本物の楔
女王を、こちらから訪ねる。
その一手がどれほど危ういかは、ロズヴェータにも分かっていた。評定の末席に連なるだけの辺境伯家の三男が、王配の妻の私室へ人目を忍んで通う。──露見すれば、簒奪の噂を撒くには十分だ。まして十字教の都で、不義の疑いは、血の正しさを何より重んじる王侯にとって、命取りにもなりかねない。
だが、あの一行が、彼を引き寄せていた。
『次は、あなたから訪ねていらっしゃい。──"あの投降者"の話を、しましょう』
餌には、釣り針がある。承知の上で、ロズヴェータは口の利けぬ老いた侍女の案内に従い、また血の祈祷室の扉をくぐった。凍えた石の廊下に、蝋燭の脂と古い乳香の匂いが、細く漂っていた。
女王マリネットは、前と同じ場所に立っていた。削がれた聖像の下、数えるほどの蝋燭の中に。揺れる炎が、青ざめた頬へ淡い橙を這わせている。
ロズヴェータが礼を省いて歩み寄ると、女王の唇が微かに動いた。
「来ると思っていた」
「餌が、良すぎました」
マリネットの目の奥が、笑ったように見えた。──前より、少しだけ、気安く。
「あの投降者。聡明なるアブドゥル」
ロズヴェータは単刀直入に切り出した。
「陛下は、あの男に何を見ておいでですか。──本物の投降者か。首狩りの放った駒か」
「あなたは、どちらだと思うの」
「決めかねています。だから、来た」
「……正直ね」
マリネットはゆっくりと祭壇へ目を向けた。
「では、教えてあげる。──あの男は、本物よ」
「なぜ、そう言い切れます」
女王は削がれた古い聖像を、白い手でそっと撫でた。ざらついた石の傷を、指先が確かめるように。
「この祈祷室に、夜ごと来る者がいる。──わたくしと、同じ神ではない。あの男の神は、三日月の神。けれど、祈る背中の形は、どこの神でも同じなの」
ロズヴェータは息を呑んだ。
「アブドゥルが……ここへ」
「城を失い、主に見捨てられ、敵の懐で膝を折る。その絶望を誰にも言えず、ただ、壊れた神々の前でだけ、こぼしていく」
マリネットの声は静かだった。
「負けた者は、どうしてか、廃墟に引き寄せられるもの。──あれは、演技ではない。演じられる絶望に、あんな背中はできない」
負けを知る者だけが持つ、あの沈んだ暗い瞳。──誘い水の夜、ロズヴェータ自身が嗅ぎ取った、本物の匂い。それを、この女は夜ごとの祈りの背中で、確かめていた。
「本物の、投降者」
ロズヴェータは呟いた。
「なら──むしろ、話は簡単だ。裏がないなら、恐れることもない」
「いいえ」
マリネットの声が、ぴしゃりと遮った。
「逆よ。本物だからこそ、いちばん危ない」
削がれた聖像の間で、蝋燭の炎がひとつ、音もなく揺れた。ロズヴェータが口を開きかけるより先に、女王は続ける。
「考えてごらんなさい。首狩りが、なぜ第一の臣を手放したか。失点を抱えた将を、責めもせず、ただ東の風に晒して、こちらへ"落ちる"に任せた。──なぜ?」
背を、冷たいものが這い上がった。答えは、うっすらとロズヴェータの脳裏に忍び寄っている。
「……絶望が、本物だから。──つまり、埋伏の毒となる」
「そう。嘘は、いつか露見する。けれど本物の絶望には、綻びがない。誰が調べても、あの男の傷は本物と出る。──だから、名代は信じた」
アルブレヒト・ヴェルダー。正しさの人。
「几帳面なあの卿は、正しくあの男を見抜いた。これは本物の投降者だ、と。そして正しく遇した。敵国一の将の知恵を、防衛の評定に加えぬ法はない、と。──今、アブドゥルは、名代の卓の傍らにいる」
ロズヴェータは目を閉じた。絵図が、音を立てて繋がっていく。
