幕間 写本師
王都の朝は、写本所の窓から始まる。
東向きの高い窓が三つ。その下に長い机が並び、写本師たちが背を丸めて羊皮紙に向かっている。鵞ペンが紙を擦る音と、時おり小刀で誤字を削る音。煮詰めた墨の、渋く酸っぱい匂いが部屋の隅々まで沁みついていた。
ルクレイン公爵家の次男が営む写本所である。聖典、詩集、算術の手引き、騎士の心得。注文があれば何でも写し、写したものを売り、貸す。王都で字を読む者のうち、この写本所の手を一度も目にしたことのない者は少ない。
一番奥の窓際の机で、エリザはペンを走らせていた。
窓際のいちばん明るい机は、写本所の筆頭の席である。仕上がった写しはどれもこの机に回ってきて、エリザが検めてから綴じられる。西で潰れた家の出で、しかも嫁ぎ先から離縁された女が、本来座れる席ではない。名を伏せたままの女をここに座らせているのは、ノインだ。古参の写本師の中には、陰で眉をひそめる者もいる。それでも、口に出す者はいない。この写本所で、ノインの決めたことに異を唱える者はいないのだ。
写しているのは、古い聖人の伝記だった。羊皮紙の上に、細い文字が整然と並んでいく。一行書くごとにペン先を墨壺に浸し、余分な墨を壺の縁で切る。指の動きに迷いはない。
縦の線を引き終える。撥ねずに、筆を浮かせて細く抜く。
師について字を学んだ者なら、誰もが一度は直される癖だ。読み違えられないように、線の終わりは止めなさいと。だが、エリザの抜く線は美しかった。美しいから、誰も直せなかった。
窓から差す光が、机の上をゆっくりと移っていく。
◇◆◇
扉が開いたのは、昼の鐘が鳴る少し前だった。
写本師たちが一斉に顔を上げ、椅子から腰を浮かせる。
「いいよ、いいよ。座ってて。手を止めさせに来たんじゃないから」
軽やかな声だった。仕立てのいい上着の裾を翻して、ノインが机の間を歩いてくる。線の細い体つきに、社交界の花と謳われる整った顔立ち。歩くたびに、どこかの香水の匂いが墨の匂いに混じった。
ノインはエリザの机の前で足を止め、羊皮紙を覗き込んだ。
「相変わらず、きれいな字だなあ。エリザの写したものは、貸し出すとすぐ戻ってこなくなるんだよ。皆、返さずに買い取りたがる」
「お褒めにあずかり光栄です、ノイン様」
エリザはペンを置き、立ち上がって頭を下げた。
「座ってていいってば」
ノインは隣の空いた椅子を引き寄せ、勝手に腰を下ろす。
「今日はね、いい話を持ってきたんだ」
「いい話、ですか」
「兄上がね、もうすぐ一年だって言ってた」
エリザの指が、机の縁でわずかに止まった。
「ロスデリアの賠償が、やっと回り始めたんだって。ほら、国境の何とかいう家が、二年も払いを滞らせてたやつ。それを、辺境の騎士が取り立てに行って、きれいに片付けたらしい。兄上も、これで一年待てと言ったのが、ようやく数えられるって」
「……辺境の騎士」
「うん。ロズ……何だったかな。兄上は覚えてたけど、僕は聞いたそばから忘れちゃった」
ノインは屈託なく笑う。
「とにかくね、あと一年もしないうちに、君の名前を表に出せる。匿名のエリザじゃなくて、オルディ家のエリザとして本を出せるんだ。西で潰れた家の人たちを、王家が拾って給金を出す。その最初の一人が、君になる」
エリザは黙って、膝の上で手を重ねた。
ノインの理想は知っている。男爵や子爵、従士の家々に王家から給金を与え、王家を支える根にする。字の読める者を増やし、内政の官を育てる。この写本所も、その理想の一部だ。
この人は、本気でそう信じている。
「それとね、もう一つ頼みがあるんだ」
ノインは、少しだけ照れたように頬を掻いた。
「娘が生まれたでしょう。まだ字なんて読めないけど、大きくなったら読ませる本を、君に書いてほしいんだ。夜、灯りの下で読んでやれるような、短い物語を。怖くなくて、ちょっとだけ胸が熱くなるようなやつ」
エリザの喉の奥で、何かがこわばった。
灯りの下で読む物語。
「……私でよろしいのですか」
「君がいいんだよ。君の書くものは、優しいから」
ノインは立ち上がり、上着の裾を払った。
「急がなくていいからね。じゃあ、また来るよ」
軽い足音が、机の間を遠ざかっていく。扉が閉まると、写本師たちが小さく息をついて、またペンを動かしはじめた。
エリザは、しばらく座ったまま動かなかった。
膝の上の手が、冷えている。
◇◆◇
夕刻、写本所の裏口を叩く者があった。
エリザが戸を開けると、薬種商の番頭が立っていた。ノインの営む商会の一つ、染料と薬種を扱う店の男である。旅装のまま、靴に乾いた泥をこびりつかせていた。
番頭は辺りを見回してから、中に滑り込む。
