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獣達の騎士道  作者: 春野隠者
聖都への道

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171/219

根を下ろす

 アブドゥルに根をやると決めたその夜から、ロズヴェータは彼へ一人、影をつけていた。

 斥候のナヴィータ。元狩人の斥候頭グレイスの下で働く男で、雪と夜に溶ける、三頭獣《ドライアルドベスティエ》きっての目だ。──エルフィナスに生まれ、行き場を失い、こちらへ流れ着いた耳長族《エルフ》の男。同じ東の生まれの敗残者を見張らせるのに、これほど適した目もない。

 抜き身の刃には、拾う前から見張りが要る。誰かが、折りに来る前に。

 その勘は、すぐに証を立てた。


◇◆◇


 凍てた夜半、アブドゥルはいつものように、祈祷室からの帰り道を歩いていた。

 月のない晩だった。飢えた都は物音ひとつ立てない。凍った石畳が、足の裏から芯を冷やしてくる。吐く息だけが、白く、ぼろぼろと闇へこぼれていくような夜。

 その背へ、路地の闇から、痩せた影がいくつも湧いた。

 振り上げられた刃が、わずかな星明かりを鈍く弾く。

「エルフめ! てめえだけ、暖けえ卓で飯を食いやがって」

 低い声だった。憎しみというより、追い詰められた飢餓の匂いのする声。

 アブドゥルは、逃げなかった。フードの下で、静かに目を閉じる。──朽ちるのを待っていた男には、いっそ楽な終わりだったのかもしれない。

 だが、影が刃を振り下ろすより早く──闇を裂いて、短い弦音が鳴った。

 一本、二本。先頭の男が呻いて膝を折る。矢は、殺すためではなく、利き腕を潰すためだけに、正確に射込まれていた。

「ふふん、どうよ。おいらの腕前」

 得意げなナヴィータの声に、ロズヴェータは苦笑して剣を抜いた。

 抜いた刃が、闇の中で、鈍く光を溜めている。

「──やめておけ」

 飢えた兵たちが、ロズヴェータの姿にひるんだ。使い込まれた皮鎧を所々鉄で補強し、背には騎士団長を示す短い外套。歴戦の風格を纏った、戦士の影だった。闇にその若すぎる顔は見えずとも、佇まいだけで十分な脅しになる。

 数だけの飢えた兵が、勝てる相手ではない。だが、その目の底の餓えは、まだ消えていない。

「そいつは、敵だ」

 誰かが、掠れた声で吐き捨てた。

「……なんで、そいつを庇う」

 護衛と称してついてきた分隊長バリュードが、ちらちらとロズヴェータを窺っている。餌を前に待てをさせられた犬さながらだったが、ロズヴェータは敢えて無視した。もう一人の護衛、分隊長ドラッドは、実直に相手の出方を窺っている。

「腹が減っているのは、分かっている」

 ロズヴェータは剣を下げなかった。声だけを、静かに落とす。

「だが、よく聞け。その怒りの向く先が、この男だと──いちばん都合がいいのは誰だと思う。峠の向こうの、あの首狩りだ。お前たちが今そいつを斬れば、あの男は指一本汚さずに、この城の罅をひとつ、深くできる」

 襲撃してきた兵たちは、答えなかった。ただ、腕を潰された仲間を引きずり、餓えた獣のように、また闇へ溶けていった。

「追う?」

 ナヴィータの問いに、ロズヴェータは頷く。

「行き先だけをな。無理をする必要はない」

「任しときなって」

 夜の闇に溶けるように、ナヴィータもまた彼らの後を追っていく。その背を見送って、ロズヴェータは、まだ一言も発さぬ一人の男へ視線を移した。

 あとに残ったのは、白い息と、凍てた石畳と、膝を折らなかった一人の男だけだった。


◇◆◇


 アブドゥルは、まだ目を閉じていた。やがて、ゆっくりと、それを開く。

「……なぜ、助けた」

 低い声だった。

「あそこで私が死ねば、あなたの城から、厄介な楔が一つ消えたものを」

「拾うと言った」

 ロズヴェータは、剣を鞘へ納めた。硬い金属の音が、路地に短く響く。

「拾うと決めた物を、みすみす折らせはしない。──たとえ、あんたが折られたがっていてもだ」

 アブドゥルの暗い瞳が、揺れた。

 朽ちるのを待つ、とこの男は言った。だが、いざ刃が首筋に迫ったとき、その背を守ったのは、正しい名代でも、丁重に遇してくれた卓でもなかった。──拾うと言った、この汚れた手ひとつだけだった。

