壁、血を吸う
夜明けの霧が、平野に低く這っていた。
その白い底から、三日月の弓騎兵が湧いてくる。
数千騎。鞍の上で短弓を構え、まっすぐ東の城壁へ駆けてくる。狙いは烏合の巡礼ではない。人垣の間に点々と立つ鉄の背骨──竜殺しの槍の、光る甲冑だけを射抜くために。
だが、その霧を城壁の上から睨む二対の目と耳だけは、"ただの霧ではない"ことに気づいていた。
「……妙だ」
アブドゥルが低く呟いた。目を凝らすほど、迫る騎影の輪郭が霧に溶けていく。数えようとすると、視線がするりと逸れた。
「この冷え込みで、この時刻に、これほどの霧は立たない。あれは生み出された霧。騎兵に術者が混じって乗って……霧を厚く見せ、こちらの目を騎影から逸らして、狙いをつけさせぬ気です」
「変異術か」
城壁の上でロズヴェータも目を凝らす。確かに、迫るはずの騎影の輪郭が霧に溶けていく。
「ええ。捉えようとすれば逸れ、狙おうとすればそこにいない。あの弓騎兵のいちばんの牙は、弓ではなく、この幻影です」
ルルの長い耳がぴんと立った。白い横顔が強張る。
「……いる。馬蹄の音に混じって、あの肌のぞわつく気配」
せわしなく視線を走らせ、その姿を見極めようとする。
「数は多くない。だが幾人か、一隊ずつに一人、あの霧を束ねている。ひと握りの術者を、この一戦に惜しみなく注いできたのでしょう」
姿を眩ましたまま、狙った的だけを射抜いて、また霧へ帰る幻の騎兵。──だが。
ロズヴェータは、その二人の目と耳を頼りに頷いた。
「見える目と、聞こえる耳が、こっちにもある。なら、その幻も捉えられる」
首狩りの絵図の通りだった。
だがその絵図には、ロズヴェータがひと晩かけて書き足した一行があった。
昨夜のうちに、東壁の背骨は姿を変えていた。
ジキスムントの本物の重装騎士たちは、光る甲冑を脱ぎ、泥を塗り、擦り切れた外套を被って痩せた巡礼の中へ溶けていた。芯はそこに在る。だがもう光っていない。どこに刺さっているか、外からは見えない。
代わりに、人垣の上に背骨が立っていた。
戦場から拾い集めた古甲冑を着せられた痩せた巡礼たち。あるいは藁と木の枝で組んだ人の形。朝日を弾いて、いかにも鉄の芯らしく光る、偽の背骨だった。
その偽の芯のいちばん高い一本に、痩せた説教師が立っていた。
ベルトルド。
変異術に捕まり、心を異教徒に弄ばれ、信徒を失ったあの男だ。錆びた胸当てを着け、十字を高く掲げて、しわがれた声を限りに張り上げている。
「来い、異教徒! ここに聖都の背骨があるぞ! 神の兵の要が、ここに立っている! 射てみよ! 我が信仰の火は消えぬぞ!」
ロズヴェータは、それを止めなかった。
昨夜この役を買って出たのは、ベルトルド自身であり、犠牲と知りつつロズヴェータは、受け入れたのだ。
「魂を値切った商人に、一つ貸しがある」
痩せた修道士は乾いた目で言った。
「壁を割りかけたこの身だ。今度は壁を守って死ぬ。それでこそ、神への信仰が完成する」
ロズヴェータはその申し出を、汚い手で受け取った。
人を拾う男は、時に拾った人を囮に立たせる。それを、死ぬと承知で送り出す。ベルトルドの他にも、鎧を着て立つのは、信仰の道に背いた者達。このまま生きてはいけぬ、命をかけた禊が必要な者達だ。
「弓騎兵が来たぞ」
ルルの耳が馬蹄を捉える。だが姿はぼやけたまま。どこから射てくるのか、分からない。
「弓を、引く音」
ルルは言葉少なに状況を報せるが、こちらは黙って待つしかない。
鞍上から無数の短弓が、きりきりと引き絞られる。
「──来る」
ルルが鋭い視線を霧へ向けた。
城壁の胸壁の陰で、地図の東を睨み続けたアブドゥルの目が、今は迫る騎兵の鞍の傾きを読んでいる。
「あの方の弓は光る甲冑を狙う。偽の芯へ矢を集める。放たせなさい。一斉射の、その後が勝負です」
