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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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176/219

人の城壁

 壁は三日では成らなかった。

 十万を東の石へ並べるとは、十万の飢えと我と理屈を一つずつ捻じ伏せることだった。ロズヴェータはその数日で、それを嫌というほど思い知る。

 まず糧が足りなかった。

 ラスタッツァ一人の荷車では、十万の胃袋はとうてい満たせない。三頭獣《ドライアルドベスティエ》の財産を叩いて持ち込んだ屑麦は二日で底を見せ、聖都の穀物商たちは示し合わせたように蔵の口を閉ざした。

 飢えた都に十万が来た。糧の値は放っておいても天を突く。ならば売り惜しみ、吊り上げてから売ればいい。商人の算盤はどこまでも正しかった。

 ロズヴェータはその元締めを粥の窪地へ呼びつけた。

 穀物商のガルバ。脂の乗った顎を撫でる抜け目のない男だ。窪地の惨状を汚いものでも見るように眺め、値を吹っかけてきた。平時の五倍。

「それが嫌なら──」

 ガルバは笑った。

「──蔵は開きませんな。飢えた者に恵んでやる麦など、うちにはございません」

 せせら笑う男に、ロズヴェータは目を細めただけだった。

「言い値で払おう」

 静かな声に、ガルバの脂ぎった顔がほころぶ。

 護衛で近くにいた副官ユーグ、騎士ガーデル、筆頭分隊長ガッチェ、交渉の同席に呼ばれたメッシーらが、その一言に目を見開いた。

 ──払う金などない!

 喉まで出かかった悲鳴を、皆が辛うじて呑み込む。

「ただし払うのは、あんたの蔵が明日も無事だったらの話だ」

 その一言で、ガルバの笑みが凍った。

「外の十万は飢えている。俺の粥が薄くなれば堰は切れる。切れた波がまっすぐどこへ流れると思う? 閉じた蔵ほど飢えた目には旨そうに映るぞ。俺が守ってやれるのは粥に麦を出した蔵だけだ。売り惜しむのは勝手だが、その時はあんたの蔵の戸を十万の手が薪に剥ぐ。俺は止めない。止める銭を、あんたが出し惜しんだんだからな」

 脂の顔から、汗が一筋流れた。

 穀物商という生業は、各地の噂を仕入れて差額で食う。だから今この周りに満ちた飢えた十字教徒の群れが、道々どんな爪痕を残して進んできたかを、ガルバは誰より知っていた。

 ごくりと喉が鳴る。いやに大きいその音を気にする余裕もなく、視線だけが素早く周囲を這った。

 脅しではない。事実だった。飢えた洪水の前で、閉じた穀物蔵ほど無防備なものはない。そしてその手綱を、目の前の若造が握っている。

「……原価でお出ししましょう。ええ、喜んで」

「賢明だ」

 ロズヴェータは口の端で笑った。

「運び賃はそこの女商人が薄利で引き受ける。あんたは蔵を焼かれずに済む。それを儲けだと思え」

 荷車の陰で、ラスタッツァがひひ、と喉を鳴らした。

 糧の糸は繋がった。だが繋いだのは情でも銭でもない。飢えへの恐怖だった。

 もっとも原価とて、十万の腹は底なしだ。ガーデルの帳簿の残り数字は日ごとに痩せていく。あと数日、粥を薄めてしのげるか。凍った蔵の鍵を名代にこじ開けさせるより先に、こちらの財布が干上がるか。文字通りの綱渡りだった。


◇◆◇


 次に揉めたのは信仰だった。

 説教師のすべてが素直に東を向いたわけではない。

 三日目、城の内門へ向かって数千の巡礼がうねり始めた。先頭で杖を振り上げるのは痩せこけた修道士ベルトルド。爛々と燃える目で、しわがれた声を限りに張り上げている。

「我らは壁を守りに来たのではない! 聖墳墓に額づきに来たのだ! 千里を飢えて歩いた! なのに聖地の門は、なぜ我ら巡礼に閉ざされている!? 我らを壁の肉盾にして、貴族どもは聖地を独り占めする気か!」

