白い手
盤の中央に、決して動かぬはずの駒がある。──だがその駒が、たった一度だけ白い手を伸ばした日のことを、ロズヴェータは長く忘れなかった。
王配ルセーブルは、もう退屈していなかった。
この半月で、青年はすっかり変わっていた。ロズヴェータが「面白い読み物」として貸した都の商館の帳面は、いまや彼の枕元に積み上がっている。どの両替商が戦を恐れ、どこへ金を逃がしているか。逃げる金を、どう引き止めるか。──与えられた"考える餌"を、ルセーブルは飢えた犬のように噛み砕き、味を覚え、次をねだるようになっていた。
名だけの王が、生まれて初めて手にした「見えている」という感触。それは酒より甘く、女より深い。ロズヴェータは、その渇きに、匙加減で水を落とし続けるだけでよかった。
板は、着実にこちらへ傾いでいた。
従順な騎士を演じながら、内心でロズヴェータは王配ルセーブルの様子を観察する。
名代アルブレヒト・ヴェルダーは、正しさに縛られて動けない。王都のルクレイン公爵家は、リオングラウス王国の財を締めて城が割れるのを待っている。飢えた城壁の上では、誰もが次に縋る手を探していた。
──その手のひとつひとつを、ロズヴェータは末席から、静かに握り替えていく。
ロズヴェータ率いる三頭獣は、徐々に炊き出しを支援したり、一つの依頼を他の騎士と共同で受けたりするようになっていった。
騎士団の中にある不満は、そうじてロズヴェータが抑え込む。必要なことなのだと、分隊長達を説き伏せ、文官組を納得させ、ラスタッツァにくぎを刺す。
聖都は一大消費地である。
四方から食料や日用品、燃料等ありとあらゆるものを集め消費し、その代価として金を回す。そのための大都市。
だが、今や聖都ジュルル・サルムは、西方リオングラウス王国と東方エルフィナス帝国の最前線へとなり果てた。商人達の通行を敢えて遮ってはいないものの、泥に沈む冬の道と、盗賊の跋扈による治安の悪化が、物価の高騰を招き寄せていた。
盗賊対策に、護衛を雇えば当然その分を価格に転嫁しなければ稼げない。
値段を上げねば結局のところ、最後には物が入って来なくなるのだ。
だからこそ、余裕のない者から脱落していく。
聖都は、日ごとに痩せていた。
余程の理由のある兵士は別として、余裕のなくなった者から聖都から逃げ出そうとしている。西の海湾都市ガディフォール、さらに西の城塞都市ゲイルノア。かつて東征において奪還したそれらの街へ徐々に目端の利く兵士達が動き始めていた。
問題は、目端の利かない部類の兵士だ。
上の命令に従順で、信仰心が強く、聖都というものの価値を過大に評価しているか、あるいは妄信しているのか。いずれにしても、食えないのに聖都から動けない兵士達だ。
凍てた大路には炊き出しを待つ列が伸び、路地の隅では、痩せた犬さえ見かけなくなった。飢えは、いちばん静かで、いちばん確かな味方だ。飢えた都ほど、握りやすいものはない。
炊き出しを待つ兵士と民の列を眺めながら、ロズヴェータは冷たい視線を注いでいた。
自分ならどうやってこの局面を解決するだろう。
正しさを標榜するヴェルダー卿には、打つ手がないように思える。今は亡きディルアン閣下なら、遠くカミュー辺境伯の領地で、独立不羈を地で行く我が父ノブネルなら、尊敬すべき騎士ショルツ殿なら、あるいは文官派閥の将軍たるルフィーネ・オルシャ子爵なら。
堂々巡りする考えの中で、ロズヴェータの思考は徐々に収斂していく。
──やるしかないのだ。金が無いのならどこからか持ってくるしかない。神ならぬ人の身で、黄金を無限に湧きださせることなどできはしない。
盤面を見渡せば、確かにあるところにはある。それに手を出せないだけで。
ただ一つ、盤の中央に、どうしても動かぬ駒があった。
女王マリネット。
滅んだはずのジュルル・サルムの血を、ただ一人正しく引く女。評定でも謁見でも、その唇は一度として開かれない。異国の言葉で銭と法が飛び交う間も、青ざめた白い顔と真っ直ぐな背だけを保って、身じろぎもせず座っている。
──飾りだ、と誰もが思っていた。血の器。民の涙を受けるための、美しい人形。
ロズヴェータも、半ばそう見ていた。半ば、だ。
ルセーブルの、あの声が耳の底に残っている。
「妻には気をつけろよ。あれは喋らないが、見ている。……俺なんかより、ずっと、な」
見ている。──では、何を。