飢えた城壁の上。給金も出ず、痩せこけた兵を毎日見ている騎士団長たち。その評定の卓に、昨日までの敵将が堂々と座り、名代に知恵を貸している。──ジキスムントたちが、それをどんな目で見るか。
「正しさが、罅になる」
ロズヴェータの口から、乾いた声が漏れた。
「イブラヒムがどこまでこちらの内情を掴んでいるかは分からない。だがあの男は、名代の"正しさ"を、そのまま楔に使った。本物の投降者を放てば、正しい名代は正しく信じ、正しく重用する。そして飢えた兵は、敵将を厚遇する卓を見て、いよいよ主を信じなくなる。──アブドゥル自身は、指一本動かさなくていい。ただそこに"居る"だけで、城が割れる」
「打ち手を、知っているのね」
マリネットの声に、微かな熱が差した。
「そう。あの男は、抜き身の刃。首狩りがこちらの卓に、そっと置いていった刃よ。──誰も握っていない、鞘なき刃」
ヴェルダーでは、鞘になれない。正しいあの男は、降った将は厚く遇するものだと信じている。だからこそ、アブドゥルをその席に据える。
──ならば、どうする。
ロズヴェータは、見通せぬ祭壇の闇へ、答えを求めて目を凝らした。乳香の煙が、細く、天井の暗がりへ吸われていく。
◇◆◇
明けて翌朝、天幕にはもう副官ユーグの姿があった。
輝くような銀の髪を後ろで束ね、赤い瞳を伏せて、几帳面に折り畳まれた報告の束を検めている。乳兄弟にして幼馴染。主の留守を、いつも通り、寸分の隙もなく守っていた。幕の隙間から差す朝の光が、その銀髪を白く縁取っている。
「おはようございます、若様。──ゆうべも、"祈り"はご熱心で」
嫌味の一つも、忠義のうちらしい。ロズヴェータは苦笑した。
「聞いていたのか」
「副官ですので。主がどこの誰と、夜ごと二人きりで蝋燭を分け合っているか。──把握しておかねば、寝首の掻かれ方も分かりません。ついでに、私のつけた護衛まで置いていくなど、正気の沙汰とは思えませんね」
ユーグの赤い瞳が、すっと細くなる。
「同期の公爵令嬢と仲を深めたと思えば、今度は人妻ですか。節操というものを、お持ちになっては」
王都の娼館から身を起こし、今や三頭獣の娼婦を差配する男の言葉とは思えぬ謹厳実直さに、ロズヴェータは苦笑を深くした。間近で囁かれれば、王都の年頃の花など造作もなく手折れてしまうだろうその美貌が、今は説教くさく歪んでいる。
「喋らぬ女王。私は好きになれません。腹の底が読めぬ女ほど質の悪いものはないし、高貴な出になるほど、後始末が厄介です」
ため息交じりに吐かれた言葉こそが、本心だった。
「同感だ。しかし今は、少しでも情報が欲しい」
「……ロズの、悪い癖ですね」
再びため息を落とし、ユーグは報告の束を卓へ広げた。紙の擦れる乾いた音とともに、声から私情が消える。ここからは、副官の時間だった。
「良い報せから申し上げます。──いえ、良い報せは、ありませんね」
「聞こう」
「峠の雪が、解け始めています。グレイスの見立てでは、あとひと月半。首狩りの野営は日ごとに膨れ、攻城塔の骨組みが、もう天を突いています。時間は、ありませんよ」
ロズヴェータの指が、卓の縁で止まった。
「グレイスの見立てに、狂いは」
「地元の猟師を雇って案内させています。まず、間違いはありません」
そうか、と呟いてロズヴェータは話を転じる。
「城の中は」
「もっと悪い。蔵の糧は、切り詰めてあとふた月ぶん。ですがそれも、"皆が大人しく飢えれば"の話です」
ユーグは一枚の紙を、指の背で弾いた。乾いた音が、天幕に短く跳ねる。
「南部の竜殺しの槍。ジキスムントの兵が、夜ごと城壁を越えて脱けようとしています。三度、見張りが引き戻したとか。──次は、団ごと出ていきますよ。満月を、待たずに」