「……正しいヴェルダー卿は、私を厚くもてなしてくださった」

 アブドゥルは、乾いた笑いを漏らした。白い息が、途切れがちに揺れる。

「だが、飢えた兵が私の喉を掻きに来ても、あの正しさは指一本動かせますまい。厚遇と、庇護は違う。──今宵、それを骨の髄まで思い知りましたよ」

「客人には、庇護はつかない」

 ロズヴェータは、静かに言った。

「駒には、つく。──どちらがいい」

 長い沈黙が落ちた。凍てた夜気が、二人の白い息を、ゆっくりと一つに溶かしていく。

 やがて、アブドゥルは──膝を折った。冷えた石畳へ、片膝を。捕虜としてでも、客人としてでもなく。

「聡明なる、などという二つ名は、とうに捨てました」

 掠れた、けれど芯の戻った声だった。

「ここにいるのは、ただの根無し草です。──その根無し草に、まだ根を張る土があるというなら」

 顔を上げた男の、暗い瞳の底で。

 とうに死んだはずの火が、確かに、小さく灯っていた。

「あなたの盤の駒に。──使ってください、ロズヴェータ殿」

 自分の足で、この男は、ここまで歩いてきた。

 根が、下りた瞬間だった。


◇◆◇


 ロズヴェータは手を差し伸べ、男を立たせた。冷え切った、骨ばった手だった。

「では、さっそく駒の仕事を頼もう」

 立ち上がる男へ、彼は静かに問うた。

「一つ、教えてくれ。──首狩りは、どう攻めてくる」

 アブドゥルの背が、そこで初めて、将の形に戻った。

「攻めては、来ませんよ」

 その一言に、ロズヴェータは目を細めた。

「あの城壁は千年、落ちていない。総督は──イブラヒムは、力攻めを誰より嫌う。シャロンで一度、城壁に兵の血を吐かせて、高い月謝を払っている。同じ愚を二度繰り返す人ではない」

 アブドゥルの声は、乾いていたが確かだった。

「野営の攻城塔も、鳴りやまぬ鍛冶の煙も、夜ごと増える篝火も──あれは攻めるためのものではない。見せるためのものだ。城の中の人間を脅えさせ、飢えさせ、疑わせ、互いに斬らせるための」

 絵図が、音を立てて繋がっていく。

 ──迫る三日月に脅えて城が飢え、飢えて割れ、割れて、誰かが門の閂に手をかける。

 ロズヴェータの背を、冷たいものが走った。恐怖ではない。腑に落ちた者の、戦慄だった。

「……あの男は、城を攻めに来るんじゃない。城が、自分から門を開くのを待っている」

「その通り」

 アブドゥルは、深く頷いた。

「だから先ほど、私はあなたに救われた。──飢えた兵が敵将を斬る。城の中で血が流れる。兵が主を疑う。その一つ一つが、峠の向こうのあの男の手を、そっくり助けるのです。今宵、私が斬られていれば、総督は指一本汚さずに、この城の罅をまた一つ、深くできた」

 抜き身の刃は、握らずとも、握らせても、城を割る。──だが、握った上で、その切先を、正しく峠の向こうへ向ければ。

「本当の戦は、城壁の外じゃない」

 ロズヴェータは、白い息とともに呟いた。

「この城の、中だ」

 窓が、開いた。

 首狩りの盤を、内側から覗く、たった一つの窓が。


◇◆◇


 天幕へ戻る回廊に、自分の靴音だけが硬く鳴っている。

 夜が明ければ、ロズヴェータの盤に駒が一つ、増えている。あの男の手の内が、これで見える。──悪くない。悪くない、が。

 膝を折ったあの男の瞳に灯った火は、本物だった。本物の忠義だ。だが、本物の火は、いつか思わぬ方へ燃え移ることがある。握った刃の切先が、峠の向こうを向いているうちはいい。それが、いつかこちらを向く日が来ないと、誰に言えるだろう。

