大樹を伐る
王都に、珍しく雪が降っていた。霰のように固くはない。むしろ湿気を含み、人や建物に触れれば水となって消えてしまう程度の霙雪。仕方のないことだと考えながらも、王都に暮らす人々は、空を見上げてため息を吐く。
西方から続く曇天の空はどこまでも暗い。まるでこの国の行く末を暗示しているかのようだった。
獅子の紋に翼と盾──ルクレイン公爵家の一室。炭を惜しまぬ暖炉が赤々と熾り、時おり小さく爆ぜて、王都の冬を、やすやすと締め出している。乾いた熱と、かすかな炭の匂いが、部屋を満たしていた。その暖の中心で、次期当主ガベル・リード・ルクレインは、聖都から届いた一束の報告を、二度、読み返していた。厚い羊皮紙が、指の下で、かさりと乾いた音を立てる。
読み返すたびに、逞しい顎を撫でる手が、止まる。
「……そこまで、育ったか」
暖炉の火が、豪放と謳われる大男の横顔を、赤く舐めている。だが、その顔に、豪放のかけらもなかった。炎の色を映してなお、あるのは、算盤を弾く商人のような、冷えた目だけだ。
報告は、几帳面な密偵の字で、こう記していた。──カミュー辺境伯家の三男が、飢えた聖都を、銭で繋いでいる。崩れかけた騎士団を、王配の名で押さえた麦で繋ぎ止めた。そして先日、名代ヴェルダー卿の召喚を、王配殿下自らの"王命"で覆し、几帳面な名代を、真横から追い越してみせた、と。
名だけの王配が、辺境の子の掌の上で、初めて自分の意志で口を開いた。
それが何を意味するか、ガベルには、痛いほど分かった。
いつだったか、副官に、こう言ったことがある。
──今はまだ小さな若葉かもしれん。だが、大樹に育てば、リオンセルジュの家に、不利益を齎す。
あの時、摘んでおくべきだった。あの若葉を。
だが、機を逸した。そして今、若葉は、千年の都に根を張り、王配を枝に絡め、飢えた騎士団を葉に茂らせた、一本の大樹になりかけている。
辺境伯とは、国に愛着を持たぬ外様だ。放っておけば、周りの領主を呑み、独立王国を築きかねない。──その筆頭が、東西と南の辺境伯家。そして今、その一つ、カミュー辺境伯家の子が、聖都で、正統の器を、意のままに操り始めた。
脆い少年王の御代に、これほどの火種はない。
しかも、と、ガベルは苦く思う。あの男は、飢えた都を、銭と情で繋いでいる。放っておけば、じきに、都の民から"英雄"と呼ばれるだろう。──英雄になった辺境の子ほど、伐りにくいものはない。民が、盾になる。
伐るなら、今しかない。英雄になる、その前に。
弟ノインが、かつて婚約者を奪った相手でもある。恨む理由の十分すぎる男。──だが、それは口実にもならぬ。私怨で国の駒を動かした、などと、家伝には書けぬ。
これは、国のためだ。王家のためだ。少年王が逞しく育つまでの、時間を買うためだ。ガベルは、そう己に言い聞かせた。
「──副官」
彼は、初老の腹心を呼んだ。
「南に、"黒剣"は、まだ動かせるか」
初老の男の眉が、わずかに動いた。
「暗殺騎士団の。……お呼びに、なりますか?」
伐れ、という一言が、乾いた喉の奥までせり上がった。
だが、その言葉を、ガベルは、寸前で呑み込んだ。卓の端に置かれた、もう一束の報せが、目の隅に入ったからだ。
西方から届いた、聖戦の報。──十字軍は、もう、発った。
その一事が、伸ばしかけた手を、凍らせる。暖炉の熱の中で、指先だけが、す、と冷えていくようだった。
聖都は、ただの飢えた砦ではない。あれは、聖墳墓の都。西の十字軍が、奪回を掲げて東へ向かう、その聖地そのものだ。──リオングラウスがあの都を握ったまま十字軍を迎えれば、"聖地はすでに我が手にあり"という、またとない切り札になる。逆に、十字軍が着く前にあれを首狩りに奪われれば、十数万の狂信が、聖地を巡って我が領内で暴れ回る。
まさに、悪夢だ。
だが、その西方の報せには、ガベルの目算を書き換える一節が、もう一つあった。
リオングラウスが聖墳墓の都を奪い返した──その報は、雪解けを待たず、西の宮廷から宮廷へと駆け抜けていた。そして、西方世界の受け取り方は、ガベルの読みと、少しずれていた。