炊き出しに並ぶ列を見ながら、ロズヴェータはずっと考えを巡らせていた。
◇◆◇
その答えは、思いがけない形で差し出された。
その日、女王は大路で施しを行っていた。飢えた都に残された、数少ない王家の務め。青ざめた白い手が、堅いパンをひと切れずつ、膝を折る民へ配っていく。掲げられたジュルル・サルムの紋の下で、民はすすり泣きながら額づいた。
──銭も兵も持たぬこの女が、それでもこの都の正しき血脈であることを、その光景だけが証明していた。
名ばかりと言えど女王。
施しに際して一人でと言うわけには行かない。なればこそ、護衛がつく。名代であるヴェルダー卿も付き合わぬわけにはいかなかった。
万が一女王陛下に危険が及ぶのなら、それは聖都の瓦解を意味する。民衆の支持は集まらず、籠城に際してエルフィナスへの内通も視野に入れねばならない。
だからこそ、時間を作って名代が彼女に付き添い、その護衛として騎士団の中で比較的余裕のある三頭獣からも護衛をつけることになった。
名代の後ろに、ロズヴェータもいた。供の一人として、ただ景色の一部のように控えているのはなにもやる気がないというわけではなかった。
必要以上に緊張をしないというのも、指揮官の心得の一つであった。既に担当の区域は、信頼する分隊長に割り振ってある。精々が、女王陛下の周囲に怪しい動きがないかを見張るだけで良いのだ。
だからこそ、ロズヴェータも視線を鋭くして周囲を警戒するのにとどまっている。
そんな中で施しを続ける女王の手が、ロズヴェータの前で、止まった。
直後、何かつまずいたかのように姿勢を崩す女王マリネット。慌てて手を差し出し、その体を受け止めるロズヴェータ。
「お怪我は?」
簡単なジュルル・サルムの言葉なら話せるほどにロズヴェータは、既に中東での戦いになれてしまっていた。
「大丈夫です」
それに対して女王マリネットの言葉も、短くそして明瞭だ。
初めてのことだった。玉座でも謁見でも、決して誰にも据えられることのなかったその視線が、いま、まっすぐにロズヴェータへ向けられている。青ざめた面の中で、二つの瞳だけが、驚くほど深く澄んでいた。
「お疲れなのでは?」
「問題ありません」
マリネットが滑り込ませてきたのは、小さくたたまれた一片の紙片。ロズヴェータの手を借りて立ち上がろうとする間に、その紙片を潜り込ませる。
周囲を見れば、驚愕と悲鳴が爆発する寸前だった。
「私は、大丈夫です」
すんなりと立ち上がると、平静を取り戻すように声を上げる。
「御身が、ご無事で何よりでございます」
騎士の礼をするロズヴェータは片膝をついて、右手を胸に当てる。誰にも見られぬよう紙片を隠しながら。触れた女王の手は氷のように冷たく、それでいて、少しも震えていなかった。
女王は、何も言わない。
ロズヴェータに頷きを返し、すぐに次の民へ、また白い手を差し伸べていく。何事もなかったかのように。
誰も、気づきはしなかった。この都でいちばん見られている女が、この都でいちばん見えない一手を、たった今、指したことに。
天幕に戻り、人を払って、ロズヴェータはその紙を開いた。
思わず、眉が動いた。
記されていたのは、ジュルル・サルムの古い文字ではない。──こちらの言葉だった。異国を統べる征服者の言葉を、寸分の隙もない筆で、あの女は書いている。公の場では一度も口にしないその言葉を、誰よりも正しく、女王は綴っていた。
喋らぬのではない。喋らぬことを、選んでいる。
文は、短かった。
『あなたは、わたくしの夫に"見る目"を与えているそうね。──では、わたくしにも一つ見せてください。今宵、ひとりで血の祈祷室に』
ロズヴェータは、しばらくその一行を見つめていた。
背筋を、冷たいものが這い上がる。
これは、警告か。誘いか。あるいは、罠か。
"見る目を与えている"──たった一言で、この女は言ってのけた。お前がルセーブルに何をしているか、私は残らず見ている、と。餌を撒く手つきも、匙加減も、板の傾ぎ方も。すべて、玉座の上から。
餌には、釣り針がある。ユーシャルの文を読んだ夜、自分にそう言い聞かせたのを思い出す。
──今度は、その餌を、こちらが差し出される番らしい。
ロズヴェータの口の端が、ひとりでに持ち上がった。久しく忘れていた、盤の向こうに"打ち手"を見つけた時の、あの感覚だった。
◇◆◇
