西の波
「なんだあれは……?」
西の地平が、汚れていた。
初めは、砂塵かと思った。あるいは、遠い野火の煙か。──だが、それは日が傾いても消えず、むしろ日ごとに、太くなっていった。
国境近くの、小さな村。痩せた畑の畦に立って、老いた村長は、その地平を、幾日も見つめていた。
やがて、それが何であるかが分かった時、彼は、腰を抜かした。
人だった。
地平を埋めているのは、人の群れだった。数えることなど、できはしない。数千か、数万か──否、その言葉では足りない。西の空の裾が、まるごと、人で汚れていたのだ。
巡礼、と、彼らは自らを呼んでいた。聖地を目指す、神の軍だと。
だが、近づくにつれ、村長の目に映ったのは、軍ではなかった。
鎧を着た者は、ほとんどいない。あるのは、痩せこけた体と、落ち窪んで爛々と光る目。手には、鍬や、へし折れた鎌や、ただの木の枝。田畑を捨て、家を捨て、食い物さえ持たずに、ただ東へ、東へと歩いてくる──痩せた人の、洪水だった。
先頭では、黒い法衣の聖職者が、しわがれた声を限りに張り上げている。
──聖地に、着きさえすれば! この世の飢えも、苦しみも、罪も、すべて神が拭い去ってくださる! 進め! 神の御国は、東にあるぞ!
その声に、痩せた群れが、獣のように応える。
波は、村を呑んだ。
畑の、まだ青い麦さえ、根こそぎ引き抜かれ、その場で貪られた。井戸は、たちまち涸れた。家の戸は、薪のために剥がされていく。──悪意は、なかった。ただ、飢えていた。神の名のもとに、十数万が飢えていた。それは、どんな軍勢よりも静かで、どんな軍勢よりも、後に何も残さなかった。
村長は、痩せた孫の手を引いて、東へ逃げた。
だが、逃げた先も、東だった。
波の、向かう先と、同じだった。
「……どこへ行く気だ、この波は」
誰かが、掠れた声で呟いた。
波の進む遥か先、東の空に、千年の都の影が、うっすらと霞んでいる。
聖なる都。聖墳墓の、都。──ジュルル・サルム。
波は、そこへ向かっていた。
◇◆◇
その報せが聖都のロズヴェータのもとへ届いたのは、西の空が、まだ何の兆しも見せていない頃。
「西から、人が逃げてきてる」
道化化粧の女商人ラスタッツァが、凍えた声で告げた。いつものおどけた態度など欠片もないその表情に、ロズヴェータは、事態の深刻さを悟る。
「商人、百姓、食い詰めた者──皆、着の身着のまま、東へ。そして口を揃えて、同じことを言う。"波が来る"と」
「国内には入っているのか?」
潰れた耳のヴォルクは、ラスタッツァに問い返す。
「チソッド商会の情報網が正確なら、もう間もなく」
「進路は?」
報せの羊皮紙を見ずに、次々に指さすラスタッツァ。それは、西方地域を貫いて、南部、そして遠征において獲得した地域を通る経路だった。
ラスタッツァの指が動くたびに、その地域に縁のある者達がびくりと目を見張る。
──見事に、王家派閥の領土を避ける進路だ。
ロズヴェータは、奥歯を噛み締めて、その意図を読む。
ロズヴェータは、拾った将を呼んだ。
「アブドゥル。西から来る、この"波"を、どう見る」
地図を睨んでいたアブドゥルの、暗い瞳が上がる。──その顔に、ロズヴェータは、初めて見る色を見た。あの、負けを知る者ですら、たじろぐ色を。
「……これは、軍ではありません、ロズヴェータ殿」
乾いた声だった。
「軍なら、戦えます。数を数え、糧道を断ち、退路を塞げばいい。将を討てば、崩れる。──だが、これは違う。頭がない。糧もない。退く気も、ない。ただ、飢えと信仰だけで東へ流れる、人の洪水だ。──斬っても、斬っても、後ろから際限なく湧いてくる。止める術が、ない」
ロズヴェータの背を、冷たいものが走った。
彼の力は、人を拾い、人で網を張ることにある。銭で、情で、恩で、一人一人を繋いで、この都を保ってきた。──だが、その網は、名のある一人一人にしか掛からない。信仰に狂った、名もなき十数万の洪水には、糸の一本も掛かりはしない。
人で壁を作ってきた男の前に、人が、洪水になって押し寄せてくる。
「解せないのは」
アブドゥルが、地図の一点を、指で押さえた。
「──この波の、"向き"です」
「向き?」
