救う手
「……来ました」
斥候頭のグレイスが、告げたそれは、翌朝西の門にたどり着いた。
波の最初のひとしずくが城下に届いたのは、西の空がまだ白い冬の朝だった。
しかし波と呼ぶには、あまりに細い流れだった。
城壁の上から数えて、数百。
痩せこけ、泥にまみれ、裸足の者さえいる。杖を突き、子を負い、死人のような足取りで、ただ東を目指して歩いてくる。
──十数万と聞いていた群れの、これは、ほんの先触れにすぎなかった。
だが、その"細さ"が、かえってロズヴェータの眉を寄せた。
城壁の櫓の上から、彼は西の地平を睨めば、冷えた風が、饐えた匂いを運んでくる。
散っている。
西の波は、まっすぐ聖都へ絞られていたはずだった。両岸に堤を築いたように、一点へ。
──アブドゥルが、そう読んだ。それが今、城下に着いてみれば、幾筋にも枝分かれし、痩せ、途切れながら、ばらばらと辿り着いている。まるで、誰かが西の途中で、一本の急流を、わざと二十の細流に、割ってくれたかのように。
その手が、敵か味方か、ロズヴェータには分からない。
だが──おかげで、城下が一夜で人の壁に呑まれる最悪の事態だけは、避けられていた。ひと息に来たならば、城門は一日で押し潰されていた。細く分かれて来るからこそ、辛うじて捌ける形になっている。
「顔も知らぬ、西の誰かに、礼を言いたい気分だ」
ロズヴェータは、白い息とともに、そう呟いた。誰にも届かぬ独り言を、西に向けた零す。
◇◆◇
それでも数百が、日に幾度も届く。
城門の前は、たちまち地獄絵に変わった。
飢えて動けぬ者が門前で膝を折り、そのまま、起きない。母親が、動かなくなった子を抱いて、声もなく揺すっている。凍った泥の上に、糞と、吐瀉と、そして甘い乳香ならぬ、饐えた死の匂いが、薄く立ちこめ始めた。
黒い法衣の説教師だけが、しわがれた声を、なお限りに張り上げている。
──聖地は、目の前だ! 神が、我らを、迎えてくださる! 進め、進め!
その声に、痩せた群れが獣のように応え、城門へじりじりと押し寄せる。
だが城門は、開かなかった。
名代アルブレヒト・ヴェルダーは、櫓の上からそれを見下ろしていた。
几帳面な白髪。乾いた横顔。その手には、早くも一枚の書付が握られている。
「まず、名を記帳せよ」
ヴェルダーは、淡々と命じた。
「人数を数え、素性を検め、武具を持つ者と持たぬ者を分ける。糧の支給は、王都へ正規の軍費を申請の上、順を追って──」
「ヴェルダー卿」
傍らの官吏が、青ざめた顔で遮った。
「申請の返答を待てば、ふた月はかかります。その間に、あの者たちは、皆……」
「……餓えて死ぬ者は、神の御許へ行く」
ヴェルダーの声に、非情はなかった。むしろ、堪えるような、痛みがあった。
「私は、正しい手続きの外で、都の蔵を、開けはせぬ。一度それをやれば、この都はまた、掠奪の都に戻る。──十万を、正しからぬやり方で救えば、次の十万が、力ずくで、奪いに来る」
正しかった。
ぐうの音も出ぬほど、正しかった。
だが、その正しさは、門前の一人も今日、食わせはしない。
櫓の下では、押し寄せる群れと、それを押し返す門衛の楯とが、軋みを上げ始めていた。悲鳴が上がる。倒れた者が、後ろから来る者に、踏まれていく。
──正しさに閉ざされた門の前で、当然の帰結として人が死につつあった。
◇◆◇
ロズヴェータは、権を持っていない。
二万を差配する名分も、都の蔵を開ける鍵も、とうに王命で返上している。今の彼は、数ある騎士団の、ただ一つの長にすぎない。
だが彼の手には、まだ、あの網があった。
半月かけて結んだ、銭と情と恩の網。
「ユーグ」
彼は、動いた。
まだ雪の消えぬ、早朝に千数百になろうかという飢えた人の群れを見て、決断した。鋭い視線は、大きな賭けに打って出ると決めた時、覚悟を秘めたもの。見下ろす視線の先には、この世の地獄。
義憤に駆られたと言っていい。
この日、たどり着く人の群れを見る前ならば、ロズヴェータはこれらを敵として認識していただろう。だが、実際にその目で見て、倒れ伏す人々目にした彼は、腹の底から、ぐつぐつと煮え立つ感情を抑えきれなかった。
なぜ、目の前の子供らは死なねばならなかったのか。
なぜ、あの母親は、幼い我が子を失わねばならなくなったのか。
倒れた娘を庇う父親を、幾多の飢えた人の足が踏みつける。
伸ばした手は硬い城門に阻まれ、何者にも届かぬまま、力尽きて倒れ伏す老爺。
誰のせいで。何のために。
青臭い正義感、身分を弁えぬ越権、自身の能力をはき違えた大馬鹿者。
それら、自身に対する非難が一斉に頭の中を駆け巡り、だが、それでも──。
──それが、どうしたというのだ!