 図星だった。半分は。

 十万を都の中へ入れれば、都はその日のうちに食い潰されて割れる。それこそこの波を流し込んだ者たちの狙いだ。だが飢えた信徒に正直へ言えば、暴動になる。

 ロズヴェータは内門の前へ馬を進めた。竜殺しの槍の鉄の列を背に、たった一騎で数千の狂信の前へ出る。凍てた石畳を蹄が硬く打った。

「聖墳墓はそこにある」

 彼は簡単な西方の言葉で、城の奥を指さして叫んだ。

「誰も隠しはしない。だが今、その聖墳墓にいちばん近い刃がどこにあると思う? お前たちの後ろじゃない。東だ! 雪が解ければあの峠を越えて、異教徒が聖墳墓を取り返しに来る! お前たちが今、内へなだれ込んで都を食い潰せば、春の来る前に聖地はまた三日月教のものだ!」

 うねりが止まった。

「巡礼の務めは二つある。聖地を拝むことと、聖地を守ること。今、神がお前たちに求めておられるのはどっちだ!」

 ざわめきが揺れる。だがベルトルドの燃える目だけは退かない。

「詭弁だ! 貴様は我らを駒に使う気だろう!」

「使う」

 ロズヴェータはあっさりと認めた。

「使わせろ。その代わり、壁を守った隊から順に、日に百人ずつ聖墳墓へ詣でさせる。俺の兵が護衛につく。額づいて祈って、また壁へ戻れ。拝んで守る。両方やらせてやる。それが嫌か?」

 群れが揺れた。

 千里を歩いた者のいちばんの望みは、聖墳墓に額づくことだ。その望みを"壁を守った褒美"に変える。大半の説教師と巡礼は、その取引に乗った。順に詣でられるなら壁も守る、と。

 ただ一人、ベルトルドだけが乗らなかった。

「……魂を値切る商人め」

 痩せた修道士は吐き捨てて退いた。だが目の底の火は消えていない。

 ロズヴェータはその背を見送った。

「ロズ。火は小火のうちに消した方がいい」

 副官ユーグが目を細め、腰の細剣の柄を叩いた。赤い瞳は燃えているのに、その光はどこまでも冷たい。

「いや、時間が惜しい。今は黄金より貴重だ。それにまだ、燃えてはいない」

「……獅子身中の虫という言葉もありますが」

 首を振るロズヴェータに、ユーグは頷いた。

「わかりました。ご用命があれば、いつでも」

 一つ、火種が残った。

 いずれあれは燃える。だが今日は燃やさずに済んだ。それで十分だった。


◇◆◇


 そして飢え以外の敵も湧いた。

 十万が狭い野にひしめけば、湧くものは決まっている。糞と汚れた水と、腐り始めた骸。四日目には腹を下す者、熱に浮かされて倒れる者が、あちこちに出始めた。饐えた臭気へ、今度は病の甘い腐臭が混じり出す。

 メッシーたち治療の者が駆け回る。

 だが医薬品が足りるはずもない。治る見込みのない者には、慈悲の刃が与えられた。十字教では自死を禁じているから、その刃は他人の手が引くしかない。

 ロズヴェータはアウローラの提言を容れ、病んだ者を風上の窪地へ隔て、汚れた水の井戸を埋めさせた。粥の列で刃傷沙汰に及んだ二人は、竜殺しの槍がその場で引きずり出す。順を破れば容赦はしない。優しさだけでは十万は飼えなかった。

 殴り、宥め、脅し、分け、埋めて。

 三日ではなく七日をかけて。

 ロズヴェータは十万を東の壁へ並べた。

 鍬を、へし折れた鎌を、木の枝を握った痩せた人垣。その間へ十人おきに、ジキスムントの重装騎士と諸隊の兵が鉄の芯のように立つ。統率のある芯が、烏合の肉を壁の形へ縫い止めた。

 黒い法衣の説教師たちの声も東を向いた。

 ──門を押すな! 壁を守れ! 聖地を穢す異教徒は、この東の壁のすぐ向こうにいるぞ! 守って死ぬ者に、天の門は開かれる!