血の祈祷室は、王宮に隣接する形で設置された教会の奥にあった。
古いジュルル・サルムの礼拝の間。蝋燭が数えるほどしか灯されず、壁の聖像は、削がれ、焼かれ、征服の傷をそのまま晒している。冷え切った石の匂いに、微かな乳香が混じっていた。
入り口には、口の利けぬ老いた侍女が一人。女王とロズヴェータを中へ通すと、外の闇へ溶けるように消えた。──証人にもなれず、密告もできぬ、ただ一人の見張り。その用意の良さに、ロズヴェータは内心で唸った。
女王マリネットは、祭壇の前に立っていた。
玉座で見るより、ずっと小さい。青ざめた顔は蝋燭の下でいっそう白く、細い首筋に、揺れる炎の影が落ちている。けれど背だけは、あの真っ直ぐさを崩さなかった。
ロズヴェータが礼を執ろうとすると、女王は白い手で、それを制した。
そして──口を、開いた。
「作法は、いらない」
低く、腹の底に響くような声だった。重低音の楽器のような、芯の据わった声。リオングラウス王国で使われる公用語に、そのあまりの流暢さにロズヴェータは僅かに瞠目した。
「ここでは、わたくしは女王ではない。あなたも、名代の供ではない。──分かるわね?」
ロズヴェータは、頭を垂れたまま答えた。
「……光栄です」
「言葉は、安く使うものではないもの」
マリネットの唇が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。
「言葉を惜しめば、人は勝手にこちらを人形だと思い込む。人形の前では、誰も口を慎まない。──おかげでわたくしはこの数か月、玉座から、ずいぶん多くのものを見せてもらった」
喋らぬ女王。その沈黙は、無力の証などではなかった。いちばん上等な、聞き耳の立て方だったのだ。
ロズヴェータは、ゆっくりと顔を上げた。
「では陛下。その澄んだ眼には、今、この都がどう見えておいでですか」
マリネットの深い瞳が、まっすぐに彼を射た。
「割れかけた、器に見える」
静かな声だった。
「東からは首狩りが、器を割りに来る。西の王都は、器が割れるのを財を締めて待っている。都の名代は、正しさを抱いたまま割れ目の前で立ち尽くしている。……そして、わたくしの夫は、あなたの撒く餌に酔って、その割れ目を、自分の手で広げ始めた」
一つずつ、駒を置くように彼女は言った。
ヴェルダーを、ルクレインを、イブラヒムを、そしてルセーブルを。──盤の全部が、この女の目には、とうに映っていた。
「……御賢察です」
ロズヴェータは正直に言った。だが、そこまでは末席の自分にも見えている盤面だ。試すように、わずかに目を細める。
「では、その澄んだ眼には、まだ私にも見えておらぬ絵図まで、映っておいでですか」
「あなたの足元の氷が、もう罅割れている」
ロズヴェータの余裕が止まった。
「南部の、竜殺しの槍。あの団長ジキスムント」
女王は、静かに続けた。
「あの男は、次の満月を待たない。飢えた兵を連れて、城を出ていく。──あなたが銭で繋いだ糸の中で、いちばん先に切れるのは、あそこよ」
背筋を、寒気が這った。否、氷塊が滑り落ちたかのような錯覚すら覚えた。
ジキスムント。
評定でヴェルダー卿を睨みつけていた、あの南部の巨大騎士団を率いる壮年の男。浅からぬ因縁もあるロズヴェータの中でも"要注意"の欄には入れていた。だが、満月を待たずに、とまでは読み切れていない。
──玉座から一言も発さぬこの女が、末席の自分より、盤の端の罅を深く見ている。
「……いつから、そこまで」
「ずっとよ。誰も、人形の前では、駒を隠さないもの」
参った、と胸のうちで呟く。心底の言葉だった。
「では、その盤に、私はどう映っていますか」
「いちばん、始末に困る駒よ」
初めて、マリネットの声に、ほんの微かな熱が差した。
「銭で城を繋ぎ、飢えを味方につけ、誰の手も握っては放さない。あなたが動くほど、器の割れ目は深くなる。──だからこそ、あなたにしか頼めないことがある」
ロズヴェータは、息を止めた。
女王が、一歩、近づく。戴冠式で嗅いだ甘い香が、ふわりとロズヴェータの鼻腔をくすぐる。
「この都を、割らずに、春まで生かして。──わたくしの民を、あとひと冬、飢え死にさせないで」
それは、命令ではなかった。玉座から発せられる王命の重みは、そこにはない。ただ、血の器を継いだ一人の女が、盤の向こうから差し出した、剥き出しの願いだった。
