大義の楔
聖都が落ちて半月が過ぎたが都は燃えていない。
ただそれだけを保つために、ロズヴェータは毎日、帳面と睨み合っていた。羊皮紙と乾いた墨の匂いが染みついた天幕。獣脂蝋燭の煙に目をしばたたかせながら、徴発で絞った銭を糧に換え、糧を給金に換え、数えきれぬ旗の腹を順に膨らませていく。今日満たした隊は静まり、まだ回らぬ隊が城の一角で不穏に鳴った。その遠いざわめきは、夜ごと冷えた風に乗って耳へ届く。差配を一日読み違えれば、鎮めた火はまた燃え上がる。
脆い糸だった。少しでも間違えば、当然すぐに断ち切れる。
だが半月、切れてはいない。
諸隊の騎士団長たちは、もう末席の若造を末席とは呼ばなくなっていた。銭を出す者に従う──ただそれだけの理由で、彼らはロズヴェータの帳面の前に列を作る。求心力ではない。取引だ。かじかんだ指に白い息を吹きかけながら、ロズヴェータはその糸を一本ずつ結び続けた。
春になれば雪が解け、止まっていた戦がまた動きだす。それまでにこの都を戦える形へ整える。それがヴァルテンから託された暫定の役目だった。
王都の裁可が下るまでの暫定。
その裁可が思わぬ形で、王都から降りてきた。
◇◆◇
「隊長ォ! ネリネから、文ですぜ!」
夕刻、猿顔のトーロウが一通の封を振りながら天幕へ滑り込んできた。冷えた外気と、革鎧に染みた汗の匂いを連れている。差し出された封蝋に、王都の騎士ネリネの印があった。連絡使の便に私信を紛れ込ませてくるのは、いつものことだ。
ロズヴェータは判を置き、封を切った。乾いた蝋が、ぱきりと小さく割れる。
字は丁寧すぎるほど整えられていた。だがその丁寧さが、かえって書き手の焦りを伝えてくる。
『ロズヴェータ様
急ぎ、お報せしたきことがございます。とはいえ確かな筋から聞いた話ではありません。校の講堂や寮で耳にした断片を、私なりに繋ぎ合わせたものにすぎません。外れていれば、それが一番よいのですが──他の誰より先に隊長のお耳へ入れたく、筆を執りました。
この数日、王都の風向きが変わったように思われます。話に上るのは決まって遠征軍のこと。総指揮官閣下を失った、二万の行く末です。中でもルクレイン公爵家に連なる方々の動きが、急に慌ただしくなったように見えます。私の見るところ、王家派閥が遠征軍の指揮を自分たちの手へ移そうとしているのではないか──そう思えてなりません。
表立って語られているのは、十字軍のようです。「春に敵が来るというのに、千年の都の守りと統治を、後ろ盾も定かならぬ末席の騎士に委ねたままでよいのか。正統な指揮系統を王都が示さねば、教会にも諸国にも足元を見られる」──そのような理屈だと又聞きに聞きました。この名分には、正面から抗うのが難しいように思います。
ただ私が勝手に推し量るに、本当の狙いは別のところにあるのではないでしょうか。武官派閥は閣下を失って頭がありません。今ならあの二万も聖都も、まるごと手に入る。──空いた席は埋めた者のものになる。誰かがそう口にするのを聞いたわけではありません。けれど慌ただしさの向きを見ていると、そう思えてならないのです。
私の思い違いでしたら、どうか聞き流してください。ですがもし少しでも当たっているのなら──くれぐれもお気をつけて。隊長が都で積み上げたものを、王都の多くはまだその目で見てはおりません。
……もう一枚、書きたいことがあるのですが、便の刻限です。次の文で。
騎士ネリネ』
ロズヴェータは文を二度、読んだ。
一度目は書き手の言葉として。二度目はその向こうにいる者たちの算盤として。
騎士校の学生が寮と講堂の噂を繋ぎ合わせた当て推量。本人もそう断っている。だが──その推量は勘所を外していなかった。
名分は正しい。それが厄介だった。敵は来る。素性の定かならぬ末席の騎士に千年の都を委ねてよいのか──その問いは誰にも斬れない。ロズヴェータ自身にすら斬れない。正しい名分は、正面から斬れば斬った者が反逆者になる。
その正しさを楯にして、王家派閥は空いた席へ手を伸ばしている。
◇◆◇
