誘いの水と同期からの手紙
自分の国に捨てられかけた男のところへ、外つ国の手ばかりが伸びてきた。
最初の一本は、遠い故郷から届いた。兄たちの字だった。
カミューの兄たちから文が来るのは、めずらしい。用のない相手には筆も割かぬ家だ。
封を切ると、二つの筆跡が並んでいた。伸びやかで柔らかいのが長兄ディリオン。角ばって素っ気ないのが、次兄ナルクだ。
『我が弟ロズへ。
息災か。聖都での働きは、辺境にも聞こえているよ。あの泥まみれの弟が、千年の都を回していたとはね。誇らしい──と言いたいところだが、正直、少し困ってもいる。お前が大きくなりすぎて、もう"身内の三男"では収まらなくなった。家として、勘定に入れねばならん男になった、ということだ。
さて。面白い話が舞い込んでね。エルフィナスの、あの千の塔の街から、お前宛の文を届けてほしいと頼まれた。古い付き合いの筋を通しての、丁重な頼みだ。中身は読んでいない。同封しておく。
断るも受けるも、お前次第だ。ただ、全ては我が領民のため──カミューがどちらに転んでも灰にならぬ道を、お前なら選べるだろう。兄は、それを信じているよ。
ディリオン
追記。兄の甘い口上は、話半分でいい。要は、蝮の巣へ、東から餌が投げ込まれたということだ。餌には、必ず釣り針がある。誰が、何のために投げたか。見極めてから、口を開けろ。カミューは、三日月と草原、二つの化け物の間で寝首を掻かれぬよう生きてきた。お前がしくじれば、辺境ごと灰だ。忘れるな。
ナルク』
同封の紙は、辺境伯家の粗い羊皮紙ではなかった。薄く絹のように滑らかで、微かに白檀が香る。ロズヴェータは、その香りに覚えがあった。──かつて訪れた、あの千の塔の街の。
『カミュー辺境伯家、三男ロズヴェータ・スネク・カミュー様
お久しゅうございます。千の塔の街で剣を交え、母の茶に付き合っていただいてから、もうずいぶんになりますね。あの日のあなたの太刀筋を、わたくしは今でも覚えております。
あれから、あなたはずいぶん遠くまでいらした。鉄壁と謳われたゲイルノアを一夜で落とし、祖父の第一の臣を破り、千年の都を焼かずに繋いだ。──あの日わたくしが見込んだ通りの人でした。
なのに、今はどうでしょう。あなたの国は、その功を指の隙間からこぼし、正しさという名の楔で、あなたの積み上げたものを解いている。あなたほどの男を、器の小さな国が持て余している。もったいない話です。
こちらへ、いらしてはいかがです。
かつて両家の間で交わされかけた話を、わたくしはまだ畳んではおりません。あの日、鍛錬場であなたへ向けた不躾な視線の意味も、今なら、お分かりでしょう?