「くそっ!」
ギリリ、と奥歯が音を立てる。
「ロズヴェータ様?」
「ユーグ。俺は、どうしようもない馬鹿かもしれない」
「……」
無言の内にロズヴェータの視線を追うユーグは、ため息を吐いた。
「うちの会計方と、ラスタッツァを叩き起こせ。それから、この半月、俺が飯を食わせてやった隊の頭、片っ端から声をかけろ。──貸しを、返してもらう時だ!」
「名代の許しは」
「乞わん。乞えば、当たり前に止められる」
ロズヴェータの目は、もう門前の群れではなく、その捌き方を測っていた。
「都の蔵には頼らない! ヴェルダー卿の正しさは、どこまでも正しいのだろう。だが、俺は、我慢ができなくなってきた」
ロズヴェータの血を吐くような声に、ユーグは声を低めた。
「我が父ユバージルなら、甘いですな、と苦言を呈するところですね」
ロズヴェータの視線を受けて、ユーグはその傾国傾城の美貌を綻ばせた苦笑を浮かべる。
「……ですが、よろしいではないですか。ロズは、ノブネル様ではないですし、ましてやあのクソ親父でもありません。甘いと仰るなら、それを成し遂げて見せることこそ、臣下の務め。万事お任せを」
にやりと笑ったユーグが、足早に立ち去る。
三頭獣の従軍商人ラスタッツァが、雪の泥を撥ねて駆けつけたのは、半刻の後だった。冬の泥に沈む軍がある限り、泥を越える荷車の値は上がる──この女は、そういう冬に、いちばん儲かることを知っている。そして知っているなら、当然儲かるための算段を整えているはずだった。
「旦那ぁ、酷いよ。あの顔の良いだけのロクデナシが、寝所に剣をもって押しかけて来るんだよぉ」
泣き真似をしながら、訴えるラスタッツァだったが、ロズヴェータの視線を受けて泣き真似を止める。「で? ひひっ、旦那。人助けで、儲けさせてくれるって?」
「ああ! 安い麦を、量で入れろ。米も、豆も、屑でいい。腹の膨れる屑を、とにかく量だ。──お前が儲けていい。だが、今後のうちとの付き合いを考えるなら分かってるな?」
「おお、怖い。へへ、分かってるさ。商人の本分と、商機を見る目は確かだからねぇ。請求は?」
「うちの会計に回せ」
「あいよ」
僅かに驚愕の表情を見せた道化化粧の女商人は、そのまま背を向ける。
「ご領主様」
メッシーとメルヴを始めとした会計が次に到着する。
「……うちの金庫番に酷な命令かもしれんが、全て吐き出すつもりで金を使う」
ロズヴェータの言葉を受けて、会計士達が顔を見合わせる。
「これから、奴らを救う。この世の地獄から」
指し示す先には、飢えに苦しむ人の群れ。
◇◆◇
城壁の外、風下の窪地に、大釜が並んだ。
