東の雪解け
それを聞きつけたのは、名代のヴェルダーよりもロズヴェータの方が早かった。
差配を返上しても三頭獣の斥候は、まだロズヴェータの目と耳のまま、鋭さを失ってはいない。天幕の垂れ布が夜気を孕んでばさりと鳴った。フードを深く被ったグレイスが雪をまとって滑り込み、凍えた声で告げた。
「若様。東が動き始めました」
肩に積もった雪が火の熱ですぐに珠となってぽたりと落ちる。凍った革と湿った毛皮の匂いが蝋燭の熱にゆっくりと溶けていく。ロズヴェータの吐く息もまだ白い。
「聖都の東、峠の向こう。エルフィナスの野営が日ごとに膨らんでいます。糧秣の隊列、攻城塔を組むための材木、鍛冶の煙。──冬支度ではありません。あれは攻め支度だ」
「首狩りか」
「旗はあの男のものでした」
アブドゥルの言葉は嘘ではなかったらしい。投降してきたあの将が語った首狩りの春の企てを味方の斥候がいま地に裏づけた。──少なくともその一点であの男は本物だった。
ロズヴェータは窓の外へ目をやった。東の空の低いところに痩せていた月がもうかなり肉を取り戻している。
春の雪解けは思ったより近い。
雪が解ければ峠が開く。峠が開けば三日月が来る。ジュルル・サルムを呑み聖都を落とし閣下を討った、あの首狩り総督の軍が。──取り返しに。
本当の戦が指折り数えられる距離まで近づいていた。
◇◆◇
同じ報せは二日遅れて正しい筋からヴェルダーの卓へ届いた。
名代はすぐに評定を開いた。三将軍、諸隊の長、そして末席にロズヴェータ。
かつてロズヴェータが銭で繋いだ顔ぶれがいまヴェルダーの差配の下に並んでいる。居並ぶ顔は、どれも不景気だった。とりわけ多くの兵を抱える騎士団長たちは、ため込んだ不満を隠そうともしていない。
南部出身の騎士団、竜殺しの槍の団長ジキスムントなどは、眉間に皺を寄せ、目を怒らせてヴェルダー卿を睨みつけていた。
席上で告げられたヴェルダーの備えは正しかった。
城壁の補修の割り振り。糧の備蓄の検分。峠と海道の見張りの増強。攻城に備えた区画の割り当て。乾いた声でヴェルダー卿は一つずつ隙のない手筈を並べていく。武人としての十年前の武名は伊達ではなかった。備えそのものは非の打ち所がない。
だが一人の傭兵頭が低く言った。
「──立派な絵図で。ですがヴェルダーさんよ。その城壁に誰が立つんです?」
天幕が静まった。外を渡る風が張り詰めた布を低く鳴らす音だけが残る。誰かの喉がこくりと鳴った。
「給金はひと月止まったままだ。兵は痩せた。うちの連中はな、民心を得るためと住民に返してやった蔵を、指を咥えて眺めながら腹を空かせてるんだ。──飢えた兵に千年の城壁は守れませんぜ。書面の確約じゃ槍は握れねえ」
「軍費はじきに下りる」
ヴェルダーの声は揺るがない。
「王都へは重ねて催促の文を送った。都の防衛という大義がある以上、正規の軍費は必ず解凍される。それまでは──」
「それまでに三日月が来たら?」
傭兵頭の問いにヴェルダーは答えなかった。
答えられなかったのではない。答えを口にしなかったのだ。正しい手続きが迫る刃に間に合うかどうか。その一点だけはいかに几帳面な卿の帳面にも書き込めない空欄だった。
ロズヴェータは末席でそれを黙って見ていた。
あの男は無能ではない。むしろ有能だ。だからこそ見えている。正しく待てば軍費は来る。だが正しく待てるだけの時がもう無い。──有能な男が自分の正しさに静かに追い詰められていく。
その横顔に初めて疲れの影が差していた。
◇◆◇
評定の帰り、ロズヴェータはまた日の当たる回廊へ足を向けた。石畳を踏む靴音が高い天井に乾いて反響する。硝子越しに差し込む冬の陽が頬にだけぬるい熱を置いていった。
王配ルセーブルは今度は退屈していなかった。
欄干にもたれた青年の膝の上には一冊の帳面が広げられている。ロズヴェータが「面白い読み物」として貸してやった、都の商館の貸借の写しだった。
「なあ、カミューの。ここを見ろ」
ルセーブルは子供のように目を輝かせて頁を指した。
「この両替商、東方への送金がぱたりと止まってる。──三日月が来ると踏んで金を都の外へ逃がし始めてやがる。商人ってのは将軍より先に戦の匂いを嗅ぐんだな」
「よくお気づきで」
