根を下ろす
アブドゥルに根をやると決めたその夜から、ロズヴェータは彼へ一人、影をつけていた。
斥候のナヴィータ。元狩人の斥候頭グレイスの下で働く男で、雪と夜に溶ける、三頭獣きっての目だ。──エルフィナスに生まれ、行き場を失い、こちらへ流れ着いた耳長族の男。同じ東の生まれの敗残者を見張らせるのに、これほど適した目もない。
抜き身の刃には、拾う前から見張りが要る。誰かが、折りに来る前に。
その勘は、すぐに証を立てた。
◇◆◇
凍てた夜半、アブドゥルはいつものように、祈祷室からの帰り道を歩いていた。
月のない晩だった。飢えた都は物音ひとつ立てない。凍った石畳が、足の裏から芯を冷やしてくる。吐く息だけが、白く、ぼろぼろと闇へこぼれていくような夜。
その背へ、路地の闇から、痩せた影がいくつも湧いた。
振り上げられた刃が、わずかな星明かりを鈍く弾く。
「エルフめ! てめえだけ、暖けえ卓で飯を食いやがって」
低い声だった。憎しみというより、追い詰められた飢餓の匂いのする声。
アブドゥルは、逃げなかった。フードの下で、静かに目を閉じる。──朽ちるのを待っていた男には、いっそ楽な終わりだったのかもしれない。
だが、影が刃を振り下ろすより早く──闇を裂いて、短い弦音が鳴った。
一本、二本。先頭の男が呻いて膝を折る。矢は、殺すためではなく、利き腕を潰すためだけに、正確に射込まれていた。
「ふふん、どうよ。おいらの腕前」
得意げなナヴィータの声に、ロズヴェータは苦笑して剣を抜いた。
抜いた刃が、闇の中で、鈍く光を溜めている。
「──やめておけ」
飢えた兵たちが、ロズヴェータの姿にひるんだ。使い込まれた皮鎧を所々鉄で補強し、背には騎士団長を示す短い外套。歴戦の風格を纏った、戦士の影だった。闇にその若すぎる顔は見えずとも、佇まいだけで十分な脅しになる。
数だけの飢えた兵が、勝てる相手ではない。だが、その目の底の餓えは、まだ消えていない。
「そいつは、敵だ」
誰かが、掠れた声で吐き捨てた。
「……なんで、そいつを庇う」
護衛と称してついてきた分隊長バリュードが、ちらちらとロズヴェータを窺っている。餌を前に待てをさせられた犬さながらだったが、ロズヴェータは敢えて無視した。もう一人の護衛、分隊長ドラッドは、実直に相手の出方を窺っている。
「腹が減っているのは、分かっている」
ロズヴェータは剣を下げなかった。声だけを、静かに落とす。
「だが、よく聞け。その怒りの向く先が、この男だと──いちばん都合がいいのは誰だと思う。峠の向こうの、あの首狩りだ。お前たちが今そいつを斬れば、あの男は指一本汚さずに、この城の罅をひとつ、深くできる」
襲撃してきた兵たちは、答えなかった。ただ、腕を潰された仲間を引きずり、餓えた獣のように、また闇へ溶けていった。
「追う?」
ナヴィータの問いに、ロズヴェータは頷く。
「行き先だけをな。無理をする必要はない」
「任しときなって」
夜の闇に溶けるように、ナヴィータもまた彼らの後を追っていく。その背を見送って、ロズヴェータは、まだ一言も発さぬ一人の男へ視線を移した。
あとに残ったのは、白い息と、凍てた石畳と、膝を折らなかった一人の男だけだった。
◇◆◇
アブドゥルは、まだ目を閉じていた。やがて、ゆっくりと、それを開く。
「……なぜ、助けた」
低い声だった。
「あそこで私が死ねば、あなたの城から、厄介な楔が一つ消えたものを」
「拾うと言った」
ロズヴェータは、剣を鞘へ納めた。硬い金属の音が、路地に短く響く。
「拾うと決めた物を、みすみす折らせはしない。──たとえ、あんたが折られたがっていてもだ」
アブドゥルの暗い瞳が、揺れた。