美貌の副官ユーグは、動揺を飲み込みながら鋭い視線をアブドゥルに投げる。
「常ならば、これほどの群れは、水のように、いちばん低い所へ、楽な道へと、散らばって流れる。食い物のある方、暖かい方へと。──だが、この波は、散らばっていない。まるで、誰かが両岸に堤を築いたように、まっすぐ、東の一点へ絞られて向かっている。──この、聖都へ」
ロズヴェータの目が、細くなった。
──やはり気が付くか。そして問題は、それをイブラヒムがどう考えるか、だ。
自然の洪水は、こうは流れない。
誰かが、この波の向きを決めている。西から東へ、まっすぐ、飢えた都の喉元へと導いている手が、ある。
──王都の。
顔の見えぬその手の意図を、ロズヴェータは、まだ正確には掴めなかった。だが、その手が、こう囁いているのは、分かった気がした。
"お前が人で作った城へ、人の洪水を、ぶつけてやろう"と。
後方から人の波をぶつけられ、前方は敵の軍でふさがれている。しかも守るべき城内は、主導権の取り合いの真っ最中。
──内憂外患と呼ぶには、度が過ぎているぞ。
ロズヴェータの背筋に、冷や汗が流れた。
◇◆◇
同じ頃、王都の王城では、御前会議が開かれていた。
高い天井の議場に、炭の匂いと、羊皮紙の乾いた匂いが籠もっている。上座には、少年王リサディス。まだ手足の細い、十五を越えたばかりの王だ。その傍らに、摂政エリザベート。だが今日、王太后は口を開くつもりがないらしく、ただ幼い王の斜め後ろに、静かに控えているだけだった。
玉座の下、長い卓の左右へ、王家派閥と文官派閥の顔が、睨み合っている。
議題は、一つ。──西から来る、十字軍の波を、どうするか。
「畏れながら、陛下」
口火を切ったのは、ルクレイン公爵家のガベルだった。逞しい顎を撫で、卓に広げた王国の地図へ、指を置く。
「西から、聖地を目指す民の群れが、十万を超えて押し寄せております。もう、誰にも止められませぬ。ならば、いっそ王国が、道を作ってやるのがよろしい。街道を開き、途中に市を立て、施しを配ってやる。──さすれば群れは、その道に沿って、おとなしく東の聖都まで歩いてくれましょう。『聖なる軍を、王国が手厚く送り届けた』と。教会も、他国も、これを悪くは言えませぬ」
もっともらしい、正しい顔をした提案だった。だが、その地図の上でガベルの指がなぞった一本の道は──西方、文官派閥の領地ばかりを、串刺しにして通っていた。
「お待ちください、陛下」
立ったのは、宰相コルベールだった。
痩せた、白髪の老人だ。ディルアンが亡き後、めっきりと白髪が増えた。飾りのない官服。長く紙と算盤の上で国を支えてきた、文官派閥の頭である。だが、その広い肩幅と、まっすぐな背には、剣を執っていた昔の名残があった。──若き日、この老人は、英雄の旗の下で槍を握り、あのディルアンと轡を並べて戦った戦友だった。武を退き、算盤に持ち替えて久しいが、戦場を知る目だけは、今も曇っていない。その静かな目が、ガベルの置いた指の先を、正確に見ていた。
「陛下。公爵の申す"道"は、はじめから終わりまで、すべて私の一門の領地でございます。十万の飢えた人間が通れば、その土地がどうなるか。畑の麦は、まだ青いうちに引き抜かれて食われ、井戸は飲み干されて涸れ、家の板は薪に剥がされます。悪気があるわけではない。ただ、飢えているのです。──公爵は、聖都へ人を流す"川底"に、私の民の田畑を掘れと、そう仰せなのです」
「その川底が、要るのだ」
ガベルは、眉一つ動かさなかった。
「道を決めてやらねば、十万は好き勝手に散らばって、国じゅうを喰い荒らす。一本の道にまとめてこそ、荒れるのは、その一本だけで済む。宰相の領地は、その役目を、国のために引き受ける。それだけの話だ」
「"国のため"、か」
コルベールの声は、高ぶらなかった。だが、その一言一言は、釘を打つように、はっきりとしていた。
「公爵。卿は今、一息に二つのことを口にした。──『この波は、誰にも止められぬ』と。そして、『その波を、聖都まで整然と導いてやれる』と。はて、妙な話だ。真に誰にも御せぬものを、どうして、狙った一つの都へ、きっちりと流し込めるのだ?」
議場の空気が、す、と張り詰めた。
