三日月の囁き
人の壁は、二日平穏を保った。
三日目の夜に、それは始まった。
東の城壁の上で、一人の巡礼が、突然、白目を剥いて、倒れた。痙攣し、口から泡を吹き、そして──かっと目を見開いて、叫んだ。
「聖墳墓が、聖墳墓が、血に、沈んでいる! 異教徒ではない、我らの、王侯どもの手で! 神は、仰せだ──壁を、捨てよ! 今すぐ、聖地へ、行け! 拝む前に守れなどと、あれは、悪魔の囁きだ!」
男は、そのまま、事切れた。
だが、その言葉は、死ななかった。
凍てた城壁を、囁きが、走る。──御告げを見た者がいる。壁は、罠だ。王侯は、我らを東で死なせて、聖地を独り占めする気だ。
一夜のうちに、同じ夢を見た、と言う者が、十、百、千と、増えていった。誰も彼もが、同じ光景を見たと言う。聖墳墓が血に沈む、その夢を。──飢えと、寒さと、疲れで擦り切れた心に、それは、あまりにも、よく効いた。
◇◆◇
ロズヴェータが天幕へ戻ると、アブドゥルが、地図の前で、待っていた。
獣脂蝋燭の灯りに、その顔は、蒼く沈んでいる。
「始まりましたね」
「同じ夢を、千人が見た。──こんなことが、あるか」
「あります。私が、その手で、やった側ですので」
アブドゥルの声は、乾いていた。
「変異術。人の内側に働きかける、帝国の術です。──一から幻を見せるのではありません。すでに心にある、いちばん熱いものを掴んで、煽る。飢えた巡礼の、いちばん熱いもの。それは、聖墳墓への渇きだ。そこへ、術者が一人紛れ込んで、"見た"と叫べば……あとは、群れが勝手に、同じ夢を、見始める。信じたい者に、信じる理由を、ひと匙、垂らすだけでいい」
「首狩りの、手か」
「間違いなく。──あの方は、こう仰った。人の壁は、人の心で崩す、と。今、この壁の中に、術者が幾人か、巡礼の顔をして、紛れ込んでいます」
「待て」
口を挟んだのは、ロズヴェータでは、なかった。
三頭獣の分隊長、"兎"のルル。白磁の肌の、耳長族の女だ。天幕の隅で、長い耳を、ぴん、と立て、白い横顔を、強張らせている。
「変異術。よく知っている」
掠れた、自嘲まじりの声だった。
ルルの、白い睫毛が、伏せられる。
「隊長、今、こう思ってるだろう? ──そんな術、自分には効かない。自分の頭は、自分のものだ、って」
ロズヴェータは、答えなかった。図星を突かれたのと、アブドゥルの言葉を疑う気持ちが半分ずつだ。
「では」
アブドゥルが、静かに言った。
「言葉で聞くより、その方が、早い。──お目に、かけましょう。ご安心を。今日は、"見せる"だけです」
その暗い瞳が、す、と凪ぐ。卓越したその使い手は、帝国でもごく少数しかない。そしてアブドゥルの自信が、かつて帝国でひと握りの、その卓越した術者であったことを、ロズヴェータは、この時、知った。
「ロズヴェータ殿。頭の中に、ひとつ、欲しいものを思い浮かべてください。何でもいい。──渇いた喉の、一杯の水でも」
ロズヴェータは、迷って、頷いた。
アブドゥルの声が、半音、低くなる。三日月の言葉で、低く、途切れがちに、何かを唱え始めた。祈りにも、子守唄にも、似た響きだった。
最初は、何も、起きなかった。
だが──ふいに、ロズヴェータの喉が、鳴った。
渇いている。焼けるように。卓の隅の、冷めた白湯の椀が、急に、この世でいちばん大切なものに、見えた。手が、無意識に、伸びかけて──。
──ロズヴェータは、奥歯を、噛んだ。
──違う。俺は、渇いてなど、いない。
その衝動を、ぐ、と押さえ込む。いつのまにか、額に、汗が滲んでいた。
「……なるほど」
乾いた声で、彼は言った。伸ばしかけた手を、握り込む。
「渇いてもいない喉を、渇かせたな。ありもしない渇きを、俺の中から掴み出して、膨らませた」
「よく、堪えられました」
アブドゥルが、唱えるのを、止める。喉の渇きが、す、と引いていった。
