飢えた槍と正しさの檻
夜明けとともに、南の城壁が静まり返っていた。
凍てた朝靄の底、城壁の下に薄く積もった雪の上に、それは並べられていた。
昨夜、闇に紛れて壁を越えた南部の男たち。城を脱けようとした、飢えた兵たちだった。十人ばかりが雪の上へ、きれいに並べて寝かされている。喉を、一つずつ、掻き切られて。傍らには三日月帝国の紋章旗が一本、朝風にゆるく翻っていた。
言葉は、なかった。だが、その光景が語ることは、城壁の上の誰にでも読み取れた。
──逃げれば、こうなる。
首狩り総督イブラヒムの、揺さぶりだった。指一本汚さず、脱走者の骸を城の鼻先へ並べ、残る者の背骨を内から凍らせる。アブドゥルの窓から覗いた通りの手を、あの男は寸分の狂いもなく指してきた。
ロズヴェータは、白い息を長く吐いた。
だが、その揺さぶりは──思わぬ形で、逆に燃え上がった。
◇◆◇
「ロズ! ジキスムントが、団をまとめています」
天幕へ駆け込んだユーグの声は、珍しく余裕を欠いていた。
「十人の骸を見て、南部の連中が、火が点いたように。──日暮れとともに、竜殺しの槍は団ごと南門を出ます。名代の制止の命令も、届きません」
ロズヴェータは、卓上の地図から顔を上げた。
「ヴェルダー卿は」
「正式な命令系統を通して、留まれと命じました。しかし、無視されています。──脱走を罰する兵も、もう腹を空かせていますから」
絵図が、冷たく繋がっていく。
一人二人の脱走なら、壁は保つ。だが、一個騎士団が団旗を掲げて南門を開ければ──それは脱走ではない。城の"崩れ"だ。守りが薄くなり、残った兵の心が折れ、そして、大きく開いた門へ。
──迫る三日月に脅えて城が飢え、飢えて割れ、割れて、誰かが門の閂に手をかける。
「これが、あの男の待っていた"開門"だ」
ロズヴェータは、低く呟いた。
「ジキスムントは、逃げるんじゃない。首狩りのために、門を開けに行く」
「止めますか。──三頭獣を、南門へ?」
「刃で止めれば、城の中で味方同士の血が流れる。それこそ、あの男の思う壺だ」
ロズヴェータは、外套を掴んだ。
「止めるなら、言葉と、飯でだ。──ユーグ。昨日の"あれ"を動かせ」
ユーグの赤い瞳が一瞬、見開かれ、それから、すっと細くなった。
「……本気ですか。王配殿下の名を、あんな形で使えば、名代殿が気づきますよ」
「気づかせておけ。──今夜あの団が門を出るのと、名代の機嫌と、どちらが重い」
ユーグは忌々しそうに舌打ちし、首を振った。
「この件で、名代殿がロズを責めるなら──その時は」
「その時は、その時だ!」
ユーグは短く息を吐き、深く頭を下げた。
「御意。──麦を、南の宿営地へ回します! ルル、ドラッド、ロズヴェータ様の護衛を! 親衛隊だけでは不足だ! ガーデル、ガッチェ! 麦を運び出せ! 兵を集めろ!」
ユーグの号令に、分隊長たちがきびきびと動き出す。
「あれ……俺は?」
名を呼ばれなかったバリュードが、天幕を出る寸前のユーグへ駆け寄る。だが、にっこりと笑って、冷たくあしらわれた。
「留守番だ。宿営地を守れ」
「えぇ!?」
驚愕するバリュードをぐいと引き寄せ、ユーグがそっと耳打ちする。
「下手をすれば、名代殿と戦だ。この意味、分かるな?」
灼けた瞳に宿る危険な決意を悟って、バリュードの童顔に、途端に不敵な笑みが差した。
「そういうことなら、問題なしだね。期待してるよ」
◇◆◇
竜殺しの槍の宿営は、殺気立っていた。
鎧を鳴らし、槍の穂を布で拭い、荷をまとめる南部の男たち。その中央で、団長ジキスムントが眉間に深い皺を刻み、団旗を睨んでいた。飢えて頬のこけた、それでも巌のような大男だった。