朝の空気を裂いて、矢の雨が降った。
それは正確だった。恐ろしく正確だった。首狩りの弓騎兵は命じられた通り、光る甲冑だけを狙い、烏合の巡礼には一本も当てなかった。
偽の背骨が射抜かれていく。
藁の人形が崩れる。甲冑を着せられた巡礼が貫かれ、石の上へ倒れる。そしていちばん高い一本、ベルトルドの錆びた胸当てにも、三本、四本と矢が突き立った。
痩せた修道士は、十字架を掲げたまま膝を折った。
だが倒れるその刹那まで、彼は叫んでいた。
「見たか……! 神の兵は……ここに……立って、いるぞ……! 神よ、ご照覧あれ!」
錆びた胸当ての下で、本物の心臓が止まる。
ロズヴェータは奥歯を噛んだ。
「ああ、見たとも! ルル、アブドゥル!」
声をかけられた二人が、同時に頷く。
拾った者を囮に立て、その死を勝ち筋に使う。それは峠の向こうの、あの首狩りのやり口ではなかったか。
だが、その苦さを彼は呑み下した。
いかに霧に紛れても、矢を射た直後だけはその姿が露れる。一人で部隊全体を覆い隠す霧隠れの変異術は、エルフィナスで卓越と謳われる使い手であっても、放った瞬間の露出だけは避けられない。それがこの術の弱点だった。
一斉射が終わった。
弓騎兵が戦果を確かめるため、ほんの数歩、間合いを詰め、すぐに馬首を返そうとした、その瞬間。
アブドゥルの目が開く。ルルの長い耳がぴんと立つ。
「今だ!」
敵を捉えたルルの声が響く。同時、ロズヴェータの声が朝を裂いた。
「──ナヴィータ! ルルの声に合わせろ!」
城壁の狭間から、伏せていた三頭獣の弓がいっせいに身を起こす。ロズヴェータ自身も城壁の上で弓を構えた。
「左っ! 三つ目の、霧の濃いとこ! そこに騎兵がいる!」
ルルの耳が、変異術の霧の裏の騎影を指さす。ナヴィータの矢がその"何もない霧"へ吸い込まれ、短い悲鳴とともに一騎が崩れた。眩ましの術も、聞き分ける耳の前では意味を成さない。先頭を切ったその一射が、間合いを詰めた弓騎兵の勢いを鈍らせた。
そして、泥を塗って人垣に溶けていた本物の背骨が、立ち上がった。
「竜殺しの槍ぃ! 放てぇ!」
ジキスムントの腹の底からの咆哮。外套をかなぐり捨てた重装騎士たちが、隠していた投げ槍を、人垣の隙間から、姿の見えた弓騎兵の無防備な脇腹へ打ち込んだ。
だが真に弓騎兵を呑んだのは、鉄ではなかった。
「異教徒が来たぞ! 聖墳墓を穢しに来た者どもが、すぐそこにいる! ベルトルド様の仇だ! 神が御覧になっている! そう在れかし!!」
説教師たちの声が爆発した。
偽の背骨を射抜かれ、囮の修道士を殺された十万の狂信。擦り切れた飢えの底で燻っていた憎しみが、いま掴んで煽られ、目の前の、間合いを詰めた弓騎兵へ雪崩れた。
鍬が、へし折れた鎌が、木の枝が。ただ立っているはずだった十万の痩せた手が、いっせいに土嚢の壁を乗り越えていく。
本来なら逃げ切れるだけの間合いを取ったはずの弓騎兵。だが、そこへあまりに正確な矢の反撃。逃げる馬の脚を、鼻先をかすめるほどの正確さで射られ、逃げ足が僅かに鈍る。
弓は近間では槍に勝てない。まして、際限なく湧く狂った人の波には。詰め寄った弓騎兵の一隊が、鉄の芯と人の海の両方に呑まれて、消えた。
人の城壁は初めて、血を吸った。
味方の血と、敵の血の、両方を。
◇◆◇
遠く、三日月の本陣で。
イブラヒムは、その一部始終を静かに見ていた。
あの弓騎兵は、首狩りの重要な札だった。
三日月の騎射に変異術を組み合わせる。術者を鞍に乗せ、霧を編み、敵の目を眩ませ、姿を消したまま狙った的だけを射抜いて、また霧へ帰る。捉えようとすれば視線が逸れ、狙おうとすればそこにいない。幾多の戦場で、この幻の騎兵を破った者はただの一人もいなかった。弓と術、二つの牙を一頭の馬に乗せた会心の一隊。長い歳月をかけて鍛え上げたその牙こそが、首狩りの首狩りたる所以だった。