「意志の強いあなただから、堪えられた。──ですが、あの城壁の巡礼たちは。三月飢えて、凍えて、心の擦り切れた者たちは……」
「堪えられない、か」
「渇きが、ただの水なら、まだ、マシ」
ルルが、低く、継いだ。
「卓越した術者が掴むのは、いちばん深いところ。飢えた信徒の、いちばん熱い"聖地への渇き"。もともと本人の中に在るものだから、"自分の考え"と、見分けが、つかない。──だから、暴くのが、難しい」
ルルの、長い耳が、ぴくり、と動いた。
「けど、術者は、そう遠くからは掛けられない。囁くには、声の届く間合いが要るはず。唱えている間の、あの、肌のぞわつく気配。──私の耳なら、人混みの中でも、拾えるかもしれない」
ロズヴェータは、卓を、拳で、軽く叩いた。
「炙り出せるか」
「顔は、分かります」
アブドゥルの暗い瞳が、上がった。
「私は、あの者たちと、かつて同じ釜の飯を食った。卓越した変異術の使い手は、帝国でも、ひと握り。その顔も、癖も、覚えている。──ただ」
「ただ?」
「間に合うかどうかは、別の話です。垂らされた毒は、もう、回り始めている」
◇◆◇
夜明け前、東の壁の一角が、崩れた。
敵に、ではない。──内側へ、だ。
修道士ベルトルドが、動いた。同じ夢を見たと叫ぶ数千の巡礼を率いて、持ち場を捨て、城の内門へ、聖墳墓へと、うねり始めたのだ。
「御告げだ! 神が、我らに、聖地を取り戻せと仰せだ! 壁を守れと言う者は、神の敵だ!」
痩せた修道士の、爛々と燃える目には、もう、迷いはなかった。
人垣に空いた、その穴の、すぐ向こうには、雪の融けかけた、東の峠がある。首狩りの軍が、手ぐすね引いて待っている。
壁が、内から割れれば、そこに、穴が開く。首狩りが、ひと月、待っていた穴が。
「──来やがったな」
ジキスムントの、竜殺しの槍が、崩れかけた一角へ、鉄の壁を寄せる。だが、団長の顔は、苦い。
「ロズヴェータ殿、俺の槍は、外から来る敵は、止められる。だが、内から溢れる味方は──刃を向けりゃ、それこそ、あの首狩りの、思う壺だぞ」
「分かってる」
ロズヴェータは、馬を、うねる群れの、正面へ、進めた。
凍てた石畳を、蹄が硬く打つ。彼は、刃を抜かなかった。抜けば、負けだ。
「ベルトルド!」
名を呼ぶ。修道士が、杖を振り上げて、振り返った。
「退け、簒奪者! 神が、道を、お開きになった!」
「その神の御告げは──」
ロズヴェータの声が、朝の凍気を、裂いた。
「どこから、来た?」
◇◆◇
その時、アブドゥルと、"兎"のルルが、群れの中へ、静かに、分け入っていた。
誰も、その痩せた壮年と、フードを目深に被った女を、気に留めない。巡礼の、二人連れにしか見えない。だが、ルルの長い耳は、うねる人混みの底から、ある一つの気配を、探り当てようとしていた。
やがて、その足が、止まる。
「……そこ」
ルルが、囁いた。白い指が、群れの中の一点を、さす。
「肌が、ぞわつく。──今も、"唱えて"やがる」
アブドゥルの暗い瞳が、その先へ、滑る。最初の御告げを叫んだ男の、すぐそばにいた、目立たぬ巡礼。その顔を、記憶と、照らし合わせて──暗い瞳が、す、と、細くなった。
「……間違いない。あの男だ」
アブドゥルは、三日月の言葉で、低く、囁いた。かつて、同じ主に仕えた者にしか分からぬ、術者どうしの、符牒を。
その"巡礼"の肩が、びくり、と跳ねた。
──反応した。異教の巡礼が、三日月の符牒に。
「見つけたァ」
アブドゥルの暗褐色の瞳が、狩人のように光る。
「ひぃ、ア、アブドゥル!?」
相手アブドゥルを認識し、懐に隠した刃を手を逃そうとした瞬間、ルルがその腕を叩き落とす。苦痛に呻く男の腕を、アブドゥルが掴む。男が、逃げようと、身をよじった、その袖が、めくれ──手首に、刻印。三日月帝国の刻印が、朝の光に、晒された。
「ロズヴェータ殿! これだ!」
ロズヴェータは、その男を、群れの真ん中へ、引きずり出させた。そして、うねる数千へ向けて、腹の底から、叫んだ。
