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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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177/219

三日月の囁き

 人の壁は、二日平穏を保った。

 三日目の夜に、それは始まった。

 東の城壁の上で、一人の巡礼が、突然、白目を剥いて、倒れた。痙攣し、口から泡を吹き、そして──かっと目を見開いて、叫んだ。

「聖墳墓が、聖墳墓が、血に、沈んでいる! 異教徒ではない、我らの、王侯どもの手で! 神は、仰せだ──壁を、捨てよ! 今すぐ、聖地へ、行け! 拝む前に守れなどと、あれは、悪魔の囁きだ!」

 男は、そのまま、事切れた。

 だが、その言葉は、死ななかった。

 凍てた城壁を、囁きが、走る。──御告げを見た者がいる。壁は、罠だ。王侯は、我らを東で死なせて、聖地を独り占めする気だ。

 一夜のうちに、同じ夢を見た、と言う者が、十、百、千と、増えていった。誰も彼もが、同じ光景を見たと言う。聖墳墓が血に沈む、その夢を。──飢えと、寒さと、疲れで擦り切れた心に、それは、あまりにも、よく効いた。


◇◆◇


 ロズヴェータが天幕へ戻ると、アブドゥルが、地図の前で、待っていた。

 獣脂蝋燭の灯りに、その顔は、蒼く沈んでいる。

「始まりましたね」

「同じ夢を、千人が見た。──こんなことが、あるか」

「あります。私が、その手で、やった側ですので」

 アブドゥルの声は、乾いていた。

「変異術《アル・ハタル》。人の内側に働きかける、帝国の術です。──一から幻を見せるのではありません。すでに心にある、いちばん熱いものを掴んで、煽る。飢えた巡礼の、いちばん熱いもの。それは、聖墳墓への渇きだ。そこへ、術者が一人紛れ込んで、"見た"と叫べば……あとは、群れが勝手に、同じ夢を、見始める。信じたい者に、信じる理由を、ひと匙、垂らすだけでいい」

「首狩りの、手か」

「間違いなく。──あの方は、こう仰った。人の壁は、人の心で崩す、と。今、この壁の中に、術者が幾人か、巡礼の顔をして、紛れ込んでいます」

「待て」

 口を挟んだのは、ロズヴェータでは、なかった。

 三頭獣の分隊長、"兎"のルル。白磁の肌の、耳長族の女だ。天幕の隅で、長い耳を、ぴん、と立て、白い横顔を、強張らせている。

「変異術。よく知っている」

 掠れた、自嘲まじりの声だった。

 ルルの、白い睫毛が、伏せられる。

「隊長、今、こう思ってるだろう? ──そんな術、自分には効かない。自分の頭は、自分のものだ、って」

 ロズヴェータは、答えなかった。図星を突かれたのと、アブドゥルの言葉を疑う気持ちが半分ずつだ。

「では」

 アブドゥルが、静かに言った。

「言葉で聞くより、その方が、早い。──お目に、かけましょう。ご安心を。今日は、"見せる"だけです」

 その暗い瞳が、す、と凪ぐ。卓越したその使い手は、帝国でもごく少数しかない。そしてアブドゥルの自信が、かつて帝国でひと握りの、その卓越した術者であったことを、ロズヴェータは、この時、知った。

「ロズヴェータ殿。頭の中に、ひとつ、欲しいものを思い浮かべてください。何でもいい。──渇いた喉の、一杯の水でも」

 ロズヴェータは、迷って、頷いた。

 アブドゥルの声が、半音、低くなる。三日月の言葉で、低く、途切れがちに、何かを唱え始めた。祈りにも、子守唄にも、似た響きだった。

 最初は、何も、起きなかった。

 だが──ふいに、ロズヴェータの喉が、鳴った。

 渇いている。焼けるように。卓の隅の、冷めた白湯の椀が、急に、この世でいちばん大切なものに、見えた。手が、無意識に、伸びかけて──。

 ──ロズヴェータは、奥歯を、噛んだ。

 ──違う。俺は、渇いてなど、いない。

 その衝動を、ぐ、と押さえ込む。いつのまにか、額に、汗が滲んでいた。

「……なるほど」

 乾いた声で、彼は言った。伸ばしかけた手を、握り込む。

「渇いてもいない喉を、渇かせたな。ありもしない渇きを、俺の中から掴み出して、膨らませた」

「よく、堪えられました」

 アブドゥルが、唱えるのを、止める。喉の渇きが、す、と引いていった。

「意志の強いあなただから、堪えられた。──ですが、あの城壁の巡礼たちは。三月(みつき)飢えて、凍えて、心の擦り切れた者たちは……」

「堪えられない、か」

「渇きが、ただの水なら、まだ、マシ」

 ルルが、低く、継いだ。

「卓越した術者が掴むのは、いちばん深いところ。飢えた信徒の、いちばん熱い"聖地への渇き"。もともと本人の中に在るものだから、"自分の考え"と、見分けが、つかない。──だから、暴くのが、難しい」