メッシーたち会計方が、屑麦と塩だけの、水のように薄い粥を、炊き始める。塩の匂いが、饐えた匂いに、一瞬だけ勝った。
全員は、救えない。
ロズヴェータは、それを、初めから分かっていた。十万を、一つの騎士団の銭で食わせ切ることなど、神でもできはしない。
だが、何もせずにはいられない。
全てを救うことが出来なければ、手を出してはいけないのか。
完全でなければ、手を出してはいけないのか。
──いいや、そうではないはずだ。
薄い粥の列を、門から離れた窪地へ引く。飢えた群れの足を、閉ざされた門ではなく、湯気の立つ釜の方へ、向け変える。
「隊長の側ってさ」
分隊長バリュードがバケツヘルムの奥から笑った。
「こういう突飛なことをするから、やめられないよね」
「軽口を叩く暇があれば、列を整えろ!」
ヴィヴィの声に、軽く答えるバリュード。
──門を押し潰しかけていた圧が、す、と逸れた。人の波は、餌のある方へ、水と同じに、勝手に流れる。ガベルが囁いた、その理を今度はロズヴェータが門前の一角でそっくり使った。
「粥は、並んだ者から。割り込んだ者には、やるな!」
ロズヴェータは、怒鳴り声で指示を飛ばした。
「列を守れた隊には、明日、もう一杯。──飢えた群れにも、順を教えろ。順のある所には、暴れる理由が、無くなる」
──この群れを飼いならす!
決意とともにロズヴェータの見守る先、群れが動き始める。
「あ、あ……粥だ!」
だが、飢えは、理より速かった。
薄い粥の、最初の湯気が、風に乗って流れた、その刹那。
窪地の後ろで待っていたはずの群れが、その匂いに、堰を切った。
「──来るぞ! 耐えろ!」
三頭獣の前衛、ヴィヴィの怒鳴り声が飛ぶ。だが、遅い。数百の痩せた体が、餌を嗅ぎつけた獣の群れと化して、釜の方へ一斉に雪崩れ込んだ。順も、列も、一瞬で消し飛ぶ。
踏まれた者が悲鳴を上げ、その上を、また別の裸足が、越えていく。
「押し返せ! だが、殺すな!」
ロズヴェータ自身も最前線で盾を持って波に抗う。
剣を抜けば、片はつく。飢えた民の一列を薙げば、後ろは怯んで退く。──だが、それをやれば、この窪地は、脱走兵の骸を並べた、あの首狩りの城壁と同じになる。掬うために炊いた釜が、人を挽く臼に、変わる。
だから、三頭獣は、刃を伏せた。楯の腹と、槍の柄と、素手だけで、押し寄せる人の壁を、受け止めるしかない。
ヴィヴィが吼え、バリュードが長剣を鞘ごと横たえて堰にする。だが、相手は多勢だった。
飢えた数百は、痛みも恐れも、とうに擦り切れている。押しても、押しても、後ろから、際限なく、湧いてくる。
前衛の楯の列が、じり、と後ろへ、押された。
──割れる。押し切られる!