「御せぬのなら、聖都へ届く保証など、どこにもない。逆に、それほど見事に御せるのなら──我が領を避けて散らすことも、来た道を西へ押し返すことも、できるはずだ。それをしない。よりにもよって、我が民の畑を踏ませ、まっすぐ聖都へ、と言う。──"止められぬ"のではない、公爵。卿は"そこへ流したい"のだろう?」
ガベルは、答えなかった。
「私は長年、この国の帳面を預かってきたが、数さえ並べれば、裏は読める。この絵図で得をするのは、貴様らだけ。聖都を──今あの都を銭で束ねておるのは、辺境伯家の三男だろう。弟との確執は聞いているが、随分な意趣返しだ。国に利益をもたらすものを、敢えて殺す。これがリオンセルジュのやり方か?」
そして宰相は、ガベルから玉座の少年王へと静かに目を移した。
「陛下。公爵はこの策に、『聖なる軍を、王国が篤く導いた』という、美しい看板をつけました。ですが、その看板の裏で焼けるのは、異教徒の土地ではなく、同じ王国の我らの民の畑だ。──神の御名を掲げた戦を、身内を薪にくべる竈に使う。もし露見すれば、後ろ指を差されるのは、献策した公爵だけではない。聖戦を私物にしたと世に謗られる、この王家、そのものとなりましょう」
議場が、しんと静まった。
ガベルは、うっすらと笑ったまま、答えない。図星を、否定もしない笑みだった。
「……宰相殿は、ずいぶんと、あの辺境伯家の肩をお持ちだ」
「肩を持つ? 卿の視線は、濁っているのか」
コルベールは、静かに切り返した。
「私が惜しんでおるのは、あの若者ではない。──公爵ほどのお方が、これほど見事な絵図を描ける頭を、よりにもよって、味方の畑を焼き、味方の軍を潰すためだけに使うその無駄をこそ、惜しんでいるのだ」
その時。
ずっと黙って聞いていた少年王リサディスが、初めて、口を開いた。
「……二人の議論は聞いた」
まだ高い、少年の声だった。だがその声は、議場のざわめきを、す、と鎮めた。
傍らのエリザベートは、動かない。助け舟も出さねば、目配せもしない。ただ静かに、幼い王が自分の言葉で喋るのを、見守っている。
リサディスは、卓の地図をじっと見下ろした。細いながらも剣だこのある指が、ガベルのなぞった一本の道を、たどたどしく辿る。
「ガベルの言うことは、分かった。波は、止められない。放っておけば、国じゅうが荒れる。だから、道を決めて、聖都へ通す。──それは、たぶん、正しい」
ガベルの口の端が、わずかに上がった。
「だが」
少年王は、顔を上げた。その蒼い瞳が、まっすぐにコルベールを見た。
「コルベールは、その道の土地の持ち主だ。自分の民が傷つくのが、いちばん嫌なはずだ。──だったら、その道を通す役目は、コルベールがいい」
議場が、どよめいた。
ガベルの笑みが、止まった。
「陛下」
ガベルが、慎重に口を挟む。
「差配は、反対した者よりも、この策を献じた我が一門の者に委ねられるのが──」
「だめだ」
リサディスは、あっさりと首を振った。
「公爵は、波を早く聖都へ届けたいのだろう。だったら、お前が通せば、民が傷つこうが、かまわず、まっすぐ流すだろう。──コルベールなら、民をいちばん傷つけないように、通す。同じ道を通すなら、そのほうがいい」
少年王の、まっすぐな理屈だった。
だが、その理屈には、ガベルにも、返す言葉がなかった。──民を傷つけぬように通す。それに、表立って反対できる者は、この議場に、一人もいない。
エリザベートは、幼い王の斜め後ろで、そっと目を伏せた。
その顔を、ほんの微かな驚きと──安堵に似た何かが、よぎる。いつも自分の裾に隠れていた子が、今日、初めて、自分の頭で、盤の上に駒を一つ、置いてみせた。しかもその一手は、思いのほか、深い所へ落ちていた。
「──コルベール」
リサディスが、老宰相を呼んだ。
「その道を、任せる。私の民を、できるだけ、飢え死にさせないように、通してくれ」
コルベールは、しばし、少年王を見上げていた。
やがて、深く、深く、頭を垂れた。
「……この老骨の一命に代えましても」
その声は、敗北の音ではなかった。反対した男が、思いがけず、自らの手で民を守る余地を、幼い主から与えられた──その、震えるような、感謝の音だった。