 ルルの、長い耳が、ぴくり、と動いた。

「けど、術者は、そう遠くからは掛けられない。囁くには、声の届く間合いが要るはず。唱えている間の、あの、肌のぞわつく気配。──私の耳なら、人混みの中でも、拾えるかもしれない」

 ロズヴェータは、卓を、拳で、軽く叩いた。

「炙り出せるか」

「顔は、分かります」

 アブドゥルの暗い瞳が、上がった。

「私は、あの者たちと、かつて同じ釜の飯を食った。卓越した変異術《アル・ハタル》の使い手は、帝国でも、ひと握り。その顔も、癖も、覚えている。──ただ」

「ただ?」

「間に合うかどうかは、別の話です。垂らされた毒は、もう、回り始めている」


◇◆◇


 夜明け前、東の壁の一角が、崩れた。

 敵に、ではない。──内側へ、だ。

 修道士ベルトルドが、動いた。同じ夢を見たと叫ぶ数千の巡礼を率いて、持ち場を捨て、城の内門へ、聖墳墓へと、うねり始めたのだ。

「御告げだ! 神が、我らに、聖地を取り戻せと仰せだ! 壁を守れと言う者は、神の敵だ!」

 痩せた修道士の、爛々と燃える目には、もう、迷いはなかった。

 人垣に空いた、その穴の、すぐ向こうには、雪の融けかけた、東の峠がある。首狩りの軍が、手ぐすね引いて待っている。

 壁が、内から割れれば、そこに、穴が開く。首狩りが、ひと月、待っていた穴が。

「──来やがったな」

 ジキスムントの、竜殺しの槍が、崩れかけた一角へ、鉄の壁を寄せる。だが、団長の顔は、苦い。

「ロズヴェータ殿、俺の槍は、外から来る敵は、止められる。だが、内から溢れる味方は──刃を向けりゃ、それこそ、あの首狩りの、思う壺だぞ」

「分かってる」

 ロズヴェータは、馬を、うねる群れの、正面へ、進めた。

 凍てた石畳を、蹄が硬く打つ。彼は、刃を抜かなかった。抜けば、負けだ。

「ベルトルド!」

 名を呼ぶ。修道士が、杖を振り上げて、振り返った。

「退け、簒奪者! 神が、道を、お開きになった!」

「その神の御告げは──」

 ロズヴェータの声が、朝の凍気を、裂いた。

「どこから、来た?」


◇◆◇


 その時、アブドゥルと、"兎"のルルが、群れの中へ、静かに、分け入っていた。

 誰も、その痩せた壮年と、フードを目深に被った女を、気に留めない。巡礼の、二人連れにしか見えない。だが、ルルの長い耳は、うねる人混みの底から、ある一つの気配を、探り当てようとしていた。

 やがて、その足が、止まる。

「……そこ」

 ルルが、囁いた。白い指が、群れの中の一点を、さす。

「肌が、ぞわつく。──今も、"唱えて"やがる」

 アブドゥルの暗い瞳が、その先へ、滑る。最初の御告げを叫んだ男の、すぐそばにいた、目立たぬ巡礼。その顔を、記憶と、照らし合わせて──暗い瞳が、す、と、細くなった。

「……間違いない。あの男だ」

 アブドゥルは、三日月の言葉で、低く、囁いた。かつて、同じ主に仕えた者にしか分からぬ、術者どうしの、符牒を。

 その"巡礼"の肩が、びくり、と跳ねた。

 ──反応した。異教の巡礼が、三日月の符牒に。

「見つけたァ」

 アブドゥルの暗褐色の瞳が、狩人のように光る。

「ひぃ、ア、アブドゥル!?」

 相手アブドゥルを認識し、懐に隠した刃を手を逃そうとした瞬間、ルルがその腕を叩き落とす。苦痛に呻く男の腕を、アブドゥルが掴む。男が、逃げようと、身をよじった、その袖が、めくれ──手首に、刻印。三日月帝国(エルフィナス)の刻印が、朝の光に、晒された。