その夜、リオリスが天幕へ来た。
幕を割って入った途端、冷たい夜気が蝋燭の炎を撫で、壁布の上で影が大きく泳いだ。いつもの、致命的なまでに屈託のない陽気が、その顔に無い。波打つ黄金の髪の下で、蒼穹の瞳が珍しく曇っていた。
「王都から、早馬だ」
リオリスが一巻きの書状を卓へ置く。王家の蝋印が、灯を弾いて赤く光った。
「ネリネの文で、もう耳に入ってるだろうけどな。──こっちは正式な方だ。読む前に、俺の口から言っておきたかった」
「止められなかったのか」
「止めたさ」
卓についた両手の下で、板がぎしりと軋んだ。
「摂政閣下も渋られた。武官派閥の軍を、閣下の骸も冷めぬうちに王家派閥が呑むのは、宮廷の均衡を崩す。摂政閣下はそう見ておられた。俺も評定の座で言った。『聖都を保っているのは、末席とはいえ現に働いている一人の男だ。その差配を、王都が正式に追認すればいい』とな」
「押し切られたか」
「数だよ」
吐き捨てるように、リオリスは言った。
「ルクレインが王家派閥の旗をまとめて押してきた。格の要る話だ。公爵家が『正統』と言えば、それだけで座が傾く。──おまけに、俺の反対は封じられた」
「お前が、総指揮官候補だからか」
リオリスの手が、卓の上で固く握られた。
「よく分かるな」
「摂政閣下がお前を国軍の総司令官候補に育てておられる。それは王都の誰もが知っている。ここで俺の差配を追認させれば、この二万はいずれ摂政陛下とお前の手に落ちる。──ルクレインはそれを恐れた。だから俺の反対に『総指揮官の座を狙う当事者の私心』と札を貼って、座から外した」
言いながらロズヴェータは、絵図の骨が透けてくるのを感じた。
十字軍という名分は表の楔だ。その楔を打ち込んで、空いた武官派閥の席を割る。割った先で本当に狙われているのは、摂政エリザベートとその腹心リオリスが軍へ伸ばしかけた手──それをルクレインが自派の手で先に断つ。名分は対外に、刃は宮廷の内側へ向いている。
「もう一つ、あるだろう」
ロズヴェータが言うと、リオリスは目を上げた。
「王都は俺を、目障りだと思っている」
「……買いかぶりじゃないぜ、それは」
リオリスは力なく笑った。
「末席の若造が、閣下の遺した軍を銭で繋いで都を握っている。放っておけば、いずれ『ディルアンの後継』の顔をしかねない。──芽のうちに摘んでおきたい。ルクレインの本音に、それも混じってる」
名分は十字軍。狙いは宮廷の均衡。ついでに、伸びかけた芽を一つ。
三つの目当てを、一本の楔が束ねていた。
◇◆◇
「で。誰が、来る」
ロズヴェータの問いに、リオリスは書状の封を指で弾いた。
「それが、俺も座で聞いて唸ったところでな。──ルクレインは自分の名を、表に出さなかった」
「どういうことだ」
「王家派閥が担ぐのは、ジュルル・サルムの王家の生き残りだ」
ロズヴェータの指が止まった。
ジュルル・サルム。三日月帝国に敗れ、王族の行方も知れぬままリオングラウスの手に落ちた──この聖都そのものの名。かつて千年の城壁の内で、十字教の王が座した国。
「……生きていたのか」
「どこに匿われていたかは、ルクレインしか知らん。だが公爵家はその一人を、どこからか引き出してきた。そしてこう掲げる。──我らは聖都を奪ったのではない。異教徒に追われた正統な王を、玉座へ還したのだ、と」
リオリスの声に、苦いものが混じった。
「上手いぜ、これは。十字教の王の血が、教会の祝福を受けて千年の都の主に返り咲く。誰が文句をつけられる? 教会も諸国も都の民でさえ、その大義の前じゃ口をつぐむしかない。──お前が銭で保った都は、明日には『正統な王の都』へ看板を掛け替えられる」
「王は、飾りだな」
「分かってるじゃないか」
リオリスは力なく笑った。
「玉座に据わるのはその生き残り。だが王は長く国を離れていた。政も軍も、一人では回せん。だから王家派閥は、王に『補佐』をつける。──実のところ、来るのはそいつだ」
リオリスが書状を開いた。羊皮紙の擦れる音が、静かな天幕にやけに大きく響く。
