爵、従士の家々に王家から給金を与え、王家を支える根にする。字の読める者を増やし、内政の官を育てる。この写本所も、その理想の一部だ。

 この人は、本気でそう信じている。

「それとね、もう一つ頼みがあるんだ」

 ノインは、少しだけ照れたように頬を掻いた。

「娘が生まれたでしょう。まだ字なんて読めないけど、大きくなったら読ませる本を、君に書いてほしいんだ。夜、灯りの下で読んでやれるような、短い物語を。怖くなくて、ちょっとだけ胸が熱くなるようなやつ」

 エリザの喉の奥で、何かがこわばった。

 灯りの下で読む物語。

「……私でよろしいのですか」

「君がいいんだよ。君の書くものは、優しいから」

 ノインは立ち上がり、上着の裾を払った。

「急がなくていいからね。じゃあ、また来るよ」

 軽い足音が、机の間を遠ざかっていく。扉が閉まると、写本師たちが小さく息をついて、またペンを動かしはじめた。

 エリザは、しばらく座ったまま動かなかった。

 膝の上の手が、冷えている。


◇◆◇


 夕刻、写本所の裏口を叩く者があった。

 エリザが戸を開けると、薬種商の番頭が立っていた。ノインの営む商会の一つ、染料と薬種を扱う店の男である。旅装のまま、靴に乾いた泥をこびりつかせていた。

 番頭は辺りを見回してから、中に滑り込む。

「しくじりました」

 声は低く、苛立ちが混じっている。

「焼け跡で待ち伏せたところを、逆に囲まれました。馬を散らされて、雇った連中は北へ逃げて捕まった。西の爺さまたちは、頭が斬られて、残りは縛られたそうです」

「……誰に斬られたの」

「銀の髪の男だと。騎士の副官でしょう」

 エリザは、窓の外に目をやった。夕陽が、写本所の高い窓を赤く染めている。

「あなたは」

「丘の向こうで見ていました。見ていただけで済んで、こうして戻れた。それだけが運でした」

 番頭は舌打ちをした。

「ゴウルズ街道の荷は、この三年で倍に増えたんですよ。キルギス街道の商いが細ったぶん、皆こっちを回った。それが、あの騎士のおかげで、来年からはまた半分に戻る。眠ってたカルリも、本家が投げ売りするのを待って買い叩くはずだった。それを、南の値で掻っ攫われた」

「分かっています」

「分かってるなら、次の手を」

「次の手は、私が考えます」

 エリザの声は静かだった。番頭は何か言いかけて、口をつぐむ。

 この男が欲しいのは、銭だ。ゴウルズ街道の儲けと、買い叩くはずだった酒の差額。それはそれで、分かりやすい。

 エリザが欲しいものは、違う。

「捕まった者たちは、何を知っているの」

「雇った連中は、何も。王都の男に銭をもらった、それだけです。爺さまたちは……」

 番頭は言葉を濁した。

「爺さまたちは、お嬢さまのために来た者たちですから」

 エリザは目を閉じた。

「書き付けは」

「頭の懐に、一枚」

「そう」

 しばらく、エリザは何も言わない。

 あの書き付けは、自分の手で書いた。霧の窪地の地図も、自分の手で描いた。等高の線も、縄の印も、余白の刻限も。

 描くとき、絵図の流儀は借りた。公爵家に刃の噂のある者の流儀を、そのまま真似た。疑いがどこかへ向くなら、刃を握っていると噂される者の方がいい。

 だが、字だけは崩せなかった。

 崩そうとして、ペンが動かなかったのだ。線の終わりを止めようとすると、指が勝手に浮いて細く抜けていく。十の年から毎日引いてきた線だった。

「お嬢さま」

「もう行って。今日は、誰にも会わなかったことにして」

 番頭は一礼し、裏口から出ていった。


◇◆◇


 夜、写本所には誰もいなかった。

 エリザは一本の蝋燭を灯し、窓際の机に新しい羊皮紙を広げる。ノインに頼まれた、娘のための物語だ。灯りの下で読んでやれるような、短い話。

 ペンを墨壺に浸す。

 書き出しが、浮かばなかった。

 灯りの下で読む物語。そう言われた時、思い出したのは、西の家の狭い寝室だった。窓の外で風が鳴るたびに、弟は毛布を頭まで被って震えていた。夜の怖い子。灯りを消すと泣くので、エリザはいつも蝋燭の下で物語を読んで聞かせた。

 リュカ。光、という意味の名だ。

 読み聞かせるうちに、本の話だけでは足りなくなった。勇ましい騎士の話、賢い狐の話、星を拾いに行く子供の話。自分で作った話を、弟は目を丸くして聞いた。続きは、とせがまれるたびに、また一つ話を作った。

 作家になったのは、あの寝室からだ。

 リュカは九つの春に、ミディ様の館へ小姓に上がった。従士の家の末の子として、主君の館で行儀を覚えるために。泣かなかった。姉さま、もう灯りがなくても眠れるよ、と言って笑ったのだ。

 その館が、燃えた。

 焼け跡のどこにも、リュカはいなかった。骸の中にも。生きているのか、死んでいるのか、誰も知らない。知っているとしたら、あの夜あの館に入った者たちだけだ。

 国の総意で、根を切った騎士たち。その中に、今は聖都で銀の獅子と呼ばれている男がいる。千年の都を銭で保った英雄。勝つほどに名を上げ、取り立てに行けば家を一つ救ったと讃えられる。

 ノインは、その名前さえ覚えていない。

 この人は、すぐに忘れられる人だ。憎しみも、敵愾心も。だから、優しい。だから、才能のある者を拾える。

 エリザには、忘れられなかった。

 ペン先が、羊皮紙の上に落ちる。

 書いたのは、物語の書き出しではなかった。三つの文字。リ、ュ、カ。最後の縦の線を、撥ねずに細く抜く。

 蝋燭の火が揺れた。

 エリザは小刀を取り、書いたばかりの名を削った。羊皮紙の表を薄く剥ぐように、一文字ずつ。誤字を消す時と同じ手つきで、何度も、何度も。

 削り終えると、そこには何も残っていなかった。ただ、紙の肌が少しだけ薄く、白く透けている。

 焼き印を削られた馬の尻のように、と、どこかで思った。何があったのかは分からないように削ってある。だが、削った跡だけは、消えない。

 エリザは、もう一度ペンを墨に浸した。

 削った跡の上に、物語の最初の一行を書く。

 むかし、夜を怖がる小さな男の子がいました。

 縦の線の終わりを、細く抜いた。

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― 新着の感想 ―
ロズが弟のリュカを発見し仲間に加えれば、有能なエリザも仲間に加えられるかもしれない。諜報部隊もセットでね。新しい分隊ができるかもしれない。しかもノインへの復讐もできる。ついでに西方に築いてきた善意が領…
リュカが生きていたとすれば、クリウベルの配下としてではないだろうか。その場合、今も生きているとすれば3つのどれか。三頭獣の西方分隊。ただこれはベテランばかりを集めたから可能性は低い。帝国へ移住し双子姉…
おお、ようやくある意味この作品メインのドロドロ話に視点が来たな。 ノイン、無自覚な邪悪なのか? ロズヴェータの婚約者を寝取ったって過去すら忘れてそう。 娘って元婚約者が産んだんだろうなあ。ロズの脳が…
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