世辞ではなかった。この青年は退屈の中で腐っていただけで頭そのものは悪くない。ただ誰もこの男に"考える餌"を与えてこなかった。血の正統は妻に、実権は卿に取られ、名だけの王として飾られて。──与えられればこうも食いつく。
空いた穴にロズヴェータは静かに次の一匙を落とした。
「殿下。その帳面が読めるなら、こういう芸当もできます。──どの商館が戦を恐れどこへ金を逃がしているか。それを掴めば逃げる金を都のために引き止めることもできる。名代の卿にもまだ見えていない絵図がね」
ルセーブルの目の奥で飢えた光がぎらりと動いた。
名代にも見えていない。
その一言が名だけの王のいちばん渇いた場所へまっすぐ届いたのが分かった。
「……あんた、それを俺に見せるつもりか」
「殿下がお望みなら」
ロズヴェータは静かに頭を垂れた。
板が一枚また少しこちらへ傾ぐ。この青年は権力の味を覚え始めている。覚えた渇きはもう退屈には戻れない。あとは渇いた口がこちらの手から水を飲むのに慣れていくだけだ。
「──ただ」
去りぎわルセーブルがふと声を落とした。その顔から子供の光がすっと引く。
「妻には気をつけろよ。あれは喋らないが見ている。……俺なんかよりずっと、な」
ロズヴェータは足を止めなかった。だがその一言だけは胸の帳面に静かに書き留めた。
玉座の、あの真っ直ぐな背。喋らぬ女王マリネット。──あれは飾りではないのかもしれない。
◇◆◇
その夜、王都からリオリスの早馬が着いた。凍てた石畳を蹴る蹄の音が夜の静寂を裂いて門前でぴたりと止む。使いの肩は駆け通しの汗で湯気を立て、吐く息もまた白く煙る。
必要なことを必要なだけ書いてある短い文だ。
『動かない。ルクレインが軍費の解凍にあらゆる筋で待ったをかけている。「防衛の采配は正統な名代の手にある。金を急ぐ理由はない」と。──もう少し時をくれ』
ロズヴェータはその文を蝋燭の火にかざした。
王都は動かない。正規の軍費は春までに間に合わない。ルクレインは都が飢えて割れるのをむしろ待っている。飢えた軍がヴェルダーの手の中で崩れれば、末席の男が銭で保っていたものの価値がいやでも際立つ──そう見せつけて次の何かに繋げる腹だ。
盤の上の駒は出揃った。
迫る三日月。飢えた城壁。正しさに追い詰められる名代。渇きを覚えた王配。動かぬ王都。そして喋らぬ女王。
あとは雪が解けるのを待つだけだ。
ロズヴェータは文を火にくべた。紙の焦げる匂いがふっと鼻をかすめ、青い焔がみるみる文字を灰へ変えていく。指先に燃え上がる熱がちりりと触れて、彼は静かに手を離した。
その灰の向こうで東の月がまた一日分肥えていた。
◇◆◇
同じ月を峠の向こうからも見上げる目があった。
聖都の東、雪をいただく峠の裾。無数の篝火が闇の底に三日月の紋を描いて揺れている。糧秣の隊列。組み上げられていく攻城塔の骨組み。絶えず立ちのぼる鍛冶の煙。──斥候グレイスが地に読んだ通りの隙のない攻め支度だった。
夜気は松脂の焦げる匂いと鉄を打つ甲高い響きに満ちている。谷を吹き下ろす風は刃のように冷たく、吸い込むたび舌に鉄と雪の味を刻んだ。
その中心、金糸を張った本営で一人の耳長族が西の空を眺めていた。
三日月帝国西方総督イブラヒム・ヒディスハーン・アルヒリ。黄金の長髪を月光に流し、白皙の面には怜悧な眼差しだけが氷のように冴えている。世に「首狩り」と畏れられた男はしかし今、城攻めの話をしていなかった。
「攻城塔の材木をあと二十日ぶん積め」
彼は静かに命じた。
「──使うためではない。見せるためだ」
傍らの副官が怪訝な顔をする。総督は薄く笑った。
「あの城壁は千年あそこに在る。材木と兵の血で崩すにはシャロンで一度高い月謝を払った。同じ愚は二度はやらん」
彼は西の闇に沈む聖都の影を指先でなぞるように見た。
「城とは石ではない。中に容れた人だ。石は千年保っても人はひと冬で腐る」
イブラヒムの描く絵図に無理攻めの二文字はなかった。
彼が積ませているのは揺さぶりだった。日ごとに膨らむ野営。夜ごとに増える篝火。鳴りやまぬ鍛冶の音。──それらは城壁を打ち砕く槌ではない。城の中の人間の寝首の下へそっと差し入れる冷たい刃だった。