単騎で乗り込んできたロズヴェータへ、殺気立った視線が、いくつも突き刺さる。
その中には、かつて南部で見知った顔もあった。だが、ジキスムントは、それどころではなかった。
「──ロズヴェータ殿か」
ジキスムントの声は、擦れた岩のようだった。
相手が若い騎士団長であろうと、礼を失わぬ節度がある。だが、その目だけは殺気を抑えきれず、眉間に深い皺が寄っていた。機嫌の良い時は好々爺そのものの顔が、今は巌のように強張っている。
「止めに来たなら、無駄足だ。俺の兵が、十人、あんなふうに並べられた。給金も出ねえ、飯も尽きた城で、誰のものでもねえ壁を守って、餓えて死ねと? ふざけるな。俺は、俺の団を連れて南へ帰る。一人でも多く、生かして──」
「その怒りは、正しい」
ロズヴェータは馬を降りた。刃も抜かず、丸腰の掌を静かに見せる。
「貴方の兵を餓えさせた城の采配は、間違っている。それは認める。──だが、一つだけ、間違えている」
「なんだと」
「その門を、団ごと出れば──貴方の団は、南へは帰れない」
ロズヴェータは、まっすぐに大男を見上げた。
「あの十人の骸は、脅しじゃない。餌だ」
ジキスムントの白い眉が、動いた。
「あの首狩りは、城壁を攻めない。城が自分から門を開くのを待っている。──貴方が団を率いて南門を開けた、その瞬間こそが、あの男の待つ"開門"だ。壁の守りは薄くなり、城の心は折れ、開いた門へ、峠の向こうの軍が雪崩れ込む。貴方は逃げるんじゃない。あの男のために、門を開けてやりに行くんだ」
「……たわ言を」
ジキスムントの声が、掠れた。だが、その目の奥に、初めて迷いが差した。
「あの骸は、抜けようとした馬鹿が狩られただけだ」
「一人二人なら、あの男は殺しもしない。放っておく」
ロズヴェータは、静かに続けた。
「わざわざ骸を並べ、旗を立てたのは、"貴方に見せる"ためだ。貴方を怒らせ、焦らせ、団ごと引きずり出すために。──今、貴方の胸で燃えているその火は、貴方のものじゃない。峠の向こうから、あの男が点けた火だ」
宿営が、静まった。槍を拭く手が、一つ、また一つ、止まっていく。
「じゃあ、どうしろと言う」
ジキスムントが、絞り出した。
「ここに残って、餓えて死ねと。それが、あんたの言い分か」
「餓えさせは、しない」
ロズヴェータは、後ろへ短く合図した。
宿営の入り口へ、荷車が次々と入ってくる。積まれているのは──麦だった。冬の都では金貨より重い、白い麦の袋。筆頭分隊長ガッチェと、兵站を握る騎士ガーデルが、それぞれ兵を率い、慎重に守り抜いて運んできたものだった。
「今朝、都の穀物商と両替商の隠し蔵を押さえた。戦を見越して、都の外へ逃がそうとしていた麦だ。王配殿下の名において、召し上げた」
ロズヴェータは、袋の一つを地に下ろさせた。ずしり、と鈍い音が、雪に沈む。
「まずは、貴方の団の腹から満たす。──今夜、餓えて死ぬ者は、一人も出さない」
男たちの目が、麦の袋へ吸い寄せられる。飢えた喉が、ごくり、と鳴った。
だが、ジキスムントは動かなかった。巌のような顔に、屈辱の色が濃く差している。
「……施しか」
低く、吐き捨てる。
「餓えた犬に餌を投げて、繋ぎ止めるつもりか」
「施しじゃない」
ロズヴェータの声が、初めて鋭くなった。
「取引だ。──貴方の十人を殺したのは、飢えでも、この城でもない。峠の向こうの、あの男だ。南へ逃げて背中から狩られて死ぬか。ここに残って、あの男の絵図を内側からへし折るか。──貴方の槍の、向ける先を間違えるな」
巌のような大男が、ロズヴェータを長いあいだ見下ろしていた。
やがて、その節くれだった手が、槍持ちに預けてあった己の槍を、ぐっと握り直した。