「ロズヴェータ殿! これだ!」

 ロズヴェータは、その男を、群れの真ん中へ、引きずり出させた。そして、うねる数千へ向けて、腹の底から、叫んだ。

「見ろ! お前たちに"壁を捨てろ"と夢を見せたのは、この男だ! 三日月の、刻印を持つ──首狩りの、術者だ!」

 群れが、どよめいた。

「考えてもみろ! 異教徒が、なぜ、お前たちに、聖地へ行けと囁く!? 答えは、一つだ。お前たちを壁から、どかせたいからだ! この壁が割れれば、あの峠から、異教徒が、なだれ込む! お前たちは今、千里を歩いて討ちに来た、その相手のために──自分の手で、聖地の門を、開けかけていた!」

 沈黙。

 そして──怒号が、爆発した。

 だが、その怒りは、もう、ロズヴェータへは、向かなかった。

 飢えた狂信の、いちばん熱いもの。異教徒への、憎しみ。それが、掴んで煽られ、内へ向けられていた熱が、いま、元の向きへ──三日月の刻印を持つ、その男へ、雪崩れた。

 術者は、群れに、呑まれた。悲鳴は、長くは、続かなかった。


◇◆◇


 ベルトルドだけが、その場に、立ち尽くしていた。

 自分が見た御告げが、聖なる幻ではなく、いちばん憎むべき異教徒の、垂らした毒だった。その事実が、痩せた修道士の、燃える目から、火を、奪っていく。

「……私は」

 掠れた声だった。

「私は、神の声を……聞いたのだ。確かに……聞いた……」

「聞いたんだろう」

 ロズヴェータは、静かに言った。斬り捨てなかった。

「あんたの信仰は、本物だ。だからこそ、掴まれた。──本物の渇きほど、毒を混ぜやすいものはない。あんたが偽物なら、術は、効かなかった」

 ベルトルドは、膝を、折った。杖が、凍った石に、乾いた音を立てて、転がる。

 残った巡礼たちは、もう、その背に、御告げを、見なかった。憑き物の落ちた預言者は、ただの、痩せて、飢えた、老いた修道士に、戻っていた。

 火種は、燃え上がる前に──毒の出所ごと、暴かれた。

 だが、ロズヴェータは、勝ったとは、思わなかった。

「アブドゥル。術者は、あと何人だ」

「分かりません。──それが、いちばん、まずい」

 アブドゥルの声が、低い。

「今日、暴けたのは、私が顔を知る者だったからだ。あの方が、それを、知らぬはずがない。──私に読める駒を、わざと囮に混ぜ、私に読めぬ駒を、まだ、どこかに、残している。今日のは、小手調べだ」

 ロズヴェータは、東の峠を、見た。

 拾った十万は、盾になった。だが、その盾は、内側から、囁き一つで、崩れかける。今日は、辛うじて、囁きを、暴いた。次は、暴けるとは、限らない。


◇◆◇


 同じ頃、東の峠の向こう。

 イブラヒムは、戻らぬ間者を、幾日も、待っていた。

 やがて、報せが来る。──城内へ放った術者の一人が、群衆に、引き裂かれた。壁は、割れなかった。囁きは、暴かれた、と。

「暴かれた、か」

 首狩りの、怜悧な目が、細くなる。

 変異術は、影の術だ。垂らした毒が、毒と、露見してはならない。それが、露見した。──ということは。

「あの城に、術を読む目が、ある」

 彼は、静かに、呟いた。西の空へ。

「アブドゥル。お前か。──朽ちるはずだったお前が、拾われて、今度は、私の手を、読む窓に、なったか」

 苦い笑みが、白皙の面に、浮かんで、消えた。

 人の心を、内から崩す手は、読まれた。読む目が、あるうちは、囁きは、効かぬ。

 ならば。

 イブラヒムは、幕の外へ、目をやった。峠の雪は、日ごとに、痩せている。谷を流れる雪解け水の音が、遠く、聞こえ始めていた。──その年の雪解けは、例年になく、早かった。ひと月と踏まれていた暦は、思わぬ暖気に、半月も、繰り上がっている。首狩りにとっては、天の、恵みだった。

「囁きは、仕舞いだ」

 首狩りは、傍らの将へ、命じた。

「攻城塔の、支度を、急がせろ。──読む目のある城壁は、心では、崩れん。ならば、次は」

 鉄で、崩す。

 崩れた硝子窓の向こう、東の空で、月が、また一日分、肥えている。

 雪解けまで、あと、幾日。

 囁きの季節が、終わり、鉄と血の季節が、来ようとしていた。


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