朽ちるのを待つ、とこの男は言った。だが、いざ刃が首筋に迫ったとき、その背を守ったのは、正しい名代でも、丁重に遇してくれた卓でもなかった。──拾うと言った、この汚れた手ひとつだけだった。
「……正しいヴェルダー卿は、私を厚くもてなしてくださった」
アブドゥルは、乾いた笑いを漏らした。白い息が、途切れがちに揺れる。
「だが、飢えた兵が私の喉を掻きに来ても、あの正しさは指一本動かせますまい。厚遇と、庇護は違う。──今宵、それを骨の髄まで思い知りましたよ」
「客人には、庇護はつかない」
ロズヴェータは、静かに言った。
「駒には、つく。──どちらがいい」
長い沈黙が落ちた。凍てた夜気が、二人の白い息を、ゆっくりと一つに溶かしていく。
やがて、アブドゥルは──膝を折った。冷えた石畳へ、片膝を。捕虜としてでも、客人としてでもなく。
「聡明なる、などという二つ名は、とうに捨てました」
掠れた、けれど芯の戻った声だった。
「ここにいるのは、ただの根無し草です。──その根無し草に、まだ根を張る土があるというなら」
顔を上げた男の、暗い瞳の底で。
とうに死んだはずの火が、確かに、小さく灯っていた。
「あなたの盤の駒に。──使ってください、ロズヴェータ殿」
自分の足で、この男は、ここまで歩いてきた。
根が、下りた瞬間だった。
◇◆◇
ロズヴェータは手を差し伸べ、男を立たせた。冷え切った、骨ばった手だった。
「では、さっそく駒の仕事を頼もう」
立ち上がる男へ、彼は静かに問うた。
「一つ、教えてくれ。──首狩りは、どう攻めてくる」
アブドゥルの背が、そこで初めて、将の形に戻った。
「攻めては、来ませんよ」
その一言に、ロズヴェータは目を細めた。
「あの城壁は千年、落ちていない。総督は──イブラヒムは、力攻めを誰より嫌う。シャロンで一度、城壁に兵の血を吐かせて、高い月謝を払っている。同じ愚を二度繰り返す人ではない」
アブドゥルの声は、乾いていたが確かだった。
「野営の攻城塔も、鳴りやまぬ鍛冶の煙も、夜ごと増える篝火も──あれは攻めるためのものではない。見せるためのものだ。城の中の人間を脅えさせ、飢えさせ、疑わせ、互いに斬らせるための」
絵図が、音を立てて繋がっていく。
──迫る三日月に脅えて城が飢え、飢えて割れ、割れて、誰かが門の閂に手をかける。
ロズヴェータの背を、冷たいものが走った。恐怖ではない。腑に落ちた者の、戦慄だった。
「……あの男は、城を攻めに来るんじゃない。城が、自分から門を開くのを待っている」
「その通り」
アブドゥルは、深く頷いた。
「だから先ほど、私はあなたに救われた。──飢えた兵が敵将を斬る。城の中で血が流れる。兵が主を疑う。その一つ一つが、峠の向こうのあの男の手を、そっくり助けるのです。今宵、私が斬られていれば、総督は指一本汚さずに、この城の罅をまた一つ、深くできた」
抜き身の刃は、握らずとも、握らせても、城を割る。──だが、握った上で、その切先を、正しく峠の向こうへ向ければ。
「本当の戦は、城壁の外じゃない」
ロズヴェータは、白い息とともに呟いた。
「この城の、中だ」
窓が、開いた。
首狩りの盤を、内側から覗く、たった一つの窓が。
◇◆◇
天幕へ戻る回廊に、自分の靴音だけが硬く鳴っている。
夜が明ければ、ロズヴェータの盤に駒が一つ、増えている。あの男の手の内が、これで見える。──悪くない。悪くない、が。
膝を折ったあの男の瞳に灯った火は、本物だった。本物の忠義だ。だが、本物の火は、いつか思わぬ方へ燃え移ることがある。握った刃の切先が、峠の向こうを向いているうちはいい。それが、いつかこちらを向く日が来ないと、誰に言えるだろう。
"本物だからこそ、いちばん危ない"
あの女の声を、ロズヴェータは、天幕の炭火の前まで持ち帰った。