急ぎはいたしません。ただ覚えておいてくださいませ。西があなたを捨てるなら、東には、あなたを待つ者がいると。
エルフィナス、太守アリマが娘 ユーシャル』
ロズヴェータは、その一通を二度読んだ。
ユーシャル。──千の塔の街エルデッサで会った、太守アリマの遣いの娘。首狩り総督イブラヒムの、孫娘だ。
あの時は、やたらと剣を交えたがる執着の強い変わり者だと思っていた。こちらを舐めるように這った、あの不躾な視線。──あれが何だったのか、この文でようやく腑に落ちた。値踏みされていたのだ。婿として。
その変わり者が、字の運びの一つ一つに、底の見えぬ知恵を透かせている。餌の甘さと、退路の断ち方。こちらの痛いところを、正確に撫でてくる。あの頃の娘が、いつのまにか、これほどの打ち手になっていた。──若い娘の恋文の顔をした、一流の調略だ。
辺境の兄たちは、これを"届け物"と呼んで賢く逃げた。受ければカミューはエルフィナス寄り、断ればリオングラウス寄り。どちらに転んでも、蝮の一族は両大国の間で生き延びる。餌には釣り針がある、というナルクの言葉が、耳に残った。
油断ならぬのは、ナルクだけではない。ディリオンの、あの柔らかな笑顔もだ。あの長兄は、弟を心底可愛がりながら、同じ目で、嫡男として弟を"量って"いる。可愛い弟と、家の勘定に入れるべき駒。その二つを、あの人はいつも涼しい顔で、両手に載せている。
厄介な血筋だ、と思う。首狩りの祖父も、妥協派の母も、そしてこの、底知れぬ孫娘も。
ロズヴェータは、絹の紙を火にくべなかった。畳んで、胸の帳面のいちばん奥へしまう。──毒とは知りつつ、味を、覚えておくために。
◇◆◇
二本目の手は、もっと生々しい形で来た。
ある夜、ホルベクの斥候が、峠の裏で"迷い込んだ"一団を捕らえた。旅装の下は、明らかに軍人の身のこなし。その頭が求めたのは、名代ヴェルダーでも三将軍でもなく、末席の一団の長──ロズヴェータの名だった。
天幕に通されたその男を見て、ロズヴェータは内心で口笛を吹いた。
黄金の髪、小麦色の肌、彫りの深い異国の面。歳の頃は壮年。負けを知る者だけが持つ、静かに沈んだ暗い瞳。凍てた夜気の中で、その男だけが、遠い砂の匂いをまとっていた。
一瞬、ロズヴェータを見て驚いた表情をしたが、それすらすぐに隠した。周囲から向けられる問いかけの視線に、ロズヴェータが口を開いた。
「聡明なる、と呼ばれた男だ。──ゲイルノアの」
「……よく、ご存じで」
アブドゥルは、疲れた笑みを浮かべた。
「あなたに城を奪われた将が、こうしてあなたを頼るのは、滑稽でしょうな。だが、私を最もよく理解しているのは、皮肉にも、私を破ったあなただ」
「あれは、閣下の策ですよ。私のような若造のものではありません」
「まぁ、そう言うことにしておいても構いませんよ」
聡明なるアブドゥル──首狩り総督イブラヒムの、第一の臣。ゲイルノアの善き統治者にして、クリル平原で犠牲を厭わぬ包囲を描いた男。その男が、供もわずかに、聖都まで落ちてきた。
「なぜ、来たのですか」
「ゲイルノアを、失いました」
アブドゥルの声は乾いていた。
「一夜の奇襲で、鉄壁を。──総督は、私を責めはしなかった。だが、責めぬことが、いちばん重い。失点を抱えた将は、次の風向きで、真っ先に切り捨てられる。まして今、東の風は変わりつつある」
「首狩りの、孫娘か」
アブドゥルの目が、わずかに動いた。ロズヴェータがその名を知っていることに。
「……ご存じでしたか。ならば、話は早い。あの娘御が力を伸ばすたび、総督の古い臣は居場所を失っていく。私は東で朽ちるより、私を破った男の下で、もう一度、盤を見たいと思った。それだけです」
もっともらしい。あまりに、もっともらしかった。
ロズヴェータは、静かにその男を値踏みした。──本物の投降者か。あるいは、こちらの懐へ入り込むために、ユーシャルが放った、いちばん上等な駒か。イブラヒム第一の臣が、そうやすやすと首を差し出すだろうか。しかも、信仰を名目に掲げたこの戦の最中にだ。
だが、失脚した将の絶望は、確かに、本物の匂いがした。
どちらとも、決められない。
決められぬという手応えそのものが、この男の格を証していた。
「お話は、聞きました」
ロズヴェータは、慎重に言った。
「だが、俺には今、投降者一人をも受ける権限も無い。ましてや貴方は、聡明なるアブドゥルとして世に知られたお方です。身柄は、名代の卿へ引き渡させていただく。──それが、正しい筋というもの」