飢えた兵は迫る影に怯えるほど途絶えた給金を恨む。正しさに縛られた名代は迫る刃を前に動けぬ己を恥じる。名ばかりの王は守れぬ都で誰かに縋りたくなる。──恐怖は城の継ぎ目を内から押し広げていく。
「継ぎ目はもういくつも入れてある」
総督は卓に広げた一枚の書状へ目を落とした。それは失脚し供もわずかに西の城へ「落ちて」いった、彼の第一の臣アブドゥルの最後の私信だった。
──絶望した将が敵の懐へ転がり込む。その絶望が本物であれ演技であれ、迎えた城の主は必ず疑う。疑えば招き入れた味方の一人を心の隅で数え直す。それだけで城の中の信頼には目に見えぬ罅が入る。
「アブドゥルよ。お前の絶望は上等な楔になった」
そしてもう一枚。孫娘ユーシャルが東の辺境カミューへ投じた、あの「餌」の写しだった。
あれは辺境の蝮を三日月と草原の狭間に縫い止める針だ。カミューが日和見を決め込む限り、辺境の槍は聖都の城壁には届かない。東から伸びるはずの援軍の手を一本そっと抜いておく。──孫娘はよくやった。
イブラヒムは西の空に肥えていく月を見上げた。
迫る三日月に脅えて城が飢え、飢えて割れ、割れて誰かが門の閂に手をかける。その時まで剣は鞘に置いておけばいい。血はいちばん高くつく道具だ。それを承知で振るってきた男だからこそ、剣を抜かずに得る勝ちの安さを知っている。
「雪が解ける頃には」
首狩りは誰にともなく呟いた。
「あの門は、内側から開く」
――そして総督はまだ知らない。
その割れかけた城の中で末席の一人の男が、同じ継ぎ目へ逆の側から手を差し入れていることを。外の総督が門を開かせるために広げようとする罅を、内の傭兵が己の掌へ城を握り込むために使おうとしていることを。
同じ一筋の亀裂を二人の男が逆の側から押し広げていた。
◇◆◇
同じ雪を、王都もまた戴いていた。
聖都の名代からの催促状は、正しい筋を通って王都のルクレイン公爵家へも届いている。獅子の紋に翼と盾の一室。炭を惜しまぬ暖炉が赤々と燃え、王都の冬をやすやすと締め出していた。
その暖の中心で、次期当主ガベル・リード・ルクレインは、軍費解凍を乞う名代の文を二度読んで卓に伏せた。
「──また、この字か」
逞しい顎を撫でる。豪放と謳われる大男は、人払いをした部屋では豪放のかけらも顔に残していない。あるのは算盤を弾く商人のような、冷えた目だけだった。
「聖都は落ちん」彼は初老の副官へ言った。「あの城壁は千年落ちておらん。名代の備えも堅い。──今、金を急ぐ理由がどこにある」
「ですが、給金が途絶えれば兵が」
「割れるさ。傭兵の寄せ集めなど、腹が減れば犬より早く散る」
ガベルは卓上の帳面へ目を落とした。先の戦で痩せた王庫。西から吹き寄せる聖戦の噂。いずれ国土に溢れ返り、養わされることになる数万の軍勢という悪夢。──乏しい銭をどこへいつ落とすかを一度でも誤れば、脆い少年王の御代は火の粉ひとつで焼け落ちる。
聖都の防衛に今、国費を注ぐ。それはいちばん高くつく銭の使い方だ。
卓の隅には、もう一枚、別の紙が置いてあった。英雄の弟子ディルアンが事切れる間際、王都へ書き遺した、たった一行。長い戦況報告でも、後事の指示でもない。──『間に合った』。
春に十字軍が来る前に、冬のうちに聖都を落とす。誰もが狂気と呼んだその賭けに、あの剛の将は確かに間に合わせ、そして逝った。最後の夜に絞り出したという、わずかな銭の帳簿を一枚添えて。
ガベルは、その一行を幾度も読み返している。読み返すたびに、腹の底が冷えた。
「間に合った、か。──何に、間に合ったというのだ、卿」
落とした都は、守り切れぬ。銭は尽き、兵は飢え、春には首狩りが取り返しに来る。あの男が命と引き換えに盤へ置いた一手は、脆い王家の懐へ、守るに守れぬ聖なる重石を一つ放り込んだにすぎない。
武の者はいつもそうだ。落とすことには間に合っても、その後を養う算段には、ついぞ間に合わせたためしがない。間に合ったのは、あの男の見栄ばかり。この国の勘定には、何ひとつ間に合ってなどいないのだ。
ガベルは、添えられた帳簿を指で弾いた。焼け石に、水にもならぬ一滴だった。
いや──間に合わぬのは、勘定ばかりではない。
そもそも、あの狂気の賭けには一つの理があったはずだ。聖都さえ我らの手にあれば、西方が聖戦を起こす名分も消える。都を落とすことは、剣を以て十字軍を未然に止める一手でもあった。少年王が望んだのも、まさにそれだった。