ロズヴェータの背を氷が走った。ここが割れれば、群れは釜を呑む。釜を呑めば、炊き出しをしている文官達も無事では済まない。自身の激情に任せた判断が、無謀な身勝手と切り捨てられて終わる。
今日一日の綱渡りが、この一角から、崩れ落ちる。
その時だった。
地の底から、重い蹄の音が湧いた。
ひとつ、ふたつではない。数十騎。鉄で固めた馬蹄が、凍った泥を踏み鳴らし、地を揺らして、窪地の横手から、なだれ込んでくる。
掲げられた旗に、竜を貫く一条の槍──。
「竜殺しの槍……!」
誰かが、掠れた声で言った。
南部最大の、大騎士団。その重装の列が、崩れかけた三頭獣の楯の脇へ、寸分の狂いもなく滑り込み、一枚の鉄の壁を。
「楯、構え! だが、突くな! 押し包んで、流れを、絞れ!」
響いたのは、太い、腹に据わった声だった。
馬上に、壮年の巨躯があった。歴戦の傷を刻んだ、岩のような顔。──竜殺しの槍の団長、ジキスムント。飢えのあまり団ごと南門を出ようとした、あの男が、今その同じ槍を飢えた波を止めるために、伏せている。
鍛え抜かれた大騎士団の、統率のある壁は、乱れた飢餓の群れとは、地力が違った。数百の圧が、鉄の盾に受け止められ、逃げ場を失い──やがて、一本の細い流れへと絞られていく。楯と楯の間に空けた、ただ一筋の隙間へ。その先には、粥の釜。
押し合いが行列に、変わった。
殺さず崩さず。ただ、圧を絞って流す。
ロズヴェータが門前でやろうとして、多勢に呑まれかけた、まさにその一手を──統率された剛腕が、力ずくで、成し遂げていた。
「……助かった」
乱れた息のまま、ロズヴェータが、馬上の男を見上げる。
ジキスムントは、こちらを見もせず、群れを絞る自軍の壁を睨んだまま、ぶっきらぼうに、吐き捨てた。
「なぜ、こんなことを?」
「……我慢が出来なくなった」
「我慢?」
「あの飢えた人の群れを見て居たら、我慢が出来なくなったんだ!」
「ふぅむ……ふふふ、くく……我慢が出来なくなったかぁ」
団長の、岩のような横顔が、耐えきれぬというように、笑みに変わり、次第に豪快な笑い声になっていった。
「……俺は、少し思い違いをしていたようだ」
蔵の上でジキスムントが笑う。その視線は、孫を見るかのように柔らかい。
「お前はてっきり、あの名代殿を追い落とすために、貸しを作って回っていると思っていたが……」
ジキスムントの視線の先には、釜に群がる人の群れ。
「今回の件は、感謝する。来てくれなければ、危なかった」
ロズヴェータの感謝に、巌のような顔を取り戻し、ジキスムントは男臭い笑みで応えた。
「なぁに、俺も我慢が出来なかったのさ」
そして笑みを引っ込めたジキスムントは、視線をロズヴェータに戻す。
「……あの夜、南門で飢えた俺の団の兵士を止めたのは、貴様だろう。──首狩りが、脱走兵の骸を並べて、俺たちを釣った。あのまま門を出ていれば、俺の団は、あの骸の続きだった。城の門も、開いていた」
鞍の上で、ジキスムントは、低く唸った。
「命を拾われた。その借りは、まだ返してないと思っている。竜殺しの槍は、借りを返さぬ団ではない。今回のことは気にするな。気が向いたら帰るさ」
その言葉とは裏腹に、大騎士団は、この窪地に留まり、日が落ちるまで、飢えた波を、絞り続けた。
──浅からぬ因縁のある男だった。だが、ロズヴェータはこの時、初めて、その因縁の底に、別のものを見た気がした。武人が武人に返す、ただ一筋の、まっすぐな筋を。
鉄の壁が、時を稼ぐ。その隙に、ロズヴェータは、動いた。
──救うためには、その手立てがいる。
ロズヴェータの感情のままに動く自分と、別の自分が冷静に計算を立てている。
そして彼は、動ける者を選り分けた。
「立てる者、腕のある者は、こっちだ」