「正しい筋、ですか」
アブドゥルは、暗い瞳の奥で、初めて、面白そうに笑った。
「あなたが、いちばん正しい筋を嫌う人だと、城で思い知ったのですがね」
見抜かれている。ロズヴェータも、口の端だけで笑い返した。
◇◆◇
三本目の手は、懐かしい声で来た。
「隊長。……古巣から、文でさ」
トーロウが差し出した封には、蜘蛛の徽章が小さく捺してあった。四腕の毒蜘蛛。ロズヴェータが聖都から追い落とした、あの女のものだ。
「毒蜘蛛のリリーは、海湾都市ガディフォールに巣を張り直したそうで。──あっしのような、元古巣の伝手を辿って、これを」
紙には、いつものひひひが聞こえてきそうな、崩れた字が躍っていた。
『カミューの坊やへ。
久しぶりだねェ。手の内は隠さないと言ったろう? だから、正面から誘ってやる。
あんた、いい仕事っぷりだったよ。都を銭で回して、寄せ集めの軍を半月も繋いだ。──なのに、どうだい。清らかな貴族様が来て、あんたの築いたものを、正しく取り上げてった。あたしを追い出したあんたが、今度は、自分が追い出される番かい。ざまァないねェ。
こっちへおいで、坊や。ガディフォールは、いい港だ。逃げる金も、逃げる商人も、みんなここを通る。都が割れりゃ、儲けは、いくらでも湧く。あんたの帳簿と、あたしの牙。組めば、面白いことになる。
あの清らかな連中に、目に物見せてやろうじゃないか。
リリー』
ロズヴェータは、その崩れた字を眺めて、微かに笑った。
毒蜘蛛らしい、正直な誘いだった。ユーシャルのような底知れぬ甘さも、アブドゥルのような沈んだ絶望もない。ただ、金と意趣返し。分かりやすいぶん、いっそ信じられる。
追い落とした相手から、手を組もうと誘われる。──なるほど、と思う。飢えた獣同士は、案外、匂いで分かり合うものらしい。
◇◆◇
四本目の手は、思いがけずあたたかかった。
「隊長。西方分隊のトラッドが、取り次ぎたいと」
クリウベルの乱の後に三頭獣へ加わった、西方出身の一隊──西方分隊。その長のトラッドが、二通の封を、少し照れたように差し出した。
「ロスデリアの国境から、例のお二人でさ。……相変わらず、律儀に別々に寄越してくる」
キフォー家の双子の姉妹騎士、ミーリアとサーリア。かつて国境で、逃亡者クリウベルの追撃に手を貸してくれた、あの二人だった。
一通目は、花の香が移った、几帳面な字。
『ロズヴェータ様
お変わりありませんか。遠い聖都での御活躍、ロスデリアにも届いております。──ですが、聞こえてくる風向きは、あまり良くないご様子。手柄を立てた者を、その国が持て余しているとか。
もし東の空が冷たくなられたなら。キフォーの家は、いつでも、あなたのための席を空けております。傾いた家ですが、恩を忘れる家ではございません。
……サーリアより先に、これを書きました。あの子には、内緒に。
ミーリア・クロイツェル・キフォー』
二通目は、勢いよく走った、角の丸い字。
『ロズヴェータ!
姉貴が上品ぶって何を書いたか知らねえが、こっちは単刀直入にいく。あんたの国が要らねえって言うんなら、こっちに来い。うちの国境なら、あんた一人くらい、あたしがどうとでも匿ってやる。
姉貴の手紙は、話半分でいい。──こっちの方が、本気だからな。
サーリア』
ロズヴェータは、二通を並べて思わず苦笑した。
毒でも、絶望でも、強欲でもない。ただ、まっすぐな厚意。──だからこそ、いちばん始末に困る。甘い水は、飲み干した後で、いちばん深く溺れさせる。
トラッドが、気遣わしげに口を開いた。
「……国境を越えりゃ、あの人らは本気で匿ってくれますよ。西方の連中は、義理堅い」
「知っている」
ロズヴェータは、二通をそっと畳んだ。
「知っているから、いちばん、受けられない」
苦笑を深くしたロズヴェータは、手紙をしまった。
◇◆◇
そして──五本目は、もう、手ですらなかった。
王都の連絡使の便に、私信が一通、紛れていた。差出人の印を見て、ロズヴェータの肩から、ふ、と力が抜ける。
魔女猫のニャーニィ。学園の同期。賭け狂いに莫迦食い、掴み所のない変人。だが、人の腹を見透かす目だけは、誰よりも鋭い女だった。
『私の同期のロズへ
生きてる? 返事がないのは、生きてる証拠よね。あんた、忙しい時ほど筆不精だから。
噂は、こっちにも流れてきてるよ。都をひとつ回してた大将が、綺麗な貴族に椅子を取り上げられて、隅っこで帳簿とにらめっこしてるんだって?