「……あの男の、火だと言ったな」
「ああ」
「なら──その火は、あの男に返してやらにゃならん」
ジキスムントの口の端が、獰猛に吊り上がった。飢えてなお──かつて単独で飛竜を撃ち落としたと伝わる、竜殺しのジキスムントの顔だった。
「ロズヴェータ殿。俺の団は、残る。だが、覚えておけ。──次に俺の兵を餓えさせたら、その時は、あんたの喉を掻きに行く」
突きつけられた槍の穂先。飢えてなお鋭さを失わぬその切っ先へ、ロズヴェータは笑みを返した。
「その槍、大事に取っておけ。──向ける先は、じきに来る」
ロズヴェータが去った後、ジキスムントの周りには、ヘルギウス騎士団を支える騎士たちが集まっていた。
「親父。よろしいので」
「是非もあるまいよ。今回は、あの銀の獅子殿に免じて、抑えるしかあるまい」
その視線が向くのは、飢えた自軍の兵たちの惨状だ。
無論、負けるとは思っていない。だが確かに、南部へ帰る途上、その背をイブラヒムに襲われれば危うい。
「大丈夫ですかね。あの若造を信頼して」
「あン? お前にできるか。──竜殺しのジキスムントの槍を突きつけられながら、笑って啖呵を切るってことがよ」
ジキスムントの言葉に、集まった騎士たちは、皆一様に黙り込む。尊敬すべき団長がそう言うのなら、あとは納得して、結果を飲み干すだけだった。
「……貴族でなけりゃ、俺の娘をくれてやるところだが」
「そりゃ、お嬢さんが激怒しますなぁ」
古参の一人の言葉に、ジキスムントの口の端が、また吊り上がった。
◇◆◇
南門は、その夜、閉じたままだった
見えていた一つの罅が、辛うじて塞がった。
だが、代償は軽くない。
召し上げた麦の蔵の主は、都の金を握る商人たちだ。彼らを敵に回せば、都に残った金の流れが、また一つ細くなる。ロズヴェータが銭で繋いできた、その銭の井戸を、自分の手で少しずつ涸らしていることになる。
そして、もう一つ。
天幕へ戻ったロズヴェータを待っていたのは、名代の使いだった。
『王配殿下の名を騙り、正規の手続きを経ず、都の蔵を押さえたる件──至急、王城まで釈明に参られたし。アルブレヒト・ヴェルダー』
几帳面な、正しい字だった。
ロズヴェータは、その一行を蝋燭の火にかざした。
正しい名代は、正しく気づいた。末席の辺境者が王配の名を使い、都の蔵を動かし、崩れかけた騎士団を、自分の手で繋ぎ止めたことに。──それは、名代の采配を真横から追い越す振る舞いだった。
城の中の戦は、もう隠せない段階に入っている。
ロズヴェータは、文を火にくべた。青い焔が、正しい字を灰へ変えていく。
「──ここからは、戦か」
呟きは白い息になって、凍えた天幕の闇へほどけていった。
崩れた硝子窓の向こう、東の空で、月がまた一日分、肥えている。雪解けまで、ひと月と少し。
一つの罅を塞げば、あの男は次の罅を探す。城が自分から割れるより早く、割れ目を一つずつ塞いでいく。──果てのない、内側の戦の、これはまだ、ほんの始まりだった。
◇◆◇
王城の謁見の間は、飢えた都の底で、そこだけが場違いなほど明るかった。
高い天井から吊られた燭台に、惜しみなく蝋燭が灯されている。冷えた大理石の床が、その光を鈍く照り返し、参列した官吏たちの吐く息だけが、白く、天井の暗がりへ昇っていった。
召喚状に記された罪状は、一分の隙もない。王配殿下の名を騙り、正規の手続きを経ず、都の蔵を押さえた。──どれも、事実だ。弁明の余地は、法の上には、ない。
ロズヴェータは、それを承知で、この間へ足を踏み入れていた。
正面の玉座に、女王マリネット。青ざめた白い顔に、いつもの真っ直ぐな背。その傍らの欄干に、王配ルセーブルが、退屈そうにもたれている。そして玉座の下、あるべき位置に、名代アルブレヒト・ヴェルダーが立っていた。