女王の予言が、そのまま副官の帳面の上に載っていた。
ロズヴェータは目を閉じた。
「そこまでか……」
雪解けまで、ひと月半。城が内から割れるのは、それよりずっと早い。──外の刃が届く前に、城が、自分から砕けかねない。
時が、ない。
「ロズ」
ユーグの声が、少しだけ柔らかくなった。二人きりの時にだけ見せる、乳兄弟の顔だった。
「一つ、伺っても。あの投降者を、拾うおつもりですか」
「よく分かったな」
「昨夜の"祈り"の相手が、もう一人いたのは、把握しています」
赤い瞳が、まっすぐ主を射た。
「危険です。敵国一の将だ。抱え込めば、味方の疑いはこちらへ向く。ジキスムントたちは、いよいよ荒れる。──何より、時がありません。人ひとりの心を溶かすのに、ひと月半は短すぎる」
「分かっている」
「なのに、拾うと」
「拾う」
ロズヴェータは静かに言った。
「時がないからだ。──首狩りの盤が読める目が、今、喉から手が出るほど要る。あの男の頭は、その窓だ。悠長に育てている暇はない。だが、割れかけた城でいちばん確かな味方になるのは、行き場を失くした者だ。ユーグ、お前も知っているだろう。──拾われた恩は、飢えた城では、金より重い」
ユーグはしばらく主を見つめ、やがて、ふっと息を吐いた。
「……よろしいでしょう。しかし、いざという時は」
腰の細剣を、指の背でこつりと叩く。冷たい鞘鳴りが、短く響いた。赤い瞳が、主の瞳をまっすぐ見返す。
「良い拾い物だよ」
「その拾い物に、寝首を掻かれませんように」
ユーグは、うっすら笑った。忠義の男の、精一杯の許容だった。
「では、せめて──拾う前に、面倒なところへ話を通しておかれては。生憎、私は嫌ですので、どうぞお一人で」
肩を竦めるユーグに、ロズヴェータも苦笑を返した。
◇◆◇
アウローラ・ヘル・ノイゼは、聖都の外れ、シャロンの隊商が身を寄せる一角にいた。
褪せた天幕が肩を寄せ合い、香辛料と獣脂の匂いの立ちこめる区画。その一つで、プラチナブロンドの髪を無造作に束ねた娘が、氷のように蒼い瞳でロズヴェータを迎えた。都市国家シャロンの、僭主の娘。父の策のために故郷を発ち、遠くこの都まで流れてきた娘は、その細い背に、故国を喰われた者の重みを負っている。
「珍しいわね。騎士様が、わたしに助言を乞うなんて」
「シャロンは、首狩りと正面から殴り合った」
ロズヴェータは率直に言った。
「あの男のやり口を、いちばん近くで喰らった人に、訊きたいことがある」
アウローラの蒼い瞳が、すっと冷えた。故郷の傷に触れられた者の、静かな痛み。
「いいわ。何が知りたいの。──ただし、当時のわたしはまだ子供よ。分かることと分からないことがあるのは、承知しておいて」
「分かっている。──聡明なるアブドゥル。首狩りの第一の臣が、供もわずかにこちらへ落ちてきた。俺は、あれを拾おうとしている」
「……ばかね」
アウローラは短く笑った。呆れと、警告の混じった笑いだった。
「あの男を? 首狩りが手ずから、割れ目へ落とした駒を?」
「本物の投降者だと、見ている」
「本物でしょうね。だから、なお悪い」
アウローラは氷の瞳を伏せた。細い指が、無意識に、卓の木目をなぞっている。
「教えてあげる。あの首狩りって男はね、人を絞れるだけ絞って、最後の一滴まで使い切ってから捨てるの。──いいえ、捨てない。捨てるように"置く"のよ。落ちた先でも、まだ誰かの毒になるように」
シャロンが、そうだった。──従属させられ、賠償を絞られ、責任者の首まで差し出させられた。使い切られた都市の、生き残りの娘。その横顔が、言葉より雄弁に語っていた。
「あの男を拾えば、あなたは首狩りの筋書きに乗る。抱えた敵将で、味方が割れる。それが向こうの狙いよ」