民草にとって、聖地はもう"還った"のだ。奪い返すべき都は、既に、同じ十字教の手の中にある。──ならば何のために、家を焼き、飢えて東へ歩くのか。聖墳墓の奪回を旗印に燃え上がるはずだった熱は、その芯を一本、報せ一つで、すっと抜かれた。当初、十数万は下るまいと踏んでいた民衆の波は、思ったほどには、膨れなかった。
それでも、貧と信は、そう容易くは鎮まらない。行き場のない次男三男、飢えた小作、贖罪を求める者──なお十万は優に超える群れが、杖を突いて東を目指す。数は、減ったが、消えはしない。
そして皮肉にも、王侯諸侯の目は、逆に、熱を帯びた。
聖地が既に我らの手にあるのなら、聖戦には、その"先"がある──彼らが見据えたのは、もはや千年の都そのものではない。その城壁の、さらに東。
聖都を橋頭堡として、まだ見ぬ富と領土の広がる、東方世界だ。落ちた都は、王侯にとって、目的地ではない。次なる栄光への、踏み台だ。
あの都は、聖戦の終着ではなくなった。西から東へ、万の足が必ず一度は踏み越える──要石に、なったのだ。
つまり──今、あの大樹を伐って聖都を割るのは、最悪の手だった。盾を、自分から捨てることになる。
「……いや」
ガベルは、伸ばしかけた指を、ゆっくりと引いた。
「今は、伐らん。あの男には、せいぜい、聖都を保たせてやる。──十字軍が、片づくまでは」
初老の男が、主の横顔を、静かに窺う。
「よろしいので。放っておけば、あの若木は、さらに太りますが」
「太らせておけばいい。太った木ほど、後で伐り倒す音は、大きく響く」
ガベルの冷えた目が、卓上の地図の一点、聖都を撫でた。
「それに──木を枯らすのに、いちいち斧を振るう必要はない。土から、養分を抜けばいい」
「土、と申しますと」
「十字軍だ」
ガベルは、西から東へ、地図の上を、指の背でなぞった。
「聖戦に浮かされた民の波は、それでも十万を超えて、東へ流れる。その流れを──聖都へ、導いてやる。あの都を、十字軍の通り道に……否、集結地にする」
初老の男の眉が、寄った。
「……お言葉ですが。十万を超える群れを、思いのままの方へ動かすなど、できるものでしょうか。あれは、王の号令にも従わぬ、ただの飢えた洪水です」
「洪水だからこそ、だ」
ガベルは、薄く笑った。
「洪水は、押しても動かせん。ならばこそ水は、いちばん低い所へ、勝手に流れる。──ならば、やることは一つ。聖都へ向かう川筋だけを、低く掘っておけばいい」
「川筋を、掘る」
「難しくはない」
ガベルは、地図を指先で叩き、その上へ視線を這わせる。
「一つ。道と、糧だ。聖都へ至る街道沿いの関を開き、市を立て、施しがあるという噂を流す。他の道は逆に、領主どもに命じて固く閉ざさせる。飢えた群れは、水と同じだ。開いた方、食い物のある方へ、勝手に流れ込む」
指先で示されたのは、文官派閥が複数を占める西方地域。
「二つ。声だ。あの波を煽っているのは、先頭の説教師どもだ。その幾人かに、金と、神学の理屈を握らせる。──"まず奪回すべき聖地は、聖都ジュルル・サルムなり"と、神の名で叫ばせればいい。一人の説教師の一言が、万の足を、東へ向ける」
更に地図上を指が滑る。次に指し示すのは、南方の伯爵家レジノールの領地。
「三つ。しるし、だ。聖都で、ありがたい聖遺物の一つも"見つかった"ことにする。奇跡の噂を、西へ流す。──飢えた信徒ほど、しるしには、よく釣られる」
初老の男の口が、わずかに開いた。
「そして、この三つは、いずれも表向き、十字軍の"通過の差配"で通る。外交を統べるのは、この私だ。聖地への道を整え、聖なる軍を導く──それを、誰が咎められる」
水は、押すものではない。堤を築き、川筋を掘って、導くものだ。
「あの辺境の子の力は、人を拾い、人で網を張ることにある。だが、その網は、宗教に狂った十万余の群れには、通じん。統率の効かぬ人の洪水が、あの男の細い糸を、片端から押し流す。──あの男は、聖都を保つだろう。だが保った頃には、その手の中の都は、もう、あの男のものではなくなっている」
伐らずに、枯らす。