 美しい壁ではなかった。痩せて病んで火種を孕み、いつ崩れてもおかしくない脆い人垣だ。痩せた体の放つ饐えた匂いと、押し殺した咳の連なりが、凍えた風に乗って壁の上を一筋に流れていく。

 だがそれは確かに、聖都の東の凍てた石を覆っていた。

 行き場を失っていた狂信は、向ける先を与えられた。痩せた手が槍を握り直し、落ち窪んだ目が東の峠を睨む。数日前まで城門を押し潰しかけていた圧が、今は城壁の外へまっすぐ向いていた。


◇◆◇


 名代ヴェルダーが東の城壁へ上がってきたのは、人垣が壁を覆い尽くしたその日だった。

 几帳面な白髪が、峠から吹き下ろす風に乱れる。乾いた横顔。彼は痩せた巡礼が槍を構えて並ぶ長い列を、端から端まで黙って歩いた。鉄靴が凍てた石をこつ、こつと鳴らす。

「……これを、貴殿が」

「食わせて並べただけです」

 ロズヴェータは隠さなかった。

「飢えた民に、鍬の代わりに槍を。門を押す代わりに、壁を守る理由を。あの者たちは今日から掠奪の烏合ではありません。聖都を東の首狩りから守る、守り手です」

「詭弁だ」

 ヴェルダーの声は乾いていた。

「あれは烏合だ。槍の構え方も知らぬ。まともな敵が来れば一日で崩れる」

「では、お尋ねします」

 ロズヴェータは東の峠を指した。雪の融けかけた白い稜線の向こうを。

「雪が解ければあの峠を越えて三日月帝国(エルフィナス)が来ます。その時この壁を守るのは誰です。給金が止まって飢え散った諸隊ですか。それとも腹を満たして槍を握った、この十万ですか」

 ヴェルダーは答えなかった。答えられなかった、と言うべきだ。

「都を守る兵に糧を出す。それは掠奪ですか。それとも籠城の、当然の備えですか」

 正しさの人の、その正しさを、ロズヴェータは正面から逆さに使った。

 徴発は掠奪だとヴェルダーは言い、蔵を凍らせた。だが都を守る守り手に糧を配るのは掠奪ではない。凍った蔵の鍵は、「守るため」というヴェルダー自身の正しさに押されて回る。

 峠の風が二人の間を低く吹き抜けていく。冷えた鉄と、雪の匂い。

「開いてやれよ、名代殿」

 声はヴェルダーの後ろから来た。普段は口を開くこともない王配ルセーブルだった。

「……これは、王配陛下」

 ヴェルダーとロズヴェータが同時に膝を折る。

「しかし」

「アルブレヒト・ヴェルダー卿」

 言い募ろうとしたヴェルダーに、ルセーブルが名を呼んでかぶせる。呼ばれれば、思わず返事が出た。

「はっ」

「王家として、遠く西から駆け付けた援軍に糧すら渡さぬのでは対面に傷がつく。要るならリオングラウス王国へ借款を申し込んでもよい。これは妻、女王マリネットも同意のことだ」

「……承知しました」

 長い沈黙のあと、名代は静かに口を開いた。

「東の壁の守備に就く者に限り、蔵を開く。掠奪ではなく正規の兵糧としてだ。帳簿は一文の狂いもなくつけよ。飢えを口実に私腹を肥やす者が一人でも出れば、その時こそ私は貴殿を罰する」

 そう決定を、ロズヴェータへ向き直って伝える。

「必ず」

「これは貴殿の勝ちではない」

 ヴェルダーは乾いた目で痩せた人垣を見渡した。

「都が春を越えるための、次善だ。私は今も、貴殿のやり方を正しいとは思わぬ」

「結構です」

 ロズヴェータは頭を垂れた。

「正しさはヴェルダー卿がお持ちください。俺は、都が春を越える算段を受け持ちます」

 凍った蔵の鍵が回った。正しさの倉が、人の海に押されて開いた瞬間だった。

「しかし、これが十字軍(クルセイダー)か」

 眼下の棄民の群れを見下ろして、ルセーブルがぽつりと言った。


◇◆◇


 同じ頃、東の峠の向こう側。

 三日月帝国(エルフィナス)西方総督イブラヒム・ヒディスハーン・アルヒリは、間者の報せを二度読み返していた。

 金糸の紋章旗を張った本営。火桶の熱に乾いた砂の匂いが混じる。雪の融けかけた峠の風が幕を低く鳴らし、舌の先へ鉄と雪の味を薄く置いていく。

 報せはこう記していた。──聖都の東壁に痩せた巡礼が十万並び始めた。鍬を槍に持ち替え、異教徒を討てと叫んでいる、と。

「……人の壁か」

 イブラヒムの怜悧な目が細くなった。

 彼はあの人の波を知っていた。西の宮廷の誰かが、聖都を内から腐らせるために流し込んだ飢えの洪水。腹を空かせた十万は城の糧を食い潰し、城を内から割る。そのはずだった。それが今、東の壁の上で槍を握っている。