まだ歩ける男たちを、粥の列とは別に、脇へ寄せる。
「城壁の崩れの土嚢積みと、荷運び。半日働いた者には、粥に加えて、塩と、パンの端をやる。──働けるなら、働け。ただ喰わせろとは、言わん」
飢えた男たちの、落ち窪んだ目に、わずかな光が戻った。
施しは、人を、乞食にする。だが、仕事は、人を、人のままにする。
黒い法衣の説教師が、なおも門へ群れを煽ろうとするのを、ロズヴェータは、その襟首を力任せに捕まえた。
「な、なにをする!?」
動揺を露わにする説教師に、顔を近づけると、殺気を込めて言い放つ。
「聖地は、逃げない。あの飢えた者達に粥を食わせてやれ、順番を説け! ここで同じ十字教徒の手にかかって死ぬのが望みか!? それとも、聖地を守るために死ぬのが望みか、神はどちらを喜ばれる?」
無理矢理薄い粥の入った椀を握らせると、その手を放す。
説教師は、しばらくロズヴェータを睨んでいたが、やがて、しわがれた声の矛先を、門から粥の釜の方へ向け変えた。
──進め、ではなく。待て、と。
血は、流れなかった。
都は、焼けなかった。
救われた命の数など、知れている。窪地では、なお、人が、静かに死んでいく。だが、少なくとも今日、城門は押し潰されずに済んだ。
それは、"正しい"やり方では、なかった。名代の許しもなく、私の銭で私の裁量で飢えた群れの流れを、勝手に付け替えた。掠奪の一歩手前の、危うい綱渡りだった。
ロズヴェータは、泥と、粥の湯気にまみれて、その一日を、しのぎ切った。
◇◆◇
櫓の上からヴェルダーが、その一部始終を見ていた。
正しく閉ざした門の前で、正しく人が死ぬのを、堪えて見ていた男が。──正しからぬ手で、その死を、幾らか、押し止めていく末席の若造を、見ていた。
几帳面な横顔が、静かに歪んだ。
怒りでは、なかった。もっと深い所の揺らぎだった。自分の正しさが、今日、一人も食わせられなかったという、その一事の重みだった。
夕刻、ヴェルダーは、供も付けず窪地の釜のそばまで下りてきた。
泥にまみれたロズヴェータの前に立ち、乾いた声で、ただ一言。
「……貴殿の、これは、掠奪か」
「私の銭です。私が買った麦を、私が配った。盗んではおりません」
「許しを、得ずに」
「許しを乞えば、ヴェルダー卿は、お止めになった」
ロズヴェータは、隠さなかった。
「ですから、乞いませんでした。──罰なさるなら、後で、いくらでも。ですが、今日死にかけた者は、後では、生き返りません」
ヴェルダーは、長い間、答えなかった。
窪地の薄い粥の列を。土嚢を積む、痩せた男たちの背を。順を待って静かに並ぶ飢えた群れを。──正しさが、一日かけても作れなかったものを、汚れた手が半日で、そこに立ち上げているのを。
「……留意して、おく」
それだけ言って名代は、踵を返した。
その背が、いつもより幾らか重たげに見えた。
――正しさは、わたくしの民を、正しく飢え死にさせる。あの人たちの手は綺麗すぎて、汚れた都を、掬えない。あなたの手は、汚れている。だから、掬える。
喋らぬ女王の、あの声が、ロズヴェータの耳の底で蘇った。
掬える手は、汚れた手だけ。
――なるほど。今日ばかりは、その通りだ。
ロズヴェータは、泥に汚れた自分の手を、いちど、見下ろした。
◇◆◇
その夜、天幕に、五人が集まった。
ロズヴェータ。副官ユーグ。帳簿のガーデル。筆頭分隊長のガッチェ。そして、拾ったばかりの、首狩りの窓――アブドゥル。
獣脂蝋燭の煙に、羊皮紙と泥と汗の匂いが混じっている。卓には、聖都とその西を描いた一枚の地図。
「今日は、しのいだ」
ガーデルが、几帳面な字でその日の出納を締めながら、硬い声で言った。