「陛下は」
ロズヴェータは慎重に問うた。
「なぜ、それを外つ国の私に。名代でも、王都でもなく」
「正しさは、わたくしの民を、正しく飢え死にさせる。あの人たちの手は綺麗すぎて、汚れた都を掬えない」
マリネットの瞳は、揺れなかった。
「あなたの手は、汚れている。だから、掬える」
──掬える手は、汚れた手だけだ。
その一言が、腹の底の、思いがけず柔らかいところへまっすぐ届いた。ニャーニィの文が、腹に沈めたものを見透かしたように。この女もまた、彼が誰にも見せぬ場所を、正確に撫でてくる。
だが──ならば、と思う。この女が人の腹を覗くのなら、こちらも覗き返すまでだ。
「陛下。──その願いは、民のためだけでは、ないでしょう」
静かだが、退かぬ声だった。
「あなたは、あの人が私の手の中で"壊れる"のを、見たくない。名だけの王が権力の味を覚えて、いちばん惨めな壊れ方をするのを。餌で釣り切られる前に、夫を、こちらから盤へ引き戻したい。──そうでしょう」
祈祷室の炎が、ひとつ、揺れた。
マリネットは、答えなかった。だがその澄んだ瞳の底で、初めて、何かがさざめいた。──見抜かれた者の、微かな動揺。人形のふりの下から、ひとりの女の顔が、一瞬だけ覗く。
「……ずいぶん、汚れた手ね」
その声に、初めて、微かな笑みが混じった。悔しげで、それでいて、どこか安堵したような。
打ち手は、打ち手を知る。
今度は、ロズヴェータが盤の向こうへ手を伸ばした番だった。
王配ルセーブルと雑談とかわすたびに、ロズヴェータはルセーブルの頭の良さを感じていた。そして疑問も同時に浮かぶ。これほどの能力があって、なぜ今まで埋もれていたのか。
誰かが、意図的に埋もれさせていたのだ。
ロズヴェータの視線の先には女王マリネット。
「この都を、割らずに、春まで生かして」
マリネットは、繰り返した。だがその声は、もう試しでも駆け引きでもない。
「わたくしの民を──そして、あの愚かな夫を、あとひと冬、あなたの盤の上で、殺さないで」
これは餌だ。そして餌には、必ず釣り針がある。
都を"割らずに握る"ことと、"割って握る"ことは、盤の上ではまるで違う手だ。この願いを受ければ、彼の指し手は、この女の願いに縛られる。──正統の血が、彼の掌に、一本の糸を結ぼうとしていた。簒奪者にはさせない、解放者のままでいさせてやる、その代わりに、私の望む方へ盤を運べ、と。
人形だと思っていた駒が、盤の中央から、こちらの手筋そのものを縛りに来ている。
だが、その糸は──悪くない、とも思った。
ロズヴェータは、ゆっくりと頭を垂れた。
「……お願いは、確かに承りました」
受けるとも、断るとも、言わなかった。
マリネットは、それ以上、何も求めなかった。ただ澄んだ瞳の奥で、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。──こちらが即答しなかったことを、むしろ良しとするように。
祈祷室を出ると、凍えた廊下の闇に、あの口の利けぬ侍女が影のように待っていた。
老女は、ロズヴェータを外まで送り出すと、その袖へ、そっと何かを滑り込ませた。
もう一片の、畳まれた紙。
ロズヴェータは、足を止めた。
──即答しなかったその時には、この女はもう、次の一手を指し終えていたのだ。
月明かりに開くと、あの寸分の隙もない筆が、たった一行。
『次は、あなたから訪ねていらっしゃい。──"あの投降者"の話を、しましょう』
ロズヴェータは、その一行を、しばらく動かずに見つめた。
あの投降者。──聡明なるアブドゥル。首狩りの第一の臣が、供もわずかに落ちてきた、あの男のことだ。本物の投降者か、ユーシャルの放った駒か。自分でも決めかねている、あの楔。
それを、この女は、玉座の沈黙の底から、とうに見ていた。しかも、こちらがまだ気づいてもいない"何か"を、掴んでいる口ぶりで。
東に首狩り、西に王都、内に名代。三方の手は、とうに読み切ったつもりでいた。
だが盤の中央に、いちばん静かな四人目が、ずっと座っていた。──喋らぬことですべてを聞き、動かぬことですべてを見ていた女が。
痩せた月が、崩れた硝子窓の向こうで、また一日分、肥えている。
握らねばならぬ手が、また一つ。いや──今度は、こちらが握られたのかもしれなかった。