「誰の手だ」

「……カミュー辺境伯の三男、名はロズヴェータ」

 その名を口にするのを躊躇うように、ユーシャルが言った。

「……なるほど」

 イブラヒムの口の端が、わずかに上がる。苦い、しかしどこか楽しげな笑みだった。

 人を拾い、人で網を張る男。朽ちるはずだった我が第一の臣アブドゥルを拾い、割れるはずだった城を拾った人で繋ぎ、今は腐らせるはずだった洪水すら拾って壁に変えた。

「面白い」

 だが、と首狩りは思う。

 あの十万は兵ではない。飢えた烏合だ。城壁に並べたところで槍の使い方も知らぬ。まともにぶつければ一日で崩れる。軍略の秤の上では、脅威ですらない。

 問題はそこではなかった。

 あの十万を養うため、聖都は凍った蔵を開けたはずだ。都の糧を十万分、余計に食う。雪解けまであとひと月。ひと月、十万の胃袋が聖都の腹を内から食い減らす。

 イブラヒムは城攻めの名手ではない。人を腐らせる名手だった。

「城とは石ではない。中に容れた人だ」

 彼は静かに呟いた。

「石の壁なら槌で崩す。だが人の壁は、槌では崩さぬ」

 人の壁は、人の心で崩す。

 十万の狂信。盾にもなるが、諸刃でもある。飢えと信仰と恐怖。その熱は向ける先をいつでも変えられる。今は東を向いているその熱を、こちらへ──否、城の内側へ向け変えてやればいい。

「アブドゥルよ」

 イブラヒムは東ならぬ西の空へ囁いた。かつての第一の臣が今いる、あの城壁の方へ。

「お前の拾い主は面白い盤を並べた。だが人を拾う男は、拾った人の数だけ弱みを抱える。その糸をひとつずつ抜いてやろう」

 彼は傍らに控えた、影のような数人へ目をやった。

 三日月の言葉も十字教の祈りも操る、変異術《アル・ハタル》の使い手たち。人の心の内側へ働きかける者たちだ。

「聖都へ行け。壁の中へ紛れ込め。あの十万の熱に、そっと毒を一滴垂らしてこい」

 雪の融けかけた峠を、数人の影が西へ越えていく。

 人の城壁を人の心から崩す、首狩りの最初の一手だった。


◇◆◇


 その夜、聖都の天幕でアブドゥルがふいに顔を上げた。

 獣脂蝋燭の炎が、その暗い瞳の中でちりと揺れる。地図の東を睨む横顔に、寒気に似たものが走っていた。

「ロズヴェータ殿。人の波を捌き切る手腕、お見事です。まさか曲がりなりにも成し遂げるとは」

 賛辞に熱はない。

「ですが、そろそろ来ます。あの方の手が」

 本題はそこなのだろう。ロズヴェータも頷くにとどめた。

「壁を攻めてくるか」

「いいえ」

 アブドゥルは首を振った。

「攻めては来ません。あの方は石の壁を槌で崩す将ではない。人の壁を人の心から崩す将です。おそらくもう、この城壁の中へ毒が垂らされ始めている頃だ」

 ロズヴェータの目が細くなった。

 拾った十万は盾になった。倉を開かせ、都を春まで繋ぐ確かな盾に。

 だが盾は、裏返せばこちらの喉を突く刃にもなる。人を拾って生きてきた男の、その拾った一人ひとりが、いつ内から腐り牙を剥くか。

「窓の役目だ、アブドゥル。あの男がどの糸から抜きに来るか。お前になら見えるか?」

「見えます」

 アブドゥルの暗い瞳の底で、負けを知る将の熱がまた灯った。

「なにしろ私自身が、あの方の"垂らした毒"でしたので」

 崩れた硝子窓の向こう、東の空で月がまた一日分肥えている。

 雪解けまであとひと月。誰もがそう数えていた。その暦がこれほど早く尽きるとは、まだ知らずに。

 その壁が外の刃で崩れるより先に、内側から腐り始めるかもしれなかった。


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