「乗った上で、裏返す。鞘があれば、皆が怯えることもない」
アウローラはしばらくロズヴェータを見つめ、それから、ふっと肩の力を抜いた。蒼い瞳に、初めて面白がる色が差す。
「いいこと、教えてあげる。首狩りに使い潰された者はね、みんな腹の底に、同じ火種を抱えてるの。──"あの男に、一矢報いたい"。絶望の顔をして、その奥で、それだけは消えずに燻ってる。──わたしや、あなたのところの分隊長ルルが、そうだから分かるわ」
「ルルが、か」
「ええ。あの子も昔、傭兵だった頃に、首狩りの手の者に脅されて、わたしを狩る側にされた。使われて、用が済めば捨てられる。──それが、あの男のやり方よ」
ロズヴェータは、小さく頷いた。ルルの加入の経緯を思い出せば、確かに確執と言っていい程の因縁はある。ただロズヴェータには、アウローラがそれをしっかりとロズヴェータにくぎを刺してくることが意外ではあった。
「仲が良いんだな」
「ええ、油断していると貴方の騎士団を乗っ取ってしまうかもしれないわ」
苦笑して肩を竦めたアウローラに、ロズヴェータは姿勢を正す。
「絶望に何もかも焼かれるのは、ごめんだ。だが、その火種になら、油を注げる」
ロズヴェータの目が、細くなった。
「そういうこと。あの男が欲しいのは、優しさじゃない。もう一度、あの首狩りの盤をひっくり返す手を、握らせてくれる相手よ」
アウローラは、蒼い瞳をまっすぐ向けた。
「──分かっているわね。首狩りに一矢報いたいのは、あの男だけじゃない。雪が解ける前に決着をつけないと、間に合わないわ」
時が、ない。
その一言が、また、耳の底で鳴った。
◇◆◇
その夜、ロズヴェータは、祈祷室の外の回廊に、一人立った。
凍えた石の匂いに、微かな乳香が混じっている。吐く息が闇の中で白くほどけ、蝋燭の届かぬ暗がりの底で、ただ待つ。
やがて、足音が来た。
黄金の髪に、遠い砂の匂い。供も付けず、フードを目深に被った壮年の男が、削がれた聖像の前へ、音もなく膝を折る。三日月の言葉で、低く、途切れがちに、何かを唱えている。──許しを乞うように。
ロズヴェータは、その背をしばらく見ていた。
女王の言った通りだった。あれは、演じられる背中ではない。
やがて男が祈りを終え、立ち上がる。振り返り、闇に立つ人影に気づいて──だが、驚きはしなかった。負けを知る者は、驚くことすら、とうに手放している。
「……これは、ロズヴェータ殿」
アブドゥルは、疲れた笑みを浮かべた。
「なぜここにおられるのか、聞いても無駄でしょうな。──あなたも、祈りに?」
冗談を口に乗せた男へ、ロズヴェータも口の端だけで嗤う。
「聡明なる、と呼ばれた方だ。こちらの動きも、お見通しか」
「いいえ」
アブドゥルは首を振った。
「見えているのは、あなたの方だ。私はもう、何も見えてはいない。城も、主も、行き先も。──ただ、朽ちていくのを待っている」
「一つ、酷なことを言っても」
ロズヴェータは静かに言った。
「今更、何を言われても」
「あなたは、捨てられたのではない。──使われている。今も」
アブドゥルの暗い瞳が、わずかに動いた。
「首狩りは、あなたを責めずに東の風へ晒した。あなたの絶望が本物になるまで。そうして本物の絶望を抱いたあなたを、こちらの城へ"落とした"。あなたが本物だから、正しい名代は信じ、重用する。あなたが敵将のまま卓に座るほど、飢えた兵は主を疑う。──あなたは何もせずとも、ただ居るだけで、この城を内から割る楔になる。それが、あの男の描いた絵図だ」
沈黙が、削がれた聖像の間に、重く落ちた。祭壇の蝋燭が、じじ、と小さく爆ぜる。