几帳面に整えられた白髪。乾いた、生真面目な横顔。──かつて評定で見た、あの正しさの人。その目の下に、いつか差していた疲れの影が、いっそう濃くなっている。
城を、誰よりも忠実に守ろうとしてきた男が、今、城をいちばん危うい手で生かした男を、裁く側に立っている。
皮肉な絵図だった。
◇◆◇
同じ頃、都の外れ──三頭獣の宿営地は、声を殺した戦支度に満ちていた。
鎧の革紐を締め直す音。砥石を滑る刃の、しゃり、しゃりという乾いた音。馬に鞍を置き、荷を軽くし、いつでも動けるように。──だが、その支度が向く先は、峠の向こうの敵ではない。
否、彼等にとってロズヴェータを害するものが即ち敵である。
その中心で、副官ユーグが、地図を広げた卓の前に立っていた。銀の髪を後ろで束ね、赤い瞳から、いつもの柔らかさが消えている。
「ナヴィータ。王城の門は」
「見張ってるよ。隊長が出てくりゃ、すぐ報せる。──もし、縄でもかけられて出てきたら?」
「その時は」
ユーグは、地図の一点、王城の印を、指の背でこつりと叩いた。
「──何をしてでも取り戻す」
宿営が、しん、と静まった。
「本気かよ、副官」
バリュードが、にやりと笑う。剣を磨く手は、嬉しそうに、止まらない。
「名代の兵と、殺り合うのか。この、飢えた城の、ど真ん中で」
「本気だ」
「冗談だろう? おい、軍師さんよ。あんたも同意見か?」
問われた分隊長ヴィヴィは、呆れたように肩を竦め、潰れ耳のヴォルクへ話を振った。ヴォルクもまた、舌打ちしつつ首を振る。
「……馬鹿だとは思っていたがここまでとは思わんかった! 救い出すしかねえんだよ」
お手上げだと言わんばかりに、両手を挙げたヴォルク。
「救い出さないとは言ってないけどさ」
ヴィヴィは、筆頭分隊長ガッチェへ目をやった。だが、無言で短槍を丁寧に拭うその横顔を見て、声をかけるのを諦める。何も言わずとも、ガッチェもユーグ側だ。辺境伯家出身のこの男は、ロズヴェータを死なせるくらいなら、聖都など捨てて辺境へ引き上げるべきだと、本気で考えている節がある。
続いて、斥候を務めるホルベク、兵站を司る騎士ガーデル、砂漠の人であるミスキンドに視線を転じてみても、皆が皆、戦支度に余念がない。
「こりゃ、反逆罪で国外逃亡もあるかもね……」
「姐さんは逃げないんで?」
トーロウの疑問に、ヴィヴィは肩を竦めた。
「それなりに、付き合いは長いんでね」
諦め交じりにため息を吐いたヴィヴィは、それで自身も戦支度に戻る。ロズヴェータを見捨てるつもりがないのは、彼女も一緒だった。
「副官殿、それをすると──城が、内側から割れる。峠の向こうの首狩りが、いちばん喜ぶやつだ」
低く、乾いた声で言ったのは、ルルだった。拾われた者は、拾い手のために刃を抜く。だが、その刃が城を割ることも、この女は分かっている。
「分かっている」
ユーグは、静かに言った。
「これは、あの首狩りの絵図に、自分から嵌まりに行く手だ。いちばん、やってはいけない手だと、な。──だが、それがどうした?」
傾国の美貌に、静かな口調。いつも以上に一言一言を区切って喋る姿には、鬼気迫るものがあった。据わった灼眼が向く先──夜の王城は、闇に沈んだままだ。ユーグは、静かに激していた。
「ロズヴェータ様がいなければ、この城は、どのみち保たない。頭を失えば、あとに残るのは、ただの餓えた獣の群れだ」
赤い瞳が、上がる。
「城を守るために、城を割る。矛盾は、承知の上だ。だが、もしロズヴェータ様に傷一つでもつけたならば、名代殿には、高い代償を払っていただく。誰がこの城を保たせるために、汚れた仕事をしてきたのか、わかった上で罰するというのなら」