「ですが、今日の千と数百は、先触れです。地平の裏には、まだ十万が、控えている。──銭は、保ちません。ラスタッツァの麦を薄め切っても、うちの財布では、あと、五日」
「五日で、十万は、食わせ切れんな」
「切れません。五日でお手上げです」
天幕が、静まった。
アブドゥルが、暗い瞳を、地図の西へ落とす。
「前にも、申し上げました。あれは、軍ではない。頭も、糧も、退く気もない、人の洪水だ。堰き止める術は、ありません。──今日の綱渡りも、しょせん、あと五日の、綱渡りだ」
正論だった。
ユーグの赤い瞳が、主を窺う。何か、良くない予感を嗅ぎ取った顔だった。主が、こういう静けさの底にいる時は、たいてい、常人には思いつかぬ悪手を、掘り当てている。
「アブドゥル」
ロズヴェータが、口を開いた。その声は、妙に凪いでいた。
「俺は、今日、一つ、思い違いをしていた」
「思い違い、とは」
「この波を、"敵"だと思っていた。堰き止める、押し返す、退路を塞ぐ――お前が、そう並べた。全部、"敵"を、どう防ぐかの話だ」
ロズヴェータの指が、地図の上の、西の一群を、とん、と押さえた。
「だが、これは、敵じゃない。──人だ。十万の、人だ」
「……人だから、始末に負えぬのです」
「人だから、拾える」
アブドゥルの、暗い瞳が、止まった。
「俺のやり方を、お前は城で見ただろう。俺は、人を拾って、人で網を張る。銭で、情で、恩で、一人ずつ繋いで、この都を保ってきた。──その俺の前に、十万の、拾えぬ人が、来た。名も知らぬ、繋げぬ、名の網の掛からぬ、人の海が」
彼は、口の端をわずかに上げた。
「だったら、網の掛け方を、変えればいい。一人ずつ、名で拾えぬのなら――束で、拾う」
「束で……?」
「今日、俺は、動ける者を、土嚢積みに回した。喰わせるだけじゃない。働かせた。──あれを、十万の、桁でやる」
ロズヴェータは、地図の、聖都の城壁を、指でなぞった。その指が、城壁の、東側で、止まる。
「考えてもみろ。あの十万は、何のために、家を焼いて歩いてきた。――異教徒を、討つためだ。聖地を、異教徒の手から、守るためだ。その、狂ったほどの熱が、十万分、西から流れ込んでくる」
アブドゥルの喉が、ごくり、と鳴った。
その先を、この智将は、もう、読み始めていた。
「……東の、城壁」
「そうだ」
ロズヴェータの目が、細く、光った。
「聖都の東の壁の向こうには、雪解けを待つ、お前の元の主――首狩りが、いる。三日月の、異教徒の軍が。……十万の巡礼が、いちばん討ちたい相手が、この壁の、すぐ東にいるんだ」
天幕の蝋燭の炎が、ひとつ揺れた。
「飢えを食わせて、鍬を槍に持ち替えさせる。狂信の熱を、そのまま、東の壁へ、向けてやる。――西から来た、都を割るはずの人の海を、東の首狩りを防ぐ、人の城壁に、変える」
「……正気、ですか」
アブドゥルの声が、掠れた。だが、その暗い瞳の底では、とうに死んだと思っていた何かが、また、灯り始めている。負けを知る者が、久しく忘れていた、"面白い盤"を見つけた時の、あの熱だった。
「ですが──」
その熱の底から、ふいに、将の冷えた目が、戻る。
「烏合です。十万の、頭のない烏合だ。槍を握らせたところで、壁は守れませぬ。矢の一本も飛べば、我先に逃げ散る。──城壁とは、退かぬ者だけが、築けるもの。あの群れに、いちばん、無いものだ」
「無いものは、継ぎ足せばいい」
ロズヴェータは、静かに言った。
「今日、見ただろう。竜殺しの槍を」
アブドゥルの、暗い瞳が、止まった。
「殺さず、崩さず。飢えた数百の暴れ波を、鉄の壁で受けて、一筋に絞ってみせた。──あれが、統率だ。あれが、背骨だ」
ロズヴェータの指が、地図の上に、細い線を、幾本も引いた。まるで、肉の中を通す、骨のように。