「見ろ! お前たちに"壁を捨てろ"と夢を見せたのは、この男だ! 三日月の、刻印を持つ──首狩りの、術者だ!」
群れが、どよめいた。
「考えてもみろ! 異教徒が、なぜ、お前たちに、聖地へ行けと囁く!? 答えは、一つだ。お前たちを壁から、どかせたいからだ! この壁が割れれば、あの峠から、異教徒が、なだれ込む! お前たちは今、千里を歩いて討ちに来た、その相手のために──自分の手で、聖地の門を、開けかけていた!」
沈黙。
そして──怒号が、爆発した。
だが、その怒りは、もう、ロズヴェータへは、向かなかった。
飢えた狂信の、いちばん熱いもの。異教徒への、憎しみ。それが、掴んで煽られ、内へ向けられていた熱が、いま、元の向きへ──三日月の刻印を持つ、その男へ、雪崩れた。
術者は、群れに、呑まれた。悲鳴は、長くは、続かなかった。
◇◆◇
ベルトルドだけが、その場に、立ち尽くしていた。
自分が見た御告げが、聖なる幻ではなく、いちばん憎むべき異教徒の、垂らした毒だった。その事実が、痩せた修道士の、燃える目から、火を、奪っていく。
「……私は」
掠れた声だった。
「私は、神の声を……聞いたのだ。確かに……聞いた……」
「聞いたんだろう」
ロズヴェータは、静かに言った。斬り捨てなかった。
「あんたの信仰は、本物だ。だからこそ、掴まれた。──本物の渇きほど、毒を混ぜやすいものはない。あんたが偽物なら、術は、効かなかった」
ベルトルドは、膝を、折った。杖が、凍った石に、乾いた音を立てて、転がる。
残った巡礼たちは、もう、その背に、御告げを、見なかった。憑き物の落ちた預言者は、ただの、痩せて、飢えた、老いた修道士に、戻っていた。
火種は、燃え上がる前に──毒の出所ごと、暴かれた。
だが、ロズヴェータは、勝ったとは、思わなかった。
「アブドゥル。術者は、あと何人だ」
「分かりません。──それが、いちばん、まずい」
アブドゥルの声が、低い。
「今日、暴けたのは、私が顔を知る者だったからだ。あの方が、それを、知らぬはずがない。──私に読める駒を、わざと囮に混ぜ、私に読めぬ駒を、まだ、どこかに、残している。今日のは、小手調べだ」
ロズヴェータは、東の峠を、見た。
拾った十万は、盾になった。だが、その盾は、内側から、囁き一つで、崩れかける。今日は、辛うじて、囁きを、暴いた。次は、暴けるとは、限らない。
◇◆◇
同じ頃、東の峠の向こう。
イブラヒムは、戻らぬ間者を、幾日も、待っていた。
やがて、報せが来る。──城内へ放った術者の一人が、群衆に、引き裂かれた。壁は、割れなかった。囁きは、暴かれた、と。
「暴かれた、か」
首狩りの、怜悧な目が、細くなる。
変異術は、影の術だ。垂らした毒が、毒と、露見してはならない。それが、露見した。──ということは。
「あの城に、術を読む目が、ある」
彼は、静かに、呟いた。西の空へ。
「アブドゥル。お前か。──朽ちるはずだったお前が、拾われて、今度は、私の手を、読む窓に、なったか」
苦い笑みが、白皙の面に、浮かんで、消えた。
人の心を、内から崩す手は、読まれた。読む目が、あるうちは、囁きは、効かぬ。
ならば。
イブラヒムは、幕の外へ、目をやった。峠の雪は、日ごとに、痩せている。谷を流れる雪解け水の音が、遠く、聞こえ始めていた。──その年の雪解けは、例年になく、早かった。ひと月と踏まれていた暦は、思わぬ暖気に、半月も、繰り上がっている。首狩りにとっては、天の、恵みだった。
「囁きは、仕舞いだ」
首狩りは、傍らの将へ、命じた。
「攻城塔の、支度を、急がせろ。──読む目のある城壁は、心では、崩れん。ならば、次は」
鉄で、崩す。
崩れた硝子窓の向こう、東の空で、月が、また一日分、肥えている。
雪解けまで、あと、幾日。
囁きの季節が、終わり、鉄と血の季節が、来ようとしていた。