◇◆◇
こうして西方街道の差配は、皮肉にも、それに最も反対した男の手に落ちた。
だが、コルベールは、ガベルの絵図の通りには、川筋を掘るつもりなど最初からない。
西方の宿場町。差配の本営に据えた古い商館で、宰相は、幾人もの代官と、村々の名主を、夜ごと呼び集めていた。卓に広げるのは、聖都への一本道ではない。無数に枝分かれした、脇道と、迂回路と、間道の束だった。
「一本に束ねれば、確かに被害は一筋で済む。──だが、その一筋は、灰になる」
コルベールは、皺の寄った指で、地図の上に、細い枝を幾本も引いた。
「散らせ。街道を、一本に絞るな。脇道という脇道を開け。市を、一箇所ではなく、二十の村に小さく立てろ。施しも、薄く、広く配れ。──波を、二十筋に、割る」
「宰相様。それでは、聖都への流れが、鈍りますが、それに割るためにも戦力が……」
「国内に残る我らの派閥の騎士達に総動員をかける。握っている金は、全て吐き出すつもりでこの件に対処する」
代官の一人が、怪訝な顔で言った直後、宰相の言葉で息を呑む。
「鈍らせるのだ」
宰相の目が、静かに光った。
「一本の急流は、行き着く先を、一息に呑む。だが二十に割れた細流は、途中でいくらでも痩せる。喰う畑が散れば、一村の傷も浅い。道が分かれれば、迷って西へ引き返す者も出る。飢えて動けなくなる者、途中の村に居着く者も。──聖都へ着く頃には、あの十万の波も、いくらかは、痩せているだろう」
それは、命令への叛逆ではない。むしろ、逆だった。
「陛下は、こう仰せられた。──民を、できるだけ飢え死にさせぬように通せ、と。畑を根こそぎ喰わせぬには、一本にまとめてはならぬ。道を割り、波を割り、薄く広く流すのだ。それこそが、あの御下命に、いちばん適う道よ」
枯れ枝のような指が、地図の上を、蜘蛛の巣のように這っていく。
「そして図らずも──公爵の描いた一筋の急流を、二十の細流へ、そっと崩す道でもある。一筋の深い川ではなく、浅く広い、沼を掘る。呑まれる我が民も、押し流される聖都も、幾らかは、水位が下がる」
窓の外を、痩せた巡礼の列が、松明を掲げ、幾筋にも分かれて通り過ぎていく。黒い法衣の説教師の、しわがれた声が、夜気に細く途切れて届いた。──神の御国は、東にあるぞ。
コルベールは、その声を、苦い顔で聞いていた。
止められはしない。波は、通す。だが、その通し方だけは、あの少年王が、この老骨の手に、確かに委ねてくださった。
「それでも、経路からそれる流れは?」
恐る恐る聞いた代官に、コルベールの視線は武官のそれに戻ったかのように鋭く告げた。
「殺せ」
「は、しかし……」
「皆、殺せ」
息を呑む代官達に、コルベールはなおも言い募る。派閥の上を通る蝗害の群れよ。人災の洪水よ。ディルアンの死した代価がこれなのか。
年齢を重ねることで、若い時よりも感情を隠すのが上手くなった。
しかしそれは、感情を忘れたということではない。宰相は内心に渦巻く憎悪を、僅かに滲ませて、地図上の波を睨んだ。
「……ロズヴェータ・スネク・カミュー」
誰にともなく、宰相は呟いた。
「この老骨が、そなたのために、川筋を割ってやっているのだ。──せいぜい、その首、容易くは売られてくれるなよ」
文官派閥の頭は、痩せた地平の彼方、東の聖都へと、細く、白い息を吐いた。
◇◆◇
東の峠には、雪解けを待つ、首狩りの軍。
西の地平には、聖地を目指す、飢えた人の、波。
そして、その波の背を、そっと押している、王都の見えない手。
聖都は今、三方から、じわじわと閉じられていく箱の中に、あった。
ロズヴェータは、崩れた硝子窓の向こう、まず、東の空を見た。痩せていた月が、もう、かなり肉を取り戻している。次いで、西の空を見た。そこには、まだ、何も見えない。
──だが、いる。地平の裏に、十数万が、一歩ずつ、近づいている。
人を拾って生きてきた男の首を絞めに来るのが、皮肉にも、"人"の波だとは。
雪解けまで、あとひと月。
その雪が解ける前に、西の空の裾が、汚れ始める。
ロズヴェータは、長く、白い息を吐いた。
──さて。人で編んだ網で、人の海を、どう堰き止めたものか。