ユーグは、腰の細剣に、そっと手を置いた。
「──邪魔する奴は皆、殺せ。容赦する必要はない。責任は私が取る」
壮絶なユーグの命令に、分隊長達でさえ息を呑む。
ドラッドが、無骨な手で、槍の石突きを、とん、と地に突いた。
「いつものように、あの人が王城の門から笑って出てくれば、何の問題もないんだけれどなぁ」
誰も、笑わなかった。だが、その一言で、殺気立った宿営の空気が、ほんの少しだけ、緩んだ。
そうして、彼らは待った。
凍てた風の中、王城の門を睨みながら。──ロズヴェータが、生きて帰るのを。
◇◆◇
「ロズヴェータ・スネク・カミュー卿」
ヴェルダーの声は、乾いて、揺るがなかった。
「昨日の朝、貴殿は、王配殿下の名において、都の商館の蔵を押さえ、その中身を、一個騎士団へ分け与えた。──王配殿下の裁可を、事前に得ていたか」
「……得ておりません」
嘘は、つかなかった。この男に嘘は通じない。
「では、王家の名を騙った。加えて、私の采配を通さず、都の財を動かした」
ヴェルダーの指が、手にした帳面を、こつ、と叩く。
「これは、名代への叛意と取られても、仕方のない行いだ。──分かっているのか、貴殿は」
「分かっています」
「なら、なぜ」
「南門を、開けさせぬためです」
謁見の間が、静まった。
「仰る通りです」
ロズヴェータは、まっすぐにヴェルダーを見た。
「私は、間違ったやり方で、間違ったことをした。王の名を騙り、商人の麦を奪った。──だが、あの南門は、今朝も閉じていた。竜殺しの槍は、都に残っている」
「結果が、手段を正当化するとでも」
「いいえ。手段は、汚いままです」
ロズヴェータは、頭を垂れた。
「ですが、ヴェルダー卿。一つだけ、聞いていただきたい。──峠の向こうのあの男は、この城を、攻めては来ません」
ヴェルダーの、乾いた眉が、わずかに動いた。
「首狩りは、城壁に兵の血を吐かせるのを、誰より嫌う。あの男が待っているのは、城が、自分から割れることだ。飢えた兵が仲間を疑い、騎士団が門を開けて逃げ出し、都が内から崩れる、その日を。──そして」
ロズヴェータは、声を落とした。
「そのために、あの男が突いてくるのは、卿の"正しさ"です」
ヴェルダーの顔から、表情が、すっと引いた。
「手続きは、いつも正しい。だが、その正しさは、迫る刃には間に合わない。給金の解凍を待てば、兵は先に飢え死ぬ。脱走を裁こうにも、裁く兵が、いずれいなくなる。──あの男は、卿の几帳面な帳面の、その"間に合わない空欄"を、正確に狙っているんです」
長い、沈黙が落ちた。
ヴェルダーは、答えなかった。だが、その乾いた目の底で、何かが、軋むように揺れた。──有能な男の、目だった。愚か者なら、一笑に付す。だが、この男は、聡すぎた。だから、見えてしまう。自分の背骨である正しさが、そのまま、敵の刃になっている絵図が。
「……その正しさを、捨てれば」
ヴェルダーは、絞り出すように言った。
「この城は、ただの無法地帯だ。貴殿のような者が、都合よく王の名を使い、財を奪い、兵を私に付ける。それを一度許せば、都は、外から割られる前に、内から腐る。──それも、また、あの男の思う壺ではないのか」
その通りだった。
この男の言うことも、また、一分の隙もない。ロズヴェータは、内心で静かに舌を巻いた。──だから、始末に困る。ヴェルダーは、無能ではない。有能で、そして、その正しさに、縛られている。
だからこそヴェルダーは、そこで、いちばん強い札を切った。
「王家の名を騙った件。──これだけは、言い逃れができぬ」
乾いた視線が、玉座の傍らの、退屈そうな青年へ向けられた。