だが、西から届く報せは、その理を根こそぎ嗤っていた。
聖戦は、もう発せられた。都を誰が握っていようと、関わりない。増えすぎた民、痩せた田畑、抜け出せぬ階級の澱み──それらが宗教の熱に焚かれ、西から東へ、止めようのない人の波となって動き出している。聖地に着きさえすれば救われると嘯く声に踊らされ、食い物すら持たぬ十数万が、田畑を捨てて歩き出す。
都を落としても、止まらぬのだ。
その一事が、ガベルの背をじっとりと冷やした。
聖都という重石は、東からは首狩りに睨まれ、西からは十字軍の濁流を頭から浴びる。挟まれて、潰れる。そのためにディルアンは命を賭け、王家は乏しい銭を吐かされ──そして何ひとつ、間に合わなかった。
時が、ない。
冷徹に算盤を弾いていたはずの指先が、いつのまにか帳面の縁を苛立たしく叩いている。豪放の仮面の下で、焦りが腹の底に、静かな熱を持ち始めていた。
──だが、それら天災じみた奔流よりなお、彼の肌を粟立たせるものがあった。
この期に及んで、その守れぬ重石を握っているのが、よりによってカミュー辺境伯家の、三男だという一事だ。
家伝の一句が胸に灯る。獅子の紋に翼と盾は、王家の盾たれ。では、その盾が最も恐れるものは何か。外敵ではない。内から国を割る者だ。そして国を割る筆頭は、いつの世も、国に愛着を持たぬ辺境伯家──独立心ばかり旺盛な、面従腹背の外様どもと決まっている。
その辺境伯の子が、千年の都をひとつ銭で回してみせた。寄せ集めの軍を己の手綱で繋いでみせた。英雄。結構なことだ。だが、英雄になった辺境の子ほど、この国にとって剣呑なものはない。
若葉のうちに摘んでおくべきだった。あの時消し損ねた芽が、こうして大樹になりかけている。
まして、あの男は最愛の弟ノインが婚約者を奪った相手でもある。恨む理由の十分すぎる男が力を得ていく。それを兄として、見過ごせるものか。
もっとも、と彼は自嘲した。私怨で国費を止めた、などと帳面に書けるものではない。表に立てる理は、あくまで一つきりだ。
「防衛の采配は、正統な名代の手にある。金を急ぐ理由はない」
正しい。誰にも文句のつけようがないほど、正しい。──正しさとは、いちばん上等な楔だ。名代ヴェルダーを正しさで縛り、辺境の子を飢えの中へ静かに追い込む。どちらに転んでもルクレインは損をしない。
軍が飢えて崩れれば、辺境者が銭で作った力など砂の城だと天下に知れる。もし焦って外つ国の手でも取れば、その時は反逆者として、王家の名で堂々と踏み潰せる。都が割れるのを待つ。それはガベルにとって、負けようのない賭けだった。
ただ一つ、読み切れぬ目がある。
玉座の陰の、摂政エリザベート。あの女は辺境の子を「割れば損、使えば得」と、駒として値踏みする節があった。危ういほど冷えた、国全体の得失だけを量る目だ。摂政が東門を守るためにと軍費の氷を割りにかかれば──描いた盤は、そこだけが狂う。
だからこそ彼は、摂政が動く前に、あらゆる筋へ静かに待ったを配っておいた。この危機を誰より重く見ているのは、玉座のあの女ではなく自分の方だ──その確信があった。国が割れる姿を誰より近くで恐れているのは、盾を家伝とするこの一門なのだ。
「金は、まだ落とすな」
低く彼は命じた。国のためだ。王家のためだ。少年王が逞しく育つまでの、時間を買うためだ。──そう己に言い聞かせて、ガベルはまた一歩、謀略の沼へ深く足を沈めた。
そうして王都の領袖は、知らずにいる。
自分が聖都に張った飢えの網が、峠の向こうで同じ絵図を描く首狩りの手を、そっくり助けていることを。辺境の芽を摘むための兵糧攻めが、めぐりめぐって、その辺境の子を"内から城を握る"側へ静かに押し出していることを。
東の総督は、城の外から門を開かせようとする。
王都の領袖は、財を締めて城を飢えさせる。
城の内では、末席の男が、その飢えを己の掌へ握り替えようとする。
そして城の中心では、正しさに縛られた名代がただ一人、律儀に空欄を睨んでいる。
同じ一つの城をめぐって、四人の男がそれぞれの絵図を、別々の方角から描いていた。──誰ひとり、盤の全部を見てはいないまま。
雪解けは、王都の窓辺にも、もう遠くなかった。