「十万の肉に、あの背骨を、何本も通す。ジキスムントの、竜殺しの槍。この半月、俺が飯で繋いだ、諸隊。──統率のある芯を、群れの中へ、串のように差し込めば、烏合の肉は、その芯に沿って、壁の形に、固まる。逃げようとする者は、前の芯に堰かれ、後ろの芯に、押し戻される。今日、窪地で、竜殺しの槍が、飢えた波にやってみせた、あれの──桁を、変えるだけだ」
「背骨と、肉」
アブドゥルが、呟いた。負けを知る将の目が、地図に引かれた細い骨の線を、一本ずつ、なぞっていく。
「……なるほど。烏合を壁に組む、その骨組みが、あなたには、もう、揃っている」
「揃いかけてる、だ。──今日、一本、増えた」
ロズヴェータは、口の端を、上げた。
「飢えた民を見て、我慢のきかなくなった、あの気難しい団長がな」
「十万を、食わせ切る銭は、ない。今日、ガーデルが言った通りだ」
「ある」
ロズヴェータは、静かに言った。
「東の壁を、十万の巡礼が守るなら――名代も、女王も、王都も、その口を閉ざせなくなる。飢えた諸隊に払う軍費を、"正しく"凍らせたままには、できなくなる。聖都を守るための銭を、出さぬ理由が、消える。……正しさの倉の鍵が、この人の海に、押されて、開く」
ユーグの赤い瞳が、見開かれた。
絵図が、繋がっていく。
ヴェルダーの正しさが、頑として開かなかった倉。それを、こじ開ける梃子が、皮肉にも、ヴェルダーを最も苦しめた、この十万の飢えだった。都を割るために流し込まれた波が、都を守る手勢になり、その手勢を養うために、凍った倉が開く。
「王都の、顔の見えぬ手」
ロズヴェータは、地図の西の彼方を見た。
「俺を溺れさせるために、この海を、俺の喉元へ、流し込んだんだろう。――だが、溺れる者は、水を"敵"と見る。泳ぐ者は、水に"乗る"。同じ海だ」
「あの首狩りは」
アブドゥルが、ぽつりと言った。乾いた、しかし、どこか熱を帯びた声だった。
「あの方なら、この十万を、城壁を打ち砕く、破城槌に使ったでしょう。中に流し込んで、内側から、腐らせる。――人を、そうやって、使い潰す。それがあの方のやり方だ」
彼は、顔を上げ、まっすぐに、ロズヴェータを見た。
「あなたは、同じ十万を、城壁に、変えるのですな。――潰すのではなく、拾って」
「拾えるものは、拾う」
ロズヴェータは、うっすらと、笑った。
「お前を、拾ったようにな」
アブドゥルは、しばらく主を見つめ、やがて、乾いた喉から、ひとつ、笑いをこぼした。それは、自嘲ではなかった。久しぶりの、生きた笑いだった。
「……窓の役目を、果たしましょう。首狩りが、この壁を、どう崩しに来るか。あの方の手は、私が、いちばん、よく知っている」
◇◆◇
人を拾って生きてきた男は、拾えぬはずの、人の海を、拾うと決めた。
堰き止めるのではなく、乗る。
都を割るために流し込まれた波を、都を守る城壁へ。西から来た飢えを、東の首狩りへの、盾へ。
むろん、絵に描いた餅かもしれなかった。十万の狂信は、御しがたい。熱は、いつ、こちらへ牙を剥くか分からない。銭は、五日で切れる。時は、無い。
だが――打つ手が、無いよりは、ましだ。
ロズヴェータは、崩れた硝子窓の向こう、東の空を見た。痩せていた月が、もう、かなり、肉を取り戻している。次いで、西の空を見た。そこには、もう、"見えて"いた。地平の裾に、幾筋にも分かれた、痩せた灯の列が。夜通し、東を目指して、揺れながら、近づいてくる。
雪解けまで、あと、ひと月。
その雪が解ける頃、聖都は、東の刃と、西の波と、王都の陰に、いっぺんに晒される。
――なら、その西の波を、東の刃に、ぶつけてやる。
ロズヴェータは、泥の乾いた手を、ゆっくりと、握った。
人で編んだ網では、人の海は、堰き止められない。
だが――人の海は、人の城壁も、石垣にもなる。