その自慢の一隊が、烏合の海に呑まれて消えていく。芯を抜いたはずが、抜いたのは藁と囮の偽の芯。本物の芯は泥に隠れ、肉は逃げるどころか牙を剥いた。
「……やられた、な」
白皙の面に、苦い笑みが浮かぶ。
「光る甲冑を狙えと命じた、その命令ごと裏返された。敵の指揮官は、私の"正確さ"を読んでいたな。正確な弓ほど、狙わされた的をきれいに射抜く」
白皙の面から、その笑みが消えた。
「そして霧の眩ましも破られた。あの城には、私の術を読む負けを知った臣の目と、気配を聞き分ける耳長の耳が揃っている。私のいちばんの牙の眩ましが、通じぬ相手がいるというわけだ」
傍らの将が青ざめ、次の手を問う。
イブラヒムはしばらく答えず、やがて静かに首を振った。
「小細工は仕舞いだ」
その声から、楽しげな色が消えていた。
「囁きも抜き討ちも、あの城には読む目と返す手が揃っている。ならばもう、絵図で勝とうとは思わぬ」
常の兵法なら、ここは退き時だった。
仕掛けた奇手は破られた。雪解け後の峠は狭い。無理に攻めれば、こちらも少なからぬ血を流す。軍を峠の向こうへ引き、態勢を立て直す。それが将としての正しい計算だ。
だが、イブラヒムは退けなかった。
一度この都を捨てて退いた。その一事で本国の主戦派の太守どもは、彼を"負けた将"と呼び、その首を狙っている。二度目の撤退はない。峠を引き返した瞬間、彼を待つのは敵の刃ではなく、味方が用意した首斬りの綱だ。
退けば、戦の前に政治に殺される。少なくとも、聖都を取り戻す機会は二度とない。
ならば、と首狩りは思う。退く代わりに、"抗議"を選ぶ。
彼は聖都へ一騎の使者を立てさせた。白旗ではない。抗議と、要求の使者だ。
「采配を執る者へ伝えよ。飢えた巡礼を囮に立て、その骸で我が弓を釣った。神を戴く軍のすることか。武の名において、これに抗議する。そして要求する。都を明け渡せ。さもなくば、その十万の盾もろとも城壁を削り潰す、と」
抗議とは弱者のものではない。
退けぬ者が"退かぬ"と天下に示すための、いちばん強気の旗だった。"負けた将"ではない、"譲らぬ将"だと本国の太守どもへ見せつける、政治の一手でもあった。
彼は峠から続く自軍の鉄の列を見渡した。攻城塔。重騎兵。数で圧す、本物の軍を。
「攻城塔を前へ。全軍であの壁を削り潰す。読まれても返されても構わぬ。十万の烏合と、数えるほどの芯で、我が全軍の重みを幾日支えられるか。……見せてもらおう」
小細工の季節が終わった。
鉄と数で押し潰す、本当の攻城戦が始まろうとしていた。
◇◆◇
東壁の上に、朝日が満ちた。
石畳は味方と敵の血で黒く濡れている。倒れた偽の背骨。射抜かれた巡礼。そして十字を掲げたまま事切れた、痩せた修道士。
ロズヴェータはベルトルドの骸の傍らに片膝をついた。錆びた胸当てから、矢を一本、静かに抜いてやる。
「……壁は守ったぞ、修道士」
誰にも届かぬ声だった。血と泥と、朝の冷気の匂いが鼻をつく。
「隊長」
ユーグが静かに傍らに立った。
「今日は凌ぎました。……ですが」
「ああ」
ロズヴェータは立ち上がり、東を見た。
霧の晴れた平野に、三日月の攻城塔がゆっくりと動き始めている。今日の弓騎兵など、その巨大な影の前では斥候のひと駆けにすぎなかった。
小細工の応酬は終わった。ここから先は絵図では勝てない。数と、鉄と、意地の削り合いだ。
拾った十万は盾になった。倉を開かせ、囮になり、牙も剥いた。だがその盾が、あの鉄の重みを幾日支えられるか。支えきれず崩れた時、いちばん先に潰れるのは、その盾になった者たちだ。
薄氷の上の指揮は、続く。
崩れた硝子窓の向こう、東の空で、満ちた月が白々と朝の光に溶けかけていた。
ここからが、本当の冬の賭けの正念場だった。