 "本物だからこそ、いちばん危ない"

 あの女の声を、ロズヴェータは、天幕の炭火の前まで持ち帰った。

 天幕の隅には、いつも誰かがいる。

 今夜は、護衛から戻ったばかりの分隊長ドラッドと、夜番あけの分隊長ルル。それに、まだ血の気の引ききらぬ顔で剣を拭っている分隊長バリュードだった。

 三人とも、ロズヴェータが"拾った"口だ。

 ドラッドは、クリウベルの反乱によって頼っていた旗を失い、野に朽ちかけていたところを。ルルは、傭兵の頃、首狩りの手の者に脅されてアウローラを狩る側にされ、用が済めば捨てられるはずだったところを。

 ──行き場を失くした者ばかりが、いつのまにか、この隊の骨になっている。

 炭火に手をかざし、ロズヴェータはぽつりと切り出した。

「一つ、訊きたい。──拾った刃が、いつかこちらを向く。それを、どうすれば防げる?」

「そんなもん、簡単でしょ」

 真っ先に口を開いたのは、バリュードだった。剣を磨く手も止めず、にやりと笑う。

「向いてきたら、こっちが先に斬りゃあいい。俺が、いつでも」

「黙れ、真面目な話だ」

 ルルが、低く遮った。バリュードが肩を竦める。

 しばらく、炭の爆ぜる音だけが、天幕に落ちた。やがてルルが、強い目を炭火へ落としたまま口を開いた。

「……隊長。結論から言うと無理。刃は、いつだってこっちを向く。向けないのは、向けたくないから。それだけだ」

「向けたく、ない」

「拾われた時のことを、よく覚えてる」

 ルルの声は、低く乾いていた。

「傭兵団の団長が死んでしまって、これからどうしようと思っていた時だった。道具だった。脅されて、使われて、済んだら捨てられる。名前もない、ただの道具だ。普通なら、異国の傭兵の女なんて、どんな無残な末路も珍しくない。……だけど、隊長に拾ってもらった」

 ロズヴェータは、黙って聞いていた。

「あの投降者も、道具で拾えば、いつか向く」

 ルルは、顔を上げた。

「道具は、使い手を選ばない。──人として拾うなら、別だと思う。……たぶん、そいつが首狩りに欲しかったのも、それだろ」

 首狩りは、人を道具として絞り尽くし、捨てる。──ならば、こちらが握る手は、その逆でなければならない。

「難しく考えることは、ねえですよ、隊長」

 今度は、ドラッドが実直に言った。

「疑うなら、拾わねえ。拾うなら、疑わねえ。──中途半端が、いちばん人を腐らせる。俺たちを見りゃ、分かるでしょう」

「疑うなら、拾うな、か」

「俺は、クリウベルの兄貴が死んだ後も、生きて行くとしたらこれしかねえと思ってきた。あんたは、ヤバい橋だと分かった上で、黙って拾ってくれた」

 ドラッドは、口の端で笑った。

「あれで、終いでさあ。理屈じゃねえ。──腹が減った時に黙って飯を出してくれた手を、人は、そう簡単にゃ裏切れねえもんです」

 ロズヴェータは、炭火の橙を、しばらく見つめていた。

 "人として拾うなら"。"疑うなら、拾うな"。──二人の言葉は、同じ一点を、別の側から指していた。

 握った刃が、こちらを向く時。それは、握り手がその刃を"人"ではなく"道具"として見た、その時だ。首狩りが、アブドゥルにしたように。

 ならば、答えは一つしかない。

 あの男の"火種"は、利に使う。だが、火種を抱えた"人"を、道具にはしない。──その細い一線の上を、渡り続けること。踏み外した時、刃は、こちらを向く。


◇◆◇


 それでも、と、ロズヴェータは思う。

 時間がない。

 賭けるしかなかった。──だが、賭けの目をどちらに転がすかは、握る手の置き方ひとつだ。

 崩れた硝子窓の向こう、東の空で、月がまた一日分、肥えていた。凍てた夜気が、頬を薄く刺す。雪解けまで、ひと月半。

 窓は、開いた。

 ──あとは、そこから見える絵図を、城が自分から割れるよりも早く、使い切るだけだ。

 道具としてではなく。──人として拾った、駒とともに。


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