天幕の隅には、いつも誰かがいる。
今夜は、護衛から戻ったばかりの分隊長ドラッドと、夜番あけの分隊長ルル。それに、まだ血の気の引ききらぬ顔で剣を拭っている分隊長バリュードだった。
三人とも、ロズヴェータが"拾った"口だ。
ドラッドは、クリウベルの反乱によって頼っていた旗を失い、野に朽ちかけていたところを。ルルは、傭兵の頃、首狩りの手の者に脅されてアウローラを狩る側にされ、用が済めば捨てられるはずだったところを。
──行き場を失くした者ばかりが、いつのまにか、この隊の骨になっている。
炭火に手をかざし、ロズヴェータはぽつりと切り出した。
「一つ、訊きたい。──拾った刃が、いつかこちらを向く。それを、どうすれば防げる?」
「そんなもん、簡単でしょ」
真っ先に口を開いたのは、バリュードだった。剣を磨く手も止めず、にやりと笑う。
「向いてきたら、こっちが先に斬りゃあいい。俺が、いつでも」
「黙れ、真面目な話だ」
ルルが、低く遮った。バリュードが肩を竦める。
しばらく、炭の爆ぜる音だけが、天幕に落ちた。やがてルルが、強い目を炭火へ落としたまま口を開いた。
「……隊長。結論から言うと無理。刃は、いつだってこっちを向く。向けないのは、向けたくないから。それだけだ」
「向けたく、ない」
「拾われた時のことを、よく覚えてる」
ルルの声は、低く乾いていた。
「傭兵団の団長が死んでしまって、これからどうしようと思っていた時だった。道具だった。脅されて、使われて、済んだら捨てられる。名前もない、ただの道具だ。普通なら、異国の傭兵の女なんて、どんな無残な末路も珍しくない。……だけど、隊長に拾ってもらった」
ロズヴェータは、黙って聞いていた。
「あの投降者も、道具で拾えば、いつか向く」
ルルは、顔を上げた。
「道具は、使い手を選ばない。──人として拾うなら、別だと思う。……たぶん、そいつが首狩りに欲しかったのも、それだろ」
首狩りは、人を道具として絞り尽くし、捨てる。──ならば、こちらが握る手は、その逆でなければならない。
「難しく考えることは、ねえですよ、隊長」
今度は、ドラッドが実直に言った。
「疑うなら、拾わねえ。拾うなら、疑わねえ。──中途半端が、いちばん人を腐らせる。俺たちを見りゃ、分かるでしょう」
「疑うなら、拾うな、か」
「俺は、クリウベルの兄貴が死んだ後も、生きて行くとしたらこれしかねえと思ってきた。あんたは、ヤバい橋だと分かった上で、黙って拾ってくれた」
ドラッドは、口の端で笑った。
「あれで、終いでさあ。理屈じゃねえ。──腹が減った時に黙って飯を出してくれた手を、人は、そう簡単にゃ裏切れねえもんです」
ロズヴェータは、炭火の橙を、しばらく見つめていた。
"人として拾うなら"。"疑うなら、拾うな"。──二人の言葉は、同じ一点を、別の側から指していた。
握った刃が、こちらを向く時。それは、握り手がその刃を"人"ではなく"道具"として見た、その時だ。首狩りが、アブドゥルにしたように。
ならば、答えは一つしかない。
あの男の"火種"は、利に使う。だが、火種を抱えた"人"を、道具にはしない。──その細い一線の上を、渡り続けること。踏み外した時、刃は、こちらを向く。
◇◆◇
それでも、と、ロズヴェータは思う。
時間がない。
賭けるしかなかった。──だが、賭けの目をどちらに転がすかは、握る手の置き方ひとつだ。
崩れた硝子窓の向こう、東の空で、月がまた一日分、肥えていた。凍てた夜気が、頬を薄く刺す。雪解けまで、ひと月半。
窓は、開いた。
──あとは、そこから見える絵図を、城が自分から割れるよりも早く、使い切るだけだ。
道具としてではなく。──人として拾った、駒とともに。