使えるうちは盾として使い切り、聖地としての用が済んだその後で──静かに、片づける。
言葉にした瞬間、ガベルの胸の底を、ふと、苦いものがよぎった。口の中に、鉄を舐めたような苦い唾が、じわりと滲む。
人を、絞れるだけ絞ってから、捨てるように置く。──それは、峠の向こうの、あの首狩りのやり口ではなかったか。国の盾たる自分が、いつのまにか、いちばん憎むべき敵の、手つきを真似ている。
だが、その苦さを、彼は、唾ごと呑み下した。国のためだ。手段を選べる余裕は、この国には、もうない。
「"黒剣"は、鞘に納めておけ」
ガベルは、静かに命じた。
「呼んで、番だけさせておけ。──あれは、開幕の刃ではない。全部が済んだ後の、後始末だ。土に流されてもなお、あの大樹が枯れずに立っていたら、その時に、抜く」
初老の男は、深く、頭を垂れた。
◇◆◇
その"依頼"が、南の外れの、とある隠れ家に届いたのは、数日後のことだった。
窓という窓を布で塞いだ隠れ家は、火の気もなく、石の床から這い上がる冷えに満ちている。卓の上で一本の蝋燭だけが、脂の焦げる匂いを細く立てて、揺れていた。その頼りない灯の下、黒い外套の男が、卓に広げた一枚の地図の上で、指を、ゆっくりと滑らせている。
どこよりも精緻な、聖都とその周辺の地図。街路の一本、井戸の一つ、抜け道の一筋まで、几帳面に描き込まれている。──"黒剣"のツヴァイ。暗殺騎士団の、南部を統べる罠師。常にヴェールで口元を隠すその男は、剣で人を斬るより、罠で人を狩ることを、好んだ。
依頼主の名は、伏せられていた。標的の名は、はっきりと記されている。──銀の獅子、カミュー辺境伯家、三男ロズヴェータ。
だが、その下に、一行、こう添えられていた。
"ただし、合図があるまで、動くな"
ヴェールの下で、ツヴァイの喉が、くつくつ、と笑いをこぼす。
「……待て、とはねえ。狩人に、いちばん、こたえる焦らし方だ」
掠れた、粘つくような声だった。だが、そこに、苛立ちはない。──罠師は、待つことに慣れている。獲物が自分から罠へ歩いてくる、その一瞬のために、幾日も、幾月も、息を殺して待つのが、この男の仕事だった。
「聞いているよ、銀の獅子。一度仕留め損ねた獲物だ」
ツヴァイの指が、地図の上を、蜘蛛のように這う。ロズヴェータの宿営。その周りに侍る、拾われた者たちの、寝床。補給の道。水の道。──あの男が、いちばん、失いたくないもの。
「拾い癖の、ある獅子か。……愛おしいものが多いほど、罠は、いくらでも仕掛けられる。合図が来るまで、ゆっくり選ばせてもらうさ。──どの糸から切れば、いちばん綺麗に崩れるかを」
抜かぬ刃を、鞘の中で、こつこつと研ぎながら。その硬く乾いた音だけが、火の気のない闇に、ひとつ、またひとつと落ちていく。
人が己の仕掛けた罠にかかる様を想像するだけで、この男は、笑う。
夜の窓の外、南の空にも、東と同じ月が、痩せた身に、少しずつ肉を取り戻していた。
◇◆◇
こうして、聖都を巡る盤上に、新たな手が、静かに置かれた。
東の峠からは、城が自分から割れるのを待つ、首狩りの手。
西の彼方からは、聖地を掲げて東へ流れ来る、十字軍の、十万を超える波。その波の先には、聖都のさらに東を見据える、王侯たちの野心も透けていた。
そして王都の陰では、その波を聖都へ導き、辺境の大樹を"枯らそう"とする、ガベルの手。──刃を抜かず、養分を抜く。使い切ってから、捨てる。国の盾は、いつのまにか、いちばん憎むべき敵と、同じ手つきを覚えていた。
鞘の中では、黒剣が一振り、合図を待って、静かに研がれている。
誰も、盤の全部は見ていない。
だが、盤の中央で、ロズヴェータだけが、うっすらと気づき始めていた。──勝つほどに、自分の首が、高く売られていくことに。そして、東からだけでなく、いつか西の空からも、途方もないものが、この都へ向かって歩いてくることに。
東の空で、月が、また一日分、肥えている。雪解けまで、あとひと月。
その雪が解ける頃、聖都は、東の刃と、西の波と、王都の陰に、いっぺんに晒される。
狩る者と、狩られる者の距離が、日ごとに、詰まっていた。