「アルブレヒト・ヴェルダー卿。王家派閥の壮年の臣だ。名くらいは耳にしたことがあるだろう」
「……謹厳実直で鳴った男か」
「そうだ。賄賂の一つも通らん。派閥の中でも清廉で知られてる。だからこそ選ばれた。正統な王を清廉な忠臣が支える──絵図に一点の曇りもない。その卿が王の名代として、都の政と二万の指揮を握る」
天幕が静まった。外の風の音だけが、布地を低く撫でていく。
「……俺はもう一度、王都に使いを出してみる。早まるなよ」
リオリスは青い瞳に憂いを秘めて、ロズヴェータに忠告し、天幕を後にする。
ロズヴェータは卓の二通を見下ろした。
これは汚れた手で奪いに来る話ではなかった。むしろ逆だ。正統な王の血と、清廉な忠臣の名。一分の隙もない、清らかな楔。賄賂も専横もそこには無い。だから腐敗を突いて崩すこともできない。
ヴェルダーという男は王命に従い、正しく都を治めるだろう。帳簿も正しく検めるだろう。そして──ロズヴェータが半月かけて結んだ銭の糸を、正しさの名の下に一本ずつ断ち切っていく。
「厄介だな」
ロズヴェータは呟いた。悪党ならいくらでも料理のしようがある。だが正しい男は、正面から刺せない。
「王命に、逆らう気はない」
「ロズヴェータ様」
ユーグが険しい顔で口を開きかける。それをロズヴェータは手で制した。
「逆らえば俺は反逆者だ。正統な王と、清廉な忠臣。その二人に刃を向けた越権者として、名分ごと斬られる。ルクレインはそれを待っている」
彼は卓の上の二通を──ネリネの私信と王家の蝋印を──並べて見下ろした。
正しい大義は正面から斬れない。ならば正面からは受ける。受けた上で、その正しさの内側にこちらの筋を通すしかない。都を回しているのは王命でも王の血でも清廉でもない。半月かけて結んだ銭の糸だ。その糸を誰が本当に握っているのか──来る二人はまだ知らない。
「ヴァルテン殿の所へ、行く」
ロズヴェータは静かに言った。
「ユーグ、帳簿を全部まとめておけ。──迎える支度を、する」
◇◆◇
ユーグが帳簿を集めに出ていくと、天幕にはロズヴェータ一人が残った。
彼は幕を撥ね上げ、外へ出た。凍てた夜気が頬を刺し、吐いた息が白く散る。足下で薄く張った霜が、かすかに鳴った。夜気は舌の先へ、うっすらと鉄の味を置いていく。
東の空に、また少し肉を取り戻した月が懸かっていた。冴えた光が、聖都の千年の城壁を青白く縁取っている。その、さらに向こう。闇の底に、三日月の旗が翻るエルフィナスの領があった。ジュルル・サルムを呑み、聖都を落とし──閣下を、ディルアンを討った国だ。
春の雪が解ければ、あの三日月は奪われた都を取り返しに必ず戻ってくる。
それが、本当の戦だった。
この都で誰が采配を握るか。王命が誰の名で下るか。正統の王が誰か。──宮廷が血眼で奪い合うそれらは、東から来る三日月の前では一枚の紙きれにすぎない。都を保てなければ、玉座も大義もまとめて焼ける。
ロズヴェータは、まだ見ぬ男の名を胸の内で転がした。
アルブレヒト・ヴェルダー。謹厳実直の、清廉な忠臣。
その男が東との戦の役に立つのなら──王命だろうと正統の王だろうと、こちらの絵図へ丸ごと取り込む。清廉なら清廉なほど、使いようはある。銭で繋いだこの軍の頭に、正しさという看板が一枚乗るだけのことだ。悪くない。
だが、もしその正しさが東への備えを乱すなら。都を保つことより宮廷の絵図を上に置き、この軍の糸を大義の名で断ち切るなら。
その時は──。
ロズヴェータの目が、静かに冷えた。
毒蜘蛛を都から追い落としたように、その卿も追い落とす。据えられた王ごと、だ。
王命に逆らう気はない。だが王命に、この軍を殺させる気も無い。
迎える支度をする、と彼は言った。
それは客を迎える支度であると同時に──取り込むか、退けるか。そのどちらかを、あの男に選ばせる支度でもあった。
凍てた風が、城壁の狭間で低く鳴る。
王都から打ち込まれた清らかな楔が、聖都へ近づいている。
ロズヴェータは、その切っ先を静かに待った。