言っとくけど、私は昔、あんたに賭けたの。大穴にね。だから、あんたが勝つところを見たい。それは、変わらない。
でも、それとは別に、一つだけ。
あんた、また一人で全部背負ってるでしょ。誰にも手の内を見せないで、涼しい顔して、腹の底に何もかも沈めて。──あの舞踏会の夜、私が腕を引いてやらなかったら、あんた、大広間のど真ん中で、拳を握り潰してたわよ。覚えてる?
今度は遠すぎて、腕を引いてやれない。だから、これだけ言っておく。
沈めすぎて、溺れないでね。
あ、それとね。こっちは今、国内の流通で手が回らないくらい忙しくてさ。……この意味、あんたなら分かるでしょ? 見返りなんていらないよ。ただ、しんどくなったら、うちの実家を頼って、いつでも転がり込んでおいで。それだけ。
魔女猫より』
ロズヴェータは、その一通を、しばらく手にしたまま動かなかった。
甘い毒でも、沈んだ絶望でも、強欲な取引でも、まっすぐな厚意でもない。──手を差し伸べておきながら、見返りを何ひとつ求めてこない、ただの一通だった。
東の孫娘は、彼の才を欲しがった。西の双子は、彼の身を案じた。だがこの魔女猫だけは、彼が誰にも見せぬよう腹の底へ沈めたものを、遠い王都から、正確に見抜いていた。
値踏みでもなく、誘いでもなく、ただ──見透かされていた。
ロズヴェータは、その一通だけは、火にも、帳面の奥にも、しまえなかった。
──しんどくなったら、うちの実家を頼っておいで。
その一文に、ロズヴェータは苦笑した。南部の豪族の生まれである彼女の実家は、国内の流通を握っている。国外への逃げ道も、三頭獣を抱えたまま生きる別の道も、あの家ならどうとでも用意できるだろう。
しかも彼女は、その見返りを、何ひとつ求めていない。ただ、この男が独りで背負い込んだものを、少しでも軽くしてやりたい──それだけだった。
ロズヴェータは、静かに目を細めた。
◇◆◇
幾通もの文と、一人の男。
ロズヴェータは、天幕に一人、それらを並べて見下ろした。
東の甘い娘。東の沈んだ将。港の強欲な蜘蛛。西の国境の、あたたかい双子。──自分の国が指の隙間からこぼした男を、外つ国と、はぐれ者ばかりが、拾おうと手を伸ばしてくる。
皮肉な話だった。この男を捨てようとしている国よりも、外つ国の者のほうが、この男の値打ちを、ずっと正しく見ている。
どれも、毒だ。受ければ反逆者。ヴェルダーとルクレインが、喉から手が出るほど欲しがっている、その一手になる。だから、どれも受けない。
だが──と、ロズヴェータは思う。
毒も、匙の使いようだ。ユーシャルの甘さは、東の内情を映す鏡になる。アブドゥルの絶望は、首狩りの盤面を覗く窓になる。リリーの牙は、いざという時の手駒に。キフォーの双子の厚意は、西の国境を、最後の逃げ道に。
受けはしない。だが、握った手を、すぐに離しもしない。
四方から伸びた手を、ぬるく握ったまま──ただ一通、握ることも放すこともできぬ、あの魔女猫の文だけを、卓に開いたまま残して──ロズヴェータは、東の空を見た。
痩せていた月が、また肉を取り戻している。
これだけの手が伸びてくるということは──雪解けが、いよいよ近い、ということだった。