「殿下。この者は、殿下の名を、無断で用いました。ひと言、"そのような命令はしていない"と仰っていただければ、事は済みます。この不遜な辺境の者を、堂々と、裁くことができる」
全員の視線が、王配ルセーブルへ集まった。
青年は、欄干にもたれたまま、けだるく目を上げた。──退屈そうに。いや、退屈そうに、見せていた。その目の奥で、ロズヴェータだけが知る、あの飢えた光が、ちらりと動く。
名だけの王が、生まれて初めて、この城のすべての視線を、独り占めにした瞬間だった。
ルセーブルは、ゆっくりと、口を開いた。
「無断?──はて」
その一言で、謁見の間の空気が、凍りついた。
「私は、確かに命じたはずだが。名代」
ヴェルダーの横顔が、こわばる。
「冬の都で、飢えた兵が、門を破ろうとしていた。それを止めよと、私が、この辺境の騎士に命じた。都の外へ逃げる商人の蔵を開き、兵の腹を満たせ、と。──何か、間違っているか、名代。それとも、この私の言葉は、王配の名には、値せぬと?」
ルセーブルの声は、初めて、王のものだった。
退屈の中で腐っていた青年が、ロズヴェータの撒いた餌で権力の味を覚え、そして今、その味を、皆の前で、確かに味わっている。
ヴェルダーは、動かなかった。
だが、その几帳面な横顔に、ロズヴェータは、初めて見る色を見た。──理解だった。有能な男は、たった今、悟ったのだ。名だけの王が、末席の辺境者の掌の上で、生まれて初めて"王の言葉"を口にしたことを。そして、その言葉を、もう、誰にも覆せないことを。
王が命じたなら、それは、正しい。
ロズヴェータの汚れた手が、たった今、王命という、いちばん綺麗な鞘に、収まった。
◇◆◇
玉座の上で、喋らぬ女王マリネットは、身じろぎもしなかった。
ただ、その澄んだ瞳が、一瞬だけ、ロズヴェータへ向けられる。──この都を、割らずに、春まで生かして。あの祈祷室の、剥き出しの願い。それを、この男が、汚れた手で、確かに叶えつつあることを、女王は見ていた。咎めもせず、褒めもせず。ただ、見ていた。
打ち手は、盤を、見ている。
「……殿下の、御命令とあれば」
ヴェルダーは、深く頭を垂れた。
「名代として、従いましょう。差し出た真似を、失礼いたしました」
正しい男は、正しく、退いた。
だが、退きながら、その乾いた目は、まっすぐにロズヴェータを捉えていた。──もう、騙されはしない。次はない。そう告げる目だった。ひとりの、聡く、そして今、目を覚ました男の、静かな宣戦だった。
◇◆◇
王城を出ると、凍えた風が、火照った頬を刺した。
勝った。──だが、勝つたびに、盤の上の自分の駒が、大きく、見えやすくなっていく。
どこかで、ナヴィータの合図が、宿営へ飛んだだろう。獣たちが、抜きかけた刃を、静かに鞘へ戻す。──今日は、味方の血を流さずに済んだ。あの首狩りに、罅を一つ、くれてやらずに済んだ。
だが、今日、あの謁見の間に居並んだ官吏の、誰かの文が、じきに王都へ飛ぶ。辺境の子が、王配を意のままに操り、王の名を使い、名代を出し抜いた、と。
──辺境の力を削ぎたい王家派閥に、格好の口実を、くれてやったかもしれない。
ガベル・リード・ルクレインが、いちばん見たくなかった絵図が、今日、一枚、描き上がった。
崩れた硝子窓の向こう、東の空で、月がまた一日分、肥えている。雪解けまで、ひと月と、少し。
城の中の戦は、一つ、こちらの手に転がった。だが、勝ち星が増えるほど、こちらの旗は、遠くからでも、よく見えるようになる。
──次に狙われるのは、たぶん、この、俺の首だ。
ロズヴェータは、白い息を長く吐き、凍てた都の空を、見上げた。