「しくじりました」
声は低く、苛立ちが混じっている。
「焼け跡で待ち伏せたところを、逆に囲まれました。馬を散らされて、雇った連中は北へ逃げて捕まった。西の爺さまたちは、頭が斬られて、残りは縛られたそうです」
「……誰に斬られたの」
「銀の髪の男だと。騎士の副官でしょう」
エリザは、窓の外に目をやった。夕陽が、写本所の高い窓を赤く染めている。
「あなたは」
「丘の向こうで見ていました。見ていただけで済んで、こうして戻れた。それだけが運でした」
番頭は舌打ちをした。
「ゴウルズ街道の荷は、この三年で倍に増えたんですよ。キルギス街道の商いが細ったぶん、皆こっちを回った。それが、あの騎士のおかげで、来年からはまた半分に戻る。眠ってたカルリも、本家が投げ売りするのを待って買い叩くはずだった。それを、南の値で掻っ攫われた」
「分かっています」
「分かってるなら、次の手を」
「次の手は、私が考えます」
エリザの声は静かだった。番頭は何か言いかけて、口をつぐむ。
この男が欲しいのは、銭だ。ゴウルズ街道の儲けと、買い叩くはずだった酒の差額。それはそれで、分かりやすい。
エリザが欲しいものは、違う。
「捕まった者たちは、何を知っているの」
「雇った連中は、何も。王都の男に銭をもらった、それだけです。爺さまたちは……」
番頭は言葉を濁した。
「爺さまたちは、お嬢さまのために来た者たちですから」
エリザは目を閉じた。
「書き付けは」
「頭の懐に、一枚」
「そう」
しばらく、エリザは何も言わない。
あの書き付けは、自分の手で書いた。霧の窪地の地図も、自分の手で描いた。等高の線も、縄の印も、余白の刻限も。
描くとき、絵図の流儀は借りた。公爵家に刃の噂のある者の流儀を、そのまま真似た。疑いがどこかへ向くなら、刃を握っていると噂される者の方がいい。
だが、字だけは崩せなかった。
崩そうとして、ペンが動かなかったのだ。線の終わりを止めようとすると、指が勝手に浮いて細く抜けていく。十の年から毎日引いてきた線だった。
「お嬢さま」
「もう行って。今日は、誰にも会わなかったことにして」
番頭は一礼し、裏口から出ていった。
◇◆◇
夜、写本所には誰もいなかった。
エリザは一本の蝋燭を灯し、窓際の机に新しい羊皮紙を広げる。ノインに頼まれた、娘のための物語だ。灯りの下で読んでやれるような、短い話。
ペンを墨壺に浸す。
書き出しが、浮かばなかった。
灯りの下で読む物語。そう言われた時、思い出したのは、西の家の狭い寝室だった。窓の外で風が鳴るたびに、弟は毛布を頭まで被って震えていた。夜の怖い子。灯りを消すと泣くので、エリザはいつも蝋燭の下で物語を読んで聞かせた。
リュカ。光、という意味の名だ。
読み聞かせるうちに、本の話だけでは足りなくなった。勇ましい騎士の話、賢い狐の話、星を拾いに行く子供の話。自分で作った話を、弟は目を丸くして聞いた。続きは、とせがまれるたびに、また一つ話を作った。
作家になったのは、あの寝室からだ。
リュカは九つの春に、ミディ様の館へ小姓に上がった。従士の家の末の子として、主君の館で行儀を覚えるために。泣かなかった。姉さま、もう灯りがなくても眠れるよ、と言って笑ったのだ。
その館が、燃えた。
焼け跡のどこにも、リュカはいなかった。骸の中にも。生きているのか、死んでいるのか、誰も知らない。知っているとしたら、あの夜あの館に入った者たちだけだ。
国の総意で、根を切った騎士たち。その中に、今は聖都で銀の獅子と呼ばれている男がいる。千年の都を銭で保った英雄。勝つほどに名を上げ、取り立てに行けば家を一つ救ったと讃えられる。
ノインは、その名前さえ覚えていない。
この人は、すぐに忘れられる人だ。憎しみも、敵愾心も。だから、優しい。だから、才能のある者を拾える。
エリザには、忘れられなかった。
ペン先が、羊皮紙の上に落ちる。
書いたのは、物語の書き出しではなかった。三つの文字。リ、ュ、カ。最後の縦の線を、撥ねずに細く抜く。
蝋燭の火が揺れた。
エリザは小刀を取り、書いたばかりの名を削った。羊皮紙の表を薄く剥ぐように、一文字ずつ。誤字を消す時と同じ手つきで、何度も、何度も。
削り終えると、そこには何も残っていなかった。ただ、紙の肌が少しだけ薄く、白く透けている。
焼き印を削られた馬の尻のように、と、どこかで思った。何があったのかは分からないように削ってある。だが、削った跡だけは、消えない。
エリザは、もう一度ペンを墨に浸した。
削った跡の上に、物語の最初の一行を書く。
むかし、夜を怖がる小さな男の子がいました。
縦の線の終わりを、細く抜いた。