アブドゥルは、長いあいだ動かなかった。やがて、乾いた笑いがその喉から漏れた。
「……なるほど。あの方らしい。私の絶望さえ、駒に使うか」
自嘲だった。
「では私は、死ぬまであの方の駒か。敵の懐で、敵を割るためだけの」
「いや」
ロズヴェータは、一歩踏み込んだ。石の床に、靴音が硬く響く。
「刃が城を割るのは、誰も握っていないからだ。抜き身のまま卓に転がっているから、皆が怯える。──握り手があれば、刃はただの刃だ。もう、誰も恐れはしない」
アブドゥルが、顔を上げた。
「私が、あなたを握る。名代の"客人"としてではなく、私の下で働いてもらう。あなたには、首狩りの盤が見える。あの男の考えが、手に取るように分かる。──ゲイルノアを、クリル平原を描いた頭だ。飾りで腐らせるには、惜しい」
「……私を、信じると?」
アブドゥルの声が掠れた。
「敵が放った楔を、あなたは自分の手で握ると?」
「握れば、楔は刃になる」
ロズヴェータは、口の端で笑った。
「そして首狩りは、あなたに根をやらなかった。だから、あなたは割れ目に落ちるしかなかった。──俺は、根をやる。使い道と、居場所を。朽ちるはずだったあなたの絶望を、あの男の盤を覗く"窓"に変える」
「──それに」
ロズヴェータは、声を低めた。
「あなたの腹の底には、まだ消えていない火があるはずだ。あなたを絞るだけ絞って、割れ目へ捨てるように置いた、あの男へ。──一矢、報いたい、と」
アブドゥルの暗い瞳の奥で、何かがぴくりと動いた。図星を突かれた者の目だった。
「……買い被りだ。私に、もう、そんな気概は」
「ないふりが、上手いだけだ。絶望の顔の下で、それだけは消えていない。──首狩りに故郷を喰われた娘が、そう言っていた。あの男に使い潰された者は、皆、腹の底に同じ火種を抱えている、と」
アブドゥルは、しばらくロズヴェータの顔を見つめていた。
その暗い瞳の底で、とうに死んだと思っていた何かが、ほんの小さく、灯りかけている。──だが彼は、それをすぐには言葉にしなかった。負けを知る者は、希望にも慎重だった。
「……考えさせて、いただけますか」
「どうぞ、ゆっくりと」
ロズヴェータは頷いた。
「根は、押し付けるものではない。あなたが、自分の足でこちらへ来る時に、初めて根になる」
◇◆◇
回廊を戻りながら、ロズヴェータは胸のうちで盤を組み直していた。
首狩りが置いた楔を、こちらの刃に変える。上手くいけば、防御の綻びが、そのまま敵の盤を覗く窓になる。ヴェルダーの正しさが呼び込んだ罅を、末席の自分が塞ぎながら、利に変える。──悪くない手だ。
悪くない、が──時が、ない。
アブドゥルには「ゆっくりと」と言った。根は押し付けられぬ、と。だが、それは半分、嘘だった。雪解けまで、ひと月半。城が内から割れるのは、それより早い。悠長に待つ猶予など、ほんとうは一日もありはしない。それでも、急かせば根は腐り、無理に握れば刃は握り手を向く。──急ぐことと、待つこと。その細い刃の上を、渡らねばならなかった。
凍えた回廊に、自分の靴音だけが硬く鳴っている。
ふと、あの女の声が、耳の底で囁いた。
"本物だからこそ、いちばん危ない"
本物の絶望は、本物の忠義にもなる。だが本物の絶望を抱いた男は、いつか、本物の別の何かにも、なり得る。握った刃が、いつ握り手の方を向くか。──それだけは、誰にも読み切れない。
盤の中央では、喋らぬ女王が、今夜もすべてを見ている。
崩れた硝子窓の向こう、東の空で、月がまた一日分、肥えていた。凍てた夜気が、頬を薄く刺す。
雪解けまでに、握らねばならぬ刃が、一振り。──あるいは、抱え込んだ、一つの爆薬が。




